7月

4

風の又三郎

宮沢賢治の作品を読んでいる。
今朝は「風の又三郎」を読んだ。
僕が小学生の頃、母が「風の又三郎」の本を買ってくれた。
少し厚い本だったから、宮沢賢治の作品が何作か入っていたのだと思う。
その本は箱に入っており、箱から出したときの表紙の風合いを覚えている。
ところが、その本の内容は全然覚えていない。
母に「読んだ?」と聞かれ、「読んでない」と答えたことを覚えている。
以来、ずっと宮沢賢治の本は読んでこなかった。
敬遠していたと言ってもいいかもしれない。
今朝「風の又三郎」を読んで、なぜそうだったのかがわかった。
思いがけない発見だ。
風の又三郎の冒頭にこういう文が出てくる。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう

これを読んだときはなんとも感じなかった。
ところが、この作品の終わりにもう一度同じように登場する。

どっどど どどうど どどうど どどう
青いくるみも吹きとばせ
すっぱいかりんも吹きとばせ
どっどど どどうど どどうど どどう
どっどど どどうど どどうど どどう

最後の一行がリフレインされている。
これを読んで、なぜ僕が宮沢賢治を読まなかったのかが理解でき、
同時に涙が流れた。
僕はこの言葉を記憶の底に留めていた。
母が「読んだ?」と聞いたとき、実は僕はすでにその本を読んでいた。
だけど「読んだ」と答えなかった。
なぜか?
「読んだ」と答えたら、必ず母は感想を聞いた。
ところが、なんと答えていいのか分からなかったのだ。
何かが心に引っかかったが、それが何かうまく説明できなかった。
それが説明できないから、読んでないことにした。

記憶って不思議だなと思う。
小説の冒頭を読んでも何も思わなかったのに、終わりになって出てきた、ほとんど同じフレーズを読んではじめて、消した記憶を思い出した。
還暦を過ぎてこれを知ることに深い意味を感じる。
その意味が何かは、とても長い話になるので、いつか別のところで発表する。

6月

28

じょうよまんじゅう

和菓子屋さんで「じょうよまんじゅう」を買った。
うちに帰って相方と食べようとして「じょうよまんじゅう」と言ったら、相方が「じょうようまんじゅうでしょう」という。
「いや、じょうよまんじゅうだよ」
「いや、上に用いると書いて上用饅頭だよ」と言い争う。
結局、どちらも間違いではないことがわかる。
じょうよまんじゅうの「じょうよ」は「薯蕷」と書き、大和芋、山芋、つくね芋たちを「薯蕷」と呼び、それらを饅頭の皮に用いたものを薯蕷饅頭と呼んだそうです。
一方で「上用饅頭」は、高貴な人が食べるお菓子ということで、かつて高級な饅頭をそう呼んでいたことがあるとか。
勉強になりました。

6月

15

白鷺

箸墓古墳の白鷺について書いたら、水無神社の白鷺を思い出した。
水無神社の例祭では、拝殿前の広場で氏子たちが鉦を鳴らしながら舞う。
そのとき、本殿裏の大木の上に白鷺が止まった。
神事が始まると、「私の居場所はここ」とばかりに、広場の舞を見下ろしていた。

6月

5

踏切の音

目の前にいたらうるさいかもしれないけれど、少し離れたところに聞こえてくる踏切の音はいい。
特に真夜中、静寂の中を、遠くから聞こえてくる踏切の音はなんかいい。
「みんなが元気に生きている」って感じがする。

6月

4

内面のヴィジョン

二十代の頃にはじめて瞑想をした。
その時に「ヴィジョンを見ろ」と言われたが、何のことやらさっぱりわからなかった。
ヴィジョンなどというものは見えなかった。
以来瞑想を続け、見れるようになったが、最近は歳のせいか、ヴィジョンを見ながら寝てしまうことがある。
ヴィジョンがそのまま夢になってしまう。
気持ちいいからいいんだけどね。

6月

1

もうすぐ5000回

日刊 気持ちいいものが、もうすぐ5000回になる。
普通に考えれば嬉しいところだが、あまり嬉しくないのが本心だ。
5000回の頃に何か個展のようなイベントをおこなおうと思っていた。
その準備を四年くらい前から始めていたが、一昨年の末に体調を崩して入院してしまった。
個展の準備は頓挫した。
ここ数日、日刊 気持ちいものが書けない理由はそこにあると思い、ここに吐露する。
自分がやると言っていたことができないことはとても気持ちが悪い。
これからも気持ちいいものを書き続けるためにこれを書いた。
失敗の宣言だ。
5000回を超えて、一万回を目指す。
精神の変容を見つめるために。

5月

17

海鳴り

久しぶりに茅ヶ崎に行った。
少し海が煙っていたけど烏帽子岩が見えた。
波の音とともに低い海鳴りを聞いた。
媒体を通すと聞こえないような音。

5月

13

ゆらゆら揺れるキャンドルの火

バリ島では足元を照らした。
アイルランドの教会では、礼拝に来た人たちが祭壇に命を吹き込んだ。
震災後の福島では、祈る人たちがグラウンドに並べて文字を書いた。
どれもゆらゆらと揺れるキャンドルの火で。
そこには何かが宿る。

5月

9

配牌前の雑音

夜にベランダで静寂を聞く。
昔の夜はもう少し雑音があったような気がした。
どんな雑音かと思い出す。
夜に住宅街を歩いていると、どこかから麻雀の牌を混ぜるジャラジャラという音が聞こえた。
最近は聞いてないなと思う。
自動で静かに配牌されてしまうからかな?

4月

28

PLAN75を見て何を思った?

前にも出た「昼間でも聴ける深夜放送KombuRadio」に出てきました。
今回のお題は「PLAN75を見て何を思った?」。
去年公開された「PLAN75」という映画はご覧になりましたか?
それがテーマで話し合おうというので、見ました。
アマゾンプライムにあります。
すごい映画ですね。
あなたは何を思うのでしょう?
https://youtu.be/59QMebWRfJ4

4月

25

理解の残渣

僕たちはいろんな理解をしている。
もちろん理解し合えて得られた解は貴重なもの。
だけど、理解しきれなかった残渣のようなものの中にも大切なものはある。
それを表現するのは難しいけど感じ育てたい。

4月

23

芝生に寝転ぶ

芝生にピクニック用のシートを持ち込み寝転ぶ。
枕はショルダーバッグ。
青い空に白い雲。
鳥が飛ぶ。
風が吹く。
日に照らされて暖かい。
まどろむ。
いい夢を見る。

4月

10

ウグイスの声

ちょっと山あいに入ってウグイスの声を聞いた。
春の喜びを歌っていた。

4月

1

桜吹雪を泳ぐ

桜がハラハラと散り出した。
散った桜の花びらが、風に吹かれ道の上を波のように流れていく。
上からは桜吹雪が降り注ぐ。
その中を自転車で走った。
流れの中を泳いでいるよう。
なぜか笑顔になる。

3月

23

骨が取れた

アジの開きを食べた。
細い骨が歯のあいだに挟まった。
外出先で気がついた。
舌で触るが取れない。
気になってしようがない。
なかなか取れない。
が、やっと取れた。

3月

19

踊る相方

僕が暗い顔をしていると、相方が踊り出す。
まったくバカな踊りを。
手をあげて腰を振って足踏みして踊る。
おかげで素に戻れます。
ありがとう。

3月

11

12年

あの日から、12年が経った。
この12年、日本は辛い日々を過ごしてきたように思う。
明るい予兆すら見えない。
それでも生きていく。

3月

7

Gジャン

暖かくなったのでGジャンで外に出た。
気温が肌に伝わってくる。
春はもうすぐ。

3月

2

歩く歩道

動く歩道と書こうとして、歩く歩道と書いてしまった。
馬鹿丸出し!

3月

1

手荷物二個

出張、帰りの飛行機は後部の廊下側。
搭乗するのに最後となった。
指定の席に着くと、すでに手荷物を入れる場所がない。
二個の手荷物を持って困ってしまった。
CAさんが「別の場所でもいいですか?」と言って探しにいってくれた。
すると近くにいた娘さんが「こちらどうぞ」という。
手荷物を一個、荷物入れから取り出して、飛行中持っていてくれるようだ。
ありがたい。
もう一個はCAさんが少し離れたところに入れてくれた。

2月

28

アラン島

四年くらい前に、大学の同級生から「アラン島」という本をもらった。
「これあげる」というので「なぜ?」と聞いたら、「時間を潰すために本屋で買ったけど、あまり面白くなかったのであげる。ぶーちゃん行ったんだろう」とのことだった。
作者はシング。
もらったことをすっかり忘れていたが、イェイツの本を読んでいたらこの作品の逸話が登場した。
「あれか」と思ってその本を本棚から出す。

2月

26

ひさしぶりの飛行機

曇り空の日、飛行機に乗った。
雲海を突き抜けて青空。
まぶしい太陽。

2月

23

コードレス

昔はキーボードもマウスもコードがついていた。
コードは邪魔でBlueToothで繋がったときはすごいと思った。
今ではそれが当たり前となり、コードレスのありがたみを感じなくなってしまった。
こうやってありがたい物事を次々と忘れていく罪深さよ。

2月

20

キンドルを持ち歩く

キンドルを買って一か月以上経った。
今では二十冊ほどの本が入っている。
僕は一度に何冊かの本を並行して読んでいく。
ちょっと外出するとき、時間ができたら何を読むのか、かつてはその日の気分によって選んでいく必要があった。
キンドルにするとその必要がない。
同時に読んでいる何冊かが全部手元にあるのだ。
外出先の気分で読む本を選ぶことができる。
もう手放せないな。

2月

17

生きている

世の中にはわからぬことがたくさんある。
たとえば、エクトプラズム。
結局あれがなんであったのか、誰も説明できない。
それ以上に謎なのが、自分が生きていることだ。
なぜ自分が生きているのか、「当たり前のこと」として片付けるしかない。