6月

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子供と暮らす

幸せについて考えるとき、自分に子供がいないことが問題として現れることがある。
子供がいる人の幸せを理解できないのではないかと。
それは幸せにとってとても大きな要素のように思える。
赤ん坊のときその親は苦労する。
夜泣きしたり、理解できない行動をしたり、思わぬ事故にあったりする。
親はそれらに対処しなければ育てられない。
そのことを通してはじめて、「自分もそれをしてもらっていた」ことに気づく。
それは理性的に「気づく」だけではなく、感情的にも気づいていく。
「感情的に気づく」ということを説明することが難しいが、簡単に言えば、「理屈はさておき、大切にしたいから大切にする」という、損得もなければ、計算もなく、なんだかわからないけどただただ赤ん坊のためだけになることをしてしまう自分に気づくことだ。
それは言語的、理知的人間存在からは説明できないことで、生命がたどってきたすべての歴史を引きずってきている「心臓の鼓動」や「腸の蠕動運動」のように、それを感じて言語化しようとしてもしようがない、本能から引きずりだされる情動のようなものがそうさせる。
その情動にしたがって子供を育てることで、どんなに苦労してもあとで「よかった」と思える感情を親は手にする。
それはいろんな説明が付くかもしれないが、どんな説明も実は説明でしかなく、そのように感じるように生命は構築されてきたのではないだろうか。
子供と暮らすとき、その子が何歳であろうと、親は過去の自分と親の関係をそこに見出す。
その発見がどのようなものであろうと、親はそれを受け入れることで、幸福感に包まれるのではないだろうか?

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