3月

17

気持ちいいものを言語化する

花を見てきれいだなと思う。
よくあることだ。
だけど、悲しみに沈み込んでいては、花の美しさは見えてこない。
あまりにも浮かれていても、きっとその美しさは訴えてこない。
花を見てきれいだと思える状態に自分がなっていないと、花の美しさはわからない。
同じように、この世界にあるありとあらゆるものの気持ちよさは、自分がそれを受け取れる状態にないと受け取れない。
4084回も気持ちいいものを書いてきて、それがどういうことなのかを少しずつ理解してきた。
ときどき気持ちいいものが書けないことがある。
そのときに一番深く学んでいる。
気持ちいいものが感じられないとき、不快かというとそうでもない。
何かショックなことがあると書けないことがある。
しかし、ショックもなく、不快でもなく、それでも書けないときがある。
書けるときは、心のどこかに「書ける」というビジョンがある。
ビジョンというか、思い込みというか、信念というか、そういうものだ。
それは心に火がついた状態ともいえるし、ワクワク感ともいえるけど、ときによって少しずつ違い、とても落ち着いた気分でも書けることがあるし、不快という気持ちを抱えて書くときもある。
それがいったいどういう状態なのか、そのときどきで味わいながら書いている。
いろんな気持ちのよさがあるのと同様、いろんな状態がある。

1.気持ちよい体験を思い出すことによって書く。
2.気になった感覚を気持ちよいという側面から書く。
3.気持ちいい感覚がここにありそうだと当たりを付けて、それを気持ちいいものとして書く。
4.それが気持ちいいかどうかまったく疑問ではあるが、表現することによって気持ちよさが表れてくる感触があるので書いてみる。

こうして僕は「気持ちいいもの」に対しての目の開き方を学んでいる。

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