4月

24

水の底から空を見上げる

アウトドアのプールに入ると、ゴーグルをして潜って、底から空を見上げる。
景色がゆらゆらと揺れてなんかいい。
無意識と顕在意識が入れ替わり立ち替わり去来する。
無意識は気づいたときに顕在意識となり、無意識ではなくなる。
このあるんだかないんだかわからぬ狭間を感じるのがいい。
楽しみすぎると窒息する。

4月

20

写真を撮る

鳥やトンボが飛んでいるところとか、イルカがジャンプした瞬間とか、撮るのが難しい写真を撮るのが好きだ。
まさにその瞬間、「shoot a photograph」だ。
狙い澄まして撃つ。
狩りではないが、狩りのよう。
あとで獲物の写った写真を見てにんまり。

3月

17

ジェットバス

ジェットバスの気持ちいいところは一体何か?
入りながら考えた。
勢い良く泡が出てくるので、その肌の感触がいいというのは当然だが、それよりも僕は、水面で泡がはじける音の方に気持ちよさがある気がする。
なぜだか知らないけど、水の音には癒される。
肌の感覚はしばらくすると麻痺して感じなくなるが、ゴワーッという音が心に沁みてくる。

2月

28

全体観を持つ

インターネットというメディアのおかげかもしれませんが、立場が違うと見えるものやことが違うということに多くの人が気づいてきています。
父は「敗者の文学」というのを追求していました。
負けた者から見た世界は、勝った者から見た世界とは違うということを小説の中に織り込んでいきました。
多くの人がそれに気づくことで、正しいとか間違っているとか、そういうことの基準が揺らいでいるように感じます。
その基準が動くことで、さらに多くの人たちが心地よく生きていけるようになればいいと思います。
でも実際にはそのゆらぎがいいことにも悪いことにも作用しているようです。
きちんと区別して行動していきたいものです。
たとえば、個人が感じる歴史と、国が解釈するであろう歴史とは異なり、どちらが正しいかというのは一概には決められません。
だからときどき、自分という枠を離れて、国や地球という視点からものを見ることもいいですし、逆に微細な生物がもし外界を見たらどんなことを思うのかということを空想するのも意味のないことではないでしょう。
そういう解釈を積み上げていったとき、いったい何が現れてくるのか。
それが僕たちの未来を思わぬ方向に導くような気がします。

2月

18

3768個の気持ちいいもの

僕がなぜ「気持ちいいもの」を書き続けているのか、その理由はここに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/feelgoodblog/what_is_daily_feel_good/
そして、自分の心の中で様々なリフレーミングが現れるのだろうと期待していた。
3768個も書き続けてきて、そのリフレーミングが複雑に積み重なり、なんともいえない状態になりつつあることを感じる。
これはきっとある種の悟りなんだろうなと僕は思う。
ただし、ブッダの悟りとは明らかに違う。
いろんなお経にあるように、別世界へと僕の心は旅立つことはない。
かつてバリ島でニュピの瞑想をしていたとき、朝日とともに弥勒菩薩が飛んで来て、一体化した経験がある。
もちろん夢だと思うのだが、夢にしては生々しいし、それで一気に目が覚めた。
それ以来、ときどきそのときのことを思い出す。
もちろん、この「気持ちいいもの」を書いているときにもしばしば思い出した。
言葉にすることでできた森。
多次元な感覚を再生するための鍵。

2月

5

乱気流

このところ世の中は乱気流できりもみ状態。
いいなと思った次の瞬間に、どうしようもない流れがやってくる。
そのなかで飛行体制を整えていくのは骨が折れる。
でも、難しいことをしているという喜びが生まれる。

1月

7

チュルチュルを思い出す

ふとしたときにチュルチュルを思い出した。
チュルチュルとは、麺類を総称した幼児語で、母がよく幼い僕に「チュルチュル食べましょうね」というふうに使っていた。
先日そばを食べていてそのことを思い出す。
そのときに一緒に思い出したのは、うまく言葉にできない感情だ。
それはずっとチュルチュルだと思っていた幼い僕が、チュルチュルに区別があることを知り、「このチュルチュルはおそば、このチュルチュルはうどん、このチュルチュルはラーメン、このチュルチュルはそうめん」と区別したときのなんとも言えない感情。
このチュルチュルはおそばであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはうどんであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはラーメンであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはそうめんであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
でも、僕と母さんのあいだにはチュルチュルに関してのたくさんの思い出がある。
しかも、当時の僕はこれほどはっきりした区別が持てず、何だかよくわからないけど何かに引っかかっている感情を感じ、どうしようもないのでどうにもできなかった。
この当時の僕にとっては複雑な思い。
そんな感情を大人になって味わいなおす。
言語化して区別できると「なんだかなぁ」という感情が生まれるが、きっと幼い頃の感情とは少し違うものなのだろう。

12月

15

太く書く

太いペンで、太い鉛筆で、太い筆で、太く書く。
普段は小さな手帳にチマチマ字を書いているので大きな紙に太い字を大きく書くのがうれしい。
ムハハ。

12月

13

ジョギング

ジョギングは習慣になるとせずにはいられなくなる。
はじめのうちはダイエットとか、健康のためにとかいって始めるが、次第にからだが慣れてくると、走りたいから走るようになってくる。
もしダイエットが理由なら、体重が減少して目標値に達すればしなくてもいいことになる。
だけど、目標に達しても、僕の場合はジョギングを続けた。
なぜかと問われれば、走ることが気持ちがよかったからだ。
ここまで書いて思考は飛躍する。
仕事も気持ちいいからするようになれるといい。
仕事は義務だから嫌々するものと思い込んでいる人がいる。
それは「嫌々でもさせたいことがある人」が考えることで、自発的にそう考える必要はまったくない。
「嫌々でもさせたいことがある人」の洗脳によって、多くの人がそういうものだと考えるようになってしまったようだ。
したい人がジョギングするのと同じで、したい人がしたい仕事をすればいいと思う。
その人が自分の技術を高めようと考えれば、他の人がしたいとも思わないこともするようになっていく。
たとえば僕の場合は、ジョギングを続けることでマラソンを走りたいと思うようになった。
それで42.195kmを走れるようにいろんな工夫をする。
嫌々そんなことをさせられたら、僕にはマラソンは無理だっただろう。
働くことも、もし気持ちよければ自発的な工夫がたくさんできる。
それが自然なことだと思う。

12月

11

朝の足音

寒い空気の中、駅へと急ぐ足音。
車の走る音。
クラクション。
エンジンを吹かす音。
地下鉄の入口から階段を降りていく。
毎朝繰り返される重い足音。
気分を明るくするために聞く音楽が耳の中で鳴っている。
朝の足音をかき消すために。
何度も繰り返される朝の足音を
重く感じるようになったのはいつの頃からだろう。
入試を通過して始めて学校に行く朝、
足音は軽かったはず。
まわりの重い足音が可笑しかったはず。
いま僕は重い足音の群れのひとつ。
軽やかな足音を夢見ながら。
通った学校での心ときめく出会い。
知らないことを知る喜び。
一緒にバカをする仲間。
朝の足音を変えよう。
ピカソのように。

12月

9

異形化する身体

臼田夜半さんが目取真俊さんの作品について講演をしてくださった。
そのなかで「異形化する身体」という話が出てきた。
精神がからだを変形させるというのだ。
救われてない、赦されてないという思いがからだを変形させる。
これはまったく科学的な話ではない。
なぜなら定量化できないから。
これだけ思うとどれだけからだが変化すると決める訳には
いかないから。
だけど、精神がからだを変形させるということがあっても
不思議ではないような気がする。
もし生物の精神が
からだを変形させることができるとしたら、
現代の僕たちはどうからだを
変形させていくのか?
その結果がサイボーグ化なのかもしれない。
ただし、目取真俊の話は
無意識によって異形化するからだ、
サイボーグは意識的な構築、
という違いはあるが。
臼田夜半さんの講演内容はこちら。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=697

12月

8

読書

いったい何冊の本を僕は読んできたのだろう?
それらの蓄積で部屋は一杯。
もう一度読みたいと思う本しか残してないが、
それでももう部屋はパンパン。
若い頃、本は一度しか読まないものだった。
大人になってから再読の楽しみを知る。
書斎の本を一度に全部読みたいが、
時間をかけて読むのが楽しみ。
思い出しては一瞬で味わうのもいいけどね。

12月

7

空想の翼を広げる

小説を書いているととときどき
筆が止まることがある。
なぜかその先が書けなくなる。
精神的障壁が立ち上がる時。
その障壁は姿が見えない。
そんなとき、空想の翼を広げる。
普通にはあり得ないことを考えてみる。
この世界は謎に満ちている。
この小さな頭で考える程度の空想では
とても収まり切らない。
だから安心して大風呂敷を広げる。
いや大風呂敷じゃ収まらない、
無限平面を広げよう。

12月

6

おもろさうし

昔懐かしい歌詞の一部が
はじめて読む文章に
埋め込まれていると
それを読んだ途端に
感覚が懐かしい頃を思い出す。
そのことを思いながら
「おもろそさうし」を読むと、
沖縄のきらびやかな時代が
どのように編まれていたのかが
わかるような気がする。

11月

21

非二元

二十年以上前、ケン・ウィルバーの
『意識のスペクトル』を読んで以来、
非二元という言葉の意味が
いまひとつ理解できないでいた。
わかったような、わからないような
ムニュムニュ状態。
それがふとつながった。
仏典の多くも、
一部のスピリチュアリストも、
一部の哲学者も
このムニュムニュを説明したくて
がんばっていたのだ。
言葉自体が非二元的ではないので
文字にすると
ムニュムニュしてしまうのは
仕方ないのだ。
いまはどんな非二元に関する質問にも
答えられるような気がするが、
実際には
ムニュムニュしてみないと
わからない。

8月

22

イルカに教わった泳ぎ方

プールで泳ぐようになって八年ほどたつ。
はじめのうちは長く泳ぐのが大変だったけど、
最近は慣れた。
ゆっくりと効率的に泳ぐとき、
何が役に立ったかというと
イルカの尾びれの動かし方だ。
イルカはゆっくり泳ぐとき、
放物線を描いて落ちる球のように
尾びれがリズミカルに
遅くなったり速くなったりする。
きっとあれを真似したら
楽に泳げるのではないかと考えて
そうしてみた。
するととても楽に泳げる。
高校生の頃、指揮をするのに
似たことをした。
それもきっと役に立っている。

8月

2

脱筋肉痛

大山阿夫利神社の奥社に行き、
きつい山登りをしたために
数日間筋肉痛だったが、
やっと治ってきた。
立ったり起きたりするのが
大変だったが、
いまは普通に戻る。
普通に生きていられるって幸せ。

6月

26

夏らしい日差し

冬のあいだに顔ばかりが
日焼けしてしまった。
プールでときどき会うおばさんに
「顔ばかり黒い」と言われていたが、
暑くなってきて半袖を着るようになり
腕も日焼けしてきた。
これで「顔ばかり」
とはいわれないだろう。
じりじりと肌が焼かれる感覚に
ムフフと思う。
顔と腕ばかりが黒いのは
いかがなものかと思うけど。

6月

23

元気な言葉

元気な言葉は癖になる。
一度聞いて元気になると
もう一度聞きたくなる。
二度聞いて元気になれると
三度目も聞きたくなる。
でもそれって、
言葉じゃないんだよな。
それを発する
人の雰囲気だったりする。
こうして人は恋に落ちる。

6月

11

襞になる雨音

窓を開けて畳の上で横になる。
外では雨音。
緑の木々を打ち鳴らす。
風の流れで襞になる。

6月

7

繰り返すことを楽しむ

同じことを何度も繰り返すと
たいてい飽きる。
ところが何度やっても
飽きないことがある。
それが「商い」になると
商売をしている人はよくいう。
でも、商売以外でも飽きないことは
たくさんあって、
人はそれをしていけば
いいんだろうなと思う。
同じことを何度もしてているうちに
工夫が生まれ、
工夫がいくつか積み重なって
発明や発見になり、
その人にしかできない
何かが生まれる。

6月

5

力を抜く

何かがうまく行かないとき、
からだ全体の力を抜く。
肩に力が入っていたり、
腰に力が入っていたり、
ふくらはぎに力が入っていたり、
思わぬ所に力が入っていたりする。
椅子に座って楽にして、
からだのすみずみを感じてみる。
足や手、お腹、背中、首、肩、
あご、口、目、額、耳、頭皮などを
順番に感じてみる。
どこかに力が入っているのを感じたら、
その力を緩めましょう。
「がんばってくれてありがとう」
といいながら。

5月

12

水面を見上げる

水中メガネやゴーグルをして
水面を見上げる。
太陽の光は柔らかくなり、
木々や建物が踊り出す。
プールサイドは見えなくなり、
底に沈めば静けさに押しつぶされる。

5月

8

イルカと泳ぐビジョン

今朝、ここに何を書こうかと
瞑想していたとき、
ドルフィン・スウィムの
ビジョンを見た。
小さな船で海に漕ぎ出すと
イルカが群れでやってきた。
ウェット・スーツを着ていたので
すぐに海に入りたいと思うが、
シュノーケルとマスクがない。
仕方ないので普段プールで使っている
競泳用のゴーグルで入る。
なんでこんなビジョンを
見るんだろう?
ひさしぶりに
『日刊 気持ちいいもの』の
バックナンバーを検索した。
こんな文章が出てきた。

No.00133 00.06.09
イルカと一緒にでんぐりがえし

先週、御蔵島に行った。
年に一度イルカと泳ぐために行く。
御蔵島のまわりには、
野生のイルカが生息している。
しかも彼らは人間を恐がらない。
機嫌がいいと寄ってくる。
今年はイルカの機嫌が
やたらとよかった。
普段なら一緒に泳いでも
息継ぎするときに
離れてしまうのだが、
今回は一緒に息継ぎをしてくれた。
それも一度や二度ではなく何回も。
若い二頭のイルカが寄ってきたので、
きりもみ状態のようにして
クルクルと潜っていったら
彼らもまねして潜ってきた。
息継ぎに海面に出ると彼らも
息継ぎした。
次は潜りながら彼らを追っかけると
上へ行ったり下に行ったり
でんぐりがえしを
何度かすることになった。
そして息継ぎ。
彼らも彼らにとっては
再びする必要もないはずの
短い間隔の息継ぎをした。
次はきりもみ状態と
でんぐりがえしを一緒にやってみた。
方向感覚がなくなる。
しかも深くなれば水圧で頭が
締められる。
彼らもなんか一緒に
グルグルしているみたいだ。
自分が回っているので
よくわからない。
息継ぎに上がると目が回っていた。
彼らもまた息継ぎし、
深くへと潜っていく。
負けてはいられない、
もう一度潜った。
その後、何回一緒に潜っただろう?
五回か六回か? 
船にあがると同行していた友人が
うらやましがった。
僕もはじめての体験だった。

これは18年も前のことだ。
今はこのときほど体力がないだろう。
でもいつかまたイルカと
泳いでみたい。
泳ぎながら彼らとときどき目が合う。
恋人と目が合ったときのように
キュンとするんだよ。(笑)

5月

4

ケチャ

バリ島に行くと
ケチャをどこかでやっている。
声によってさざ波が生まれ、
そのモアレに頭がしびれる。
声の干渉は色彩をもたらし、
丸く座った男たちの上に
風を呼び起こす。
バリ島全体がキュビズムのように
視点の定まらない高次元立体物に
なっていく。
時を超え、場所を超え、
意味すらも超えた迷宮に包まれる。