6月

26

誰かに読んでもらわなくてもいい文章を書くこと

毎日、誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらっている。
そう、これを読んでいるあなたにだ。
ありがとうございます。
こう書いた瞬間に僕は、誰かに読んでもらうための文章を書いている。
誰かに読んでもらうか もらわないかは、書いているときにはよくわからない。
結果としてそうなるか、ならないかだ。
だけど、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章には違いがある。
それはかつてはうまく区別できなかったが、いまはできる。
それを言葉にしようとするとき、言葉の難しさに直面する。
それを適切に概念として区分する言葉がないのだ。
しかも、3870回も曖昧にしてきたことは、言葉にするとどうも矛盾しているように読めてしまう。
だからここに書いても誤解が生じるかもしれないけど、言語化しない限りはその区分は明確にはできないと思い、書いてみることにした。
自分にだけ響くことは、矛盾に満ちている。
だから、誰か宛に書こうとすると、文章に修正が入りがちになる。
必ず修正する訳ではない。
自分に対して書いているから修正はしないようにする。
だけど、それでも修正してしまう。
自分が修正していると気づけば、修正をしないことを選択できる。
しかし、修正しているかどうかがとても微妙なときがある。
なぜなら基本的に言葉とは他人に伝えるものだからなのだと思う。
一方で、自分だけの心に留めておく言葉もある。
それは、言葉として区分しないと意味がわからないような気がするからだ。
たとえば、いま論じている、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差。
これは「日刊 気持ちいいもの」を書くとときどき感じる差なのだが、それをきちんと言語化できる言葉を知らない。
説明を重ねればそこに自分が思い出す感覚は思い出せるが、他人がそれを正しく汲み取ってくれるかどうかはわからない。
きっと汲み取れないだろうと思う。
その微妙な区別。
その微妙な区別は他人に伝えて果たして意味があるのだろうか?
きっと意味は生まれてくるのだろう。
ただし、僕が感じている感覚と、これを読んで何かを感じる人の感覚は、同じかどうかはわからない。
これは、きっとどんな感覚も、言葉になっている感覚はすべてそうなのだろう。
だから、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、気にしなくてもいいのかもしれない。
でも、あえて気にしてみる。
そんなことに意味があるのか?
意味は生まれてくるのだ。
なぜそう思うのか?
かつてBlog「水のきらめき」にこんなことを書いた。
長いが引用する。

___引用開始

今年(2010年)1月に『奇界遺産』という本が出版された。大判で3,990円もする写真集だ。これがなかなか僕の目を釘付けにしてくれる。

表紙もインパクトがあるが、内容もなかなか凄い。なかなか出会えない景色がどこまでも続いていく。

(中略)

洞窟の中にある村、ブータンの男根魔除け図、直径34mのミクロネシアの島に住む日本人、巨岩の上にある住宅、地獄絵図のテーマパーク、神々の像で満たされた奇想の庭園、中華神話のテーマパーク、巨大龍の胎内を巡る道教テーマパーク、キリストをテーマとした遊園地、世界の果て博物館、世界に散らばる「珍奇」を蒐集した元祖変態冒険家の博物館、貝殻で作られた竜宮城(写真のページ)、世界八大奇蹟館、ミイラ博物館、アガスティアの葉、死体博物館、ボリビアの忍者学校、三万体もの人骨が眠る巨大な地下迷路、人骨教会、エリア51、7万人が聖母を目撃した聖地ファティマなど、世界の不思議なものや景色や人などをゴリッと撮影してある。

これらの写真を撮影した佐藤健寿氏はオカルト研究家を続け、ある疑問を抱いたという。それは「これ(オカルト)って本当に必要なのだろうか?」という疑問だ。こんなことに一生を捧げてもいいものか。この疑問にあのコリン・ウィルソンが『アトランティスの遺産』という本の中で答えてくれたという。

ネアンデネタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟の中に獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである。

この一文のいったいどこがその答えなのか、一見しただけではちっともわからない。しかし、佐藤氏はこんな文を書いている。

壁画、すなわち<芸術>であり<魔術= オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。

無論、多くの識者達が口を酸っぱくして指摘してきた通り、青年期の悩みにコリン・ウィルソンは劇薬、すなわち<混ぜるな危険>である。しかし私はこのアウトサイダーならではの大胆な発想に、大きな感銘を受けたのだった。<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているのかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。しかしこの事実をラスコーの逸話にたとえるならば、これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと>、それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。

以上の試論を踏まえた上で、私は「現代のラスコー」を探すべく、旅にでた。世界各地を歩き、この<奇妙な想像力>が生み出した<余計なこと>を、ひたすら探し求めたのである。…

『奇界遺産』 佐藤健寿著 エクスナレッジ刊より

___引用終わり
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p1760/ より

誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、きっとここでいう「究極の無駄」だ。
だけど、その「究極の無駄」をなんとか「現代のラスコー」にさせたいと思う。
一方で、「そんな煩悩を持ってどうする?」という感覚もある。
坐禅を深く探求したことはないが、禅問答とはこういうものかもと思う。
読んでもらわなくてもいい文章を、読んでくれてありがとう。
でも、この文章は読んでもらうために書いた。
自分の心に響かせるためだけに書いたら、きっと意味が浮上してこない。
言語は他人が必要なものなのだ。
このことと、5月16日に書いた「悟った」や5月17日の「質問」がつながっている。
多くの人は「言葉」は自分と区別されていて、「言葉」として存在するものだと思っていると思う。
なぜなら、僕がそうだったから。
だけど「言葉」は、人間が形作っている社会の要素であり、その意味では人間と同列に考えてもいいものだ。
社会というホロンにとって「人間」も「言葉」もその要素であるという意味で。
つまり、人間が言葉を使っているように僕たちは考えるが、言葉が人間を動かしているとも言える。
言葉は区別を微細にし、いままでにない区別を生み出し、人間を新たな状態に押し上げて行く。
言葉のおかげで表れた区別は、たとえそれが他人に伝えられなくても、その言葉を抱える人間に新たな区別を与えることで、その人間の行動に変化を与え、やがてその変化は社会ににじみ出てくる。
このことと生命の進化がつながっている。
「自分が響くためだけの文章」には、自分の思い出と経験が感情に練り上げられた鍵となる言葉がちりばめられる。
一方で「誰かに読んでもらうための文章」は、誰かの思い出と経験が感情に練り上げられる鍵となるであろう言葉を手探りしていく。
この手探りは正しいものかどうか、誰かに読んでもらうまではわからない。
結局、「他人に読んでもらうための文章」を書いていると思いながら、「自分が響くためだけの文章」しか書けないのかもしれない。
「誰かに読んでもらうための文章」を書きながら、自分の心中にある他人と同調する部分を探しているとも言える。
つまり、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると言うこと。
さらにいうと、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると思い込む部分と、そうではない部分が同居しているということ。
そうではない部分については、またいつか書いていこう。

Comment Feed

No Responses (yet)



Some HTML is OK

or, reply to this post via trackback.