12月

3

1枚の布

僕は鞄に大きめの布を一枚入れておく。
1999年からバリ島に通い、大きな布を腰に巻くことを覚えてから。
行くたびに一枚ずつ買っていたら、何枚か集まった。
しかもその布は、いろんなデザインが施されている。
年に一度だけではもったいないので、何かに使えないかと思うようになった。
そこで、いつからか一枚持ち歩くようになる。
するといろいろと便利であることがわかった。
あるとき友人宅でテーブルクロスとして敷いてみた。
なかなかいい。
雨がパラパラと降ってきたときに傘をもってなかったら、広げて頭にかけた。
これもいい。
ちょっと肌寒いとき肩にかける。
ありがたい。
芝生で寝転がるとき広げてみた。
とてもいい。
誰かと一緒にベンチに座るときに敷く。
相手はビックリ、感動してくれる。
誰かに急に何かをもらったとき、風呂敷代わりになる。
最高だ。
それで1枚の布の虜になった。
1枚の布はきれいにたためば荷物にならない。
鞄のポケットに平たくしていれれば普段はまったく気にならない。
気にならないどころか、鞄の外側のポケットに入れておくと、ポケットチーフのように鞄がちょっとおしゃれになる。
いざというときいろんな役に立つ。

5月

17

質問

昨日、悟ったと書いたら、「どんな悟り?」と質問された。
確かにその質問には答えたい。
入口は「言葉」だ。
この入口を見つけたのは、いや、この入口に導かれたのは、ヒーリング・ライティングという宿題を授かったおかげだ。
それから22年間の質問と答えの日々が続く。
それらの集積のおかげ。
そして、何冊もの仏典や聖典を読んだ。
それらのおかげ。
実際に聖人と言われた方にも何人か会った。
そのおかげもある。
バリ島にニュピで通い続けたのもよかった。
幼い頃に比較的自由にいろんなことができたおかげもある。
本は好きなものを読めたし、音楽は作曲できるようになった。
そして就職して世の中を見る。
この就職先も良かった。
いろんな大手の会社と関わることができた。
そして、会社を辞めて自営になって、小さな会社ともやりとりするようになる。
このおかげもある。
毎日ささいなことで喧嘩したり和解したり言い合っている相方のおかげでもある。
経済的に苦労して、借金したりして、そういう苦労のおかげでもある。
もちろん、こうやってほぼ毎日気持ちいいものを書いていることとも関係している。
だから、これを読んでいるあなたのおかげでもある。
こういういろんな体験の積み重ねが、昨日の朝、パチッとパズルがハマったようにうまく組合わさった。
そのパズルは平面でも立体でもなく、多次元のパズル。
チチェン・イツァーで「この世界が多次元であることに深く気づけ」と言われたことにやっとたどり着いた。
その内容については、言葉では書ききれない。
でも伝えなければならないと思っている。
少しずつ書いていく。

11月

2

ブサキ寺院での礼拝

バリ島のブサキ寺院は
いくつかのお寺が
集まってできている。
その中心にあるのが
プナタラ・アグン・ブサキ寺院。
ここに三大神である
ブラフマ・ヴィシュヌ・シヴァを
祀っている場所があり、
そこで礼拝する。
この三神をまとめて
トゥリ・ムルティと呼ぶが、
その三神のための椅子が
その礼拝所には用意されている。
礼拝所に座り、
アグン山の方向に目をやると
高い場所に
その三つの聖なる椅子が目に入る。
神様は目に見えるものではない。
その見えない神を
そこに降ろすことをイメージした。
そしてその場所と
自分の祖先や親族と
大宇宙に感謝することを促される。
すると、その三つが、実はすべて
つながっているものであることが
イメージでき、そのことに震えた。

5月

4

ケチャ

バリ島に行くと
ケチャをどこかでやっている。
声によってさざ波が生まれ、
そのモアレに頭がしびれる。
声の干渉は色彩をもたらし、
丸く座った男たちの上に
風を呼び起こす。
バリ島全体がキュビズムのように
視点の定まらない高次元立体物に
なっていく。
時を超え、場所を超え、
意味すらも超えた迷宮に包まれる。

3月

17

目からウロコが落ちた音階感

僕がバリ島に興味を持ったきっかけは
ガムラン音楽だった。
それを聞いたとき鳥肌が立った。
いろいろと調べて行くと
ガムラン音楽は不協和音をたくさん
取り入れていることがわかってきた。
たとえば、一対の楽器があり、
同じ音を出すのに
わずかに調律をずらしている。
半音の半音にもならないようなズレ。
たとえば3Hzほど音が
ズレていたとしよう。
すると一秒に三回ほど
ワンワンワンとうなることになる。
そのうなりが
美しいという解釈なのだ。
だからわざとそれを出すようにセットする。
しかも楽団の所有している
楽器のセットごとにそのズレは違う。
同じ曲を演奏しても
楽団ごとにその印象は違うものになる。
だから楽団の楽器をひとつ取りだして
別の楽団の中で演奏するというのは
非合理なこと。
楽団の響きが変わってしまうのだ。
でも、その変わってしまった響きが
いいなら、それでよい。
純正律は簡単に転調ができない。
転調すると、すべての音が
微妙にズレるからだ。
(なぜかは純正律のことを調べて
 周波数を丁寧に計算していくと
 理解できます)
西洋の人たちは
それを何とかしようと
いろんな音階を生み出した。
でも、どんな音階も
正確には割り切れない。
うまく割り切れないのが
人間の世界だと解釈し、
生まれてくるうなりは
消すべきものと考えた。
もしすべての調が
うまく割り切れれば、
それは神の世界。
バリの音楽はそれほどまでには
厳密さを追及しなかった。
生まれてくるうなりを美しいものと感じた。
そしてそれこそが
神の世界を表しているとした。
理論的には西洋の考えのほうが
進んでいるが、
人間的にはバリの音楽の考え方で
充分だと思う。
結局西洋の人たちも
平均律を使うことに落ち着いたのは
そういうことなのだと思う。