Search Results for: 気持ちいいもの

4月

30

気持ちよくないことから気持ちいいものを知る

気持ちいいものとは何かを知るにつけ、謎が生まれる。
気持ちいいものとそうではないものの境界とは何か?
気持ちいいものを感じてばかりいるとわからなくなることがある。
気持ちいいものの継続は気持ちいいのか?
当たり前の継続は、気持ちよくなくなっていく。
それは感覚の摩耗なのか?
繰り返すことは良くないことなのか?
謎を解くことで気持ちいいことがはっきりする。

8月

23

気持ちいいもののレベル その3

気持ちいいもののレベル その2 の続き

「そういう気持ちよさは単なる思い込みではないか」という人もいるだろう。
もちろんそういう表現はできるし、その言い分に反対するつもりはない。
しかし、そもそも気持ちいいものは、自分の感情であり、そのなかに一抹の思い込みも含まれる。
「思い込みはすべて否定する」という考えのもとでは、「気持ちいいもの」の存在は危うい。
「気持ちいいもの」の存在は、自分がそれを許すかどうかに大きく依存している。
この話はいつかきちんと本となるような分量の文章にまとめたい。

8月

22

気持ちいいもののレベル その2

気持ちいいもののレベル その1 の続き

さらに、自分の内側に生まれるレベルのほかにも、外側に作り出す気持ちよさもある。
たとえば映画を見ているとき。
映画の主人公が気持ちよさを感じるのに共感して、気持ちいいと感じることがある。
その気持ちよさは明らかに自分の外側に生まれた気持ちよさを自分の内側に取り込んでいる。
そういう気持ちよさが僕たちにはある。
それが理解でき、また感じることができるのであれば、自分の内側から生まれる気持ちよさだけではなく、外側にできたある状況に共感して感じる気持ちよさがあることを理解することができる。
それは何も外側にいる人物に対してだけ向けられるものではなく、動物や植物、あるいは物に対しても向けられることがある。
人形を撫でながら気持ちよさそうにしている女の子はその状態にいると言える。
人形を撫でることで人形という物に生まれるであろう気持ちよさを自分が取り込んでいる。
このような外部にある物に生まれるであろう気持ちよさの取り込みは、どんな物にもそこに付与する物語によって生み出すことができる。
だから極言すれば「地球の気持ちよさ」も「宇宙の気持ちよさ」も、「原子や分子の気持ちよさ」も、作ろうと思えば作ることができる。

8月

22

気持ちいいもののレベル その1

気持ちいいものにはレベルがある。
どんなレベルかというと、感じる主体をどこに置くかだ。
「気持ちいいものの主体は『自分』に決まっているではないか」と多くの人は思うだろう。
ところが『自分』にはいろんなレベルがある。
たとえば『親としての自分』『子供としての自分』『職業上表現している自分』『友人といるときに表現している自分』など。
こういう区分けは人にもよるが、きっとたくさんあることだろう。
そして、それぞれの立場によって、気持ちいいものが変化することがある。
ある立場ではとても気持ちいいものが、別の立場では気持ちよくなかったりする。
自分というものは特定のもので、ひとつの立場しかないと思い込んでいる人はその変化に気づかないかも知れない。
だけどたとえば、自分の親に対して話すときと、自分の子供に対して話すとき、同じ話でも微妙なニュアンスの違いに気づく人は「ひとつの立場しかない」という思い込みから脱することができるだろう。
だから、気持ちいいものは、自分がどのレベルにいるかで変わってくる。

12月

9

日刊 気持ちいいもの No.00001〜No.01700

『日刊 気持ちいいもの』の最初の1700本をpdfにまとめたものをざっと読み直した。
忘れていたたくさんの気持ちいいものに出会えて良かった。
僕が書いたのだから、どれを読んでも気持ちいい感覚がよみがえる。
気持ちがブルーになったとき読むといい。
『日刊 気持ちいいもの』サイトのトップに置いてある。
読者登録した人はログインすれば読めます。

3月

17

気持ちいいものを言語化する

花を見てきれいだなと思う。
よくあることだ。
だけど、悲しみに沈み込んでいては、花の美しさは見えてこない。
あまりにも浮かれていても、きっとその美しさは訴えてこない。
花を見てきれいだと思える状態に自分がなっていないと、花の美しさはわからない。
同じように、この世界にあるありとあらゆるものの気持ちよさは、自分がそれを受け取れる状態にないと受け取れない。
4084回も気持ちいいものを書いてきて、それがどういうことなのかを少しずつ理解してきた。
ときどき気持ちいいものが書けないことがある。
そのときに一番深く学んでいる。
気持ちいいものが感じられないとき、不快かというとそうでもない。
何かショックなことがあると書けないことがある。
しかし、ショックもなく、不快でもなく、それでも書けないときがある。
書けるときは、心のどこかに「書ける」というビジョンがある。
ビジョンというか、思い込みというか、信念というか、そういうものだ。
それは心に火がついた状態ともいえるし、ワクワク感ともいえるけど、ときによって少しずつ違い、とても落ち着いた気分でも書けることがあるし、不快という気持ちを抱えて書くときもある。
それがいったいどういう状態なのか、そのときどきで味わいながら書いている。
いろんな気持ちのよさがあるのと同様、いろんな状態がある。

1.気持ちよい体験を思い出すことによって書く。
2.気になった感覚を気持ちよいという側面から書く。
3.気持ちいい感覚がここにありそうだと当たりを付けて、それを気持ちいいものとして書く。
4.それが気持ちいいかどうかまったく疑問ではあるが、表現することによって気持ちよさが表れてくる感触があるので書いてみる。

こうして僕は「気持ちいいもの」に対しての目の開き方を学んでいる。

9月

24

個人の気持ちいいものから全体の気持ちいいものへ

エゴイスティックに気持ちいいものを書いてきた。
他人がそれを気持ちいいと思うかどうかはさておき、自分が気持ちいいと思えること。
それを書き尽くすことで「自分の気持ちいいこと」だけではない気持ちいいことが生まれてきた。
それがいったい何なのかよくわからなかったけど、いってみればもっと高い視点の気持ちいいもの。
自分ではない視点から出る言葉が、いったいどんなものかよくわからないけど、それに挑戦してみる。
言葉は個がないと成立しないけど、個と全体の境をふらふらするのだろう。
いまがあるのはすべての過去のおかげ。
明日がきっとあるのは、すべての今のおかげ。
「今」はひとつでもあり、見方によっては無限にあるもの。

2月

18

3768個の気持ちいいもの

僕がなぜ「気持ちいいもの」を書き続けているのか、その理由はここに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/feelgoodblog/what_is_daily_feel_good/
そして、自分の心の中で様々なリフレーミングが現れるのだろうと期待していた。
3768個も書き続けてきて、そのリフレーミングが複雑に積み重なり、なんともいえない状態になりつつあることを感じる。
これはきっとある種の悟りなんだろうなと僕は思う。
ただし、ブッダの悟りとは明らかに違う。
いろんなお経にあるように、別世界へと僕の心は旅立つことはない。
かつてバリ島でニュピの瞑想をしていたとき、朝日とともに弥勒菩薩が飛んで来て、一体化した経験がある。
もちろん夢だと思うのだが、夢にしては生々しいし、それで一気に目が覚めた。
それ以来、ときどきそのときのことを思い出す。
もちろん、この「気持ちいいもの」を書いているときにもしばしば思い出した。
言葉にすることでできた森。
多次元な感覚を再生するための鍵。

5月

2

『日刊 気持ちいいもの』は、ほぼ毎日つなぶちようじがお届けする「気持ちいいもの」について書かれたメールマガジンです。

つなぶちが主宰しているライティング・ワークショップ、ヒーリング・ライティングに「気持ちいいものを書く」というワークがあります。それを継続的におこなっていたので、メールマガジンとして発行し始めたのが1999年11月。以来、999号続けていったん終了しました。

それから何年かが過ぎ、つなぶちは再度、気持ちいいものを書き続けることにしました。ワークとしてやるのではなく、気持ちいいものを書くことを、人生の楽しみの一つとしてやり始めたのです。それらをメールマガジンとして発行しているのが『日刊 気持ちいいもの』です。

毎日のように気持ちいいものを書いたり、読んだりすることによって、気持ちいい感覚を定期的に引き寄せることになります。何度も繰り返される感覚は習慣となり、いつしかその感覚とともにいることが当たり前になっていきます。いろんな物事を体験する際に現れてくる感情や感覚は、その多くが習慣化された思考や体験への無意識でのアクセスであることは、最近では当たり前のこととされています。その考えを応用し、自分の心に快適な感覚が根付くように作られたワークが「気持ちいいものを書く」です。興味のある人は自分で気持ちいいものを書き続けてみてください。毎日のように『日刊 気持ちいいもの』を読み、時々自分で書いてみるのも一定の効果があるでしょう。

どのように書いているのか?

まずは自分にとって気持ちいいものを思い浮かべ、一行程度で書いて下さい。

たとえば「窓ガラスから差し込む冬の日差し」と書いたとしましょう。次にはその一行をタイトルとした短い文章を書くのです。三分で書ける程度でかまいません。それを毎日のように繰り返すのです。すべてやるのに五分程度で終えて下さい。はじめのうちは何のためにやっているのかわからないかもしれませんが、続ければ続けるほど効果が現れます。ぜひやってください。毎日書いているスケジュール手帳に書き込む程度でもかまいませんし、Blogの端っこにちょこちょこっと書くのでもかまいません。

こちらには1999年11月から書き続けた「気持ちいいもの」の一部を掲載しています。毎日書いてメールマガジンで発行していました。

Web版『気持ちいいもの』

999回書いてからいったんお休みし、2011年3月1日から再開し、ほぼ毎日発行しています。読者登録はこちらでおこなっています。

https://www.tsunabuchi.com/feelgood/

僕が書いた気持ちいいものをまねる必要はありません。あなたなりの工夫を加えて書いてみて下さい。

気持ちいいものを書き続けると

「気持ちいいもの」を書き続けるといろんな効果が現れます。

まず、書いたあとが気持ちいいです。文章にもよりますが、書いたものや事を思い出すのですから、それに付随した喜びや気持ちいい感覚が蘇ります。それを毎日繰り返したらどうなるか考えてみてください。

人によっては毎日がうれしいことで満たされるでしょう。僕の場合は、それが何日かは続きましたが、ある日から続かなくなりました。それは「気持ちいいもの」が思い浮かばなくなったからです。人によっては繰り返し同じ事を書いてもいいことにすることによって、このような問題を回避することもできます。それはそれでいいことでしょう。しかし、僕は同じ事は二度書かないという条件を付けました。それによってなかなか「気持ちいいもの」が思い浮かばなくなったのです。すると自然に普段から「気持ちいいもの」を探すようになりました。つまり書いている間だけではなく、書いていないときも「気持ちいいもの」に注意を払うようになったのです。すると、案外毎日どこかで気持ちいいものに出会うようになります。またしばらくはそれで書き続けられるようになりました。

ところが、それもしばらく経つと難しくなってきたのです。そうなると普段の生活域から離れて探すようになります。それも難しくなると今度は、かつて気持ちいいものだなんて感じたことのないものも「これは気持ちいいんじゃないか?」と感じるようになってきたのです。

つまり、自然と自分の気持ちまでリフレーミングするようになったのです。

リフレーミング

リフレーミングとは、「Reframing」のことです。つまり「Re(再び)framing(枠をつける)」という意味です。私たちは何か物事を見るとき、その物事自体を見るのと同時に、その物事を意味づけている状況も同時に読み取ります。物事を意味づけている状況は、それを見る立場によって違ったり、その物事に関わる関わり方によって違ったりします。

たとえば、とても仲の良い恋人同士が「君って馬鹿だなぁ」なんて言っていると、いかにふたりが仲が良いか印象づけられることになりますが、敵対する政党の政治家同士が「君って馬鹿だなぁ」なんて言っていたら大騒ぎになります。つまり「君って馬鹿だなぁ」という言葉自体は変わりませんが、その言葉を生み出している状況が違うことでまったく意味が変わります。このような、物事自体は変わらないが状況の解釈を変えることで現れてくる意味の変化を「リフレーミング」といいます。「状況」=「枠」 と考えるとわかりやすいですね。

たとえば独身の男性が「ひとりぼっちで悲しい」と考えていたとします。そのとき問題は「ひとりぼっちでいること」のように思えますが、実際にはひとりぼっちでも平気な人はたくさんいます。つまり、その男性が悲しい理由は「ひとりぼっち」=「悲しいこと」 という関係がその男性の頭の中でできあがっていることなのです。「ひとりぼっち」≠「悲しいこと」 となるような状況を生み出せば問題は解消されます。その状況を作るためには、その男性がどのような時にその状況を作りやすいかについて知らなければなりません。もしもその人が本を読むのが好きならば「本を読むのはいつもひとりぼっち」であることを想起してもらい、「ひとりぼっちであれば本が読めて楽しい」という感覚を引きよせられるように話を誘導するのです。すると「ひとりぼっち」=「本が読めてうれしい」 という連想が生まれるようになります。このような連想が本人によってなされるように話をすれば、問題は解消されます。単に本を読むことが好きであることを聞いた途端に、「あなたはひとりぼっちのときに本を読めば楽しくなるよ」と言っても、本人がその楽しい感覚を自分で心の中に引きよせることがないなら、それはうまくいきません。本人がその感覚を引きよせるように話に工夫をしてください。

はじめのうちはリフレーミングという概念がよく把握できず、どうすればうまく行くのかわからないかもしれませんが、そのことに悩むことでリフレーミングの概念が理解できるようになっていきます。単に答えを求めるのではなく、いろいろと考えて、リフレーミングを把握してください。

例として、あなたの悩みをリフレーミングしてみましょう。まずはあなたの悩みを簡単に書き出して下さい。そのあとで、それをリフレーミングする状況や考え方を文章にしてみて下さい。こんな風にです。

悩み「リストラされそうだ」

リフレーミング案「独立のチャンスだ」「冒険する時期になった」「勇気が試されている」「自分の能力が試されている」「リストラされる前にこちらから会社を辞めよう」など。

悩み「いつまでたっても結婚できない」

リフレーミング案「いい人に出会うまでは待たなければならない」「素晴らしい人に出会う楽しみをまだ待っている」「若いうちに楽しめるだけ楽しむ」など。

それぞれリフレーミングにたったひとつの答えがあるわけではありません。その人その人によって、その状況によって、得られるリフレーミングは異なります。

リフレーミングというと、悪い意味から良い意味にするのがリフレーミングと思い込みがちですが、逆ももちろんできます。つまり、いいと思っていた状況をリフレーミングによって悪い状況であると表現・想像することもできます。普通はそのようなことはしないでしょうけど、リフレーミングではどのような状況も表現できることを知り、多数の可能性を自分の中で判断することが大切です。

人は誰でも考え方の癖を持っています。その癖はなかなか本人ひとりでは気づくことができません。しかし、このようにいろいろな状況へのリフレーミングを考えることによって、はじめて自分の癖に左右されるだけではない考えが持てるようになります。 小説家や役者は、いろんな立場の人たちに感情移入します。その結果、たくさんの視点を持つことによってバランスの取れた考え方ができるようになっていきます。

内語

内語とは、自分の頭の中で考えるときに活躍している心の声です。実際に声には出さなくても、自分の心の中でいろいろな言葉を行き交わせていますよね。その言葉が内語です。内語は他人に聞かれることがないのであまり問題にされることはありませんが、自分にとっては影響力の大きいものです。どんなに口ではいいことを言っていても、内語が皮肉を言っていると、現実に対する解釈は自分にとっては内語で言われた内容になりますから、その人は皮肉っぽく世の中を見ることになります。

内語は自分が言葉を操っているときは止まります。たとえばお話しをしているとき。自分が話している最中は内語はありません。時々話しを止めたときに、「僕の言っていること理解しているかな」とか「この人はセンスがいいな」とか、内語が動き始めます。同様に、文章を書くときも、スピードをもって書いている最中は内語は書いている内容と一致しますが、手を止めて次に書く文章をどうしようかと思った途端、文章とは別に内語が活躍します。だから「文章のデッサン」の約束通りに文章を書くと、その最中には内語は書いている内容と一致していくのです。

「文章のデッサン」とはどのようなものかというと、ただ文章を夢中に書くことです。ただひたすら書いてみてください。このような書き方をヒーリング・ライティングでは「文章のデッサン」と呼んでいます。その文章は他人に読んでもらっても、読んでもらわなくてもかまいません。「文章のデッサン」は以下のように書いて下さい。

1.書く時間を決める。(はじめのうちは短い時間で)

2.書きだしたら一気に書く。途中で考えたり休んだりしない。(心の中にいる批判者や編集者にはしばらく黙っていてもらいましょう)

3.字を間違っても丁寧に消さず、すぐに次のことを書く。(次から次へと出てくる言葉を捕まえて書いていて下さい。訂正に時間をかけると言葉が捕まえられなくなります。ノートに書いているなら消しゴムやインク消しで丁寧に消すのではなく、横線を引いて次を書いて下さい)

4.めちゃくちゃでもいい。書くことを楽しむ。

このようにして、はじめは短い文章を書いてもらいます。慣れたら長い文章も書いてみて下さい。

多くの人は内語と語る言葉や、書く言葉を別のものにしているので、その人の本当の心の声を聞くことができないことがあります。しかし、文章のデッサンの速度を上げることで、隠そうとしても内語が文章にこぼれ落ちてきます。それによって、自分にとって明確ではなかった思いが文字化されることで気がつくことがあります。

たとえば、親に心配かけていることを心の奥底では気にしている人が、口では親を馬鹿にしていることに、文章のデッサンによって気がつくことがあります。そのような事を起こすためには自分の文章が正しいか、間違っているか監視する、または他人の目を気にするような「内なる編集者」に黙っていてもらう必要があります。自分がリラックスして速度をもって文章のデッサンをしていくとそのような状態になりやすくなります。

内語がもし自分を傷つけるような表現をしていると、そのような表現をしているから自分が傷つけられることになります。つまり心的ストレスは内語によって生まれます。何かささいな失敗をしたとき、内語で「次の機会には成功しよう」と考えるか、「こんなことだから私はダメなんだ」と考えるかでストレスは違うでしょう。「この失敗で次は成功の可能性が上がった」と考える人にはストレスが少ないでしょう。内語をチェックすることで自分の心の傾向がわかるのです。

多くの人がここまで読めば「内語をポジィブにすればいいのね」と考えるでしょう。しかし、内語をポジティブにしようとするとストレスが生まれます。なぜなら、自分の生み出す会話を否定することになるのですから。

内語のストレスを軽減する

内語のストレスを軽減するのはとても簡単です。まずは、無理に何かを変えようとしなくて良いと思ってください。無理に変えようとするとそれがストレスになります。あなた自身のままでOKなのです。それがひとつのポイントです。

「変わらないままだったらいままでと同じストレスを抱え続けなければならないじゃないか」と思う人もいるかもしれませんね。でも、違うのです。「変わらなくてもいい」と思った途端、変えようと思っていた人にとってはすでに大きな変化が現れます。そもそも生命は自然の状態でたくさんの力を与えられています。そのことを信じられることだけで大きな力が生まれるのです。だから、あなた自身のままでOKなのです。

そのOKな感じにさらに深みを加えるためには瞑想をしてください。静かな場所で、楽な姿勢で、ゆったりとして目をつぶり、ただそのままにしていれば結構です。いろんな思いが浮上してきたなら、その思いもそのままにしておいてください。その状態で気の済むまで瞑想すればいいのです。思い浮かぶ言葉や感情や景色や音などは、感じるたびにそのまま感じ、ただそのままいるのです。浮上してくる感覚は、浮上する必要があるから浮上してきます。そのまま感じてあげてください。そのままいることに慣れたら、自分自身でOKの感じがよりよくわかるようになるでしょう。

うまく瞑想できない場合は、足の先から頭のてっぺんまで順番にゆっくりと感じていってください。感じていきながら、どこかに無駄な力が入ってないか確かめていってください。無駄な力が入っているところを見つけたら、そこの力を緩めてください。そうやって体全体の力が緩んだら瞑想しやすくなっているはずです。

内語は否定するものではありません。受け入れるものです。受け入れて、感じて、感じきったら自然とうすくなります。十分に受け入れることができたら自然と消滅します。受け入れることによっていろんな気づきがあるでしょう。それらに感謝することです。

で、結局、気持ちいいものを書くとは?

このようなことを知った上で、気持ちいいものを書き続けていってみてください。そのときそのときに現れてくる言葉と一緒にいることで、いろんなことが見えてくるでしょう。見えてきたいろんなことが、あなたにとって大切なことなのです。

3月

19

不満たらたらで気持ちいいもの

生きていれば
いつもいい状態で
いられるわけではない。
困ったこともあれば、
悲しいこともあり、
イライラすることもある。
そういう状態で
気持ちいいものを書くのは難しい。
でも、書く。
するといろんなことに気づかされる。
そんなこと認めたくないなと
思うようなことにも直面する。
その結果、認めるつもりはなくても、
そういう解釈ができる
ということに気づく。
この世界には
いろんな解釈が生まれてくるが、
持ちたくない解釈も見えてくる。
それが気持ちいいのか?
僕個人としては気持ちよくない。
でも、きっと全体から見ると
そういう解釈ができることを
僕が知っていると言うことは
いいことなのだと思う。

3月

15

気持ちいいものを探さない

本当に気持ちいい状態にいたら
きっと気持ちいいものなど
探していない。
でも、ずっとそういう状態にいると、
たまたま気持ちよくない状態に陥ったとき、
不快感を強く感じるだろう。
生きていれば必ず、
不快に思うことが現れてくる。
そのときに不快を手放すことを
学ばなければならない。
それができるかどうか。
わざわざ気持ちいいものを探すのは
普段意識していない
気持ちいいものに、
気づくための練習。
毎日座っている椅子は
当たり前に座っている椅子だから
気持ちいいなんて感じることはあまりない。
でも、あえてそれに気づいてみる。
その上で、それを忘れてみる。
たまたま気づいた不快を、
意図的に手放すことの練習。
時間の無駄?
もしかしたらそうかもしれない。
でも、もしかしたら違うかもしれない。
きっと自分が
どう考えているのかによる。

7月

6

さようなら

12年と4ヶ月ほど使ってきたこのサイトとお別れする。
その日、12年前に作ったサイトからの第一号は、配信してしばらくして東日本大震災が起きた。
以来、あまり気持ちよくない状況の中、気持ちいいものを探し続けてきた。
そして5,000回を迎える。
一万回を目指して継続していく。
新しいサイトに読者登録してない方とは、これでお別れになる。
お元気で。
気が向いたら、また新しいサイトも覗きにきてください。

i_n_f_o_r_m_a_t_i_o_n___________

『日刊 気持ちいいもの』のサイトからの配信は今回が最後になります。
新しいサイトはこちらにあります。
https://www.dailyfg.com

6月

26

お引越し

新しい家に住むというのは清々しいものだ。
新しい土地で知らないお店を見つけたり、見たことのない何かを見つけるのは嬉しい。
「日刊 気持ちいいもの」のサイトも、そろそろお引越ししようかと思う。
12年間使ってきたからな。

6月

18

揺れる

気持ちいいものを書き続けていると、自分の心が揺れているのがよくわかる。
あるときには気持ち良かったものが、別の時には不快になったり、悲しくなったり、意味のマトリックスを漂っていく。
心は正確には表現できない。

6月

16

祝5000回

「日刊 気持ちいいもの」が、5,000回を迎えました。
ありがとうございます。
10,000回をめざします。

6月

1

もうすぐ5000回

日刊 気持ちいいものが、もうすぐ5000回になる。
普通に考えれば嬉しいところだが、あまり嬉しくないのが本心だ。
5000回の頃に何か個展のようなイベントをおこなおうと思っていた。
その準備を四年くらい前から始めていたが、一昨年の末に体調を崩して入院してしまった。
個展の準備は頓挫した。
ここ数日、日刊 気持ちいものが書けない理由はそこにあると思い、ここに吐露する。
自分がやると言っていたことができないことはとても気持ちが悪い。
これからも気持ちいいものを書き続けるためにこれを書いた。
失敗の宣言だ。
5000回を超えて、一万回を目指す。
精神の変容を見つめるために。

9月

5

100億人の地球

100億人の地球に何が必要か?
もし今のままの競争社会が続き、欲望に従い搾取し続けるのなら、いつか破滅するしかないのでしょう。
人間の社会だけを考えていても、何も変わらない。
もっと大きな視点と、いままでにはない区別を考えることで、人類の精神が別の領域にいくことが必要です。
ロシアの科学者ヴェルナツキイ、フランスの数学者であり哲学者であるエドゥアール・ル・ロア、そして同じくフランスの神父であり科学者であったテイヤール・ド・シャルダン。
これら三人が作りあげたヌースフィアという概念を、ケン・ウィルバーが発展させている。
そのフィジオスフィア(物理圏)、バイオスフィア(生物圏)、ヌースフィア(精神圏)について考えてきた。
いろんな人と一緒に考えてみたい。

i_n_f_o_r_m_a_t_i_o_n___________

しばらくサイトがダウンして、「日刊 気持ちいいもの」が発行できませんでした。
今日から再開します。

「ヌースフィアってなに?」という映像シリーズをYouTubeで始めました。
ぜひ見に来てください。
第1回は「入口」と題して、フィジオスフィア(物理圏)、バイオスフィア(生物圏)、ヌースフィア(精神圏)の区別についてお話ししました。
https://youtu.be/in2kgaW8fG4

回を重ねていくうちに、生命の進化、精神の進化、人類が将来取り組まざるを得ないことについてお話しします。

8月

23

忘れる

散歩をしていて、「今日の気持ちいいものはこれを書こう」と思いつく。
しかし、帰ってきたらそれがなんだったか忘れた。
思い出そうとしても思い出せない。
「思い出す」のは過去のこと。
いまを生きるとしたら「忘れたことを味わうこと」。
「忘れたことにまとわりつく感情」を思い出して、あまり気持ちよくない。
でも、きっと思い出すべきときに思い出す。

6月

9

ラリる

病気の治療として薬を飲んでいる。
もちろん医師に処方された薬だ。
しかし、それを飲むと血圧が下がってフラフラする。
朝飲まなければならないので、このフラフラ状態で「日刊 気持ちいいもの」を書くのはつらい。
だけど、この「日刊 気持ちいいもの」を再開した2011年3月11日、東日本大震災が起きた。
そのときに「気持ちいいもの」なんてどうやって書いたらいいんだと悩んだように、いままた薬でフラフラしながら書いていく。
そこに心地よさが生まれるのかも。w
モネが睡蓮を描き続けたように、新たな地平を見つけていこう。

3月

12

味わい直す

気持ちいいものを文章にするというのはどういうことかというと、そのひとつは「味わい直し」なのだ思う。
人は、いろんな状況でいろんな体験をする。
たとえば、失恋のあとにどんなにおいしいものを食べても、おいしくは感じられなかったりするだろう。
だけどもし、失恋の感情から解放されて、気分のいいときに同じものを食べたら、とてもおいしく感じるかもしれない。
それに似ている。
気持ちいいものを書くことで、気持ちいいものの再体験をする。
ただ文章を書くだけだと再体験にはならないが、文章を書きながら、その体験をまざまざと思い出していくと、新たな体験となる。
すると、かつてした体験がみずみずしくよみがえる。
ことによっては、気持ちいいと感じなかったものも、そう感じるようになる。
それを通して何を見つけるか。
それが大切なんだなと、理解できるようになった。

3月

11

11年

11年前の今日、311が起きた。
11年前の今日、『日刊 気持ちいいもの』を再開させた。
この11年はいろんな感情をもたらす。
きっとどの11年でも、いろんな感情をもたらすだろう。
でも、僕のこの11年は、ほかの11年と比べると、特別な11年になった。
どの11年を取っても特別ではあるが、この11年の特別さとは異なる。
優劣ではない。
異なるということが大切だと思う。

11月

2

不愉快なこと

身の回りで不愉快なことが起きると、気持ちいいものは思い浮かばなくなる。
「仕方ない」とも言えるが、「修行が足りない」とも言える。
「もっとがんばれ」とも言えるが、「たまには力を抜いたら」とも言える。
「いい加減ばかなことはやめろよ」とも言えるが、「ここが踏んだりどきだ」とも言える。
どれかが真実でどれかが間違いということはない。
そういう言葉のあいだで揺れている自分を見つめよう。

10月

1

繊細さを忘れながらそれに直面する

幼い頃、日本語の歌が嫌いだった。
テレビからはいろんな歌謡曲が流れていた。
それがことごとく恥ずかしかった。
多くは恋愛の歌で、とても僕には歌えないと思った。
ところが、大学生の頃には慣れてしまった。
理系だったので文章はほとんど書かなかった。
書くとなんだか恥ずかしかった。
だから日記は二日と続いたことがない。
会社に入った。
会社にいると文章を書かざるを得ない。
だけど、自分のことを書くのではなく、企画書とか、何かの趣意書だとか、他人事ばかり書いていた。
そうやって自分の内側にある繊細さを忘れていった。
自分のことを書くと途端にその繊細さに直面する。
「僕がいいたいことと違う」
いつもそう思っていた。
言葉にすると、大切なニュアンスがごそっと抜け落ちるような気がした。
だけど、それに慣れていった。
「日刊 気持ちいいもの」を書くことは、そういう繊細さを忘れていくことだ。
まるっと感覚を捉えて表現する。
一方で、うまくは書けないニュアンスに直面し続けることでもある。
あなたは「いったいどっちだ」と思うかもしれない。
うまく説明はできないが、どっちでもあるんです。

8月

24

ワクワクするエネルギー

何かにワクワクすることはいいことだ。
ワクワクしているといろんなアイデアが浮かびやすくなる。
だからワクワクするために何かを準備しておくことは大切なこと。
たとえばこの「日刊 気持ちいいもの」は、僕にとってワクワクのための準備であり考察であり、体験の反芻場所だ。
ワクワクのエネルギーが枯渇すると、かつて書いた文章を読む。
するとワクワクの種が復活してくる。
だけど、そうは行かないこともある。
まさにそのとき、大切な内的探求が始まる。

7月

11

執着はいいものであり、悪いもの

「気持ちいいもの」は執着でもある。
ここに書けば書くほど、その執着は明確になる。
「執着はいいものであり、悪いもの」と知っているから「わざわざそれを書くなんて無駄なことだ」と考えることは簡単だ。
でも実際にやってみると、簡単なことだけではないことが理解できるし、体験できる。
それを「体験してない頃の僕」に説明するのは難しい。