先日、小林正弥先生とお会いした。911事件の後で外苑前駅そばにある梅窓院というお寺を会場にした「ピース・ルネッサンス」の講演ではじめてお話しをうかがった。あまりにも素敵なお話だったのでいつかお目にかかりたいと思っていた。そして、そのときがやってきた。実際にお目にかかっていろいろとお話ししたが、あまり詳しい話しをする時間がなかったので、一冊の本を紹介していただいた。
『平和研究第32号 スピリチュアリティと平和』 日本平和学会編 早稲田大学出版部刊
このなかに小林先生は「地球公共的霊性の哲学的展望–『文明の衝突』を越えるために」という論文を寄せていらっしゃる。全文を引用するわけにはいかないので、興味のある方は直接論文を読んでほしい。そのなかで宗教的進化について述べられている。各宗教はそれぞれ様々な発展段階にあるだろうが、それらは現在、地域や民族、社会的関係などで区切られている。これを広く認め、さらに発展させて「地球公共的霊性」に高めていくべきだというのが主張である。
「地球公共的霊性」は具体的にこういうものだとは書きにくい。それは「完全な究極的総合は、有限性のある人間存在にとっては不可能である」という認識に基づき、人間に可能であると思われる「永遠の結合化」によって近似していくものだからだ。
この考え方はとても魅力的で賛同するものだが、ひとつ気になることがある。それは、「どのようにして正しい永遠の結合化を実現させるか」だ。
そのことについて論文には霊性には二種類あり、「負の霊性」をしりぞけ、「正の霊性」を高める必要があるという。
「正の霊性」の用件は二つある。
1.霊的実在が存在すると想定する。
2.霊的精神性が成長・向上する。
一方、「負の霊性」は、人類史の展開に即して以下のように考えられている。
1.原始時代以来の呪術的「霊性」が考えられ、これらは現在に至るまで存在する。
2.古代に現れて今日でも残っている、公的「霊性」=国家宗教。日本の場合にも、大和朝廷の成立時に現れて、戦前においては「国家神道」として戦争を推進した。これは、今日の日本でも、靖国問題などにおいて活発に論じられている。
3.歴史宗教・枢軸宗教において顕著に表れている問題で、原理主義宗教に見られる原理主義的「霊性」。これはユダヤ原理主義などのように古代宗教なしい民族宗教でも見られるが、キリスト教原理主義やイスラーム原理主義などのような枢軸宗教に典型的に存在する。
4.全体主義的「霊性」。悪性カルト宗教などに見られる。ナチズムやスターリン主義などの政治全体主義と同様に、このような「霊的全体主義」は、人間の自由や個性を抑圧する。
さらに、これら「正」と「負」の霊性を弁別する方法はふたつあるという。
1.自己の個性的な精神的成長をもたらすかどうか。
2.自集団(宗教組織・団体・共同体など)外部の他者に対する利他的・公共的貢献をしているかどうか。(自集団外公共的貢献基準)
このような弁別によって「正の霊性」を高めることによって「地球公共的霊性」をもたらす必要があるという。
「地球公共的霊性」を得るためには「正の霊性」のふたつの用件に加え、次のふたつの用件も必要になる。
3.地球的公共性。地球公共的霊性は、地球全体を包括する霊性なので、地球に存在する人々や動物・植物などすべての存在を霊性の対象から排除しない。つまり、地球的な「非排除性」が存在する。(公的=国家的「霊性」であれば、その国会以外の人々や、国家に住んでいても国籍を持たない人々を対象から排除する。これに対して、地球公共的霊性においては、そのような排除性は存在せず、地球人類全体における同胞愛が説かれる)
4.超越的次元における全一論的複層的多元論ないし多神教。現実の世界には、一神教の相克や、一神教と多神教との相克が多く存在する。その相克を解消する考えとして地球公共的霊性においては、超越的なる全一論的複層的多元論ないし多神教の考えが必要となる。
紙幅もあり書ききれなかったこととは思うが、僭越ながら指摘させていただくと、この論にひとつ失われている観点は、僕たちが歴史的発展の最中にいるということだ。現在の認識が得られるのは、かつて生きてきた人たちが様々な矛盾に悩み、なんとかそれらを解決し、または解決しつつありながら生きてきた、その過程に含んでもらっているからだ。古代宗教には、現代の観点から見れば問題があっただろう。しかし、それがなければ今日の宗教も、現在の社会的状況も生まれなかったはずだ。かつてうまれた思想や歴史の上に僕たちは立っている。その土台を一切捨て去り、まったく新しいものは作りようがない。日本人は日本語という土台がなければ現在の文化も思想も持ちようがない。「地球公共的霊性」も同じようなものではないかと僕は思う。現在の土台を認めない限り、新しいものは生まれない。
つまり、発展的段階の宗教を残し育む必要があるのではないだろうか。「負の霊性」と考えられるものを、いかに「正の霊性」に導くかについての思想が必要とされる。
また、「正」と「負」は実際にははっきりとしたものではなく、多くのものは白黒つかずに灰色に見えるのではないだろうか。宗教は内側にいるときと外側から見たときでは様相が違って見えるもののはずだ。森達也氏のドキュメンタリー映画「A」がそれを端的に示してくれた。
人はみんな学ぶ必要がある。生まれて死ぬまでの過程を考えに入れなければならない。霊性にも同様の段階が必要だろう。
執着というものがどのようなものか、知らない人間はそれを手放すわけにはいかない。執着を認識できるものだけがそれを手放せる。同様に「正」を学ぶ際に「負」を認識しなければならない。
この世界にある価値観をすべて「正」にしようとするのは、表現としては美しい。しかし、「正」一辺倒にすることによって生まれる問題についても論じる必要がある。
生物界には「食うか食われるか」という状況が存在する。「正」だけの世界ではきっと共存し、食い合いはなくなるのだろう。しかし、そのような世界がもたらされるには肉食獣のような存在を抹殺するか、または飼い慣らすしかない。同様に「正」の世界は「負」の世界を抹殺するか、飼い慣らすかしなければならないだろう。そのような状態がどのようなのことなのか、もっと詳しく考える必要がある。
そののちに「地球公共的霊性」が得られれば、いうことはない。「地球公共的霊性」がどのように得られるものか、多くの人と対話をしていきたい。





こんにちは。
基本的に「あまのじゃく」な私としましては、このページを読ませていただきますと、 疑問がむくむくと頭をもたげてきましたので、ウェルカムお返事頂いたこともあり懲りずに又メールさせて頂きます。
ここに述べておられることは方向としてはほとんどその通り、だと思うのですが、断定をされてしまう箇所があると、ほんまににそうなん?と考えてしまいます。この時より一年以上経過してどのような展開がおありだったでしょうか?
私の座右の銘は「温故知新」なんですが、本当に「現在の土台を認めない限り、新しいものは生まれない」のでしょうか?
土台を否定していてはヒトは前へ進めない、ということですか?「反面教師」という言葉も浮かんできます。
又、戦争が平和を、破壊が創造を、収縮が爆発を招くようですし。
否定することも含めての認識、というのであればわかりやすいのですが。
そして、本当に「宗教は内側にいるときと外側から見たときでは様相が違ってみえるはず」なのでしょうか?
このように断定する、ということが、白黒はっきり「正負」に分けることにつながるように思えてなりません。
『A』は未見ですが、森達也監督の発言はTVや雑誌で拝見したことがあります。
その内容はともかく、非難だけではなく渦中に入ってみよう、寄り添ってみよう、という姿勢には共感できました。
更に、一読しただけでは核心はよくはわかりませんでしたが、作家高村薫さんは、様相をことさら分けて捉えてしまうことを埋めようとして最近の一連作を執筆されたのではないか、と思います。
「抹殺か飼いならすしかない」のであれば、そのあとに「共存」概念は成立しにくいのではないですか?
指し示す対象が異なっているとはいえ、どこか釈然としません。
湯川秀樹博士の存在が世界的に賞賛されたのは、ニホンジンであるが故に発想されたのかどうかわかりませんが、正負だけであった当時の主流認識に、中間もあるのではということを提唱されたからだと理解しています。
「はず」「~ではない」「~だけができる」の考え方は中庸とは最も遠い考え方やなぁと思います。
kumirinさん、こんばんは。
> 私の座右の銘は「温故知新」なんですが、本当に「現在の土台を認めない限り、
>新しいものは生まれない」のでしょうか?
>土台を否定していてはヒトは前へ進めない、ということですか?「反面教師」と
>いう言葉も浮かんできます。
>又、戦争が平和を、破壊が創造を、収縮が爆発を招くようですし。
>否定することも含めての認識、というのであればわかりやすいのですが。
だいたいkumilinさんのおっしゃるとおりです。
「新しい」と認識するときに、比較として「古い」何かがそこにあるはずです。
その「古い何か」を認めているからこそ、それを「新しい」と言えると言うことですね。
> そして、本当に「宗教は内側にいるときと外側から見たときでは様相が
>違ってみえるはず」なのでしょうか?
>このように断定する、ということが、白黒はっきり「正負」に分けることに
>つながるように思えてなりません。
これに関しては具体的に何を言いたいのか教えてください。
おっしゃっている意味が僕にはよくわかりません。
宗教の内側にいるひとは「信じているひと」
外側にいるひとは「信じてないひと」
僕には同じに見えるとは思えないのですが。
>「抹殺か飼いならすしかない」のであれば、そのあとに「共存」概念は
>成立しにくいのではないですか?
>指し示す対象が異なっているとはいえ、どこか釈然としません。
僕はどこにもそのようなことを書いていません。
この部分を誤読なさったのでしょうか。
>生物界には「食うか食われるか」という状況が存在する。
>「正」だけの世界ではきっと共存し、食い合いはなくなるのだろう。
>しかし、そのような世界がもたらされるには肉食獣のような存在を
>抹殺するか、または飼い慣らすしかない。同様に「正」の世界は
>「負」の世界を抹殺するか、飼い慣らすかしなければならないだろう。
>そのような状態がどのようなのことなのか、もっと詳しく考える必要がある。
僕がここに書いたのは、「弱肉強食の世界をまったくなくしてしまう」つまり肉食獣を絶滅させるか、または「飼い慣らすしかない」と書きましたが、それは「ほとんどあり得ないだろう」という意味で「そのような状態がどのようなことなのか、もっと詳しく考える必要がある」と書いたのです。
わかりにくくてすみません。
僕の論旨は極端に書けば、正負に分けても仕方ないですよね、ということです。
だから、あまりkumirinさんのおっしゃっていることと違わないと思います。
~すぐ隣にある危険~
Tsunabuchi Yoji さん、こんにちは。
ご質問へのお返事です。
先月の産経新聞コラムに掲載されていたのですが、そこの記者があるムスリムの学生にインタビューしたところ、「唯一神アッラーを信じるか」という彼らの問いに「そう君達が信じていることは尊重する」と答えたところ、「では、我々の神を信じているに等しい。もっと我々の教義を詳しく説明させてくれ」という展開になったそうです。
(コラムといえば、人々を引き付け高評価される文章はどれだけ断定した言葉を使えるか、やそうですね。)
地下鉄サリン事件の時もそうでしたが、現在のモスクワ地下鉄事件や福岡の殺人事件にみられるように、災厄というものは空襲警報など事前の警告なしに、日常生活のなかで起こるようになってきました。
オウム信者の特徴であったように、たとえ高等教育を受けていたとしても、
無我という真理を実践するにはそう簡単ではないが故に、迷いが生ずれば身近の何かにすがろうとするのがニンゲンではないでしょうか。
その拠って立つものへの自らのシワケする力が足りないばかりに、絶望的な暴力に走ってしまう、そんな危険は、うつ病患者が増加しているといわれている現代に生きるすべてのニンゲンが内包していると思っています。
「宗教」には内側と外側がある、それは様相が違う、は果たして本当にそうなのでしょうか?
私は’80年代、クルァーンやアラビア語、ヒンドゥーやサンスクリット語を正規の学習として私立大学で教わりました。 その時から今までに思ったことは、仏教やキリスト・ユダヤ教も含め宗教の根幹は同じことを指しているのでは、ということです。
ニンゲンは何故宗教を生みだし信奉してきたのか?その役割とは?これからはどのようなことが求められるのでしょう?
様相が違う、としかオモエナイ、というお考えは尊重致します。只自分と違う信条のヒトビトとどう折り合いをつけ共存してゆくか。 情報が瞬時に飛び交い世界が狭くなった今、これはニンゲンの大きな課題やと思います。
そして、私がひっかかったのは、”「正」だけの世界ではきっと共存し、食い合いはなくなるのだろう”という箇所です。
これは、そう想像する他者がいる、という意味ですか?
食い合いのない世界、が「正」、であり、共存する世界なのかどうか。生物は食物連鎖で成り立っているのですよね?只、ニンゲンは、頂くものは頂いておきながら、海葬、鳥葬、風葬などをおこなっているヒトビトは別として、大半の者が確かにその連鎖から逸していますが。
実現不可能であろう、けれど、そのような世界を夢想することを肯定してしまうのは危険な香りがします。
手段があり得ないのか、目的があり得ないのか、「そういう」状態とはどういうことを指すのでしょうか?
勿論、「食うか食われるか」という状況は、生物が進化するものである限り全く「なくシテシマウ」ことなど、おっしゃるとおりニンゲンにはまだまだできないのでしょう。どちらかといえば、ニンゲンが率先しておこなっているようにも感じますしね。