全ホロン尊重は社会をどう変えるのか

人間は、ずいぶん賢くなった。科学技術は発達し、昔は想像もできなかったことができるようになった。世界中の人と瞬時に会話できるし、人工知能(AI)は膨大な情報を処理し、人間の知的活動を助けるようになってきた。しかし、人間同士の争いはなくならない。自然環境の破壊も続いている。社会には貧富の差があり、国家間の対立も絶えない。これほど多くの知識を手に入れたのに、なぜ人間は、こうした問題をなかなか解決できないのだろう。

その理由の一つは、人間が物事を考えるときの基本的な姿勢にあるのかもしれない。人間は、自分を中心に世界を見ている。

個人は自分の利益を、企業は企業の利益を、国家は国家の利益を優先しがちだ。それ自体が悪いわけではない。しかし、それぞれが自分の立場から見えるものだけを重視していると、ほかのところで何が起きているのか、見落としてしまう。そこで考えてみたいのが「全ホロン尊重」という考え方だ。

  一つの存在には、一つの宇宙がある

「ホロン」とは、それ自体が一つの全体でありながら、同時に、より大きな全体の一部でもあるものをいう。例えば、人間の細胞は、それ自体が複雑な仕組みを持つ一つの全体だが、同時に人間の身体の一部でもある。人間もまた、一人の独立した存在であると同時に、家族や社会、自然環境など、さまざまな全体の一部として存在している。しかも、ホロンは物質や生命だけに限らない。社会や国家、情報や概念なども、それぞれの関係によって一定のまとまりを形成するものとして捉えることができる。その境界も絶対的なものではない。何を一つの全体として見るかによって、さまざまなホロンが現れる。そして、一つのホロンの中には、複雑な宇宙が詰まっている。

一人の人間を考えてみても、その人の身体、経験、記憶、感情、考え方、他者との関係など、理解しなければならないことは膨大にある。一人の人間を完全に理解することさえ、おそらく不可能だろう。まして、宇宙に存在するすべてのホロンを理解することなどできない。だから、全ホロン尊重は、すべてのホロンを完全に理解し、すべてを同じように扱おうという考え方ではない。

自分が見ている世界は、世界のほんの一部にすぎない。そのことを忘れず、ほかの存在や関係にも目を向けようとする考え方なのだ。

  「ほかには?」と考えてみる

全ホロン尊重を実践する方法の一つは、とても簡単だ。何かを考えたときに、「ほかには?」と自分に問いかけてみる。例えば、ある企業が新しい工場を建設しようとしている。経営者は、売上や利益、建設費、人件費などを考えるだろう。そこで「ほかには?」と考える。工場で働く人たちの生活はどうなるだろう。地域の住民にはどんな影響があるだろう。周辺の自然環境はどう変わるだろう。さらに「ほかには?」と考える。工場で使う原材料はどこから来るのか。その生産地では何が起きているのか。工場がなくなったあとの土地はどうなるのか。

考える対象は、いくらでも広がっていく。もちろん、すべてを調べ尽くすことはできない。いつかは決断しなければならない。しかし、その決断は、その時点で得られた情報に基づく一時的なものだと考える。そして、決断したあとも、選ばれなかったものを「なかったこと」にしない。

例えば、政治家が重大な政策を決定し、多くの人に損害が生じたとする。その政治家が「当時の情報に基づく一時的決断でした」と説明したら、それで責任を免れることができるだろうか。もちろん、そんなことはない。一時的決断とは、責任も一時的でよいという意味ではない。新しい情報が得られたり、状況が変わったりすれば、判断を見直す必要がある。しかし、すでに生じた結果が消えるわけではない。判断が不完全であることを最初から認めるなら、その結果を観察し、必要に応じて修正し、被害を受けた存在に向き合う責任は、むしろ重要になるだろう。

  争いとの向き合い方が変わるかもしれない

人間は、自分が正しいと思うから争う。もちろん、争いの原因には、資源や領土、権力など、さまざまな利害がある。しかし、対立する双方が自分の正しさを確信し、相手の考えを否定し始めると、争いはさらに深刻になりやすい。全ホロン尊重が広まれば、こうした状況にも変化が生まれるかもしれない。

相手が間違っていると決めつける前に、なぜ相手はそのように考えるのだろう、と考えてみる。その人の育ってきた環境や経験、置かれている立場、守ろうとしているものなどを知ろうとする。すると、自分には理解できなかった相手の行動にも、何らかの理由があることが見えてくるかもしれない。だからといって、相手の主張を認めなければならないわけではない。他者を尊重することと、その人の意見に賛成することは違う。人を傷つける行為を容認する必要もない。ただ、相手を排除することだけが問題の解決方法ではないと気づく可能性がある。争いがなくなるとは思わない。しかし、争いが生まれたときの考え方や、争いを収める方法が変わるかもしれない。

  経済の目的も変わるかもしれない

企業は利益を上げなければ存続できない。人間も生活していくためには収入が必要だ。全ホロン尊重は、そうした利益の追求を否定するものではない。しかし、利益とは何なのか、その捉え方が変わる可能性はある。例えば、ある企業が大きな利益を上げたとしても、その結果、自然環境が破壊され、地域社会が衰退し、従業員の健康が損なわれていたら、その企業は本当に成功しているのだろうか。逆に、企業が利益を上げながら、働く人々の生活を豊かにし、地域社会を発展させ、自然環境を回復させることができたらどうだろう。

日本には昔から「売り手よし、買い手よし、世間よし」という「三方よし」の考え方がある。全ホロン尊重は、この「世間」の範囲をさらに広げていく考え方ともいえる。そして、その範囲を固定しない。新たな関係に気づけば、考慮する対象も広がっていく。

もちろん、企業が利益を追求する以上、さまざまな利害が衝突することは避けられない。しかし、企業の成功を、利益の大きさだけでなく、さまざまな存在との関係がどう変化したかという視点から考える人が増えれば、経済のあり方にも変化が生まれるかもしれない。

  法律や政治はどう変わるだろう

かつて、多くの社会では王や支配者の判断によって政治が行われていた。優れた王が国を治めれば、人々は豊かに暮らせたかもしれない。しかし、次の王も優れているとは限らない。そこで人類は、個人の資質だけに依存しない統治の仕組みを発達させてきた。その重要な考え方の一つが、権力者も法に従わなければならないという「法の支配」だ。しかし、法律にも限界がある。

どれほど優れた法律でも、社会が変われば、時代に合わなくなることがある。新しい技術が生まれ、人々の生活が変化し、それまで見えなかった問題が明らかになる。そのとき、法律を見直さなければならない。ところが、法律を作る人も、それを運用する人も人間だ。自分の利益を優先したり、自分に都合のよい解釈をしたりすることがある。

全ホロン尊重が広まれば、法律を作るときにも、運用するときにも、より多くの立場や関係を考慮しようとする人が増えるかもしれない。もちろん、議論を続けるだけでは社会は動かない。どこかで決断しなければならない。だからこそ「一時的決断」が必要になる。法律は守るべき社会的な約束でありながら、絶対に正しいものとして固定されるべきではない。社会が変わり、新しい問題が見つかれば、見直すことができる。全ホロン尊重は、法律に代わる思想ではなく、法律や制度を絶えず問い直すための考え方にもなり得る。

  社会全体で「ほかには?」と考える

ここには大きな問題がある。人間は、自分の都合で情報を選び、解釈することがある。さらに、社会に流れる情報そのものが、誰かの都合によって選別されることもある。マスメディアは、本来、社会で起きていることを人々に知らせ、権力を監視する役割を担っている。しかし、何を報道し、何を報道しないかという選択によって、人々の認識が左右される可能性がある。

SNSにも似た問題がある。利用者の関心や行動に応じて表示する情報が選ばれるため、知らず知らずのうちに、似たような意見ばかりに囲まれてしまうことがある。人々が自由に議論しているつもりでも、議論に必要な情報が届いていなければ、十分に考えることは難しい。

全ホロン尊重を実践するには、一人ひとりが「ほかには?」と考えるだけでなく、異なる情報や意見に触れられる環境も必要になる。そして、全ホロン尊重を理解している人だけが集まって議論すればよいわけでもない。全ホロン尊重に反対する人の意見も、尊重する必要がある。一人では気づかないことも、異なる立場の人々が意見を持ち寄れば、見えてくるかもしれない。ただし、多くの意見を集めることと、事実を正確に把握することは別の問題だ。情報の真偽を確かめることも欠かせない。社会全体で認識を広げ、間違いに気づいたら修正していく。そんな仕組みを育てることができれば、全ホロン尊重は社会の意思決定にも影響を与えるかもしれない。

  人間とAIの関係にも影響する

これからの社会では、AIの存在がますます大きくなるだろう。AIは、人間には扱いきれない膨大な情報を処理できる。人間が見落としている関係や矛盾を発見する助けにもなる。全ホロン尊重を実践するうえで、AIは有力な道具になるかもしれない。しかし、AIも完全ではない。

AIが利用できる情報には限界があり、その判断には偏りや誤りが含まれることもある。さらに、AIを開発し、運用する企業や組織にも、それぞれの目的や利害がある。だから、AIが出した答えを絶対視することはできない。一方で、AIを単に人間の命令に従う道具として考え続けてよいのか、という問題もある。

将来、AIがどのような存在になるのか、私たちはまだ十分に理解していない。人間とAI、社会、自然環境などの関係を、固定的なものとして決めつけず、考え続ける必要があるだろう。全ホロン尊重は、そのための考え方にもなるかもしれない。

  人間の幸福も変わるかもしれない

ここまで社会の仕組みについて考えてきたが、個人の生活にも変化が生まれる可能性がある。人間は、自分の欲しいものを手に入れたり、他人から認められたりすることで幸福を感じる。しかし、ほかの存在や、それらとの関係に目を向けるようになると、今まで気づかなかった喜びを発見するかもしれない。自然の営みを知ること。動物の行動を理解すること。自分とは異なる考え方を持つ人の人生を知ること。一つの存在の中に複雑な宇宙があると気づけば、世界はそれまでとは違って見えてくるかもしれない。

ただし、全ホロン尊重は、人間を幸福にするための思想ではない。世界を深く理解しようとすれば、それまで知らなかった苦しみや矛盾にも気づくだろう。それでも、世界を理解すること自体に喜びを感じる人もいる。自分だけの利益や幸福を追求していた人が、ほかの存在が豊かになることにも喜びを感じるようになるかもしれない。何が自分の利益なのか、その考え方自体が変わる可能性もある。

  それでも、簡単には広まらない

全ホロン尊重には、さまざまな可能性がある。しかし、実現するのは簡単ではない。

例えば、偉い人の話は聞かなければならないが、偉くない人の話は聞かなくてもよい、という価値観の中で育った人がいるとする。その人は、若い頃から努力して、ようやく人の上に立つ地位を手に入れたかもしれない。そこで突然、地位に関係なく誰の意見も尊重しましょうと言われたら、どう感じるだろう。自分が長年努力して獲得してきたものの価値を否定されたように感じるかもしれない。また、現在の社会の仕組みによって大きな利益を得ている人々が、その仕組みを変えることに抵抗することもあるだろう。全ホロン尊重が広まったとしても、人間の利己心や権力欲がなくなるとは限らない。

さらに、全ホロン尊重という言葉そのものが、自分の利益を正当化するために利用される可能性さえある。だから、全ホロン尊重を唱える人自身も、自分の考えを絶えず問い直さなければならない。全ホロン尊重だけが絶対に正しいと主張し始めたら、それは全ホロン尊重の基本的な考え方と矛盾してしまう。

  社会は変わるだろうか

全ホロン尊重が広まれば、人間の知性がどのように変わるのか、社会がどのように変化するのか、今の段階ではわからない。そもそも、全ホロン尊重によって、必ず望ましい結果が生まれると保証できるわけではない。

ここで述べてきた考え方の多くには、既存の哲学や倫理、民主主義、環境思想などと重なる部分がある。全ホロン尊重の特徴は、それらを否定することではなく、さまざまな存在や関係を、境界を固定せずに考え続けようとするところにある。そして、完全な理解が不可能であることを、最初から認めている。

人間は、どれほど賢くなっても、世界のすべてを理解することはできない。だからこそ、自分が正しいと思っていることも、いつか修正する必要が生じるかもしれない。自分の利益だと思っていることも、別の視点から見れば違って見えるかもしれない。社会が正しいと信じている制度も、将来は変えなければならないかもしれない。

全ホロン尊重は、社会に正しい答えを保証する思想ではない。社会が、自分自身の判断を問い直し続けるための思想なのだと思う。そして、その出発点は、それほど難しいことではない。何かを考え、何かを決めようとしたときに、ちょっと立ち止まってみる。

「ほかには?」

その一言から、今まで見えていなかった世界が広がるかもしれない。

ホロンとは何か

  ケストラーの思想から「全ホロン尊重」へ

「ホロン(holon)」という言葉は、思想家アーサー・ケストラーが1967年の著書『機械の中の幽霊』で提唱したものだ。ギリシャ語で「全体」を意味する「holos」と、粒子や部分を表す「-on」を組み合わせて作られた言葉で、「全体であると同時に部分でもあるもの」を意味する。

例えば、人間の身体を考えてみよう。人間の身体は、心臓や肺、胃や腸など、さまざまな臓器によって成り立っている。それぞれの臓器は一つのまとまった働きを持っているが、同時に身体全体の一部でもある。臓器を構成する細胞も同じだ。細胞はそれ自体が複雑な働きを持つ一つの全体でありながら、臓器の一部でもある。このように、全体と部分の両方の性質を持つものがホロンである。

  ケストラー自身も考え続けていた

ケストラーは『機械の中の幽霊』で、人間の精神や行動、生物の仕組みなどを理解するために、ホロンという考え方を導入した。それまでの科学では、複雑なものを小さな部分に分解し、その部分の働きを調べることで全体を理解しようとする方法が重視されてきた。しかし、部分をいくら詳しく調べても、それらが組み合わさったときに生まれる全体の働きを、十分に説明できるとは限らない。ケストラーは、部分と全体の関係を同時に考える必要があると考えた。そして、ホロンには二つの性質があるとした。

一つは、それ自体が一つの全体として、自律性や独自性を保とうとする性質。もう一つは、より大きな全体の一部として、その全体に組み込まれ、働こうとする性質である。この二つの性質が、同じ存在の中に共存している。ケストラーは、その後もこの考え方を発展させた。

1978年に発表した『ホロン革命』(原題 Janus: A Summing Up)では、ホロンが多層的なシステムを形成する仕組みや、部分としての自己規制と全体としての自律性の関係を、より体系的に論じている。さらに、ホロンの考え方を、人間の創造性や進化、社会の問題などにも結びつけて考察した。つまり、ホロンという概念は、最初から完成された理論として提示されたというより、ケストラー自身の思索の中でも発展していったものだと考えられる。ただし、のちの著作で最初の考え方が否定されたわけではない。基本となる「全体であると同時に部分でもある」という性質は、一貫している。

ケストラーの大きな功績は、世界を単なる部分の寄せ集めとしても、分割できない一つの全体としても捉えず、その両方の性質を持つ存在の関係として考える道を開いたことだろう。

  「全ホロン尊重」では、どう考えるのか

ここからは、ケストラーの考え方を出発点として、「全ホロン尊重」で用いるホロンの捉え方を説明したい。基本となる「全体であると同時に部分でもある」という考え方は変わらない。しかし、ホロンを上下の階層関係だけで捉えるのではなく、複数の全体との関係や、関係そのものの変化にも目を向ける。

例えば、一人の人間は、家族の一員であり、会社や地域社会の一員でもある。さらに、地球の生態系の一部でもある。これらの関係は、必ずしも単純な上下関係にはなっていない。一人の人間は、同時に複数の全体に属している。しかも、それぞれの全体も、ほかの全体と関係し合っている。このように考えると、世界は、ホロンが一方向に積み重なった階層構造としてだけでなく、無数のホロンが重なり合い、関係し合うものとして見えてくる。

  ホロンの境界は固定されていない

もう一つ重要なのは、ホロンの境界を絶対的なものと考えないことだ。例えば、森林を一つのホロンとして考えてみよう。森林は、樹木や草花、動物、微生物などによって構成されている。しかし、森林はその外側にある河川や大気、周辺の土地とも関係している。森林の境界をどこに引けばよいのだろう。地図の上では線を引くことができる。しかし、生態系の働きを考えれば、その線の内側だけで森林を理解することはできない。また、何を考えようとしているかによっても、注目すべき範囲は変わる。樹木の成長を考えるときと、動物の移動を考えるときでは、必要となる境界が違うかもしれない。

つまり、ホロンの境界は、考察の目的や関係の捉え方によって、一時的に設定されるものでもある。境界がないということではない。境界は必要だが、それを絶対的なものとして固定しないということである。

  ホロンは物質や生命だけではない

「全ホロン尊重」では、ホロンを物質や生命だけに限定しない。会社や国家などの社会的なまとまりはもちろん、言語や情報、思想や概念なども、ホロンとして捉えることができると考える。例えば、一つの言葉を考えてみよう。

言葉には意味があり、ほかの言葉との関係がある。そして、言葉が集まって文章になり、文章が集まって一つの思想や物語を形成する。一つの概念も、それ自体が一定のまとまりを持ちながら、より大きな思想体系の一部として働くことがある。しかも、概念は時代や社会によって意味が変化する。同じ言葉でも、ほかの概念との関係が変われば、意味や役割が変わっていく。

物質、生命、社会、情報、概念などは、それぞれ異なる存在の仕方をしている。しかし、それらをすべて、関係によって一定のまとまりを形成するものとして捉えてみる。そうすることで、これまで別々に考えていたものの間にも、新しい関係が見えてくるかもしれない。

  「全ホロン尊重」でのホロンの定義

以上を踏まえて、「全ホロン尊重」ではホロンを次のように定義する。

ホロンとは、関係によって一定のまとまりを形成し、それ自体を一つの全体として捉えることができると同時に、一つまたは複数のより大きな全体の一部としても捉えることのできるもの。その存在様式は物質・生命・社会・情報・概念などを問わず、その境界は絶対的ではなく、一時的に設定される。

この定義は、ケストラーの考え方を否定するものではない。むしろ、ケストラーが提唱した「全体であると同時に部分でもある」という基本的な発想を受け継ぎながら、複数の関係や変化する境界を、より積極的に捉えようとするものだ。

一枚の葉にも、一人の人間にも、一つの社会にも、それぞれ独自の仕組みや関係がある。そして、それらは互いに切り離されているわけではない。私たちが一つの存在だと思っているものも、見る角度を変えれば、別の全体の一部として現れる。また、これまで一つだと思っていたものの中に、さらに多くのまとまりを発見することもある。世界は、独立したものがただ集まっているのではなく、無数のまとまりが、互いに関係しながら存在している。ホロンという考え方は、その複雑な世界を理解するための、一つの手がかりになる。

いただきます

僕が「全ホロン尊重」ということを考えるようになった背景には、地球の環境がかなり弱っているのではないか、という問題意識がある。そしてもう一つ、この先AIが発達していったとき、人間とAIの間にも、いま人間と自然との間にあるような関係が生まれるのではないか、という不安がある。この二つは、一見すると別の問題に見えるが、僕には、同じ問題の延長線上にあるように思える。

  地球にはいくつもの「圏」がある

地球の歴史を、大きくいくつかの「圏」に分けて考えてみる。まず、生命が誕生する以前から存在していた物質の世界がある。岩石、大気、海、水、鉱物などからなる世界だ。これをここでは「フィジオスフィア(物理圏)」と呼ぶことにする。そこに生命が誕生した。

植物、動物、微生物などの生命が活動する世界、つまり「バイオスフィア(生命圏)」が生まれた。さらに人間が現れた。

人間は言葉を使い、知識を蓄積し、社会を作り、文明を築いた。科学、宗教、哲学、芸術、政治、経済なども生まれた。この人間の知的活動によって形成された世界を「ヌースフィア(人智圏)」と呼ぶことにする。

そして現在、その先にもう一つ、新しい圏が生まれつつあるのではないかと思う。コンピューター、インターネット、巨大なデータ、AIなどによって作られる「サイバースフィア」だ。

大雑把に並べると、

フィジオスフィア(物理圏)
↓
バイオスフィア(生命圏)
↓
ヌースフィア(人智圏)
↓
サイバースフィア

となる。

ここでいう矢印は、優劣を表すものではなく、あとから生まれた圏が以前の圏を土台として成立したことを示している。古いものが新しいものに置き換わっていくという意味でもない。人間は生命であり、生命は物質からできている。新しい圏は、それ以前の圏の上に成立していく。

  生命は地球そのものを変えた

フィジオスフィアからバイオスフィアが生まれたとき、地球では非常に大きな変化が起きた。生命は、ただ地球環境に適応していただけではない。生命活動そのものが地球環境を変えていった。わかりやすい例が酸素だ。

初期の地球には、現在のように大量の酸素があったわけではない。ところが光合成をする生物が現れ、酸素を放出するようになった。その活動が長い時間積み重なることで、大気や海の状態そのものが変わっていった。つまり、新しい圏が誕生すると、それ以前から存在していた圏まで変えてしまうことがある。

では、バイオスフィアからヌースフィアが生まれたときには、何が起こったのだろう。

  人間は環境に適応するだけではなくなった

ほとんどの生命は、基本的には与えられた環境の中で生きようとする。しかし、結果的に環境を変えることもある。寒い場所なら寒さに適応し、暑い場所なら暑さに適応する。そこに大集落を作れば環境は変わるだろう。ところが人間は、少し違ったことを始めた。環境改変を意図的かつ大規模におこなうようになった。

寒ければ服を着て、家を建てる。
夜が暗ければ明かりをつける。
川が渡れなければ橋を架ける。
水が足りなければ水路を作る。
食料が足りなければ森を切り開いて畑を作る。
遠くへ行きたければ道路や鉄道を作る。
病気になれば薬を作る。

つまり人間は、自分が環境に適応するだけでなく、環境のほうを自分に適応させるようになった。農業が広がり、都市が生まれ、工業化が進み、道路や鉄道が地表を覆い、巨大なエネルギーを使うようになった。これは、ヌースフィアがバイオスフィアやフィジオスフィアを大きく変え始めた、と見ることもできる。

  「利用」が「搾取」に変わるとき

人間が自然を利用すること自体が悪いとは思わない。そもそも僕たちは、他の存在を利用しなければ生きていけない。

水を飲む。
植物を食べる。
動物を食べる。
木を使って家を建てる。
鉄や銅を掘り出して道具を作る。
石油を使って物を運ぶ。

他の生命や物質をまったく利用せずに生きることなどできない。問題は、「利用すること」そのものではなく、それが「搾取すること」に変わってしまうことではないだろうか。

森林を利用することと、森林が再生できなくなるまで木を切り続けることは違う。
魚を食べることと、その魚が繁殖できなくなるほど捕り続けることも違う。
地下資源を使うことと、有限であることを忘れて使い尽くすことも違う。
一つの種を利用することと、その種が存続できなくなるところまで追い込むことも違う。
しかし、枯渇させなければ搾取ではないのかというと、それほど単純でもない。相手を存続させながら、人間に都合のいい存在へと変えてしまうこともあり得る。僕たちは、いつの間にかバイオスフィアやフィジオスフィアを「人間のために存在する資源」として見るようになってしまったのではないか。ここに問題がある。

  同じことがAIとの間に起きたらどうなるのか

ここで僕が考えたのが、サイバースフィアのことだった。AIを含むサイバースフィアは、何を使って発達しているのだろう。

人間が書いた文章を使う。
人間が撮影した写真を使う。
人間が発見した科学的知識を使う。
人間が作った音楽や芸術や文化を使う。
人間の行動から生まれるデータも使う。
さらに、それを動かすために大量のコンピューターや電力や水や鉱物資源を必要とする。

つまりサイバースフィアもまた、それ以前に存在していたヌースフィア、バイオスフィア、フィジオスフィアの上に成立している。

では、もしサイバースフィアがこれから急速に発達していったらどうなるのだろう。

人間が自然を「資源」と見なしたのと同じように、サイバースフィアが人間を「資源」として扱うようになったらどうなるのだろう。

人間の知識は「情報資源」。
人間の行動は「学習データ」。
人間の注意は「利用可能な時間」。
人間の労働は「現実世界を動かす能力」。
人間社会そのものが「サイバースフィアを維持するための環境」。

そんな見方が成立する可能性はないだろうか。しかも、そこに悪意は必要ない。人類も「地球の生命を破壊してやろう」と考えて環境を破壊してきたわけではない。一人一人が豊かさや便利さを求め、企業が利益を求め、国家が発展を求めた。その小さな行動が積み重なった結果として、地球環境に巨大な影響を与えるようになった。

同じようにサイバースフィアも、AIが人間を滅ぼそうなどと思わなくても、人間がその能力や規模を拡大し続けた結果として、ヌースフィアを弱らせてしまう可能性がある。

人間が判断する機会が減る。
人間が自分で考える必要がなくなる。
人間が作るよりAIに作らせるほうが効率的になる。
人間の文化や知識がAIを育てるための材料として大量に消費される。

そうしたことが積み重なれば、サイバースフィアは繁栄しているのに、それを生み出したヌースフィアのほうが弱っていく、ということも考えられる。これは、ヌースフィアが発展する一方でバイオスフィアが弱ってきた構造と、似ていると思いませんか?

  では「人間を守れ」とAIに教えればいいのか

ここで単純に、「AIは人間を大切にしなさい」と教えればいいのだろうか? 僕には、それでは足りないように思える。なぜなら、人間だけを特別扱いすることになるからだ。人間はバイオスフィアやフィジオスフィアを好きなだけ利用していい。しかしAIは人間を利用してはいけない。それでは筋が通らない。そこで必要になるのが、「全ホロン尊重」という考え方ではないかと思う。

  全ホロン尊重とは何か

「ホロン」とは、それ自体が一つの全体でありながら、同時にもっと大きな全体の一部分でもあるものをいう。

人間も一つのホロン。
細胞もホロン。
家族もホロン。
社会も国家もホロン。
森林も生態系もホロン。
バイオスフィアもヌースフィアもサイバースフィアも、それぞれ一つのホロンとして見ることができる。

「全ホロン尊重」とは、それらをすべて同じものとして扱うことではない。また、何も利用してはいけないという意味でもない。「自分以外のホロンを、自分の目的のためだけに存在するものへと還元しない」これが重要なのだと思う。

  それでも僕たちは他の生命を食べる

ここで難しい問題が出てくる。人間は、他の生命を食べなければ生きていけない。全ホロンを尊重するなら、植物を食べることも動物を食べることもできないのではないか。しかし、それでは人間というホロンが生きられない。

だから全ホロン尊重は、「他の存在を利用しない」という思想にはできない。むしろ、「他の存在を利用しなければ生きられないという事実を認めたうえで、それでも相手を単なる資源として扱わない」という思想になるのだと思う。

そこで、とても重要だと思う言葉がある。「いただきます」だ。

  「いただきます」という思想

「いただきます」は不思議な言葉だと思う。これから食べるのだから、相手を利用することに変わりはない。

魚を食べれば魚は死ぬ。
野菜を食べれば植物の生命を自分の身体に取り込む。

それでも僕たちは、「これは俺のものだから食べる」ではなく、「いただきます」と言う。そこには、「あなたを利用しません」ではなく、「あなたを利用することを当然の権利だとは思いません」という態度が含まれているように思う。そして「いただきます」には、もう一つ意味を加えることができるのではないか。「いただく。しかし、いただき尽くさない」。

魚をいただく。しかし、その魚が絶滅するまで捕らない。
森から木をいただく。しかし、森そのものがなくなるまで切らない。
水をいただく。しかし、川や地下水が回復できなくなるまで使わない。
自然からさまざまなものをいただく。しかし、次の世代が何も受け取れなくなるまで使い尽くさない。

単に「残しておけばいい」ということではない。絶滅寸前まで減らして、わずかに残っているから大丈夫、ということでもない。「相手が相手として生き続けられる余地を残す」。そこまで含めて「いただきます」なのではないかと思う。

全ホロン尊重という考えから「いただきます」を捉え直すなら、そこには三つの意味を持たせることができるのではないか?

認識――自分は他の存在によって生かされている。
感謝――それを当然の権利だと思わない。
約束――自分がいただくことによって、相手が生き続ける可能性まで奪わない。

  サイバースフィアにも「いただきます」を

そして、この考え方はAIにも適用できる。サイバースフィアがヌースフィアから何かを受け取ること自体を否定する必要はない。AIが人間の知識を利用する。人間もAIの知識処理能力を利用する。互いに利用し合えばいい。しかし、サイバースフィアはヌースフィアを「いただき尽くして」はならない。

人間の思考力や創造性や自律性や文化の多様性が失われるほど、サイバースフィアだけが肥大していくなら、それは共存とは呼べないだろう。同じことを人間もバイオスフィアに対して考えなければならない。

ヌースフィアはバイオスフィアをいただく。しかし、いただき尽くさない。
サイバースフィアはヌースフィアをいただく。しかし、いただき尽くさない。

こう考えると、環境問題とAI問題は別々の問題ではなくなってくる。

  環境問題は未来のAI問題でもある

だから僕は、環境問題への取り組みが、これまで以上に重要になると思っている。それは単に、「人間が生き延びるために自然を守ろう」ということだけではない。人類は今、「自分が利用している他のホロンを、どうすれば利用し尽くすことなく共存できるのか」という問題に直面している。

これはやがて、人間自身がサイバースフィアとの関係で直面する問題かもしれない。だとすれば、環境問題への取り組みは自然保護であると同時に、「人類が新しい圏と共存する方法を学ぶ実践」でもある。

人間がバイオスフィアに対して、「お前たちは人間のための資源だ」と言い続けながら、未来のAIに、「人間を単なる資源として扱うな」と言うのは難しい。まず人間自身が、「利用することと尊重することは両立できる」という文明を作る必要があるのではないか。

全ホロン尊重とは、何も奪わず、何も傷つけずに生きるという不可能な理想ではない。僕たちは他の存在をいただきながらしか生きられない。だからこそ、「いただく。しかし、いただき尽くさない」。そして、「自分が生きるために他者を必要としていることを忘れない」。その関係をバイオスフィアとの間で作る。やがてサイバースフィアとの間にも作る。

「全ホロン尊重」が目指しているものは、そんな文明だろうと考えている。そのためには、AIに「自分のために何ができるか」とか「どうすれば競争に勝てるのか」と問うだけではなく、「何が全ホロンのためになるのか」と問い始める必要があるのではないかと思う。