9月

23

青竹踏み

昔、両親が青竹踏みをしていた。
二十歳くらいの僕は「そんなことしてもたいした効果はない」と思っていた。
ところが歳をとり、来年還暦となると、なぜか青竹踏みがしたくなる。
そのことを相方に話したら、それ用の竹を買ってくれた。
せっせと踏もう。

8月

24

考えを反芻する

毎朝この『日刊 気持ちいいもの』を書くために、瞑想したり、考えを反芻したりする。
いろんな思いや考えが現れては消えていく。
反芻した考えを理解するためにはその前提となることも理解しないとならない。
毎日少しずつ考えることは、実は物凄い価値を生む。
その大きな価値は、毎日少しずつ考え続けた人が得る。

8月

21

丸みを帯びたもの

テーブルを選ぶとき、角が直角になっているものは選ばない。
角の部分には必ず丸みを帯びていて欲しい。
もしテーブルの角に頭などぶつけたら、直角なテーブルではひどい目に遭う。
だから丸みは緩やかほどいい。
家具でも街中のオブジェでも、曲面が広がっていると触ってみたくなる。
何度も撫でて、味わってみる。

8月

7

新月瞑想会

新月の日に瞑想会をしていたことがある。
環境の良い部屋を借りて、そこで瞑想会をした。
いろんな人が来てくれたが、しばらくして嫌になってやめた。
「なぜ新月に瞑想するのですか?」と聞く人が現れた。
バリ島のニュピがほぼ新月の日だったというのが僕のなかでの理由だが、質問する人はその効用を聞きたがる。
「そんなもの知らん」と答えるのもどうかなと思っていたので、色々と言葉を濁したが、それが嫌だった。
今にして思えば「そんなものは知らん」と答えればよかったと思っている。
「僕がそうしたいから」でもよかった。
でも面白いもので、今ではネット上で「新月 瞑想」と検索すると、いろんな理由を読むことができる。
僕はそれらを「本当か?」と思っている。
新月に瞑想するのは、僕がなんとなく良いと思うから、それだけだ。
自分一人だと新月の日に瞑想をするというのはなかなか難しい。
なおざりになってしまったりする。
そこで、ここで宣言をして新月瞑想を再開することにした。
そもそも『日刊 気持ちいいもの』も、自分一人でこっそりやっていたら長続きはしないなと思って始めたこと。
それと同じだ。
天文学的に最も新月である時間というものがある。
それを調べてその時間に瞑想する。
昼間だったり、深夜だったりすることもあるが、都合が悪くてできない時にはそれを伝えます。
もし一緒にやりたい人はやってみてください。
次の新月は8月19日(水) 11:42 です。
「一人でやるのはなぁ」とか「やり方がわからない」という方には、ネット上でZOOMを利用して誘導瞑想をいたします。
こちらからお申し込みください。
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/contact/
題名に「8月19日の新月瞑想に参加希望」と書いてください。
返信いたします。
そこにZOOMのURLや、参加のための手引きなどを書いて送ります。
参加費は無料です。
どんな宗教とも関係ありません。
8月19日(水) 11:42 に瞑想状態でいられるように、11:32から誘導を始めます。
11:30にはご入室ください。
11:30を過ぎるとご入室いただけなくなります。
瞑想は11:50頃には終了し、少しだけ皆さんの感想などを聞き、12:10には閉会します。
「なぜ新月に瞑想するのですか?」という質問はしないでください。w

8月

7

奇跡的なことを信じてみる

奇跡的な話というものを信じないように教え込まれている気がする。
「そうそう都合のいいことは起きない」と思い込まされている。
その思いがあるおかげで詐欺には引っかからない。
一方で、本当の奇跡に接したとき、そのことを素直に喜べなくなる。
よく話を聞いた上で、実際に体験することで、奇跡というものを信じると、何かとてもさっぱりとする。
例えば、清田益章さんに目の前でスプーンの柄を曲げて、ついにはポッキリと折ってもらったことがある。
疑いの目が見ているとモヤモヤするが「そういうものだ」と信じるとすっきりする。
自分の身の回りで起きることも同じ。
「そんなの信じられないよ」と思っている間はモヤモヤするが「そういうものか」と信じるとさっぱりとする。

8月

3

矛盾を受け入れる

毎日のように気持ちいいものを書いていると、自分の中で矛盾していることに気がつく。
そういうとき、かつては外界との関係を考えて正しいと思われるほうを選んでいた。
あるときから矛盾をしばらくそのままにするようにした。
すると居心地が悪かった。
今もときどき居心地が悪いことがある。
でも、それをそのままにしておく。
すると、個性化の扉が見えてきた。
その先はなんだろう?

7月

24

腑に落ちる

腑に落ちる瞬間、何が起きているのだろう?
なるほどとわかった感じがする。
しかし、全てをその瞬間に思い出している訳ではない。
にもかかわらずストンと感じる。
いや、身体の中から光が湧き出る感じかな。

7月

20

夏休み

7月20日といえば、夏休みの始まる日。
ずっと東京に住んでいる僕にはそれが固定されているかのように思っていた。
でも地方によって夏休みの長さは違うそうだ。
特に今年は全国95%の教育委員会が夏休みの短縮をするそうだ。
夏休みの最短は4日間だとか。
一体それはどこなんだろう?
普段は何日だったのが、4日間になってしまうのか。
世田谷区では31日間、大田区、豊島区などは16日間だそうだ。
都内だから普段の7月20日から8月31日の43日間がそれぞれ31日間、16日間となるのだろう。
塾や予備校の夏季講習はどうなるのだろう?
人が集まらなくて困るだろうな。
親御さんたちはきっと受験について心配し、つい感情的になってしまうかもしれない。
自分の立場も安定せず、子供の将来も心配となったら、ついイライラしてしまうかも。
そうした感情を脇に置いておくことが大切なことになりそうだ。
特に子供は親の感情に左右されてしまうもの。
普段接する親以外の大人の感情も大切かもしれない。
思い出してみよう、気持ちの良い状態の自分の感情。

7月

19

素晴らしいものを探す旅

一体何が素晴らしいのか、それすらわからなかった。
そこが振り出しで素晴らしいものを探し続ける。
探せば探すほど、よくわからなくなる。
そして見つける。
「素晴らしいものは滅多にない」という前提がないと、素晴らしいものは見つからないということ。
素晴らしいものを見つければ見つけるほど、素晴らしいものは見えなくなっていく。
素晴らしいものが見つけられなくなってしまったとき、すべてが素晴らしいものであることに気づく。
そういうものの見方を許容でき、そうではないものの見方も許容できる。

7月

15

静寂

静寂から言葉が生まれる。
どこから来たのかこの言葉。
内側に遍満する言葉がふとこぼれる。

7月

15

森の雫

昔、屋久島に行ったことがある。
そこにいる間ほとんど天気は雨。
カッパを着て山に入ると、清水か雨かわからない水が鬱蒼とした木々の間から降り注ぐ。
木漏れ日のように差し込む日差しが雫を輝かせる。
七色に輝く森の雫に囲まれて、縄文杉に向かって歩いた。

7月

13

些細な選択

些細な選択によって未来を作っている。
朝ごはんに何を食べたかとか、メールになんて書いたかとか、家族に朝起きてどんな挨拶をしたのかとか、普段なんとも感じてないような些細な選択に、実は未来への鍵があるのかもしれない。
「そんなこと言ったら何もできなくなるじゃないか」と考えるのではなく、そういう可能性にあふれていることを喜ぼう。

7月

8

亡くなった方を思い出す

時々、亡くなった方を思い出す。
何かのきっかけで思い出したり、ぼうっとしていたら思い浮かんだり。
それを「気持ちいい」というのは少々抵抗があるが、しみじみとしてよかったり、うるっとしたりする。
「あんなことしなければ死なずにすんだのに」とか「一緒にあれをすればよかった」とか、文句や悔いも思いつつ、最後に「出会えてよかった」と思う。

7月

7

四季〜ユートピアノ〜

1980年に製作されNHKで放映された単発ドラマ。
2000年を過ぎた頃に一度再放送された。
それを一度だけ見たのだが、とても印象に残った。
主人公の女性が調律師としていろんなピアノを調律していく。
淡々としたドラマだが、ピアノの音が印象に残った。
ピアノによってあんなにも音色が違うのかとはじめて知った。
もちろんピアノによって音の違いがあるのは知っていたが、置かれている場所によって響きが違う。
調律していくことでも音が変わる。
その些細な違いに気付かされていく。
ピアノの音が流れるたびに「うちのピアノの音と違うな」と思う。
うちのピアノの音と思い出の大切さをかみしめた。

7月

1

不快の区別

気持ちいいものについて4184もの区別を付けてきた。
そうしていると不思議なことが起きてくる。
「不快」のなかに気持ちよさを見つけるようになる。
または、「不快」と思い込んでいた感覚に、別の解釈を許すようになる。
それはいったいどういうことなのか、説明しようとしてもうまく説明できない。
あえて説明するなら、子供の頃に嫌いだった食べ物を大人になって好きになってしまうような感覚とでも言おうか。
「気持ちいいもの」について区別を与えれば与えるほど、「不快なもの」にも区別を与えていたのかもしれない。
それは自分が意図せずにも、心のどこかでそういう自動的な作業が発動していたのかも。
たとえば、気持ちいいものを表現すればするほど、太極図のようにどこかに不快な感覚がついてきて、そこに意図せぬ区別をつけていたのかも。
気持ちいいものを書き続けると、ときどきその作業が嫌になることがある。
それが陰の極まったとき。
それを過ぎて陽が現れるのをじっと待つ。
「気持ちいいもの」を書くように「不快なもの」も書ける気がする。
「不快なもの」を書き続けると、きっと「気持ちいいもの」にたどり着くのだろう。

6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

6月

27

子供と暮らす

幸せについて考えるとき、自分に子供がいないことが問題として現れることがある。
子供がいる人の幸せを理解できないのではないかと。
それは幸せにとってとても大きな要素のように思える。
赤ん坊のときその親は苦労する。
夜泣きしたり、理解できない行動をしたり、思わぬ事故にあったりする。
親はそれらに対処しなければ育てられない。
そのことを通してはじめて、「自分もそれをしてもらっていた」ことに気づく。
それは理性的に「気づく」だけではなく、感情的にも気づいていく。
「感情的に気づく」ということを説明することが難しいが、簡単に言えば、「理屈はさておき、大切にしたいから大切にする」という、損得もなければ、計算もなく、なんだかわからないけどただただ赤ん坊のためだけになることをしてしまう自分に気づくことだ。
それは言語的、理知的人間存在からは説明できないことで、生命がたどってきたすべての歴史を引きずってきている「心臓の鼓動」や「腸の蠕動運動」のように、それを感じて言語化しようとしてもしようがない、本能から引きずりだされる情動のようなものがそうさせる。
その情動にしたがって子供を育てることで、どんなに苦労してもあとで「よかった」と思える感情を親は手にする。
それはいろんな説明が付くかもしれないが、どんな説明も実は説明でしかなく、そのように感じるように生命は構築されてきたのではないだろうか。
子供と暮らすとき、その子が何歳であろうと、親は過去の自分と親の関係をそこに見出す。
その発見がどのようなものであろうと、親はそれを受け入れることで、幸福感に包まれるのではないだろうか?

6月

12

スマッジを焚く

ひさしぶりにスマッジを焚いた。
気分一新、気持ちが軽くなる。
ここのところ世相は暗いことばかり。
膿を出し切って気持ちよい世界の到来を期待したい。

6月

8

ピアノを動かす

十数年ぶりにピアノを動かした。
引っ越して以来はじめて。
50cmほど動かしたが、それで体中痛い。
引っ越して来た頃はピアノを少し動かしてもたいしたことはなかったが、十数年の歳月は僕のからだを老化させてくれた。
きっと若い頃より、死ぬのが楽なからだになっているんだろうな。

6月

4

揺れる

昨日までは作務衣がよかった。
着ていて心地よかった。
今朝起きたら、なんとなく半ズボンかなと思う。
半ズボンをはいて窓を開けたら涼しい風が入って来て、やっぱり作務衣かなと思い始めている。
揺れるのが気持ちいい。
というか、揺れてもいいというのが気持ちいい、かな。
マスクも、してもいいし、しなくてもいいというのがいいよね。

5月

31

抑圧からの解放

ひとは抑圧から解放されていく。
もしそうでなかったら、ひとはこれからますます暴力的になっていくだろう。
インターネットのおかげで万能感が与えられ、それにも関わらず抑圧され続けることで、ひとは心の中に鬱憤を溜めていく。
鬱憤を溜めない人になるために、何が必要か?
それを各個人が自分で考えていかなければならない。
制度で決められたものには不満が生まれる。
だから、他人が決めてもあまり意味がない。
自分が自分の内側の抑圧を、自分で解放していくしかない。
そうなるとエゴばかりのひとが現れてくるという恐怖を抱える人がいるが、そうはならない。
出し切るまでの間、エゴのかたまりのようなひとが現れるかもしれないけど。
人類は抑圧から解放されることで、以前には想像もつかなかったものを生み出すだろう。

5月

30

過去と未来

過去も未来もどこにもない。
ただ「いま」があるだけ。
過去は「いま」思い出したこと。
未来は「いま」空想したこと。
美しい過去も悲惨な過去も「いま」それを作っているだけ。
美しい未来も悲惨な未来も「いま」それを作っているだけ。
どんな過去や未来を作るのか?

5月

26

観の目と見の目

僕が幼稚園に通っていた頃、母が不思議なことを言いだした。
道路を渡るとき、こんな話をしてくれた。
「ようちゃん、横断歩道を渡るときどうする?」
「右見て、左見て、もう一度右見てから渡る」
「そうね、そう教わったよね。でもね、ようちゃんはこうしてご覧なさい。まず横断歩道の前に立ったら耳を澄ますの。そしたらまわりで走っている車は一度に全部わかる。それで左右を見るのはその確認。それから渡りなさい」
以来そうして渡った。
あとで気づくのだが、そうしていると横断歩道を渡るとき以外にも気配に敏感になる。
大人になって宮本武蔵の『五輪書』を読んだ。
母が言ってたことを宮本武蔵が別の言葉で書いていた。

目の付けやうは、大きに広く付くる目也。観見(かんけん)二つの事、観の目つよく、見の目よはく、遠き所を近く見、ちかき所を遠く見る事、兵法の専也。敵の太刀をしり、聊(いささ)かも敵の太刀を見ずという事、兵法の大事なり。

5月

22

幸せな感覚

静かに座って、心を遊ばせる。
思い出の場所、うきうきした感覚、一緒にいた人、空気の感触、過去の出来事。
未来について思い描く。
見たことのない景色、見たことのない現象、はじめての感覚、聞こえてくる音楽。
いま、ここにいて幸せ。

5月

17

非二元意識

一時期スピリチュアルな人たちの間でも「ノンデュアル」として話題になっていた。
僕がその存在を知ったのは二十年以上前、ケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』にその言葉が出て来たから。
その本の中で何度も「非二元的な知の様式」などという言葉で登場する。
はじめて読んだときはフロムの「生きるということ」に出てくる「あるということ」のように、意味がわかったようなわからないような状態だった。
書いてあることは理解できるが、言っている本当のところが、僕の想像しているものと同一のものかどうか自信が持てなかった。
ところが、「非二元的」なことが、いろんな本のあちこちに登場していることが、これ以降少しずつ理解できるようになった。
あれから二十数年、いまではすっかり「非二元」の追っかけフリークのようになってしまった。
ヒーリング・ライティングを通して、それをかいま見るにはどうしたらいいのか、伝えられるようになりたい。
でも、そのまま伝えられるものではなく、だからこそ秘教と言われている分野に登場するので、本にしたところで正しく伝えられるものではないことは知っている。
それでも、それを求める冒険の入口に立てるような本にしたい。