4月

5

創作的に読む

はじめて現代語訳された大乗起信論を偶然読むことになった。
それを古本屋で見つけたのだ。
その本は筑摩書房から昭和40年に出版された世界古典文学全集の第七巻『仏典Ⅱ』、そのなかに大乗起信論が含まれていた。
仏典の現代語訳を自分で買ったのはこれがはじめてだった。
翻訳が良かったのだろう、そこにある意味をぼんやりとつかむことができた。
しかし、一見すると矛盾しているようなことが多く出てきて、「なんのことやら?」と思う部分もたくさんあった。
だけどひとつ、これはこういうことだなと理解できることがあった。
それは「熏習」という言葉。
これはまさに「リフレーミング」のことを言っているのだろうと勝手に解釈した。
そのおかげで、その大乗起信論を何度も読むことになった。
その一点を理解したことで、この文書には読み取れていない何事かが書かれていることを信じることができた。
信じなければこの本は、とても読めなかっただろう。
信じて読むことで、あとから新たな区別が僕の心に生まれてくる。
その区別がまた別のことを理解させてくれる。
「創作的に読む」ということがどのようなことか、読んでいる最中には気づかなかったが、あとで考えるとこういうことなのだなと理解できた。

4月

4

タケノコの木の芽和え

ベランダにある山椒が葉を付け出した。
それを使って相方がタケノコの木の芽和えを作ってくれた。
体にしみ込む味だ。

4月

3

供物

バリ島のブサキ寺院に行って、何度も礼拝させていただいた。
その度にひと抱えある供物を持っていく。
寺院は数十段の階段を登って行くので、非力な人には一苦労だ。
寺院の下で一緒に行った誰かにそれを持っていくことを頼む。
たいていの人は「はい」と言って頼まれてくれるが、ときどき「えっ? 私がこれを?」という顔をする人がいる。
そういうとき、こんな話をする。
「これは僕たちから神様への供物だ。代表して持って行ってくれるかな?」
これに対してはいろんな解釈が生まれるだろう。
だけど、「ブサキ寺院に礼拝に行く」と自ら決めた人は、それを光栄な機会だと思う。
供物が供物として輝いて見える。

4月

2

深遠な智慧に開かれていく

いつも「気持ちいい」状態でいることなどできるのだろうかと、この『日刊 気持ちいいもの』を始めた。
その結果、いろんなことが理解できるようになってきた。
最初はきっとリフレーミングの限界と可能性を知ることになるんだろうと思っていたが、結果としてはそれ以上のものになってきた。
かつて理解できなかったことのいくつかが、急に理解できるようになってきた。
なぜそのようになったのか、きちんと説明したいが、それが難しい。
いままでもそのようなことがときどき起こったし、これからも起こっていくんだろうなと漠然と思う。
たとえば、かつて僕は相方の感情に揺らされていた。
相方が怒ると僕も怒らざるを得ない。
だから一度喧嘩が始まると収めるのに時間がかかった。
それが以前ほど揺らされなくなった。
なぜか? と問われて、答えることはできるが、通り一遍の答えでは聞いた人はその恩恵を受けとることはできないだろう。
たとえば、「あらゆるモノがつながっていて、それらに感謝するしかない」と知っていても、相方が怒れば僕も怒る僕だった。
感情が揺らされないためにはいろんな体験と智慧が必要だった。
そしてまた僕は、さらに変化していくんだろう。
相方に感情を揺らされることも起きるだろう。
歳だからそう思うという見方もあるだろう。

4月

1

タイムマシンの窓より

友人の画家アキラが、「タイムマシンの窓より アルバート・アインシュタイン」という絵を僕に預けてくれた。
なぜ預けてくれたのかというと、8年前チチェン・イツァーに行ったときの体験をアキラに話したからだ。
その体験は、あまりにも不思議で、言語化するとあまりにも嘘くさいので、あまり言いたくないのだが、一番大切な点は「この世界が多次元であることに深く気づけ」というメッセージがあったことだ。
それ以来、非二元とか、多次元とか、そういうことを手当たり次第調べて行った。
それで今朝、アキラから預かった絵を眺めていて、あることに気がついた。
大乗仏教で、なぜ曼陀羅を見ながらお経を上げるのか。
なぜユングは「黄金の華の秘密」と出会って「赤の書」を書くのをやめたのか。
ジャイナ教のアネーカーンタヴァーダから、どのようにしてケーヴァラ・ジュニャーナに近づいていくのか。
ひと言では表現できない「あること」をいつかきちんと本にしたい。