4月

8

自分にとっての日本史

日本史とは
ひとつの決まったものだった。
あの年にこういう事件が起こり、
その結果、こういうことになったと。
そういう話をずっと
学校で習ってきた。
そして、なぜ明治以降の歴史を
学校では習わないのか不思議だった。
縄文時代から日本史は始まり、
なぜか江戸時代の終わりで
歴史の授業は終わる。
時間が足りないという理由だったけど
実は別の理由があったのではないか?
明治時代あたりになると
当時まだ生きている人がいたりして、
一元的に語ることが
難しかったのではないか?
西南戦争なんか、どの立場で
参加したかで印象が全く違う。
そんなことに国家が
解釈を付けてしまっては
きっと大騒ぎになっただろう。
そう考えて、ふと思ったこと。
江戸の末期で、日本人は誰でも
ものの考え方が
一括りにされたんだなということ。
世界史を学ぶことが
なぜか僕には難しかった。
その理由がいまならわかる。
いろんなものの考え方をするのが
面倒だったのだ。
ある国から考えるといいことが、
別の国から考えると悪いことになる。
そういう関係性を感じるのが
面倒だったんだ。
日本史は一つの解釈を知っていれば
事足りる。
だから理解しやすかった。
幕府がどう考えるかを知っていれば
外様大名がどう感じていたかなんて
知らなくても済んだ。
ましてその地域で生きていた人たちが
何を考え感じていたかなんて
まったく学んだ覚えがない。
裏返せば、自分と歴史との関係を
考えなくて済んだということ。
歴史は歴史、自分は自分。
歴史と自分の関係を考えることで
さまざまなことが
理解できるようになる。
だけどそれは、
一般化できることではない。

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