8月

6

錯綜する思考

僕のなかには矛盾がたくさんある。
あるときは好きだったものが、別のときには鬱陶しくなり、あるときは興味のあったものが、別のときには無関心になる。
そういう自分の勝手さは、たいてい意識されない。
気持ちいいものを3900回も書いていると、そういう自分に向き合うことになる。
そういうとき、ちっとも気持ちよくない。
だけど、この不快さが新しいものを生み出す力になる。
不快だけど気持ちいい。
こういう矛盾した僕の心よ。
不快だけど気持ちいいという、論理的には理解し難い感覚よ。

8月

2

肩や首が凝ること

泳いでいるとときどき、肩や首が凝っていると感じることがある。
そういうときは体を緩める。
ついでに気持ちも緩める。
一日中PCに向かったりしていると、知らないうちに無理をしている。
そういう年になってしまった。
泳ぎながらからだと気持ちをほぐす。
肩や首のコリはいい合図。

7月

30

感覚の麻痺を超越

快感はしばらくすると当たり前になり、同じ快感を得るためには強い刺激を与えなければならなくなる。
気持ちいいものを書くことは、これに逆らっている。
だからこれは普通に考えると続かない。
それを越えて続けていくと何が起きてくるのかという実験だ。
「わずか、ほのか、かすか」を感じること。
夢を持つこと。
いまを生きること。
力を抜くこと。
環境に委ねること。
うまくいかないときは手放して再創作すること。

7月

19

縄文化

1997年、ヒーリング・ライティングを始めたとき、いったい自分が何を始めたのか、よくわかっていなかった。
いまでもよくわかってない部分があるだろう。
でも、わかった部分もある。
当時、自分で書いた文章を発表する人は少なかった。
インターネットが始まったばかりの頃だ。
ヒーリング・ライティングを始めて「文章の書き方をわざわざ学ぶかな?」と言われた。
でも、そこそこ人は参加してくれた。
癒されるために。
癒されて文章が書けるようになると、たいていの人はそこでやめる。
方法を手に入れたから。
当初はそれでいいと思っていた。
しかし、時間とともに何かが変わっていく。
何が変わったのだろう?
それは環境や社会だった。
インターネットが一般化し、SNSが広がると、みんな何かしら文章を書くようになる。
とても短い簡単な文章を。
かつて文章を書く人はこんなことを言った。
「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」
多くの人はそのズレを埋めるために文章を書き、その結果文章がうまくなっていく。
しかし、SNSができると「書きたいと思うことと、実際に書いていることにズレを感じる」という人は鳴りを潜めた。
「イイネ」が付くことで安心する。
自分の心に書いていることのズレを聞くのではなく、他人に認めてもらって満足する。
「自分が感じていること」について深くは考えず、みんなが「イイネ」してくれることに流されていく。
僕みたいに「自分の心に聞いてみる」なんて奴は鬱陶しいだけだ。(笑)
こうして自分と社会との分断が始まる。
自分の心は置き去りにして、社会に同調することを覚える。
自分は社会の部分となり、全体にはなり得なくなっていく。
その結果、心も次第に部分しか見えなくなる。
選挙のときにそれが現れる。
「どうせ僕の一票は何の役にも立たない」
部分しか見てないために全体が見えないからだ。
政治について考えるためには全体を知らなければならない。
自分の住んでいる地区、都道府県、日本を知った上で、世界全体を考え、経済を考え、過去と未来を考える。
きちんと考えるためには、日常生活を送っている多くの人にとって時間が足りない。
全体を知るなんて無理としか思えない。
だから棄権する人もいるだろう。
だからあまり考えずに投票する人もいるだろう。
僕もかつてはそうだった。
いまでも本当に全体を考えているのかどうかはかなり疑問だ。
「全体」というものは得られるようで得られない。
話を簡単にするためにたとえとして三つの人格を取り上げる。
「読者」と「作家」と「編集者」。
ヒーリング・ライティングではこの三者が一体になることを目指していた。
それに気づいたのは最近のこと。
三者が一体になると全人格者になれると仮定する。
この三者が一体になどなれるのか?
「読者」も「作家」も「編集者」も、断片的な人格なのだ。
「読者」はただ受け取るだけ。
「作家」はただ発信するだけ。
「編集者」は「作家」が発信したいことを「読者」が受け取りやすくする工夫をするだけ。
工業的な社会ではそれで良かったと思う。
情報化社会になってこのような分断は、精緻に組み合わされるようになる。
インターネットでは「読者」であり「作家」であり「編集者」であることを求められる。
円環が閉じつつある。
分断されていた「読者」「作家」「編集者」が統合されていく。
きちんと統合されるためには学ぶ必要があることがとても増える。
しかし、それらを学び切って新たな地平に立つ人が増えていくだろう。
端から見ているとそこにはほとんど何の変化もない。
癒しと同じだ。
それは、深い解釈とともにもとの状態に戻ること。
分断は、統合のために必要なステップ。
ここで話は一気に飛ぶ。
すでに長く書き過ぎた。
日本人は深い解釈とともに縄文の社会に戻っていく。

7月

13

混沌

いま世界は混沌としている。
多数決がいいのか悪いのか。
資本主義がいいのか悪いのか。
貨幣経済がいいのか悪いのか。
AI導入がいいのか悪いのか。
あるイデオロギーがいいのか悪いのか。
いろんないいのか悪いのかが問われている。
いいのか悪いのかを適当に決めるのではなく、豊かな会話のあとでそれを決めないと、あとで困ることになる。
きちんと相手の話に耳を傾け、伝えるべきを伝えましょう。
そのためには時間が必要なのかも。

6月

26

誰かに読んでもらわなくてもいい文章を書くこと

毎日、誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらっている。
そう、これを読んでいるあなたにだ。
ありがとうございます。
こう書いた瞬間に僕は、誰かに読んでもらうための文章を書いている。
誰かに読んでもらうか もらわないかは、書いているときにはよくわからない。
結果としてそうなるか、ならないかだ。
だけど、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章には違いがある。
それはかつてはうまく区別できなかったが、いまはできる。
それを言葉にしようとするとき、言葉の難しさに直面する。
それを適切に概念として区分する言葉がないのだ。
しかも、3870回も曖昧にしてきたことは、言葉にするとどうも矛盾しているように読めてしまう。
だからここに書いても誤解が生じるかもしれないけど、言語化しない限りはその区分は明確にはできないと思い、書いてみることにした。
自分にだけ響くことは、矛盾に満ちている。
だから、誰か宛に書こうとすると、文章に修正が入りがちになる。
必ず修正する訳ではない。
自分に対して書いているから修正はしないようにする。
だけど、それでも修正してしまう。
自分が修正していると気づけば、修正をしないことを選択できる。
しかし、修正しているかどうかがとても微妙なときがある。
なぜなら基本的に言葉とは他人に伝えるものだからなのだと思う。
一方で、自分だけの心に留めておく言葉もある。
それは、言葉として区分しないと意味がわからないような気がするからだ。
たとえば、いま論じている、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差。
これは「日刊 気持ちいいもの」を書くとときどき感じる差なのだが、それをきちんと言語化できる言葉を知らない。
説明を重ねればそこに自分が思い出す感覚は思い出せるが、他人がそれを正しく汲み取ってくれるかどうかはわからない。
きっと汲み取れないだろうと思う。
その微妙な区別。
その微妙な区別は他人に伝えて果たして意味があるのだろうか?
きっと意味は生まれてくるのだろう。
ただし、僕が感じている感覚と、これを読んで何かを感じる人の感覚は、同じかどうかはわからない。
これは、きっとどんな感覚も、言葉になっている感覚はすべてそうなのだろう。
だから、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、気にしなくてもいいのかもしれない。
でも、あえて気にしてみる。
そんなことに意味があるのか?
意味は生まれてくるのだ。
なぜそう思うのか?
かつてBlog「水のきらめき」にこんなことを書いた。
長いが引用する。

___引用開始

今年(2010年)1月に『奇界遺産』という本が出版された。大判で3,990円もする写真集だ。これがなかなか僕の目を釘付けにしてくれる。

表紙もインパクトがあるが、内容もなかなか凄い。なかなか出会えない景色がどこまでも続いていく。

(中略)

洞窟の中にある村、ブータンの男根魔除け図、直径34mのミクロネシアの島に住む日本人、巨岩の上にある住宅、地獄絵図のテーマパーク、神々の像で満たされた奇想の庭園、中華神話のテーマパーク、巨大龍の胎内を巡る道教テーマパーク、キリストをテーマとした遊園地、世界の果て博物館、世界に散らばる「珍奇」を蒐集した元祖変態冒険家の博物館、貝殻で作られた竜宮城(写真のページ)、世界八大奇蹟館、ミイラ博物館、アガスティアの葉、死体博物館、ボリビアの忍者学校、三万体もの人骨が眠る巨大な地下迷路、人骨教会、エリア51、7万人が聖母を目撃した聖地ファティマなど、世界の不思議なものや景色や人などをゴリッと撮影してある。

これらの写真を撮影した佐藤健寿氏はオカルト研究家を続け、ある疑問を抱いたという。それは「これ(オカルト)って本当に必要なのだろうか?」という疑問だ。こんなことに一生を捧げてもいいものか。この疑問にあのコリン・ウィルソンが『アトランティスの遺産』という本の中で答えてくれたという。

ネアンデネタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟の中に獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである。

この一文のいったいどこがその答えなのか、一見しただけではちっともわからない。しかし、佐藤氏はこんな文を書いている。

壁画、すなわち<芸術>であり<魔術= オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。

無論、多くの識者達が口を酸っぱくして指摘してきた通り、青年期の悩みにコリン・ウィルソンは劇薬、すなわち<混ぜるな危険>である。しかし私はこのアウトサイダーならではの大胆な発想に、大きな感銘を受けたのだった。<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているのかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。しかしこの事実をラスコーの逸話にたとえるならば、これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと>、それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。

以上の試論を踏まえた上で、私は「現代のラスコー」を探すべく、旅にでた。世界各地を歩き、この<奇妙な想像力>が生み出した<余計なこと>を、ひたすら探し求めたのである。…

『奇界遺産』 佐藤健寿著 エクスナレッジ刊より

___引用終わり
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p1760/ より

誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、きっとここでいう「究極の無駄」だ。
だけど、その「究極の無駄」をなんとか「現代のラスコー」にさせたいと思う。
一方で、「そんな煩悩を持ってどうする?」という感覚もある。
坐禅を深く探求したことはないが、禅問答とはこういうものかもと思う。
読んでもらわなくてもいい文章を、読んでくれてありがとう。
でも、この文章は読んでもらうために書いた。
自分の心に響かせるためだけに書いたら、きっと意味が浮上してこない。
言語は他人が必要なものなのだ。
このことと、5月16日に書いた「悟った」や5月17日の「質問」がつながっている。
多くの人は「言葉」は自分と区別されていて、「言葉」として存在するものだと思っていると思う。
なぜなら、僕がそうだったから。
だけど「言葉」は、人間が形作っている社会の要素であり、その意味では人間と同列に考えてもいいものだ。
社会というホロンにとって「人間」も「言葉」もその要素であるという意味で。
つまり、人間が言葉を使っているように僕たちは考えるが、言葉が人間を動かしているとも言える。
言葉は区別を微細にし、いままでにない区別を生み出し、人間を新たな状態に押し上げて行く。
言葉のおかげで表れた区別は、たとえそれが他人に伝えられなくても、その言葉を抱える人間に新たな区別を与えることで、その人間の行動に変化を与え、やがてその変化は社会ににじみ出てくる。
このことと生命の進化がつながっている。
「自分が響くためだけの文章」には、自分の思い出と経験が感情に練り上げられた鍵となる言葉がちりばめられる。
一方で「誰かに読んでもらうための文章」は、誰かの思い出と経験が感情に練り上げられる鍵となるであろう言葉を手探りしていく。
この手探りは正しいものかどうか、誰かに読んでもらうまではわからない。
結局、「他人に読んでもらうための文章」を書いていると思いながら、「自分が響くためだけの文章」しか書けないのかもしれない。
「誰かに読んでもらうための文章」を書きながら、自分の心中にある他人と同調する部分を探しているとも言える。
つまり、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると言うこと。
さらにいうと、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると思い込む部分と、そうではない部分が同居しているということ。
そうではない部分については、またいつか書いていこう。

6月

25

自分に響くことを書く

この「日刊 気持ちいいもの」では、自分が気持ちいいと思うことを書いてきた。
まったく利己的である。
他人がどう思うかはさておく。
自分にとって響くことだけを書こうとしてきた。
そして、毎日成功したり、失敗したりしている。
そうやってきてしばらくするとあることに気づいた。
誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらうとはどういうことか。
これはいろんなことを考えることになる。
そして、その考えたいろんなことが、一見すると矛盾している。
その矛盾の中に、というか、その矛盾自体が真実の一端だと理解した。

6月

6

好きなら好きだとはっきりいえ、ない

最近この『日刊 気持ちいいもの』では、気持ちいいのかよくないのか、はっきりしないものが取り上げられるというご意見をいただきそうな気がする。(笑)
気持ちいいものを追求していった結果、「気持ちいい」と「気持ちよくない」の二分化は正しくないなと思うに至った。
どんな感覚でも繊細に感じていくと、「いい」部分と「よくない」部分と、さらに感じていくと「いいともよくないともいえない」部分が現れてくる。
それを「いいか悪いか」で二分するのはどうも違うなと、3859回も書き続けて感じるようになってきた。
ある日には「いいな」と思っていたものが、別の日には「それほどよくないな」と思うことなどいくらでもある。
しかし、一度「いい」と言ってしまったら、「正しい自分を演出するため」にはいつでも「いいものはいい」といい続けなければならないような気がしていた、というか、そういうことを意識もせずにそれを結果として心がけていたように感じる。
最近それは違うなと思うようになった。
右翼か左翼かと問われたとき、たいていの人は違和感を感じながらかつてはどちらかを選んでいたのだと思う。
でも、最近のセンスのいい人は「どちらかには決められない」と思っている人が多いのではないか?
立場やその日の状態や、話す相手などによって、言いたいことが微妙に違うのはよくあること。
あって当然だろう。
時代がその曖昧さを許容できるものになってきた。
国会も多数決だけで考えているのは時代遅れではないか?

5月

25

半ズボン

今年も半ズボンの季節が来た。
令和になってはじめての半ズボン。
だからといって特に何かが変わる訳ではない。
「令和の半ズボンは特に涼しい」とかだったら笑ってしまう。
うちで履くのは全然問題ないが、出かけるときに履くかどうかはまだ迷うな。
でも、いまのうちなら蚊に刺されないし、いいんだよな。
半ズボンで悩む僕の心を観察。

5月

16

悟った

神通力が使える訳でもなく、世界のことがすべてわかる訳でもないけど、悟った。
悟りはとても繊細で、うっかりすると忘れてしまうようなものだが、その存在を認めることにした。
それは小さな命のようで、僕自身が食べ物や水を与えないとすぐにひからびてしまいそうだ。
だけど、それを育て続けることに決めた。
僕を包んでくれている一切の過去、環境、宇宙、人々に感謝します。

5月

15

ミクロコスモスとマクロコスモス

20年ほど前、バリ島のブサキ寺院で礼拝したとき、先祖に祈り、いまここに祈り、大宇宙に対して祈るということをした。
すると、自分のイメージしている世界がどんどん小さくなり、自分の視点が高くなっていくことを感じた。
そのあとで、今度は視点を低くしていく。
世界がどんどん大きくなる。
ミクロコスモスとマクロコスモスを行ったり来たり。

5月

6

10日間の連休が終わる

歳を取って長い休みがあると、どうも落ち着かない。
あと数年しか生きられないだろうと考えながら、うかうかと休む気になれない。
かといってみんなが休んでいるのに自分だけせこせこなんかしているのもどうかと思う。
黙って仕事していればいいのだが、なかなかそう図太くは生きられない。
つまらないことに心を絡み取られているようだ。
休みが終わるのでなぜかほっとする。

4月

29

幻を見る

大学生の頃まで、幻を見るということはなかった。
瞑想の時にビジョンを見ることすらできなかった。
それがふとしたきっかけでできるようになる。
以来、寝入りに幻と現実を行ったり来たりすることができるようになった。
慣れてくると面白い。

4月

24

水の底から空を見上げる

アウトドアのプールに入ると、ゴーグルをして潜って、底から空を見上げる。
景色がゆらゆらと揺れてなんかいい。
無意識と顕在意識が入れ替わり立ち替わり去来する。
無意識は気づいたときに顕在意識となり、無意識ではなくなる。
このあるんだかないんだかわからぬ狭間を感じるのがいい。
楽しみすぎると窒息する。

4月

20

写真を撮る

鳥やトンボが飛んでいるところとか、イルカがジャンプした瞬間とか、撮るのが難しい写真を撮るのが好きだ。
まさにその瞬間、「shoot a photograph」だ。
狙い澄まして撃つ。
狩りではないが、狩りのよう。
あとで獲物の写った写真を見てにんまり。

3月

17

ジェットバス

ジェットバスの気持ちいいところは一体何か?
入りながら考えた。
勢い良く泡が出てくるので、その肌の感触がいいというのは当然だが、それよりも僕は、水面で泡がはじける音の方に気持ちよさがある気がする。
なぜだか知らないけど、水の音には癒される。
肌の感覚はしばらくすると麻痺して感じなくなるが、ゴワーッという音が心に沁みてくる。

2月

28

全体観を持つ

インターネットというメディアのおかげかもしれませんが、立場が違うと見えるものやことが違うということに多くの人が気づいてきています。
父は「敗者の文学」というのを追求していました。
負けた者から見た世界は、勝った者から見た世界とは違うということを小説の中に織り込んでいきました。
多くの人がそれに気づくことで、正しいとか間違っているとか、そういうことの基準が揺らいでいるように感じます。
その基準が動くことで、さらに多くの人たちが心地よく生きていけるようになればいいと思います。
でも実際にはそのゆらぎがいいことにも悪いことにも作用しているようです。
きちんと区別して行動していきたいものです。
たとえば、個人が感じる歴史と、国が解釈するであろう歴史とは異なり、どちらが正しいかというのは一概には決められません。
だからときどき、自分という枠を離れて、国や地球という視点からものを見ることもいいですし、逆に微細な生物がもし外界を見たらどんなことを思うのかということを空想するのも意味のないことではないでしょう。
そういう解釈を積み上げていったとき、いったい何が現れてくるのか。
それが僕たちの未来を思わぬ方向に導くような気がします。

2月

18

3768個の気持ちいいもの

僕がなぜ「気持ちいいもの」を書き続けているのか、その理由はここに書いた。
https://www.tsunabuchi.com/feelgoodblog/what_is_daily_feel_good/
そして、自分の心の中で様々なリフレーミングが現れるのだろうと期待していた。
3768個も書き続けてきて、そのリフレーミングが複雑に積み重なり、なんともいえない状態になりつつあることを感じる。
これはきっとある種の悟りなんだろうなと僕は思う。
ただし、ブッダの悟りとは明らかに違う。
いろんなお経にあるように、別世界へと僕の心は旅立つことはない。
かつてバリ島でニュピの瞑想をしていたとき、朝日とともに弥勒菩薩が飛んで来て、一体化した経験がある。
もちろん夢だと思うのだが、夢にしては生々しいし、それで一気に目が覚めた。
それ以来、ときどきそのときのことを思い出す。
もちろん、この「気持ちいいもの」を書いているときにもしばしば思い出した。
言葉にすることでできた森。
多次元な感覚を再生するための鍵。

2月

5

乱気流

このところ世の中は乱気流できりもみ状態。
いいなと思った次の瞬間に、どうしようもない流れがやってくる。
そのなかで飛行体制を整えていくのは骨が折れる。
でも、難しいことをしているという喜びが生まれる。

1月

7

チュルチュルを思い出す

ふとしたときにチュルチュルを思い出した。
チュルチュルとは、麺類を総称した幼児語で、母がよく幼い僕に「チュルチュル食べましょうね」というふうに使っていた。
先日そばを食べていてそのことを思い出す。
そのときに一緒に思い出したのは、うまく言葉にできない感情だ。
それはずっとチュルチュルだと思っていた幼い僕が、チュルチュルに区別があることを知り、「このチュルチュルはおそば、このチュルチュルはうどん、このチュルチュルはラーメン、このチュルチュルはそうめん」と区別したときのなんとも言えない感情。
このチュルチュルはおそばであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはうどんであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはラーメンであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはそうめんであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
でも、僕と母さんのあいだにはチュルチュルに関してのたくさんの思い出がある。
しかも、当時の僕はこれほどはっきりした区別が持てず、何だかよくわからないけど何かに引っかかっている感情を感じ、どうしようもないのでどうにもできなかった。
この当時の僕にとっては複雑な思い。
そんな感情を大人になって味わいなおす。
言語化して区別できると「なんだかなぁ」という感情が生まれるが、きっと幼い頃の感情とは少し違うものなのだろう。

12月

15

太く書く

太いペンで、太い鉛筆で、太い筆で、太く書く。
普段は小さな手帳にチマチマ字を書いているので大きな紙に太い字を大きく書くのがうれしい。
ムハハ。

12月

13

ジョギング

ジョギングは習慣になるとせずにはいられなくなる。
はじめのうちはダイエットとか、健康のためにとかいって始めるが、次第にからだが慣れてくると、走りたいから走るようになってくる。
もしダイエットが理由なら、体重が減少して目標値に達すればしなくてもいいことになる。
だけど、目標に達しても、僕の場合はジョギングを続けた。
なぜかと問われれば、走ることが気持ちがよかったからだ。
ここまで書いて思考は飛躍する。
仕事も気持ちいいからするようになれるといい。
仕事は義務だから嫌々するものと思い込んでいる人がいる。
それは「嫌々でもさせたいことがある人」が考えることで、自発的にそう考える必要はまったくない。
「嫌々でもさせたいことがある人」の洗脳によって、多くの人がそういうものだと考えるようになってしまったようだ。
したい人がジョギングするのと同じで、したい人がしたい仕事をすればいいと思う。
その人が自分の技術を高めようと考えれば、他の人がしたいとも思わないこともするようになっていく。
たとえば僕の場合は、ジョギングを続けることでマラソンを走りたいと思うようになった。
それで42.195kmを走れるようにいろんな工夫をする。
嫌々そんなことをさせられたら、僕にはマラソンは無理だっただろう。
働くことも、もし気持ちよければ自発的な工夫がたくさんできる。
それが自然なことだと思う。

12月

11

朝の足音

寒い空気の中、駅へと急ぐ足音。
車の走る音。
クラクション。
エンジンを吹かす音。
地下鉄の入口から階段を降りていく。
毎朝繰り返される重い足音。
気分を明るくするために聞く音楽が耳の中で鳴っている。
朝の足音をかき消すために。
何度も繰り返される朝の足音を
重く感じるようになったのはいつの頃からだろう。
入試を通過して始めて学校に行く朝、
足音は軽かったはず。
まわりの重い足音が可笑しかったはず。
いま僕は重い足音の群れのひとつ。
軽やかな足音を夢見ながら。
通った学校での心ときめく出会い。
知らないことを知る喜び。
一緒にバカをする仲間。
朝の足音を変えよう。
ピカソのように。

12月

9

異形化する身体

臼田夜半さんが目取真俊さんの作品について講演をしてくださった。
そのなかで「異形化する身体」という話が出てきた。
精神がからだを変形させるというのだ。
救われてない、赦されてないという思いがからだを変形させる。
これはまったく科学的な話ではない。
なぜなら定量化できないから。
これだけ思うとどれだけからだが変化すると決める訳には
いかないから。
だけど、精神がからだを変形させるということがあっても
不思議ではないような気がする。
もし生物の精神が
からだを変形させることができるとしたら、
現代の僕たちはどうからだを
変形させていくのか?
その結果がサイボーグ化なのかもしれない。
ただし、目取真俊の話は
無意識によって異形化するからだ、
サイボーグは意識的な構築、
という違いはあるが。
臼田夜半さんの講演内容はこちら。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=697

12月

8

読書

いったい何冊の本を僕は読んできたのだろう?
それらの蓄積で部屋は一杯。
もう一度読みたいと思う本しか残してないが、
それでももう部屋はパンパン。
若い頃、本は一度しか読まないものだった。
大人になってから再読の楽しみを知る。
書斎の本を一度に全部読みたいが、
時間をかけて読むのが楽しみ。
思い出しては一瞬で味わうのもいいけどね。