『思考の整理学』という本が東大・京大で一番読まれた本だとは考えにくかった。僕が高校大学の頃、東大などで売れていた本はもっと専門性の高い本だと思っていた。この本はあまりにも平易で汎用的である。
そこでしばらくなぜこの平易で汎用的な本が東大・京大で一番読まれる本なのかを考えてみた。ひとつはこの本にも書かれていることなのだが、知のあり方が変化してきたことが反映されているような気がする。
かつては情報をストックすることが大切だと思われていた。ところが最近は人間の頭では情報をストックするより、それを加工できるように余計な情報を詰め込まず、加工のためのスペースを空けている方がよいと考えられるようになった。
すると、加工するためにはどうすればいいかがわからなければならない。しかし、そのことについて書かれたいい本がなかなかないのだ。僕が思いつくのは以下の本である。
具体的な考え方ではないが、考え方のメタ思考をするためにはこの本もいいと思う。
(もっといい本をご存じの方は教えてください)
知のあり方の変化と同時に、もうひとつ考えられる理由は、専門分化があまりにも激しく、専門分化した先端の本を他の分野の人が読めなくなってきていることだ。
専門分野に登場する用語があまりにも抽象度が高くなりすぎて、その言葉が意味するところを正しく理解するために多くの時間が必要となり、それを理解した上での論議に専門家以外の人がついていけないという現象だ。この現象はどうしようもない。あるレベルで自然淘汰されることを待つしかなかった。しかし、最近は、本当に明確に定義された専門用語が、コンピューターと結びつくことで、とうてい頭脳的には理解できない思考を、コンピューターの補助の元に可能にさせると言うことが起き始めている。それは人間の思考ではとても処理できないような厖大なパラメーターによって導かれるような思考だ。しかし、このような思考はこれからとても重要になってくるだろう。重要になればなるほど、人間には理解できない解答がコンピューターから吐き出されるようになるだろう。そのような解答を大切にできるか、それとも人間の理解の範疇で物事を収めようとするかで、これからの社会が大きく変化していく。
たまたま梅方さんのBlogからこんな記事に行き着いた。
記者の目:鳩山「理系」政権、科学思考生かせ=元村有希子
この記事では「コミュニケーション能力の低い理系の人」が前提となって記事が書かれているが、僕は逆なのではないかと思っている。理系のような専門性の高い話をする際には、それを理解しようとする意志と、それを理解するための努力がなされない限り、その話は正しく理解できない。一般の人があまり考えずにも理解できるように話を簡単にしてしまうと、そこに含まれていた微細なニュアンスや可能性が、ごっそりと抜けてしまうことになる。それに目をつぶることができるのが文系だとしたら、いかに利己的に、傲慢に話を持っていくことが文系的思考だと言うことになってしまう。理系の話がわかりにくいのは、その微妙な部分も伝えようと努力するからのもので、大なたを振るって話を切らずにいることは、その考えなり定義なりを考えてきた先人たちに失礼だからと思うからというのがひとつと、これから現れてくる、あまりにもパラメーターが厖大で人間の頭では処理できない話を、きちんと処理したいという気持ちの表れでもあると僕は考える。
これからどんどんと専門分化した話が大切になってくるだろう。そのときに「簡単にわかることでまとめる」というのは、実は大きな間違いを生む可能性を大きく含むことになる。専門分化した話を理解したいという人は、専門分化した複雑な内容を理解するための努力が必要になってくる。そして、そのような話を理解してもらうための水先案内人も必要となるだろう。
マーケティングという考えがあまりにも過ぎ、何でも受け手は簡単にものが手にはいると考えるのは間違いなのだ。正しいものを正しく手に入れるためには、本人の努力も必要とされてくる。その努力の方法の、ひとつの見本となる本が「思考の整理学」なのだなと感じた。
しかし、現実にはこの本が「王様のブランチ」という番組で紹介されたからというのが大きなきっかけらしい。







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