5月

6

10日間の連休が終わる

歳を取って長い休みがあると、どうも落ち着かない。
あと数年しか生きられないだろうと考えながら、うかうかと休む気になれない。
かといってみんなが休んでいるのに自分だけせこせこなんかしているのもどうかと思う。
黙って仕事していればいいのだが、なかなかそう図太くは生きられない。
つまらないことに心を絡み取られているようだ。
休みが終わるのでなぜかほっとする。

5月

6

鯉のぼりが欲しかった

最近では個人宅で鯉のぼりを上げているのは見かけなくなったが、僕の幼い頃にはぽつぽつとそういう家があった。
青空にたなびく鯉のぼりを見上げては「いいなぁ」と思っていた。
だから、幼稚園や小学校で紙製の小さな鯉のぼりをもらっても「なんだかなぁ」と思っていた。
でもそのことを誰にも言わなかった。
両親が聞いたら落胆するだろうし、誰も喜ぶことはなくて、悲しむだけだろうから。
だからいまだに鯉のぼりを見上げるとその感情を思い出す。
あるとき友人が酒を飲んでいて「鯉のぼりが欲しかった」と話すのを聞いて、溜飲が下がる思いがした。

5月

5

トラットリア イル・パッチォコーネのモッツァレラ

先日、トラットリア イル・パッチォコーネというレストランに行った。
そこで食べたモッツァレラがすごかった。
噛むと乳の香りがあふれ、その噛み心地も最高。
普段食べているモッツァレラとはまったくの別物。
その店の系列で作っているそうだ。
また食べに行く。

5月

4

江戸川乱歩全集の横尾忠則の挿絵

昭和44年に刊行が始まった講談社発行の「江戸川乱歩全集」の1、4、7、10巻に横尾忠則の挿絵が入っている。
僕が小学生の頃、父が買ってくれた。
「少年探偵団」とか「怪人二十面相」とか、そういうのが来るのだとばかり思っていたら、大人向けの濃厚な、エログロと言ってもいいような作品が15巻もやってきた。
小学生にこんなの読ませていいのだろうか?と思うような作品たち。
それを少しずつ読んでいった。
小学生には理解不能な作品が多かった。
それでも僕は『二銭銅貨』という比較的穏やかな作品を漫画に描いたりしていた。
その第一巻の横尾忠則の挿絵がとても怖かった。
「白昼夢」の挿絵も怖かったが、一番ぞっとしたのは「屋根裏の散歩者」の挿絵だった。
屋根裏にいる男が描かれているのだが、それがなんとも妖しい。
それがどのように妖しいのか、僕にはうまく書けない。
主人公らしい男の、目が少し寄っていて、口元の歯の間からよだれが垂れている。
だけど、その絵の奇怪さはそれに因ったものではない。
横尾忠則独特の色の濃くてのっぺりとした絵と、絵の上部にある花の写真のコラージュ、そのアンバランスから来るのかもしれない。
そのなんとも形容しがたい気味悪さに、何度も絵を凝視した。

5月

2

どっちでもない

「右翼か左翼か」と質問されたら、「どっちでもない」と答える。
実際にどっちでもないから。
右か左かだけで語れるほど政治や思想は簡単ではない。
右とか左と決めてしまうと、言いたいことも言えなくなる。
自縄自縛という奴だ。
右か左とでしか考えられない人には、なぜそんなに単純に考えられるのか、じっくりと話を聞いてみるといい。

5月

1

令和

令和の発案者が中西進氏だと発表されたそうだが、歴史的経緯から見て、元号の制作者は暦博士となるが、一般にはその暦博士がなぜどうして誰が作ったかなどと発表はしない。
中西氏は時事通信の取材に対し「元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」と発言したそうだが、それは中西氏の見識が深いから。
元号はもともと呪術なのです。
ネタがわかってしまっては呪術にならない。
呪術と言うと、何か悪いことのように思う人がいるかも知りませんけど、政治の「政」はかつて「まつりごと」と呼ばれ、呪実的要素もかなりあったのです。
陰陽五行が政に使われていたのは歴史的事実と言って差し支えないでしょう。
その名残が年号なのです。
誰が中西氏の発案だと発表したのか知りませんが、せっかくの祈りがもったいないですね。
「人間が決めるものではない」という中西氏の見識の深さに頭を垂れます。