7月

31

イルカのフィン

2000年頃、イルカとよく泳いだ。
年に一度は御蔵島に行っていた。
イルカと一緒に泳いで互いに見つめ合うような体験は胸が高鳴る。
そういうとき、イルカはゆっくり泳いでいるが、フィン(おびれ)の動きはとてもリズミカルだ。
指揮法を習ったとき「放物線を描くように」と言われ、速度は最下点が一番速く、上がるにしたがって遅くなるようにと言われた。
まさにそれと同じようにフィンが動く。
僕もイルカを真似してその要領で泳いでいる。

7月

31

サナト・クマーラ

30年くらい前、京都の鞍馬寺の奥の院で金星人が降り立った場所が記された碑を見た。
変わった碑があるものだと思っていたら、それからしばらくして知人がそこに行き、その金星人はサナート・クマラという名前だと言い出した。
どうやってそれを知ったのかは教えてもらえなかったが、印象に残った。
クマラという名が鞍馬寺の名の由来だとも言われた。
そんなことはすっかり忘れていたが、久しぶりに本の中にその名を見つけた。
中村元著『思想の自由とジャイナ教』に登場する。

ジュャイナ教哲学はサナトクマーラに帰せられる『マハーバーラタ』に言及されている。

と書かれていた。
しかし、その前後にサナトクマーラがどういう存在で、「サナトクマーラに帰せられる『マハーバーラタ』」という意味がわからないので検索してみた。
なんとサナト・クマーラのことがウィキペディアに書かれていた。
日本では「サナト・クマラ」「サナート・クマラ」とも表記されると書かれている。
しかし、「サナトクマーラに帰せられる『マハーバーラタ』」の意味はまだわからない。

7月

31

暗黙知の次元

マイケル・ポラニーの『暗黙知の次元』を30年ぶりくらいに読み直している。
かつて読んだ本がどうしても見つからないので、文庫を買い直した。
翻訳者が違っている。
前に読んだのは紀伊國屋書店が発行したものだったが、今読んでいるのはちくま文庫版。
かつては読み取れなかったいろんな区別が、概念が、入ってくる。
翻訳の違いもあるだろうけど、読み取る僕に変化があったんだろうな。

7月

28

スマイル

チャップリンが映画『モダン・タイムス』のために作った挿入曲。
のちにタイトルと歌詞が加えられ、ナット・キング・コールが歌った。
以来たくさんのアーティストにカバーされている。
僕が久しぶりに聞いたのは、マイケル・ジャクソンによるカバーだった。
チャップリンがアメリカを追放され、20年ぶりに帰国の機会を与えられたのがアカデミー賞の授賞式だった。
オスカー像をチャップリンが受け取るとき、会場にいた人たちがみんなでこの歌を歌ったという。

7月

27

大きくなるポインター

iMacの新しいOSは、マウスを左右に早く動かすと、ポインターが大きくなる。
最近、視力が減退しているので、とても便利。
昔はどこにあってもすぐに見つけたのになぁ。

7月

26

青空に赤いシャツ

このところずっと雨だったので洗濯をした。
久しぶりに顔をのぞかせた青空を背景に干した赤いシャツが風に揺れている。

7月

25

合理的な神秘主義

安富歩の『合理的な神秘主義』を読んだ。
タイトルからしてパラドックスに満ちているが、内容もそうで面白かった。
特に論語の解釈が画期的だった。
そんな読み方があるのかと思った。
それからマイケル・ポラニーの『暗黙知の次元』。
何十年も前に読んだので、そんなこと書いてあったっけ?という部分があったので、そのうちに読み直そうと思う。

7月

24

腑に落ちる

腑に落ちる瞬間、何が起きているのだろう?
なるほどとわかった感じがする。
しかし、全てをその瞬間に思い出している訳ではない。
にもかかわらずストンと感じる。
いや、身体の中から光が湧き出る感じかな。

7月

24

チャイコフスキー交響曲第5番第二楽章

iMacのミュージックソフトを整理している。
前のiMacから引き継がれてきちんと表示される曲と、そうではない曲がある。
前のiMacで聞いたはずなのに再生回数が0のものがあるのだ。
それらが聞けるかどうか確かめるために、再生回数0の曲ばかりを流しっぱなしにしている。
その中にチャイコフスキー交響曲第5番第二楽章があった。
弦楽合奏の前奏のあとでホルンのソロが始まる。
それを聞いて冬の石神井公園を思い出した。
池の表面が凍った石神井池。

7月

22

理屈では割り切れないもの

全部が全部理屈で割り切れたら、きっと生きることはつまらないことになる。
理屈で割り切れないことに困ることもあるが、それでいいことで救われることもある。

7月

22

ものの見方

仕事を恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
家族を恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
友達を恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
社会を恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
生まれてきたことを恵みと捉えるか呪詛と捉えるか。
どちらにとっても罰せられることはない。
こんなに自由なのにそれでもいろんなことに文句をいう。
自由だから。

7月

20

夏休み

7月20日といえば、夏休みの始まる日。
ずっと東京に住んでいる僕にはそれが固定されているかのように思っていた。
でも地方によって夏休みの長さは違うそうだ。
特に今年は全国95%の教育委員会が夏休みの短縮をするそうだ。
夏休みの最短は4日間だとか。
一体それはどこなんだろう?
普段は何日だったのが、4日間になってしまうのか。
世田谷区では31日間、大田区、豊島区などは16日間だそうだ。
都内だから普段の7月20日から8月31日の43日間がそれぞれ31日間、16日間となるのだろう。
塾や予備校の夏季講習はどうなるのだろう?
人が集まらなくて困るだろうな。
親御さんたちはきっと受験について心配し、つい感情的になってしまうかもしれない。
自分の立場も安定せず、子供の将来も心配となったら、ついイライラしてしまうかも。
そうした感情を脇に置いておくことが大切なことになりそうだ。
特に子供は親の感情に左右されてしまうもの。
普段接する親以外の大人の感情も大切かもしれない。
思い出してみよう、気持ちの良い状態の自分の感情。

7月

20

発見の喜び

いろんなところに発見の喜びがある。
「そんなところに発見の喜びなどあるはずがない」と思っている人には見つけられない。
あまりにも普通な、陳腐な出来事の中にも発見の喜びは見つけられる。
それを見つけられる人は幸せ。
それを表現でき、他人に伝えられる人はもっと幸せ。

7月

20

蜜の香り

梅雨の湿り気の中、林を歩いていると、蜜の香りがしてきた。
とても甘い香り。
林が生きている息遣い。

7月

19

素晴らしいものを探す旅

一体何が素晴らしいのか、それすらわからなかった。
そこが振り出しで素晴らしいものを探し続ける。
探せば探すほど、よくわからなくなる。
そして見つける。
「素晴らしいものは滅多にない」という前提がないと、素晴らしいものは見つからないということ。
素晴らしいものを見つければ見つけるほど、素晴らしいものは見えなくなっていく。
素晴らしいものが見つけられなくなってしまったとき、すべてが素晴らしいものであることに気づく。
そういうものの見方を許容でき、そうではないものの見方も許容できる。

7月

16

地球そして生命の誕生と進化

『地球そして生命の誕生と進化』と題された映像をYouTubeで見た。
よくできている。
未来についても示唆している。
これから数世紀の人類の未来についても、このクオリティで映像化できたらいいのにと思う。

7月

15

静寂

静寂から言葉が生まれる。
どこから来たのかこの言葉。
内側に遍満する言葉がふとこぼれる。

7月

15

森の雫

昔、屋久島に行ったことがある。
そこにいる間ほとんど天気は雨。
カッパを着て山に入ると、清水か雨かわからない水が鬱蒼とした木々の間から降り注ぐ。
木漏れ日のように差し込む日差しが雫を輝かせる。
七色に輝く森の雫に囲まれて、縄文杉に向かって歩いた。

7月

13

些細な選択

些細な選択によって未来を作っている。
朝ごはんに何を食べたかとか、メールになんて書いたかとか、家族に朝起きてどんな挨拶をしたのかとか、普段なんとも感じてないような些細な選択に、実は未来への鍵があるのかもしれない。
「そんなこと言ったら何もできなくなるじゃないか」と考えるのではなく、そういう可能性にあふれていることを喜ぼう。

7月

12

理想の国

理想の国について考える。
ただ自分にとって都合の良い国ではない。
そこに住む人すべてが幸せになる国。
そんなことは不可能だと多くの人が考えている。
本当だろうか?
いい国を作ろうとすればするほど、自分自身のことを考えざるを得なくなる。

7月

11

新しい社会とは?

資本主義の考え方を内面化することで、僕たちは間違った道にはまりこもうとしている。
でもそれは単に資本主義が悪かったということを意味しない。
社会が成熟して別のフェーズに入りつつあるということだ。
僕たちは成人前の年齢なのに、まだ小学校で勉強しているようなものではないか?
きちんと中学と高校を作らなければ、大学に行くこともできない。
では、中学や高校はどんなものになるのか?
地方自治に今より大きな権限を与え、様々なトライ&エラーをしてもらえばいいと思う。
ネット社会になっていいことと悪いことがある。
それをうまく利用するとはどういうことか、それをトライ&エラーしていく。
これからももっと便利なものがどんどんと生まれるだろう。
それを社会が適正に使うためにはどうしてもトライ&エラーが必要だろう。
いろんなトライ&エラーができるように、地方自治でいろんなパターンの実験をすればいいと思う。
もちろんそこには利害が生じるので、無理な実験は誰もしたがらないだろう。
だから、いいアイデアに基づいたトライ&エラーが生じるはずだ。
それを各地方同士で学び合えばいい。
今はどうもどこかの誰かの権力を大きくするための歪みが見えてきたような気がする。
そうならないための中学なりの、今より高い倫理観が必要だろう。
中央政府はそのトライ&エラーがうまく行くためのバックアップとなる。
そこでのトライ&エラーがある程度できたら、またいつか中央政府と地方自治について、社会のデザインについて、高校になるための試論を繰り返せばいい。
権力を保持するためだけに作られた決まりとはおさらばだ。
そのためには個人の内面にある所有欲や執着について深く考えないとならない。
その上で、社会が生命体のように自らを保持し発展する可能性を与えよう。

7月

10

世界が、ひっくり返ろうとしている

ふと、そう思った。
なんの根拠もない。
夢で見たわけでもない。
言語化できない思いをどう表現しようかと考えて出てきた言葉。

7月

9

たくさんのハローとグッドバイ

「人生にはたくさんのハローとたくさんのグッドバイがある」
友達の小柳晶嗣さんが三年前にカミーノ巡礼に行ってきて、帰って語った感想。
まったくそうだなぁと思う。
その時のYouTubeがこちらに。
https://www.youtube.com/watch?v=wqRhX8I3M5M

7月

8

亡くなった方を思い出す

時々、亡くなった方を思い出す。
何かのきっかけで思い出したり、ぼうっとしていたら思い浮かんだり。
それを「気持ちいい」というのは少々抵抗があるが、しみじみとしてよかったり、うるっとしたりする。
「あんなことしなければ死なずにすんだのに」とか「一緒にあれをすればよかった」とか、文句や悔いも思いつつ、最後に「出会えてよかった」と思う。

7月

7

四季〜ユートピアノ〜

1980年に製作されNHKで放映された単発ドラマ。
2000年を過ぎた頃に一度再放送された。
それを一度だけ見たのだが、とても印象に残った。
主人公の女性が調律師としていろんなピアノを調律していく。
淡々としたドラマだが、ピアノの音が印象に残った。
ピアノによってあんなにも音色が違うのかとはじめて知った。
もちろんピアノによって音の違いがあるのは知っていたが、置かれている場所によって響きが違う。
調律していくことでも音が変わる。
その些細な違いに気付かされていく。
ピアノの音が流れるたびに「うちのピアノの音と違うな」と思う。
うちのピアノの音と思い出の大切さをかみしめた。