3月

5

裁縫屋さん

近所に商店街通りがある。
かつてそこは賑わっていたが、
少し離れたところに駅ができ、
街の中心はそっちに移った。
その、少しさびれた商店街に
小さな裁縫屋さんがある。
朝の七時頃から開店しているが、
お客さんがいるのを見たことがない。
そこは50年ほど前、
母とたびたび行っていた店だ。
母がその店に入ると
布やらボタンやら毛糸やらを選び
なかなかその店を離れない。
幼い僕はスツールに座って
「やれやれ」と思っていた。
母は専業主婦だったので、
1日、僕以外の誰とも
話さないような日もあっただろう。
そういうとき、この店に来て
年の近いそこの店主と
気晴らしのためのお話しを
していたのではないかと
歳を取ったいまの僕は思う。
そのお店に50年ぶりくらいに入った。
セーターのボタンが取れてしまい、
似たボタンを探すためだ。
朝の七時半、
「おはようございます」と言って
お店に入る。
二度呼んだが誰も出て来ない。
大きな声で呼び直すと、
店主と思われる
おばあちゃんが出てきた。
たけど僕には50年前の店主と
同じ人がどうか、思い出せなかった。
「これと同じボタンが欲しい」
と言って、小さなボタンを手渡す。
「あるかな」と言いながら
ボタンの箱が並んだ棚に近づいていく。
白い厚紙でできた箱の表面に
その箱に入ったボタンが
きれいに貼り付けてある。
昔その棚にはもっとたくさんの
ボタンが並んでいたように
記憶している。
十分の一くらいに
規模が縮小していた。
あれかこれかと迷ってあとで
「これならどうかね」と
ひとつのボタンを手渡してくれた。
まったく同じではないが
似たボタンが僕の手の上に乗った。
「これ買います。いくらですか?」
「100円」
100円を払った。
「僕、50年くらい前、
 ここによく母と来たんですよ」
「あら、じゃあここを
 開店した頃ですね」
会釈して店をあとにした。
母のその後は聞かれなかったので
僕もあえて口にはしなかった。

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