『全開運!しあわせ』という雑誌に連載をしている。『癒しの時間』というタイトルで、「気持ちいいもの」を書くことについてのエッセイだ。
最近は出版不況だから、雑誌の数も減り、普通であれば新創刊は見送られるだろう。ところが『全開運!しあわせ』はムックで始まり、部数が順調に伸びたので季刊誌になり、部数を上げて今号からはコンビニでも売られている。
最近、開運とか幸運をキーワードにした雑誌が増えている。『ゆほびか』『開運』『Misty』『Chakra』『ゆがふる』など。『日経おとなのOFF』では、「開運大全」とか「開運入門」などの特集も組まれている。
なぜこんなにも開運が求められるのか。一番簡単な答えは「多くの人が不安を感じているから」。長引く不景気に震災が加わり、それだけにとどまらず原発事故も重なった。開運でもしなければどうにもならない、ということだろう。ただ、僕はそれだけではないと感じている。
多くの人が一次元的な考えを手放すときが来たのだと思う。
この場合の一次元的考えとは、言語理論的な考えだ。いままで知の発展は書物によっておこなわれてきた。何かを研究したり、勉強したりするのには必ず本を参照し、時代や場所を越えて、深い智恵を持つ人の言葉を追いかけることが学ぶことだった。書物にその智恵が書かれているから、学ぶ者はとにかくその文字を追っていく。書物には出だしがあり、中間部があり、結末があった。知識はそういうものであることを無意識にすり込まれてきた。書き手が予定した順番で読むことで、知識は直線的、つまり一次元的に伝えられたのである。ところが、インターネットが登場してハイパーテキストが標準となった。ハイパーテキストとは、リンクを含む文章だ。すると読者は自分が必要としているポイントだけ読んで、それで済ますことが多くなる。つまり知恵を得るのに直線的に読みつづける必要がなくなった。必要がないというよりは、それを積極的に使うようになった。これがひとつの理由。
もうひとつ、現代において特徴的なことがある。それは、ドラマをたくさん見られることだ。演劇の舞台はたくさんあるし、映画はたくさん制作されるし、かつての映画はどんどんDVD化され、ケーブルテレビや衛星放送で四六時中名作が流されている。こんなにたくさんのドラマを見ることができる人類はいままでなかっただろう。この状況が何を生むのか。前にもどこかに書いたが、チベット密教でおこなわれる修行とそっくりなことが起こるのだ。
チベット密教ではお経を読むと同時に、それを表現した曼陀羅を見ることがある。すべてのお経がこうなっている訳ではないが、一部のお経にはそれぞれの菩薩や如来の話しが書かれており、それを追体験するようにその世界が描かれた曼陀羅が存在する。それぞれの菩薩や如来と一体になったつもりで曼陀羅を見る。そのことによって、菩薩や如来から見ると、世界がどんなふうに見えるのかを感じていくのだ。自分が一体化する菩薩や如来が変われば、見えてくる世界も変わる。それを体験することによって、どんな人とも共感できる心を養う。立場が違い、接する人が違い、まわりでやりとりされる言葉が異なれば、その人が感じる世界はまったく別の物になる。それを体験するための装置なのだ。
これと同じように、ドラマをたくさん見ていれば、立場や状況が違うことでどんな人でも行動を変えていくことを無意識に学んでいく。この無意識の学びが人に大きなインパクトを与えてきた。つまり、どんな人でも、境遇や状況が違えば、どんなことでもありうるかもしれないということが、なんとなく理解できるようになってきたのだ。
こう考えてくると、運がいいというのは、たまたま偶然に現れることとも考えられるが、運をつかむための準備が必要なことも同時に理解できる。それが風水などにつながるのだろう。
実際に水晶を持ったり、金色の財布を持ったりすると運がよくなるかどうかはわからない。しかし、これだけは言える。多くの人がそれを意識したら、その影響が社会に現れてくると言うことだ。
震災のあとにたくさんのイベントやお祭りが自粛されたが、あれはあまりいいことではない。かつて神道を信じていた頃の日本人なら、大きな震災のあとには神様のために祈っただろうと誰かがBlogに書いていたが、そのような常識でもし日本人が生きていたら、日本中でお祭りがおこなわれ、その結果、少しは景気がよくなっただろう。日本人が一斉に行動することで経済が動いただろう。それはまったく科学的ではないが、動いてしまえばいいのだ。その理由は特に科学的である必要がない。
昨日、清水博博士の場の研究所の勉強会に行った。そこで小山龍介さんが面白い話をしてくれた。福島で場のワークショップというのをしたそうだ。そこで参加者に「あなたにとって(人生の)観客は誰ですか?」と質問をした。ある人は「娘」、ある人は「親」などと答えていったそうだ。そしてさらに小山さんは質問を続ける。
「もしその観客がいなかったら、あなたの行動はどう変化しますか?」
僕はこの話しを聞いてすぐになるほどと思った。かつて日本人は八百万の神々が観客だったんだなと。
ちょうどいま『逝きし世の面影』という本を読んでいる。そこに幕末から明治にかけて、海外から来た人たちがどれだけ日本を賛美していたかが書かれているのだが、なぜそのような文化だったのか、それが気になっていたのだ。その解答のようにして小山さんの話しが響いた。日本人はみんな八百万の神がどこかで私を見ていると感じながら生きていた。それがあの文化を可能にしていたのだなと。
もちろん、八百万の神はちっとも科学的ではない。しかし、実際に日本人に影響を与えていた。日本人の行動の些細な違いが、社会を作り上げる。開運をするというのも、そのための作法のようなものがたくさんある。きっとその作法を守ることで、いろんな影響が現れるだろう。それらが日本の再生につながるのであれば、科学的か非科学的かはどうでもいいような気がする。
社会はいろんな影響を受けて変化する。バタフライ効果が現れてくるフィールドだ。蝶の羽ばたきと同じように、影響を与えるきっかけは些細なものでいい。その些細な影響はたくさん集まり流れていく。この大きな流れを決めるのは、些細なきっかけの傾向が増幅されたもの。しかもその流れには些細な影響が多次元的に折り込まれている。
僕たちは幸せに生きていきたい。それを実現するためにエゴイスティックに生きてしまったら、現れてくる大きな流れはエゴイスティックになり、僅かな成功する人とたくさんの負け犬であふれてしまう。正しい開運法を得て、エゴイスティックではなく、すべての人を含んで幸せになるような方向を僕たちは向くときが来た。それはきっと一次元的ではなく、多次元で、言葉では表現できない。本当の開運がなされるのは、そういう全体に含まれたときだ。その全体を僕たちは夢見て、行動し、形作っていかなければならない。
小山龍介さんが編集するWEBMAGAZINE「Bloom Cafe」