1月

21

聖なるものと幽霊

聖なるものを目の前にしたとき感じるヌミノーゼについて書くために、その感覚を思い出そうとしていろいろと書いているが、そこに幽霊が出てくるのはいかがなものかと感じている人もいるだろうと思い、これを書く。
でも、そんな人がいるかどうかは実は問題ではない。
僕の中にそう疑う部分があるから書く。
つまり、「聖なるものと幽霊を混同していることについて心配している」という僕の内側について、あたかも誰かがそう考えているだろうからと前置きして、他人事のようにして書こうとしている。
こういうことは実はよくあって、「僕の内側にある別の面の僕」というのは、説明が面倒なので「きっとこう考える人がいるだろう」とことわって、実は自分のことを書いている。
そう言ったほうが話しが早いし、誤解も生まないだろうという前提でそう書くが、その時点で実は多少のミスリードを含んでいる。
こういう些細な区別はどうでもいいと感じる人が多いかもしれないが、厳密な話しをするときには大切な話になる。(ここにも些細なミスリードが含まれたね)
それに「聖なるものと幽霊」は少し似ている部分があるように感じる。
「聖なるもの」とは何かであるが、宗教の歴史をたどっていくと、時代によって変化があることがわかる。
たとえばそれはエリアーデの「世界宗教史」を読めば明確になるが、そのことと個人の精神の発達とをよく比較して考えなければならない。
たとえば、十歳の頃の僕と、二十代の頃の僕、そして現在の僕では変化がある。
その変化を把握した上で精神の発達について考えなければならない。
こう書くのは簡単だが、具体的にどう変化したかを指摘するのは、自分にとってはあまり簡単なことではない。
なぜなら、自分の考えは、時代によっての変化を、普段明確には区別してないから。
十歳の時の僕のことを書いている最中に、実は六十歳の感覚で表現していることはよくある。
つまりそれは、十歳の頃の感覚そのままの表現ではなく、六十になった僕というフィルターを通しての表現になる。
それを手放すのはあまり簡単なことではない。
そのことを意識して始めて可能になる。
その些細な違いを言語化するのは困難を伴う。
そこには明確な区別があるという前提に立つことによって可能にはなるが、その前提に立たない限り、それはできない。
僕の若い頃には「聖なるものと幽霊」の区別は曖昧だった。
だから、幽霊についての強い興味があったのだと思う。
つまりそれは、若い頃から「聖なるもの」に興味があったが、幽霊との区別が曖昧だから、幽霊についても興味があったのだと思う。
こう区別を与えているのは、現在の僕に他ならない。
若い頃の僕は、そもそも「聖なるもの」に出会う機会がなかった。
科学の台頭により、宗教の価値が低くされていた時代だったからだろう。
「聖なるもの」の代替物として「幽霊」があったように思う。
だから「聖なるもの」について書くとき、幽霊が出てきてしまう。

1月

18

京都のお寺で聞いた読経

大学生の頃だっただろうか。
京都を旅行していたらあるお寺で読経が始まった。
どこのなんというお寺かも忘れてしまった。
だけどそこの読経が凄かった。
僧侶が数名で読経していたのだが、聞いたことのない和音になっていた。
それが読経の言葉とともにうねっていく。
楽譜にはしようがない微妙な和音の変化。
音楽のように心地よいのと同時に、底知れない畏怖を感じた。

11月

18

山川草木悉皆仏性

日本人にはあらゆる存在に仏性があったり、神様が宿っているという感覚があった。
原子にも仏性があり、だから複雑なネットワークを通して生命が生まれてくるのだと思う。

11月

10

愛による、個人の全体化

個性を伸ばしていくと、個性同士がぶつかり合って、なかなか合意に至れないと考えがちである。
しかし、テイヤール・ド・シャルダンは、その背景にキリスト的な愛がありさえすれば、互いに認め合うことが可能であるとし、それが人類を統合するための鍵だとした。
みんなが同じ考えを持つべきと考えるのではなく、みんな違ってみんないい状態を、愛を通して生み出すことができるという。
それがいったいどういうことなのか、僕たちはまだ知らない。

11月

10

人間のエネルギー

テイヤール・ド・シャルダンが1937年に、船旅のさなかに書いた「人間のエネルギー」という短い文章がある。
「現象としての人間」を書くにあたっての準備のような文だと思う。
それはテイヤール・ド・シャルダン著作集の第二巻に入っている。
現在の世界を知ると何かモヤモヤした考えに覆われてしまう。
それを吹き払うのにいい。

10月

25

ナイト・レインボウ

本を整理していたら「Tales from the night rainbow」という本が出てきた。
No.04584に書いた「夜の虹」について書かれた本。
山崎美弥子さんに確かめたら、「はい。この本です」とのこと。
20年近く前にすでにその話に触れていたのに気づかずにいた。

9月

18

打ち上げの本当の意味とは

夢を見た。
何度か見た夢の続きのようだ。
でも実際にその夢を何度か見たのかどうかはわからない。
そういう感じがするだけなのかもしれない。
その夢の中で、「打ち上げの本当の意味」を探すことになる。
何かに一区切り付いて、打ち上げをするのだが、きちんと打ち上げようということになり、いったい何をすればいいのか悩むことになる。
その悩みの最中に知り合いが建物を建てたという。
建物の大きな壁面に何かを描きたいのだが、知らない人が勝手にいろんなことを描いていく。
「いったい私は何を描けばいいのか?」と質問される。
緑のような青のような深い色をしたその壁面はタイルで覆われていたので、黒いペンキで描いてもあまり目立たない。
何が描かれているのか知るために目を凝らす。
そのときに「打ち上げの本当の意味」を知る。
エリアーデによれば、祭は始原の時に戻ること。
神様がかつておこなった行為を繰り返すことが本義だという。
そのおかげで円環の時を人々は生きることになる。
それが「進化する歴史的な時」に変更されたのはキリストのおかげだという。
僕たちは進化する時の中で生きている。
僕たちにとっての「打ち上げ」とは何か?
打ち上げ花火は地上という二次元から、高さを得て三次元になる。
きっとその視点は神のものだったのだろう。
それを繰り返すのは円環の時を過ごす人々がすればいい。
「進化する時」を過ごす僕たちは、新次元を得るのが「打ち上げ」。
そう閃いて目が覚めた。

9月

12

鎌倉の大仏

生まれてはじめて鎌倉の大仏を見た。
青空を背景に美しかった。
最初の大仏は木製だったが、風で倒れて青銅製に作り直したという。
明応7年8月25日(1498年9月20日)の大地震で津波に流され、以来お堂は作らなくなったそうだ。
新型コロナの影響で、胎内には入れなかった。
800年近く瞑想していると、どんな悟りが開けるのだろう。

8月

26

古式フラ

青山スパイラルでおこなわれている山崎美弥子さんの個展「Night Rainbow」で、友人に「写真を撮ってあげるから好きな絵の前に立って」と言われて立ったとき、ふと古式フラの格好を真似してみた。
山崎美弥子さんはモロカイ島に住んでいる。
絵からはハワイのエネルギーが流れ出ているのかもしれない。
古式フラはお相撲の土俵入りのような格好をする。
男によって踊られる、力強い祈りだ。
相撲でも古式フラでも、踏ん張るのは大切なこと。

8月

18

気持ちいい状態にいる

これがなかなか難しい。
あーしてこーしてといろいろと考えてしまう。
泳いでいるときには水の動きを想像するといい。
それで思いついた。
なるほど。
瞑想のとき、なぜ光の回転を思うのか。

8月

6

祈り

人々は何度繰り返したことだろう。
成就されなくても、それが存在すると知っただけで、人の行動は変わるだろう。
それが継続する限り、希望は消えない。

8月

2

ウルトラマン

エリアーデ著作集の第六巻『悪魔と両性具有』を読んでいる。
第1章が「神秘的な光の体験」という章で、光にまつわる霊的体験がたくさん例として出てくる。
それを読んでいてウルトラマンを思い出した。
「光の国から僕らのために、来たぞ我らのウルトラマン」だから、幼い僕にとっては神様のような存在だった。
放映開始が1966年7月だから、僕はもうすぐ五歳になる頃。
どんな話だったかは忘れてしまったが、確か中東の砂漠の中から、ウルトラマンの石像が見つかるという話しがあったように記憶している。
その石像に僕は妙に惹かれてしまった。
「神秘的な光の体験」を読み進めていくと、光の信仰の起源はイランにたどり着く。

「これらすべての要素は、極めてイラン化された「宇宙主宰者-救世主」 の一大混淆神話にとって必要不可欠なものである。この神話は確かに、ある一つの形態あるいは別の形態をとって後のユダヤ教キリスト教に影響を与えた。しかしこれらの宗教観念のいくつかは、ミスラ信仰やイラン・セム的な混淆宗教に先立っている」 エリアーデ著作集の第六巻『悪魔と両性具有』p.60-61

これがウルトラマンの起源かと勝手に思う。

7月

20

全体性に触れる

書くのは簡単だが、実行は難しい。
そもそも全体性とは何か?
人間にとっての全体性とは、宇宙のことであり、地球のことであり、国家のことであり、地方社会のことであり、家族のことであり、個人のことであり、それらの総合でもある。
それぞれに支配している理屈は異なり、自分がどの観点からモノを見るかによって現れてくる思いや感想は異なり、その違いに惑わされていると即断即決はできなくなるため、多くの人はそれらの違いについてあまり深くは考えないのだろう。
しかし、長い人生について考えるとき、これらについてじっくりと考える必要がある。
いま僕たちが混乱の中にいるとしたら、この全体性に触れる機会なのではないか?
この答えも簡単に出すべきものではないだろう。

7月

17

東大寺戒壇院の広目天像

幼い頃、居間に東大寺戒壇院の広目天像の写真が飾られていた。
どうしてこんな怖い顔した仏像の写真を飾っておくんだろうと思っていた。
一方で、パパに似ているとも思っていた。
親父が死んでエッセイを読んでいたら、誰かに広目天に似ていると言われたという話が出てきた。
知っていて飾っていたのかと思う。
自分に似ているという仏像の写真を飾るっていうのは、どういうつもりなんだろう?
広目天の写真をどこかで見る度にその疑問が浮かぶ。
まあ、単純に嬉しかったのかな?

7月

8

山から星へ

昔、宇宙の中心は山の頂上にあった。
だから神様の多くは山にいた。
長い歴史のなかで、いろんな宗教が神様をいろんなところに連れて行った。
いろんなところに神様が現れるようになり、宇宙の中心は曖昧になったが、それでも人間のイメージとしては、山の頂上が宇宙の中心になることが多かった。
ところがある時から、星が宇宙の中心になった気がする。
その星の中心が宇宙の中心でもある。
それはもちろん象徴的なもの。
各個人が宇宙の中心にいて、いろんな存在につながっている。
星と星が重力や電磁波で結ばれているように。
山を象徴とするピラミッド構造を維持したい人は、星を象徴とする多次元的な人とのつながりに困惑し、一生懸命ピラミッドに戻そうとしているかのように思える。

7月

7

農耕神

バリ島の水田には、ほぼ必ずデウィ・スリの祠があるようだ。
僕が見たものは手のひらに載るくらいの小さな家のような形で、背丈より少し低いくらいの柱の上に置かれていた。
日本でいえばお稲荷様のようなもの。
昔は農耕がとても大切にされていた。
だから神様としても祀られる。
世界中に似た神様がいた。
宗教が低く見られるようになって、農耕の価値も落ちてしまった。
食べるものがなくなると困るのに。
農耕神がきちんと祀られているとウフッと思う。

6月

30

緊急事態宣言下の神社

緊急事態宣言下の神社は、手水舎が閉鎖され、拝殿前に吊された鈴も鈴緒がはずされ、これでお参りになるのかな?という状態です。
これは神社として正しいおこないなのか?と思ってしまいますが、こういうときこそ人間の創造力を発動させましょう。
まず、手水舎の前で手を洗い口をすすぐイメージをする。
一瞬でいいのです。
水の流れている音も思い出しましょう。
そして拝殿前に進んだら、鈴をガラガラと鳴らすことを想像します。
想像した音で清められる。
あとはいつものように参拝してさっぱり。

6月

28

神の居場所

昔、神は天空にいた。
その息子や娘が降りてきて、民を治めた。
その神は今はどこへ行ったのか?
自分の内か、メディアの中か、一般大衆という幻の中か?

6月

24

堕天使

「堕天使」という言葉があります。
天使だったのに、悪魔になってしまった存在。
悪魔を演じるしかしようがない存在。
堕天使のみなさん、自分が天使であることを思い出してください。
あなたの力は強大です。
あなたの力で多くの人が救われます。

6月

5

ヒジュラ

石川武志氏の『ヒジュラ〜インド第三の性』を読んだ。
これが出版された1995年にも興味を持ったが、そのときには読まなかった。
それから20年以上して読んでみる。
読む機会が回ってきたと言ってもいい。
いろんな意味で凄い本だ。
宗教として捉える。
ジェンダー論として捉える。
隠喩として捉える。
文化として捉える。
消えゆく歴史として捉える。
人の生き様として捉える。
いろんな刺激を受ける。

5月

22

ウダンを巻く

バリ島にいるアナック・アグン・グデ・ラーマ・ダレムさんとお話しするために、ひさしぶりにウダンを巻いた。
ウダンとは、バリ人男性が礼拝の時に頭に巻く、少しデザインに凝った鉢巻のことだ。
いまはほとんど裁縫されたものを頭に巻くが、凝る人は一枚の布を畳んであの形を作る。
知り合いになった僧侶から畳み方を教わって、一枚の布からウダンを作る。
なぜウダンを頭に巻くのか。
多くの男性が巻いたウダンに花を挿す。
そうすることで陰を装う。
男は陽、女は陰。
神様は陽、地上は陰。
しかし、男は陽だから神様の陽と反発してしまう。
だから、神様の前に跪くとき、男は陰を装う。
男の無意識にあるアニマ(女性性)と同一化するとも言える。

5月

13

バリ島の秘密

毎年のようにバリ島に行っていた。
2017年からアグン山の噴火が始まり、去年からはコロナで何年か行ってない。
ひさしぶりにお世話になっているアナック・アグン・グデ・ラーマ・ダレムさんとZOOMを介してお話しした。
バリ島の宗教はバリ・ヒンドゥーと言われるが、それはいろいろな宗教の渾然一体化だ。
アグン・ラーマさんとお話ししていると、どのように様々な宗教が習合されるのかわかるような気がする。
基本的には他を批判しない。
相手のいいところを自己同一化する。
自分の都合に合うように多少の改変を加える。
議論をする。
本当の答えは神のみぞ知る。

4月

22

賢者の石

賢者の石について、理系出身の僕は「馬鹿なことを考えていたな」くらいにしか思っていなかったが、ユングの『心理学と錬金術』を読んで唸ってしまった。
心の目で見ると現実は変わる。

4月

13

一炊の夢

中学二年の時、国語担当の榊原先生が、担当した生徒全員と交換日記を始めた。
ひとクラスだいたい40名。
担当していたクラスは多分4クラスはあっただろう。
すると毎週160名と交換日記をしていたことになる。
凄く大変だっただろう。
その第一回の課題が「日記に名前を付けて、その理由を書け」というものだった。
僕は確かことわざ辞典のようなものを引いて、「一炊の夢」という言葉を見つけ、日記の名前を「一炊の夢記」とした。
そんなことはすっかり忘れ40年ほど経ってしまったが、ユングが解説を書いた「黄金の華の秘密」を読んでいたら、その本の訳者(湯浅泰雄)が書いた解説に「一炊の夢」を見つけた。
「黄金の華の秘密」の各章が「呂祖師曰く」で始まるのだが、「一炊の夢」はその「呂祖師」が邯鄲(かんたん)の村で盧生という青年に教えた話なんだそうだ。
だから別名「邯鄲の夢」ともいう。
さらにへぇと思ったのは、呂祖師のことを道教史上に残したのは全真教という教団なんだそうだが、そこの開祖は王重陽というひとだそうだ。
重陽の節句に生まれて「陽二」と名付けられた僕は「一炊の夢」から目覚めてしまいそうだ。

4月

10

曼陀羅瞑想

中村元博士の説によると、カトリックの儀式は仏教の儀式と起源が同じだそうだ。
神(キリスト・仏)を自分に受け入れるという儀式は仏教では徹底している。
日本では空海が恵果和尚から伝えられて持ってきた胎蔵界・金剛界の曼陀羅を利用した修行が知られているが、僕はその概要しか読んだことがない。
僕が詳しく読んだことのあるのは、理趣経をもっと濃くしたような秘密集会タントラの現代語訳と、それを利用した曼陀羅瞑想法。
知識として知っていることと、実践することとは違うことを前提にして言うが、これを全部丁寧にやるのは大変だろうなと思う。
だからこその功徳もあるのだろう。