4月

10

花崗岩片の話

中学生の頃、
僕が片思いしていた女の子がいた。
その子の名前をここでは
Kさんとしておこう。
僕にとってKさんは美人だったが、
友だちは「美人ではない」という。
確かに理知的に考えると
美人ではなかったかもしれない。
スタイルがいいとはいえなかった。
はっきり言うと、足が短いのだ。
それから指が短かった。
彼女はピアノがうまかった。
Kさんは
「ピアノを弾いたから指が短くなった」
というけど、それは違うだろうと
僕は思った。
鼻が鷲っ鼻だった。
昔話の魔女のような形の鼻だった。
こういうふうに言語化すると
美人ではないことが
強調されてしまうけど、
それでも美人は
いるのではないかと僕は思う。
実際Kさんはそうだったし。
そんなKさんを
なぜ僕が好きになったのか。
長らく謎だった。
好きか嫌いかの理由って、
いくらでもあとづけできると思うので、
本当の理由というのが
わからないでいた。
というか、そんなことは忘れていて、
最近では考えもしていなかった。
それがなぜか、この年になって、
ついさっき、
はっきりとわかったのだ。
なぜそんなことになるのか、
僕には理解が及ばない。
何が起きたのかというと、
山尾三省の文章を読んだからだ。
その文章はここにある。
「花崗岩片の話」という文章だ。
http://www.chiwakinomori.com/jiyu/198406.006jiyu.pdf
頭から読んで行って、
次の文章にさしかかったとき
ふと思い出したのだ。
ひらめいたといってもいいだろう。
僕がなぜ彼女を好きになったのか。
________

 またある初夏の早朝に、漁から戻
ってきた部落の男が、海そのものの
ように透きとおった青い鯖を投げて
くれる時、彼がそこに投げてくれる
ものはただの青い鯖ではない。そこ
に投げられたものが海という真理で
あり、海という愛であることを、見
ないわけにはいかないのである。
 日常生活の中にすべてがある。日
常生活の中に、すべての真理がある。
だからまた、日常生活の中に深い悲
哀も貌(かお)を現わすのである。
花崗岩片の話より 山尾三省
________

ここを読んでいたとき、
なぜか思いついた。
「彼女が大きな菊を栽培したからだ」
なぜそう思ったのか、
まったく脈絡がないので
僕にも理解しがたいことであるが、
そうだったからしかたがない。
「ひとはみんなそういうもの」と
一般化していいのかどうか
わからないが、
僕が特別な例だとは思わないから
きっと多くの人も
そうなのではないかと思う。
よくわからないときに、
よくわからないことを
不意に思い出す。
そしてそれが何か
特別な真理かのように思えてしまう。
中学生の頃、科学か家庭科か、
菊を栽培するという授業があった。
家に持ち帰り菊を栽培する。
僕が育てた菊は
小さな花しかつけなかった。
一方で、Kさんの育てた菊は、
とても大きな菊の花をつけた。
「すごい」と僕は思った。
それが僕の恋の入口だったのだ。
なぜそんなことを思いついたのか、
くどいようだが
僕にはよくわからない。
きっと山尾三省の文章に
そういうことを思い出させる力が
あったのだろう。

Comment Feed

No Responses (yet)



Some HTML is OK

or, reply to this post via trackback.