1月

30

言語化できない違和感

昔、大学を卒業する頃まで、文章を書くのは難しいことだった。
なぜなら、長い文章を書くと、書きはじめに思っていたことと違うことを結末に書いてしまっていたから。
書き出しに書いた話題の例などを書いているうちに、なぜか違う話が割り込んでしまう。
書き上げるためにはテーマを一貫したものにしなければならなかった。
つまり、僕はものを考えている時、いろんな可能性について考えていて、文章を書いているとそれらが出てきて制御できなかったのだ。
急に話が飛んだら、読者は話題についてくるのが難しくなる。
それが制御できるようになったのは就職してからだ。
なぜそれができるようになったのか、その理由はよくわからない。
ある新聞社からラジオについての記事を書いてくれと頼まれ書いた。
書くまでは書けるかどうか心配だったが、思ったより簡単に書けてしまった。
文章を書くのはさほど難しいことではなくなった。
今から思うと、この頃に書きたいテーマや結論に向かって書くのが当たり前になったのだと思う。
社会では常にそのようなことを求められていたからかもしれない。
その結果、自由な連想の力は弱くなったような気がする。
そのことに直面するのは、会社を辞め、ライターになり、ヒーリング・ライティングを始めてから。
いろんな人とリフレーミングについて考えたが、そのさなかにうまく言語化できない違和感を感じるようになった。
その違和感にはいろんな要素が絡んでいたが、その一つが「文章をまとめることと、自由な想像力との綱引き」だったように思う。
文章をまとめることに慣れてしまったため、何か話を聞くとたいていどのように話を展開していけばいいのかすぐにわかるようになった。
ところが、他人の話を丁寧に聞いていくと、自分が思い描く展開では表現できないことを言われることになる。
さらにその話をリフレーミングしようとすると、もっと未知の話を丁寧に聞いて行かなければならなくなる。
自分の理解していることだけでは文章がまとめられなくなった。
さらに難しいのは、心に隠した内容があること。
誰でも人に言いたくないことの一つやふたつは持っている。
多くの場合、そのことがその人の性格の根幹に関わっていたりする。
他人の中にそのようなものを見つけるようになると、似たことを自分の内側にも見つけることになる。
自分自身にも隠しておきたいことを思い出してしまうと、それを隠すために色々と考えるが、文章をまとめる感性が働くと、何かを隠すことが難しい。
スパッとまとめるためには真実だけしか表現できない。
だけど、それを掘り下げていくと、さまざまな心の矛盾に行きあたる。
ここで僕の探求はしばらく頓挫することになる。

1月

29

心の区別

ヌミノーゼについて書こうとして、僕が思い出す「聖なるもの」について書き続けているが、心のことについて書く時に難しいなと思うは、自分の心の区別だ。
僕自身、心の区別についてはあまり厳密に考えたことがない。
時々考えはするが、極めて大雑把にしか考えてこなかった。
しかし、心にはいろんな側面があって、全部一括りにしていると自分自身が騙されることになる。
どんなことかというと、まず簡単に理解できることは、No.04690にすでに書いたが、年齢とともに心が変わっていることだ。
10歳の時の僕と、現在の僕では感じることは違う。
10歳の頃の思い出を書くとき、その時の心持ちで書くのか、現在の自分として書くのかで、現れてくるものが変わってしまう。
だから、ヌミノーゼを探ると言っても、今の自分が探るのか、かつての自分が探るのかで、見えるものが異なることになる。
その違いを自分がしっかり理解するのはもちろん大事だが、その違いを、この文章を読んでいるあなたにも理解してもらうのは、さらに難しいことになる。
そこで、心の区別について一度に全部説明するのではなく、少しずつ説明していこうと思う。
以前にも書いたことだが、年齢だけではなく、想定する立場によっても違うものが見えることがある。
教師としての立場からいうことと、何かの先輩としていうこと、何かの後輩としていうこと、学生としていうことでは、少しずつ見る現実、表現する内容が変わる。
普段の会話ではそのようなことはほとんど気にせず、話す相手によって、話す状況によって、適当に変化させている。
しかし、繊細に感じていくと、その適当な変化は、じつは会話においてとても重要なことだったりする。
同じ一つの文章でも、話している立場を少しずつ変えていくことがある。
たいていはその変化は、一人の人格、今なら「つなぶちようじ」という人格に吸収できる範囲での変化なので許容できるものとなるが、全く相異なる意見を持つ人格と同調して、双方の言い分を書くような時は、あたかも自分ではない人の言い分を書くかのようにして書いたほうが、他人が読む時には理解しやすいのでそのようにしてしまう。
しかし、ヌミノーゼのように、自分の内側にしか現れてこないものを文章化しようとするとき、自分の心の発達や成長が、ヌミノーゼの質を決めていることがあるようだ。
その違いについて考えようとするとき、自分の心の中に区別が必要となってくる。
それを書いて表現するのはとても骨が折れる。
目盛をつけるわけにはいかないし、明確な違いがどこかに現れるわけでもない。
しかし、確実にあることだけは理解できる。
かつてそこに区別がなかった頃の僕に、それを尋ねても答えはないのだが、今の僕にはその答えを出すことができるだろう。
しかし、どういう答えが正しい答えなのか、どういう疑問に対して出すべき答えなのかが定まっていないので、立場も言葉もふらふらと安定していない。
こういう状態であることを明確にすることで、何かの区別が生まれたらいいなと、今は願っている。
こういう状態だから、あなたは書かれた文章を、どういう立場で書いているのか、感じて読んでもらえると、何かまた違った解釈が生まれてくるかもしれない。

1月

28

はじめて見たオゴオゴ

バリ島のニュピの日に、プリカレラン家にホームステイさせてもらった。
ニュピ前日の夜、低級霊を祓うために、村ごとに大きなはりぼての鬼を作り練り歩く。
その儀式や鬼をオゴオゴという。
当時バリ島の街にはほとんど街灯がなく真っ暗だった。
その中を数十人の男たちが高さ五、六メートルもあるようなオゴオゴを神輿のように担いで移動していく。
時々なぜか彼らは走り出す。
数十人が一度に暗闇の中を走ってくると、その音は恐怖をもたらす。
うっすらと見えるオゴオゴの影、激しい息と意味のわからない言葉、そして数十も重なったペタペタというサンダルの音。
どう避けていいかもわからない。
狭い道の中で揉みくちゃにされて、ひとごみから吐き出されると、オゴオゴを引き回した集団は遠ざかっていった。

1月

27

狼の遠吠え

ポール・ウィンターのライブを聞いたことがある。
地球環境に関する会議、グローバル・フォーラムの席上だった。
ポール・ウィンターは鯨の声を録音して、そのメロディーを元にアドリブしたりするサックス・プレイヤーだ。
彼の作品に「Wolf Eyes」という曲がある。
曲の冒頭に狼の遠吠えが入っている。
そして、それを受けて独特の深いメロディーが奏でられる。
命を愛おしむような、悲しげでもあり、喜びも含むような、深いメロディー。
ライブではその曲の最後に、こう語りかけられた「狼になって遠吠えをしましょう」。
会場のみんなが一斉に遠吠えをした。
なんか知らんけど、ゾクゾクしたし、泣けた。

1月

26

K君と墓参り

大学生の頃、理系だった僕たちは、実験レポートの提出前に内容を照らし合わせたり、教え合ったりすることを口実に、仲良しがそれぞれ車で真夜中にファミレスに集まり、コーヒーを飲みながらいろんなことを話した。
ある日K君が「これから母さんの墓参りに行きたい」と言いだした。
一緒にいたT君と僕は驚いた。
零時を過ぎて、そろそろ帰ろうとか思っていたときにそんなことを言われた。
「もうすぐ丑三つ時だよ。こんな時間に墓参りしてどうするの?」
K君は「いいじゃん。きっと楽しいよ」。
どうしてそんな話になったのか詳しくは覚えてないが、「母さんに二人を紹介したい」という感じだったように思う。
K君は幼い頃に母親を失っていた。
その思い出のいくつかを聞いていた。
そういう文脈で断るほどT君も僕も冷淡にはなれなかったので、三人でK君の母親が眠る郊外にあった大きな霊園に午前一時過ぎに行った。
あたりは真っ暗。
だけど、幹線道路が霊園のそばを通っていたので、何も見えないというほどではない。
うっすらと影が見えるお墓がたくさん並ぶなか、K君は「こっこちこっち」と母親のお墓に向かって歩いて行く。
怖くないというわけではないが、怖くてたまらないというほどではない。
K君の母親に会いに来たのだ。
「ここだ」と言って一つの墓石を示された。
暗くてよく見えないが、そこで三人で手を合わせた。
すると「鈴の音が聞こえたね」とK君がいう。
「きっと母さんが喜んでいる」
僕には聞こえなかったが、否定はできなかった。
そして、本来であれば怖いはずの、見知らぬ霊園の真ん中にいて、思い出話を聞いていたK君の母親といると思うとさほど怖くはないという、不思議な感情を味わった。

1月

25

富士サーキットの幽霊

会社員だった頃、仕事で何度か富士サーキットに行った。
多忙な会社員生活だったので、早朝に自分の車でサーキットに行き、その夜に帰った。
仕事の内容はサーキットのプロモーションだったので、いわゆるレースクイーンを連れてタイヤのプロモーションをしていた。
チームは十人前後で、レースクイーンと実行部隊が半々だった。
僕以外のメンバーは土曜に前泊してサーキットに行き、日曜の早朝に合流していた。
あるとき、レースクイーンの一人が、宿泊していたホテルでの霊体験を話してくれた。
そのホテルで寝ようとしたら、窓からの視線が気になり、カーテンを閉めて寝たのに、ふと目を覚ますとカーテンが開いていて、「どうしたの?」と思ったら、何かに足首を掴まれたそうだ。
そんな話しを聞いていたので、早朝に車で行けてラッキーと思っていたが、ある日車が故障して、前泊することになってしまった、
土曜の夜、別の仕事を終えてから富士サーキットに向かう新幹線の車内誌に、景山民夫のインタビュー記事を見つけた。
当時景山民夫は売れっ子の放送作家から直木賞作家に脱皮し、幸福の科学に入信して少し不思議な立ち位置の作家だった。
この数年後、景山は自宅で燃え上がり死んでしまったという。
プラモデルを作っていたときのシンナーに煙草の火が引火したとのことだったが、なぜか詳細は発表されず、不思議な噂が飛び交った。
その景山民夫が、確か阿川佐和子のインタビューを受けて、それが掲載されていた。
なぜ幸福の科学に入信したのかという質問に対して、「霊的なことへの説明が丁寧だから」というような返答をしていた。
ほかの質問についてはよく覚えてないのだが、ひとつだけ印象に残った質問があった。
「もし幽霊に出会ってしまったら、どうしたらいいいのか?」
景山はこんなことを答えていた。
「幽霊は肉体を持たないので、絶対的に生きている人のほうが有利です。幽霊には感情的に巻き込まれるとやっかいなので、ハハハと笑って無視するのが一番」
なるほどと思い、宿に向かった。
到着は深夜だったので、チームのみんなは翌日早朝の集合に備えて寝ているはずなので、ひとりで用意されていたシングルルームに入った。
その部屋は少し不自然だった。
シングルルームなのに広い。
ベッドさえ入れれば、四・五人が泊まれそうだった。
この深夜にクレームを言っても仕方ない。
そのまま気にしないで寝た。
正確には、気にしないようにしながら、「出てきたらハハハと笑って寝る」と思っていた。
深夜、ふと目を開けてしまった。
すると、ベットから見上げた天井と壁の境に足を付けて、まっすぐこちらに向かって立ち、クッと顔を上げている真っ赤なワンピースの少女がいた。
もちろん、「ハハハ」と笑って寝返りを打って、見ないようにした。

1月

24

心霊研究会

中学一年のとき、本屋で「UFOと宇宙」という雑誌を見つけた。
創刊号には小松左京や横尾忠則のインタビューが掲載されていた。
その雑誌を手にして学校に行き、友達に見せた。
数人が興味を持った。
その子たちと「よくわからないもの」について語り合った。
そのメンバーのひとりがたまたま「中一時代」か「中一コース」か、雑誌に投稿した。
「心霊やUFOに興味のある人からのお手紙を待っています」
それが掲載され、全国から数十通のお手紙が届いた。
返事をしようと言うことになり、「心霊研究会」の会報を何度か送った。
その第Ⅰ号の発送の日、誰かがこんなことを言った。
「あれ? メンバーはこれで全員だっけ?」
そこには四人の友達がいた。
ところが、そう問われると、確かにもう一人、誰かメンバーがいたような気がした。
寒気がした。

1月

23

バシャール

会社勤めをしていた頃、本屋で不思議な本を見つけた。
『バシャール』と題されたその本は、ページを開くとワープロの原稿をそのまま印刷していた。
当時のワープロは斜めの線がなめらかではなく、ギザギザになっていた。
つまり、当時の普通の本の作り方をしていなかった。
「なんでこんな状態の本を売るんだ?」とかえって興味を持った。
読むと、面白いと同時に不快にもなった。
何度も途中で中断し、しばらくしてまた続きを読むということを繰り返した。
読み終わるのに一年くらいかかったと思う。
読むとわかったようなわからないような、モヤモヤした感じが続く。
ヌミノーゼとはちょっと違うかもしれないが、その入口に立っていたのかもしれないと、いま感じる。

1月

22

ガムランを聴く

大学生の頃、「題名のない音楽会」で小泉文夫がケチャを紹介していた。
世の中には不思議な音楽があるもんだなぁとそのCDを探して買おうとした。
ところが見つからず、同じバリ島の音楽ということで、ガムランのCDを買った。
うちに帰って聞くと、最初の音でゾーッと鳥肌が立った。
「なんだこの音楽は!」と思い、ラックにしまった。
「こんな気持ちの悪い音楽はもう聴かないだろう」と思っていたのだが、なぜかときどき聞きたくなる。
聞いてはゾッとしてまたしまう。
「いったい何をしているんだろう?」と思っていた。
このゾッとした感じが、ヌミノーゼだと理解するのは十年以上過ぎてから。
縁があり、そのガムラン楽団を率いていたプリカレラン家にホームステイさせてもらうようになってからだった。

1月

21

聖なるものと幽霊

聖なるものを目の前にしたとき感じるヌミノーゼについて書くために、その感覚を思い出そうとしていろいろと書いているが、そこに幽霊が出てくるのはいかがなものかと感じている人もいるだろうと思い、これを書く。
でも、そんな人がいるかどうかは実は問題ではない。
僕の中にそう疑う部分があるから書く。
つまり、「聖なるものと幽霊を混同していることについて心配している」という僕の内側について、あたかも誰かがそう考えているだろうからと前置きして、他人事のようにして書こうとしている。
こういうことは実はよくあって、「僕の内側にある別の面の僕」というのは、説明が面倒なので「きっとこう考える人がいるだろう」とことわって、実は自分のことを書いている。
そう言ったほうが話しが早いし、誤解も生まないだろうという前提でそう書くが、その時点で実は多少のミスリードを含んでいる。
こういう些細な区別はどうでもいいと感じる人が多いかもしれないが、厳密な話しをするときには大切な話になる。(ここにも些細なミスリードが含まれたね)
それに「聖なるものと幽霊」は少し似ている部分があるように感じる。
「聖なるもの」とは何かであるが、宗教の歴史をたどっていくと、時代によって変化があることがわかる。
たとえばそれはエリアーデの「世界宗教史」を読めば明確になるが、そのことと個人の精神の発達とをよく比較して考えなければならない。
たとえば、十歳の頃の僕と、二十代の頃の僕、そして現在の僕では変化がある。
その変化を把握した上で精神の発達について考えなければならない。
こう書くのは簡単だが、具体的にどう変化したかを指摘するのは、自分にとってはあまり簡単なことではない。
なぜなら、自分の考えは、時代によっての変化を、普段明確には区別してないから。
十歳の時の僕のことを書いている最中に、実は六十歳の感覚で表現していることはよくある。
つまりそれは、十歳の頃の感覚そのままの表現ではなく、六十になった僕というフィルターを通しての表現になる。
それを手放すのはあまり簡単なことではない。
そのことを意識して始めて可能になる。
その些細な違いを言語化するのは困難を伴う。
そこには明確な区別があるという前提に立つことによって可能にはなるが、その前提に立たない限り、それはできない。
僕の若い頃には「聖なるものと幽霊」の区別は曖昧だった。
だから、幽霊についての強い興味があったのだと思う。
つまりそれは、若い頃から「聖なるもの」に興味があったが、幽霊との区別が曖昧だから、幽霊についても興味があったのだと思う。
こう区別を与えているのは、現在の僕に他ならない。
若い頃の僕は、そもそも「聖なるもの」に出会う機会がなかった。
科学の台頭により、宗教の価値が低くされていた時代だったからだろう。
「聖なるもの」の代替物として「幽霊」があったように思う。
だから「聖なるもの」について書くとき、幽霊が出てきてしまう。

1月

20

下田移動教室

小学校での修学旅行はなぜか移動教室という名称だった。
なぜそう呼ばれたのか詳しいことは知らない。
小学五年の時の移動教室は下田に行った。
ペリーが来航した下田港や石廊崎を見た。
夕方に宿舎に着き、ベッドを割り当てられる。
僕は二段ヘッドの上の段だった。
夕暮れ、そのベッドに座ってボーッとしていたら、目の前の白い壁に四角いスクリーンのような光が差し込んだ。
なんだろう?と思って見ていると、そこにたくさんの線が出てきてうねりだした。
ほんの一瞬のことだった。
五秒ほどでその白い壁には何も映らなくなった。
ぞっとした。
なんだかわからないものを見てしまった。

1月

19

怪談

幼い頃、怪談を聞くのが好きだった。
あの、怖くてぞわぞわする感覚に酔った。
兄がよく体験談をしてくれた。
それを父に話したことがある。
「純ちゃん(兄のこと)こんな怖い経験したんだって」
兄が嘘をつくとは思えなかったので、その体験はすべて真実だろうと信じて話した。
すると父がこう言った。
「僕も一つだけ、僕の父さん、ようちゃんにとってはおじいさんだな、から聞いた怪談があるよ。聞く?」
もちろん聞いた。
祖父は戦前、樺太の真岡に住んでいた。
そこに知り合いの老婆がいて、その老婆は不思議な能力を持っていると噂されていた。
その老婆があるとき病気になり、町外れの病院に入院したそうだ。
祖父はいつか見舞いにと思っていたある日、夜に厠に行った。
いまでいうトイレだ。
当時のトイレは汲み取り式だから匂う。
母屋から少し離れたところに作られていた。
厠で用を足し、出てきて水道で手を洗おうとすると、水道が不思議な音で唸りだした。
驚いて様子を見ていると、震える水道の蛇口から水煙のようにして、あの老婆の顔が現れた。
驚いた祖父は「何をしている」と怒鳴ると、老婆はこう言って消えた。
「退屈だからねぇ」
翌日、町外れの病院に老婆に会いに行った。
すると老婆は祖父の顔を見るなりこう言った。
「退屈だからねぇ」

1月

18

京都のお寺で聞いた読経

大学生の頃だっただろうか。
京都を旅行していたらあるお寺で読経が始まった。
どこのなんというお寺かも忘れてしまった。
だけどそこの読経が凄かった。
僧侶が数名で読経していたのだが、聞いたことのない和音になっていた。
それが読経の言葉とともにうねっていく。
楽譜にはしようがない微妙な和音の変化。
音楽のように心地よいのと同時に、底知れない畏怖を感じた。

1月

17

ブラバンの秘密

「聖なるもの」に向き合ったときの感覚をヌミノーゼといい、その感覚がしたときのことを思いだしているが、本当にこれもヌミノーゼと呼べるかどうかは判断が分かれるところだと思う。
でも、僕の感覚はそうだと伝えてくれているので、そのように扱う。
高校生の頃、僕はブラスバンドに入っていた。
そこで指揮をやらせてもらえることになった。
指揮をしていた先輩から、演奏会の直前にメンバーを集めて必ずこれを言うようにと、演奏会を成功させるための秘密の言葉を教えてもらった。
そのときの僕にはそれを言う理由がまったくわからなかった。
「そんなこと」としか思えなかった。
そこで文化祭の時、3回の演奏のうち1回を、わざとそれを伝えないで演奏をした。
すると何も間違いのない演奏だったが、ほとんど誰も感動しなかった。
きちんとそれを言うと、観客も演奏者も、とても感動する演奏会になった。
それを知って以来、僕はこの言葉を呪文と呼んでいる。
それはこんな言葉だ。
「これからする演奏はたった1度のものだ。同じお客様に聞いてもらうことはもうない。僕たちも同じコンディションでやることはもうないだろう。だから、いまの僕たちにできる最高の演奏にしよう」
これをいうとなぜかゾクッとした。
そして、その演奏にみんなが感動する。
うまいとか下手とか、そういう次元ではない何かが働いた。

1月

15

ケニアで見た天の川

山中湖で見た天の川から20年以上たち、仕事でケニアに行った。
広大なサヴァンナの真ん中にあるロッジに泊まり、ある晴れた日の夜、外に出た。
かつて見た夜空とほとんど変わらぬ夜空を見上げた。
草原の真ん中だから、肉食動物が出てきても不思議ではない。
それが畏怖の度合いを一層強めた。
自分がここで「生きている」とはとても言えなかった。
広大な空間の片隅で、まさに生かしておいてもらっていた。

1月

14

はじめて見た天の川

小学生の頃、家族で山中湖に旅行して、夜に生まれてはじめて天の川を見た。
夜空にびっしりと星が敷き詰められていた。
その濃度が高い流れが天の川だった。
びっしりと敷き詰められた星に畏怖を感じた。
なんともいえない恐ろしさ。
「こんな宇宙の中で生きているのか」と。

1月

13

聖なるもの

人は聖なるものに触れて動かされる。
その感情はなかなか表現しにくい。
オットーという神学者はそれをヌミノーゼと言った。
科学的にものを考えるようになり、聖なるものに触れる体験を忘れかけているかもしれない。
これからしばらく僕なりの、聖なるものとの接触について思い出してみようと思う。

1月

10

コーヒーの旨さ

幼い頃、コーヒーといえばインスタントコーヒーだった。
カップにコーヒーの粉を落としてお湯で解かす。
それに砂糖とミルクを入れた。
ところがある日、13年上の兄が、サイフォンで引いた豆のコーヒーを淹れてくれた。
僕は小学生だったが、その旨さに目を見張った。
なんだこれはと。
以来、コーヒーの虜になった。
いろんな豆を挽いてコーヒーを淹れた。
でも、当時はコーヒー豆の味がいまのように安定していなかった。
店によっては焙煎して何日もしたコーヒー豆を売っていたが、当時はあまりそんなこと気にされなかった。
だからコーヒー豆の味を追求しても、あまり仕方がなかった。
いまは焙煎したての豆をいただけるようになったので、豆の違い、産地の違い、農園の違いがはっきりしてきた。
追っかけていくとはまるだろうな。
クラシック音楽も、演奏者やオーケストラ、録音の時期によって違いがあるように、コーヒーの産地や焙煎の度合いなど、些細な違いを評価できるようになると。

1月

9

今朝の朝日

光と影がまっすぐに来た。
朝の寒さが光に解けていった。
思い出が美しいものに変わるように。

1月

8

野生動物

人間を含む哺乳類のうち野生動物はたった4%で、人間と畜産動物が96%だそうだ。
驚くべき数字だ。
生きたいように生きている野生動物は4%で、残りの96%の哺乳類は管理された生命ということだ。
考えてみれば人間も管理されている。
管理されない哺乳類はもうすぐ地球上からはいなくなるのかも。
みんなが楽しく生きていけるような約束ができれば良いのだが、人間が霊長だという考え方だと、それは難しいかも。

1月

7

ポトフ

しばらくポトフを食べてなかったので、相方にリクエストして作ってもらった。
ホクホクのジャガイモ。
香りのいい赤いニンジン。
柔らかく甘くなったタマネギ。
厚切りのベーコン。
そしてサッパリとしたスープ。
泣けるよ。

1月

6

バス旅行の夢

このところ夢の中でバス旅行をしている。
連続ドラマのようでいて、必ずしも物語が続いているわけではない。
にもかかわらず、バス旅行であることは揺るがない。
行った先で山に登り、見たことのない建物に入り、会ったことのない人たちに出会う。
バスに乗ると、以前お話しした人といつかの話しの続きをする。
だけど、それが誰なのか、よくわかってない。
不思議なバスの旅。