3月

31

泳ぐことがさらに楽になる

定期的に泳いでいるが
だんだんと楽に泳げるようになり、
長く泳げるようになり、
速くも泳げるようになったが、
最近また何かが変わった。
あまり苦労しないでスピードが出る。
長く泳ぐことで水に添うことを
覚えたようだ。
たとえば、足で一生懸命掻いても
水を上下に動かしてばかりで
ちっとも進まないという状態が
下手な頃にはあった。
いまは水を後ろに
蹴ることを覚えた。
蹴るというよりは
足の周りの水を
移動させるという感触。
しかもできるだけ大きな堆積の水を
移動させる。
以前からそう考えてはいたけど、
最近水がきちんと
移動してくれるようになった。
今回もなぜそれが可能になったのかは
よくわかっていない。
水が移動してくれるときの
感触が楽しい。

3月

30

桜の花びらを踏む

桜が散りだした。
桜の花びらが
たくさん集まっているところを
歩いた。
するとパリパリとわずかな音がする。
桜の花びらは
しっとりと水分を含んでいて
踏んでも音などしないと
思い込んでいたが、
実際には乾燥した花びらは
踏むとパリパリと音がするのだ。
50年以上
そのことに気づかなかったとは。

3月

29

息子夫婦に送る写真

桜並木を眺めながら歩いていると
老夫婦がキョロキョロしている。
奥さんの手にはiPadが握られていた。
「お写真撮りましょうか?」
と声をかけると、
「ありがとうございます、助かります」
という。
桜を背景に並んでもらって
撮ろうとすると
奥さんがいろいろと話しだす。
「優しい方に会えて良かったわ。
 この写真はアメリカにいる
 息子夫婦に
 送れって言われたんです。
 なかなかふたりだと
 一緒のところは撮れなくてねぇ」
何枚か撮影してiPadを手渡した。
とても喜んでもらって
こちらもうれしかった。

3月

28

シュノーケリングが入口の夢

ここにシュノーケリングのことを書こうとして、
海に潜っていくことを詳細に思い出していた。
海に入ることを思い出そうとしていると
海亀と泳いだことを思い出した。
このあたりでどうやら
眠ってしまった。
夢を見た。
海亀が海の底から泳いで出てきて
海面を泳いでいる僕を追ってくる。
ちょっと避けると行ってしまった。
いっしょに泳いでいた男の人と
海を上がり浜辺に出ると
名刺だと言われて大きな紙をもらう。
紙はたたまれていて、
それを開いていくと
中からいろんなものが出てきた。
なんでこんなものが
名刺から出てくるんだと思いながら
どんどん開いていく。
すべて開き終わってから
その人に聞いた。
「ところであなたの名前は?」
その人はあわてて名前が
書いてあった場所を探す。
ところが名前がない。
「あれー?」とその人が
叫んだところで目が覚めた。
いったい何を表現したい
夢だったんだろう?

3月

27

桜に集まる鳥

桜が八分咲きになってきた。
まだ花びらは散らないのに、
木によっては桜の花が
足元にたくさん落ちている。
鳥が萼(がく)の蜜を吸うと、
桜の花がそのままの形で落ちてくる。
桜色のスクリューが
クルクルと回りながら落ちてきたら
見上げてごらん、
そこにはきっと鳥がいる。
先日の散歩では、
野生化したインコが
蜜を吸っていた。

3月

26

水が変わったとき

この話をときどき思い出す。
『スーフィーの物語』に出てくる話。
短くするために話を端折るが、
だいたいこんな話だ。

ある師が人びとに警告を発した。
「やがて時が来ると
 特別に貯蔵された水以外は
 すべて干上がり、
 そののち水の性質が変わって
 人びとを狂わすだろう」
ひとりの男だけが
この警告に耳を傾けた。
その男は水を安全な場所に貯蔵した。
ある日、川の流れが止まり、
水が干上がった。
男は貯蔵していた水を飲む。
ふたたび川に水が流れるようになり、
町に行くと、人びとは以前と
ほとんど変わらなかったが、
師の警告や水の干上がったことを
まったく覚えていなかった。
そして、男は自分が狂っていると
思われていることに気づく。
人びとは男に対して哀れみや
敵意しか示さず、
その話をまともには聞かなかった。
男ははじめ新しい水を
飲もうとはしなかったが、
みんなと違うやり方で暮らしたり、
考えたり、行動することに
耐えられなくなり、
ついにある日新しい水を飲む。
するとその男は他の人と同じく、
貯めていた水のことを
すっかり忘れる。
仲間たちからは
狂気から奇跡的に回復した男と
呼ばれた。

3月

25

Japanese music box

幼い頃、
両親と僕が寝ていた部屋の床の間に
木で作られた
水車小屋のミニチュアがあり、
中にオルゴールが仕掛けられていた。
屋根の一部を持ち上げると
水車が回り始め、
五木の子守歌が奏でられる。
そんなことはずっと忘れていたが、
ジョージ・ウィンストンの
Japanese music boxという曲を聴くと
そのことを思い出す。
ほぼ同じ編曲をピアノで奏でるのだ。

3月

24

桜咲く

近所の桜が一斉に咲き始めた。
いろんな桜、それぞれ美しいが
もっとも印象的だったのは
桜並木での桜吹雪。
永遠と続くいのちの営みを
見たかのように感じた。

3月

23

焼空豆

春になってさやごと焼かれる
焼空豆がおいしい。
幼い頃はあの匂いが嫌いだったが、
最近はあの匂いが懐かしく感じる。
なぜ幼い頃に嫌いだったものが
大人になると食べたくなるのか
とても不思議。
焼け焦げたさやをむき、
ちょっとヌルヌルしたさやの中から
つるっとした空豆を取り出す。
モヒカンのような黒い部分を指で取り、
中から柔らかい空豆の中身を
ツルッと押し出し食べる。

3月

22

GoLive

昔はサイトを作るのに
GoLiveというソフトを使っていた。
これがとても便利なものだった。
サイトの画面をこうしたいと
写真を貼ったり、
枠を作ったりすると、
そのままHTMLを書いて行ってくれた。
いまのソフトはどれも
こんなことはできない。
見た目が同じでも、
その背景にあるコードは
千差万別だから。
それだけサイトのコーディングは
複雑になった。
最近はコードから作っているけど、
以前より時間がかかって大変。
GoLiveの頃が懐かしい。

3月

21

祓え給い清め給え

腹立たしいことや悲しいことは
頭の中をグルグル巡る。
そういうとき「祓え給い清め給え」。
腹立たしいことをしてくる人間は
きっと何かの考えに取り憑かれてる。
そういう人と対峙するとき、
こちらにも何かの考えが
取り憑いてくる。
「祓え給い清め給え」
こちらが清められていれば、
相手の考えが
浮かび上がってくるかも。

3月

20

コーヒードーム

ドームと言って思いだすのは東京ドーム。
それからスノードーム。
スノードームは美術館があるほどで、
あの小さな世界に憧れる人が
多いのですね。
今回の話題はコーヒードーム。
焙煎したてのコーヒー豆を
挽いてすぐにドリップすると
できてくるコーヒードーム。
このところ豆は江古田珈琲焙煎所で
買っているので
うちでドリップすると
必ずコーヒードームができてきます。
まずは挽いた豆にお湯を垂らし、
粉砕された豆がお湯を含んでから
ゆっくりと細いお湯を
垂らしていきます。
するとモコモコとコーヒードームができてくる。
このときにコーヒーの香りが
フワァーと立ち上がります。
この時点でもうコーヒーを味わっている。
できあがるわずかに赤みが射した
漆黒のコーヒー。

3月

19

不満たらたらで気持ちいいもの

生きていれば
いつもいい状態で
いられるわけではない。
困ったこともあれば、
悲しいこともあり、
イライラすることもある。
そういう状態で
気持ちいいものを書くのは難しい。
でも、書く。
するといろんなことに気づかされる。
そんなこと認めたくないなと
思うようなことにも直面する。
その結果、認めるつもりはなくても、
そういう解釈ができる
ということに気づく。
この世界には
いろんな解釈が生まれてくるが、
持ちたくない解釈も見えてくる。
それが気持ちいいのか?
僕個人としては気持ちよくない。
でも、きっと全体から見ると
そういう解釈ができることを
僕が知っていると言うことは
いいことなのだと思う。

3月

18

チョコベビー

子供の頃好きだったチョコベビーを
スーパーで見つけた。
包装が変わっている気がする。
三粒ほど食べると昔の味。
昔のチョコレートってみんな甘くて
いまのように繊細な味はしてない。
だけど、だからこそ、
懐かしく感じるんだろうな。

3月

17

目からウロコが落ちた音階感

僕がバリ島に興味を持ったきっかけは
ガムラン音楽だった。
それを聞いたとき鳥肌が立った。
いろいろと調べて行くと
ガムラン音楽は不協和音をたくさん
取り入れていることがわかってきた。
たとえば、一対の楽器があり、
同じ音を出すのに
わずかに調律をずらしている。
半音の半音にもならないようなズレ。
たとえば3Hzほど音が
ズレていたとしよう。
すると一秒に三回ほど
ワンワンワンとうなることになる。
そのうなりが
美しいという解釈なのだ。
だからわざとそれを出すようにセットする。
しかも楽団の所有している
楽器のセットごとにそのズレは違う。
同じ曲を演奏しても
楽団ごとにその印象は違うものになる。
だから楽団の楽器をひとつ取りだして
別の楽団の中で演奏するというのは
非合理なこと。
楽団の響きが変わってしまうのだ。
でも、その変わってしまった響きが
いいなら、それでよい。
純正律は簡単に転調ができない。
転調すると、すべての音が
微妙にズレるからだ。
(なぜかは純正律のことを調べて
 周波数を丁寧に計算していくと
 理解できます)
西洋の人たちは
それを何とかしようと
いろんな音階を生み出した。
でも、どんな音階も
正確には割り切れない。
うまく割り切れないのが
人間の世界だと解釈し、
生まれてくるうなりは
消すべきものと考えた。
もしすべての調が
うまく割り切れれば、
それは神の世界。
バリの音楽はそれほどまでには
厳密さを追及しなかった。
生まれてくるうなりを美しいものと感じた。
そしてそれこそが
神の世界を表しているとした。
理論的には西洋の考えのほうが
進んでいるが、
人間的にはバリの音楽の考え方で
充分だと思う。
結局西洋の人たちも
平均律を使うことに落ち着いたのは
そういうことなのだと思う。

3月

16

シンギュラリティ

もう数十年後にはAIが
人間の知能を越えると言われている。
そのためのハードルは
たくさんあるけど、
次々とクリアされるだろうと
言われている。
もし本当にAIが生まれたら、
それは人間にとって
理解不能なものになるはずだ。
それを一生懸命理解しようとする
人間が愛おしい。(自分も含めて)
一番の問題は、そこに至る手前で
人間のエゴによって
生まれる状況である。
たとえば、AIを神のように扱い、
それに人びとを
従わせようとするなど。
さらに、
本当に理想的なAIができたら、
膨大なデータによって
高速で判断するため、
きっと人間にはいいとも悪いとも
判断しにくい状況が
たくさん生まれるはずだ。
人間のエゴが
それを歪んだ解釈に導くことこそ
怖いことなのだと思う。

3月

15

気持ちいいものを探さない

本当に気持ちいい状態にいたら
きっと気持ちいいものなど
探していない。
でも、ずっとそういう状態にいると、
たまたま気持ちよくない状態に陥ったとき、
不快感を強く感じるだろう。
生きていれば必ず、
不快に思うことが現れてくる。
そのときに不快を手放すことを
学ばなければならない。
それができるかどうか。
わざわざ気持ちいいものを探すのは
普段意識していない
気持ちいいものに、
気づくための練習。
毎日座っている椅子は
当たり前に座っている椅子だから
気持ちいいなんて感じることはあまりない。
でも、あえてそれに気づいてみる。
その上で、それを忘れてみる。
たまたま気づいた不快を、
意図的に手放すことの練習。
時間の無駄?
もしかしたらそうかもしれない。
でも、もしかしたら違うかもしれない。
きっと自分が
どう考えているのかによる。

3月

14

ドゥルパド

倍音声明というものがある。
みんなで声を出して
その響きを楽しむ。
ドゥルパドをはじめて聞いたとき、
それに似ているなと思った。
シタールの響きに合わせて詠唱する。
これを知ったきっかけは
2016年のニュピツアーに参加なさった
亜矢子さんだ。
ウダイ・バワルカールという
ドゥルパドの名手に
習っていると聞いた。
日本に帰ってくると、
バワルカールの映像が届いた。
http://bit.ly/2GqcfAZ
このバワルカールが日本で
最初で最後の演奏会を
おこなうそうだ。
詳細はこちら。
ときどきアクセスが集中すると
見られなくなるので、そのときには
しばらく待ってから見て下さい。
https://dhrupadjapan.org
facebookはこらち。
https://www.facebook.com/dhrupadsocietyofjapan/
これとは違うけど、
GarageBandに自分の声を
多重録音して、
響かせると気持ちいいですよ。
こういう響き合いが心地よいのは
動物の本能なのかな。
小さなバードホイッスルを
いつも持ち歩いているけど、
鳥のいそうなところで鳴らすと、
鳥も鳴き出す。

3月

13

複雑な多次元の渦

生命は複雑な多次元の
渦のようなものと僕は考えている。
たったひとつの渦ではない。
いくつもの渦が
複合的に絡まったもの。
渦と渦が絡まり合うと
とても複雑な流れができる。
その複雑な流れがまた絡まり合うと
次第にそれは渦のようには
見えなくなっていく。
生命の中心には化学反応の渦があり、
その渦が別の化学反応の渦をつくり、
複雑化することで細胞が生まれる。
細胞が安定するために
化学反応の渦が必要であり、
化学反応の渦があるために
細胞が成り立つ。
細胞の要素は渦のようには見えない。
でも、渦のように生まれ、
渦のように消えていく。
身体には物質やエネルギーが必要だ。
取り込まれた物質やエネルギーは、
体内でいろんな渦に取り込まれ、
いろんな渦を回し、
いろんな渦とともに排出される。
まるで渦だらけの
宇宙を模しているかのように。
宇宙のどこに渦があるのか?
太陽系は円を描いているように
思えるけど、
銀河系の中で移動しているから、
実は渦を描いているのだよ。

3月

12

立場による考え方の違い

立場によって考え方は異なる。
ある立場から見れば正しいことが、
別の立場から見ると
正しくないような問題。
それらが第三者にとって
理解できる状態であることが
望ましいこと。
だが第三者にとっても
判断が難しいことがある。
どちらが正しいと、
一概には言えないようなこと。
それらをきちんと理解した上で、
協議することが大切だが、
大人の顔した心が成熟してない人は
どちらか一方の立場に固執する。
それに気づけるように
話ができると成果が生まれる。
もしこういうふうに話ができれば、
戦争はしなくても
いいのではないか?
そのためには、
自分の中に
一方の立場に固執する心が
あるかどうか
考えてみなければならない。

3月

11

山下達郎のサンデーソングブック

FMTokyoで毎週日曜日のプログラム。
ラジコで聞いた。
311から七周年と言うことで、
心を穏やかにするような
音楽を聴いた。
あるリスナーからのハガキに
311後に他人を非難する論調が
強くなったが、
私はあまりそれには乗れなかった。
達郎のコンサートで
「僕は音楽家なので、
 音楽でそれを表現します」
という言葉を聞き、
その通りだなと思った。
というような話が出てきた。
深く同意する。
その一方で、
言葉で表現する人にとっては、
非難のようになってしまうことも
仕方ないことだと思う。
どちらも同意するというのは、
いったいどういうことなのか。
その矛盾のような思いと
ただ一緒にいる。

3月

10

AIと死

AIはいま、本当のAIと疑似AIの
ごた混ぜ状況が続いている。
もっと正しく言えば、
何がAIで、何がAIでないのか、
曖昧に過ぎて
話題にもできない状態だ。
詳しい人はそういうことが
わかっているはずなのに、
その話題が面倒なために
そっちに話題を
持っていくことがない。
死とは何かを話題にするのと同じだ。
死とは、心臓が止まったときか、
それとも脳波が止まったときか、
はたまたもっと別なことなのか?
これも話題にはなりにくい。
なぜかというと、
人間にとっては
不可知の領域だからだ。
人間を越えた知性というのも
越えた段階で不可知のものとなる。
それをいま知ろうというのは
無理な話なのだ。
死が怖いというのと同じレベルで
AIを恐れても疲れるだけ。

3月

9

蜘蛛の巣

マンションの片隅に
蜘蛛の巣を見つけた。
水滴が付いて輝く
美しいその形。
そして思い出す、
蟻地獄のことを。
どちらも虫を食べる。

3月

8

面白くて厚い本

面白くて厚い本が好き。
楽しみがあっという間に
終わるのは嫌。
面白い状態がずっと続くのがいい。
思い出すのは
「自己組織化する宇宙」
「進化の構造」
「ラナーク」
「SURF」
「1Q84」
「創造的進化」

3月

7

Horizon

カーペンターズのアルバム。
「オンリー・イエスタディ」
「デスペラード」などが
収められている。
どの曲もしっとりとした編曲で、
それ以前の
アメリカ的甘ったるい編曲から
脱皮していて驚いた。
といっても僕は中学生だったけど。
ここに収められている
「I Can Dream Can’t I」の
トロンボーンの間奏にしびれた。