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	<title>地球公共的霊性 へのコメント</title>
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	<description>tsunabuchi.com Blog</description>
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		<item>
		<title>kumirin より</title>
		<link>http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/?p=96&#038;cpage=1#comment-1209</link>
		<dc:creator>kumirin</dc:creator>
		<pubDate>Mon, 05 Apr 2010 04:13:35 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/?p=96#comment-1209</guid>
		<description>~すぐ隣にある危険~			
			
Tsunabuchi Yoji　さん、こんにちは。			
			
ご質問へのお返事です。			
			
　先月の産経新聞コラムに掲載されていたのですが、そこの記者があるムスリムの学生にインタビューしたところ、「唯一神アッラーを信じるか」という彼らの問いに「そう君達が信じていることは尊重する」と答えたところ、「では、我々の神を信じているに等しい。もっと我々の教義を詳しく説明させてくれ」という展開になったそうです。			
（コラムといえば、人々を引き付け高評価される文章はどれだけ断定した言葉を使えるか、やそうですね。）			
地下鉄サリン事件の時もそうでしたが、現在のモスクワ地下鉄事件や福岡の殺人事件にみられるように、災厄というものは空襲警報など事前の警告なしに、日常生活のなかで起こるようになってきました。			
オウム信者の特徴であったように、たとえ高等教育を受けていたとしても、
無我という真理を実践するにはそう簡単ではないが故に、迷いが生ずれば身近の何かにすがろうとするのがニンゲンではないでしょうか。
その拠って立つものへの自らのシワケする力が足りないばかりに、絶望的な暴力に走ってしまう、そんな危険は、うつ病患者が増加しているといわれている現代に生きるすべてのニンゲンが内包していると思っています。			
			
　「宗教」には内側と外側がある、それは様相が違う、は果たして本当にそうなのでしょうか？			
私は&#039;80年代、クルァーンやアラビア語、ヒンドゥーやサンスクリット語を正規の学習として私立大学で教わりました。	その時から今までに思ったことは、仏教やキリスト・ユダヤ教も含め宗教の根幹は同じことを指しているのでは、ということです。			
ニンゲンは何故宗教を生みだし信奉してきたのか？その役割とは？これからはどのようなことが求められるのでしょう？			
			
様相が違う、としかオモエナイ、というお考えは尊重致します。只自分と違う信条のヒトビトとどう折り合いをつけ共存してゆくか。	情報が瞬時に飛び交い世界が狭くなった今、これはニンゲンの大きな課題やと思います。			
			
			
　そして、私がひっかかったのは、”「正」だけの世界ではきっと共存し、食い合いはなくなるのだろう”という箇所です。			
これは、そう想像する他者がいる、という意味ですか？
食い合いのない世界、が「正」、であり、共存する世界なのかどうか。生物は食物連鎖で成り立っているのですよね？只、ニンゲンは、頂くものは頂いておきながら、海葬、鳥葬、風葬などをおこなっているヒトビトは別として、大半の者が確かにその連鎖から逸していますが。			
実現不可能であろう、けれど、そのような世界を夢想することを肯定してしまうのは危険な香りがします。			
手段があり得ないのか、目的があり得ないのか、「そういう」状態とはどういうことを指すのでしょうか？			
勿論、「食うか食われるか」という状況は、生物が進化するものである限り全く「なくシテシマウ」ことなど、おっしゃるとおりニンゲンにはまだまだできないのでしょう。どちらかといえば、ニンゲンが率先しておこなっているようにも感じますしね。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>~すぐ隣にある危険~			</p>
<p>Tsunabuchi Yoji　さん、こんにちは。			</p>
<p>ご質問へのお返事です。			</p>
<p>　先月の産経新聞コラムに掲載されていたのですが、そこの記者があるムスリムの学生にインタビューしたところ、「唯一神アッラーを信じるか」という彼らの問いに「そう君達が信じていることは尊重する」と答えたところ、「では、我々の神を信じているに等しい。もっと我々の教義を詳しく説明させてくれ」という展開になったそうです。<br />
（コラムといえば、人々を引き付け高評価される文章はどれだけ断定した言葉を使えるか、やそうですね。）<br />
地下鉄サリン事件の時もそうでしたが、現在のモスクワ地下鉄事件や福岡の殺人事件にみられるように、災厄というものは空襲警報など事前の警告なしに、日常生活のなかで起こるようになってきました。<br />
オウム信者の特徴であったように、たとえ高等教育を受けていたとしても、<br />
無我という真理を実践するにはそう簡単ではないが故に、迷いが生ずれば身近の何かにすがろうとするのがニンゲンではないでしょうか。<br />
その拠って立つものへの自らのシワケする力が足りないばかりに、絶望的な暴力に走ってしまう、そんな危険は、うつ病患者が増加しているといわれている現代に生きるすべてのニンゲンが内包していると思っています。			</p>
<p>　「宗教」には内側と外側がある、それは様相が違う、は果たして本当にそうなのでしょうか？<br />
私は&#8217;80年代、クルァーンやアラビア語、ヒンドゥーやサンスクリット語を正規の学習として私立大学で教わりました。	その時から今までに思ったことは、仏教やキリスト・ユダヤ教も含め宗教の根幹は同じことを指しているのでは、ということです。<br />
ニンゲンは何故宗教を生みだし信奉してきたのか？その役割とは？これからはどのようなことが求められるのでしょう？			</p>
<p>様相が違う、としかオモエナイ、というお考えは尊重致します。只自分と違う信条のヒトビトとどう折り合いをつけ共存してゆくか。	情報が瞬時に飛び交い世界が狭くなった今、これはニンゲンの大きな課題やと思います。			</p>
<p>　そして、私がひっかかったのは、”「正」だけの世界ではきっと共存し、食い合いはなくなるのだろう”という箇所です。<br />
これは、そう想像する他者がいる、という意味ですか？<br />
食い合いのない世界、が「正」、であり、共存する世界なのかどうか。生物は食物連鎖で成り立っているのですよね？只、ニンゲンは、頂くものは頂いておきながら、海葬、鳥葬、風葬などをおこなっているヒトビトは別として、大半の者が確かにその連鎖から逸していますが。<br />
実現不可能であろう、けれど、そのような世界を夢想することを肯定してしまうのは危険な香りがします。<br />
手段があり得ないのか、目的があり得ないのか、「そういう」状態とはどういうことを指すのでしょうか？<br />
勿論、「食うか食われるか」という状況は、生物が進化するものである限り全く「なくシテシマウ」ことなど、おっしゃるとおりニンゲンにはまだまだできないのでしょう。どちらかといえば、ニンゲンが率先しておこなっているようにも感じますしね。</p>
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	<item>
		<title>Tsunabuchi Yoji より</title>
		<link>http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/?p=96&#038;cpage=1#comment-1148</link>
		<dc:creator>Tsunabuchi Yoji</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 27 Mar 2010 16:46:17 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/?p=96#comment-1148</guid>
		<description>kumirinさん、こんばんは。

&gt;　私の座右の銘は「温故知新」なんですが、本当に「現在の土台を認めない限り、
&gt;新しいものは生まれない」のでしょうか？
&gt;土台を否定していてはヒトは前へ進めない、ということですか？「反面教師」と
&gt;いう言葉も浮かんできます。
&gt;又、戦争が平和を、破壊が創造を、収縮が爆発を招くようですし。
&gt;否定することも含めての認識、というのであればわかりやすいのですが。

だいたいkumilinさんのおっしゃるとおりです。
「新しい」と認識するときに、比較として「古い」何かがそこにあるはずです。
その「古い何か」を認めているからこそ、それを「新しい」と言えると言うことですね。

&gt;　そして、本当に「宗教は内側にいるときと外側から見たときでは様相が
&gt;違ってみえるはず」なのでしょうか？
&gt;このように断定する、ということが、白黒はっきり「正負」に分けることに
&gt;つながるように思えてなりません。

これに関しては具体的に何を言いたいのか教えてください。
おっしゃっている意味が僕にはよくわかりません。
宗教の内側にいるひとは「信じているひと」
外側にいるひとは「信じてないひと」
僕には同じに見えるとは思えないのですが。

&gt;「抹殺か飼いならすしかない」のであれば、そのあとに「共存」概念は
&gt;成立しにくいのではないですか？
&gt;指し示す対象が異なっているとはいえ、どこか釈然としません。

僕はどこにもそのようなことを書いていません。
この部分を誤読なさったのでしょうか。

&gt;生物界には「食うか食われるか」という状況が存在する。
&gt;「正」だけの世界ではきっと共存し、食い合いはなくなるのだろう。
&gt;しかし、そのような世界がもたらされるには肉食獣のような存在を
&gt;抹殺するか、または飼い慣らすしかない。同様に「正」の世界は
&gt;「負」の世界を抹殺するか、飼い慣らすかしなければならないだろう。
&gt;そのような状態がどのようなのことなのか、もっと詳しく考える必要がある。

僕がここに書いたのは、「弱肉強食の世界をまったくなくしてしまう」つまり肉食獣を絶滅させるか、または「飼い慣らすしかない」と書きましたが、それは「ほとんどあり得ないだろう」という意味で「そのような状態がどのようなことなのか、もっと詳しく考える必要がある」と書いたのです。
わかりにくくてすみません。

僕の論旨は極端に書けば、正負に分けても仕方ないですよね、ということです。
だから、あまりkumirinさんのおっしゃっていることと違わないと思います。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>kumirinさん、こんばんは。</p>
<p>>　私の座右の銘は「温故知新」なんですが、本当に「現在の土台を認めない限り、<br />
>新しいものは生まれない」のでしょうか？<br />
>土台を否定していてはヒトは前へ進めない、ということですか？「反面教師」と<br />
>いう言葉も浮かんできます。<br />
>又、戦争が平和を、破壊が創造を、収縮が爆発を招くようですし。<br />
>否定することも含めての認識、というのであればわかりやすいのですが。</p>
<p>だいたいkumilinさんのおっしゃるとおりです。<br />
「新しい」と認識するときに、比較として「古い」何かがそこにあるはずです。<br />
その「古い何か」を認めているからこそ、それを「新しい」と言えると言うことですね。</p>
<p>>　そして、本当に「宗教は内側にいるときと外側から見たときでは様相が<br />
>違ってみえるはず」なのでしょうか？<br />
>このように断定する、ということが、白黒はっきり「正負」に分けることに<br />
>つながるように思えてなりません。</p>
<p>これに関しては具体的に何を言いたいのか教えてください。<br />
おっしゃっている意味が僕にはよくわかりません。<br />
宗教の内側にいるひとは「信じているひと」<br />
外側にいるひとは「信じてないひと」<br />
僕には同じに見えるとは思えないのですが。</p>
<p>>「抹殺か飼いならすしかない」のであれば、そのあとに「共存」概念は<br />
>成立しにくいのではないですか？<br />
>指し示す対象が異なっているとはいえ、どこか釈然としません。</p>
<p>僕はどこにもそのようなことを書いていません。<br />
この部分を誤読なさったのでしょうか。</p>
<p>>生物界には「食うか食われるか」という状況が存在する。<br />
>「正」だけの世界ではきっと共存し、食い合いはなくなるのだろう。<br />
>しかし、そのような世界がもたらされるには肉食獣のような存在を<br />
>抹殺するか、または飼い慣らすしかない。同様に「正」の世界は<br />
>「負」の世界を抹殺するか、飼い慣らすかしなければならないだろう。<br />
>そのような状態がどのようなのことなのか、もっと詳しく考える必要がある。</p>
<p>僕がここに書いたのは、「弱肉強食の世界をまったくなくしてしまう」つまり肉食獣を絶滅させるか、または「飼い慣らすしかない」と書きましたが、それは「ほとんどあり得ないだろう」という意味で「そのような状態がどのようなことなのか、もっと詳しく考える必要がある」と書いたのです。<br />
わかりにくくてすみません。</p>
<p>僕の論旨は極端に書けば、正負に分けても仕方ないですよね、ということです。<br />
だから、あまりkumirinさんのおっしゃっていることと違わないと思います。</p>
]]></content:encoded>
	</item>
	<item>
		<title>kumirin より</title>
		<link>http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/?p=96&#038;cpage=1#comment-1143</link>
		<dc:creator>kumirin</dc:creator>
		<pubDate>Sat, 27 Mar 2010 09:06:15 +0000</pubDate>
		<guid isPermaLink="false">http://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/?p=96#comment-1143</guid>
		<description>こんにちは。
				
　基本的に「あまのじゃく」な私としましては、このページを読ませていただきますと、	疑問がむくむくと頭をもたげてきましたので、ウェルカムお返事頂いたこともあり懲りずに又メールさせて頂きます。					
					
　ここに述べておられることは方向としてはほとんどその通り、だと思うのですが、断定をされてしまう箇所があると、ほんまににそうなん？と考えてしまいます。この時より一年以上経過してどのような展開がおありだったでしょうか？					
					
　私の座右の銘は「温故知新」なんですが、本当に「現在の土台を認めない限り、新しいものは生まれない」のでしょうか？
土台を否定していてはヒトは前へ進めない、ということですか？「反面教師」という言葉も浮かんできます。	
又、戦争が平和を、破壊が創造を、収縮が爆発を招くようですし。
否定することも含めての認識、というのであればわかりやすいのですが。
					
　そして、本当に「宗教は内側にいるときと外側から見たときでは様相が違ってみえるはず」なのでしょうか？	
このように断定する、ということが、白黒はっきり「正負」に分けることにつながるように思えてなりません。

『A』は未見ですが、森達也監督の発言はTVや雑誌で拝見したことがあります。					
その内容はともかく、非難だけではなく渦中に入ってみよう、寄り添ってみよう、という姿勢には共感できました。					
更に、一読しただけでは核心はよくはわかりませんでしたが、作家高村薫さんは、様相をことさら分けて捉えてしまうことを埋めようとして最近の一連作を執筆されたのではないか、と思います。					
					
「抹殺か飼いならすしかない」のであれば、そのあとに「共存」概念は成立しにくいのではないですか？
指し示す対象が異なっているとはいえ、どこか釈然としません。					
					
　湯川秀樹博士の存在が世界的に賞賛されたのは、ニホンジンであるが故に発想されたのかどうかわかりませんが、正負だけであった当時の主流認識に、中間もあるのではということを提唱されたからだと理解しています。					
「はず」「～ではない」「～だけができる」の考え方は中庸とは最も遠い考え方やなぁと思います。</description>
		<content:encoded><![CDATA[<p>こんにちは。</p>
<p>　基本的に「あまのじゃく」な私としましては、このページを読ませていただきますと、	疑問がむくむくと頭をもたげてきましたので、ウェルカムお返事頂いたこともあり懲りずに又メールさせて頂きます。					</p>
<p>　ここに述べておられることは方向としてはほとんどその通り、だと思うのですが、断定をされてしまう箇所があると、ほんまににそうなん？と考えてしまいます。この時より一年以上経過してどのような展開がおありだったでしょうか？					</p>
<p>　私の座右の銘は「温故知新」なんですが、本当に「現在の土台を認めない限り、新しいものは生まれない」のでしょうか？<br />
土台を否定していてはヒトは前へ進めない、ということですか？「反面教師」という言葉も浮かんできます。<br />
又、戦争が平和を、破壊が創造を、収縮が爆発を招くようですし。<br />
否定することも含めての認識、というのであればわかりやすいのですが。</p>
<p>　そして、本当に「宗教は内側にいるときと外側から見たときでは様相が違ってみえるはず」なのでしょうか？<br />
このように断定する、ということが、白黒はっきり「正負」に分けることにつながるように思えてなりません。</p>
<p>『A』は未見ですが、森達也監督の発言はTVや雑誌で拝見したことがあります。<br />
その内容はともかく、非難だけではなく渦中に入ってみよう、寄り添ってみよう、という姿勢には共感できました。<br />
更に、一読しただけでは核心はよくはわかりませんでしたが、作家高村薫さんは、様相をことさら分けて捉えてしまうことを埋めようとして最近の一連作を執筆されたのではないか、と思います。					</p>
<p>「抹殺か飼いならすしかない」のであれば、そのあとに「共存」概念は成立しにくいのではないですか？<br />
指し示す対象が異なっているとはいえ、どこか釈然としません。					</p>
<p>　湯川秀樹博士の存在が世界的に賞賛されたのは、ニホンジンであるが故に発想されたのかどうかわかりませんが、正負だけであった当時の主流認識に、中間もあるのではということを提唱されたからだと理解しています。<br />
「はず」「～ではない」「～だけができる」の考え方は中庸とは最も遠い考え方やなぁと思います。</p>
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