2月

21

ホセ・マリア・アルゲダス

笹久保伸さんが研究したというペルーの国民的作家。
読んでいくとときどき意味のわからないところがある。
きっとペルーの文化がわからないと理解できないのだろう。
こういうことかなと想像で埋めて先を読む。
音楽を演奏するシーンがよくでてくる。
ペルーの人たちの体臭が香る。

2月

11

A3

紙の大きさではない。
森達也さんのオウム真理教に関するノンフィクションだ。
「A」と「A2」というオウムに関するドキュメンタリー映画を撮影した森さんだが、「A3」を途中まで撮影してやめ、ノンフィクションを月刊プレイボーイに連載した。
それが出版され、講談社ノンフィクション賞を受賞し、その作品を出版から十年以上過ぎてここで無料公開し始めた。
https://note.mu/morit2y/n/nde972b9f0eac
よっぽど伝えたいことがあるようなので、文庫の上下巻を買って読んでみた。
面白かった。
断片的に知っていることがまとめられているから読んでいて興奮する。
なぜ裁判を「どうしてサリンを撒いたのか」など、わからないことをたくさん残しながら、松本智津夫(麻原彰晃)の精神状態が明らかに裁判を続行できる状態ではないのに、無理矢理続行して終わらせてしまったのか。
なぜそのことについてマスメディアはほぼ沈黙してしまったのか。
謎に対する答えがある訳ではない。
ただ、はっきりとした視点を得ることになる。
オウム真理教の教団内では松本に対する忖度が行なわれていたようだが、その状況を丁寧に読んでいくと、現在の日本の状況に似ているのではないかとぞっとする。
オウムの残した歪みがフラクタルのように社会に広がっているのではないか?
窮屈な現在の状況から目を覚ましたい人は読むべき。

2月

8

世の中はあふれている

いい情報も悪い情報もゴッチャになって流れている。
その整理をつけるのがきっと人間の仕事だろう。
にもかかわらず本の読めない人が増えていると言う。
長い文章があると理解ができない人。
そういう人は短い文章から理解していけばいい。
文章はそもそも面倒なものだ。
一瞬で理解できることも、文章にするとどうしても時間がかかる。
でも、時間をかけたおかげで理解できることもある。
「一瞬で理解できる」というのは魔物だ。
「一瞬で理解できる」ことの深さを問わなければならないが、その深さは往々にして長い時間をかけて言語化をしてはじめて表に現れてくる。
その深さは人によって全く違うものだから、その深さについて論議することはとても時間のかかる仕事になる。
わかった気になって放置しておくと、些細な差があとで大きな差になってくる。
だから、繊細な人ほど文章が理解できないと思い込むのではないか?
同じ文章の解釈は丁寧に考えていくと百人百様。
表面上は同じ意味だが、その行間に分け入っていくと、読む人によって見ているものが異なってくる。
だから、わかるわからないなんかあまり気にせず、とにかく読んでみること。
僕が小学生の頃、親父が「ようじは江戸川乱歩が好きか?」というから、「好きだ」と答えた。
怪人二十面相などの子供向けの推理小説を読んでいた。
ところが、それから数日後に、大人向けの江戸川乱歩の全集が届いた。
小学生にはどうかじりついても読めない。
人間椅子になって女性に座られる喜びなんて、小学生には理解不能だ。
笑うしかない。
だけど少しずつ読んでいった。
小学生にこんな教育してもいいのかと思いながら、「こんなの読ませるなんて、変な親父」と思いながら読んでいった。
でも、そのおかげで、理解できないものを読んでも、いつか理解できる時が来ることへの信頼が僕のなかに生まれた。
いまだによく理解できない文章に出会う。
でもそれは、いつか理解されることを待っているのだ。
さあ、世の中にあふれている意味の渦に飛び込もう。

1月

20

よりよき世界へ

ジャコモ・コルネオの『よりよき世界へ』を読み出した。
父親と娘の対話でどんな経済システムが理想かを考えていく。
現在の資本主義に不満を持つ娘。
浪費がおこなわれ、不公正であり、疎外が生まれる資本主義に愛想をつかしている娘に、経済システムについて詳しい父親が、経済学の歴史から代替システムのモデルまで語っていく。
親娘両者が満足のいく答えは見つかるのか?

1月

17

誰が世界を支配しているのか?

一年ほど前に出たノーム・チョムスキーの日本語訳書を読んだ。
日本で流れているニュースでは知りようのないことがたくさん載っている。
きっとそういうことなのではないかということを、チョムスキーが実証付きで説明していく。
そんな文書があることを、アメリカではきちんと追っていけるんだ。
いいなあ。

12月

10

神の詩 バガヴァッド・ギーター

何年か前に読んだが
そのときはあまり意味が
わからなかった。
戦争の最中に悩む者と
至上者との対話。
悩む者は
「一家一族を全滅させたり
 親しい友人同志が殺しあうほどの
 過誤があったとは思えません」
と嘆くが、至上者は
「すべての生物は永遠不滅であり
 その実相は人智では測り難い
 破壊されうるのは物質体(肉体)
 だけである
 だから戦え」
という。
何度も問答を繰り返し、
ついに導かれるのは
宇宙普遍相の偉大な形相(姿)。
果たしてそこに何を見るのか。

真実も科学も高度になればなるほど
少しの歪みが大きな影響を与える。
神の詩も、少し間違えると
とんでもない考えに導かれるだろう。
仏教でいう「真如」とともに
これを読むことが求められる。

12月

9

異形化する身体

臼田夜半さんが目取真俊さんの作品について講演をしてくださった。
そのなかで「異形化する身体」という話が出てきた。
精神がからだを変形させるというのだ。
救われてない、赦されてないという思いがからだを変形させる。
これはまったく科学的な話ではない。
なぜなら定量化できないから。
これだけ思うとどれだけからだが変化すると決める訳には
いかないから。
だけど、精神がからだを変形させるということがあっても
不思議ではないような気がする。
もし生物の精神が
からだを変形させることができるとしたら、
現代の僕たちはどうからだを
変形させていくのか?
その結果がサイボーグ化なのかもしれない。
ただし、目取真俊の話は
無意識によって異形化するからだ、
サイボーグは意識的な構築、
という違いはあるが。
臼田夜半さんの講演内容はこちら。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=697

12月

8

読書

いったい何冊の本を僕は読んできたのだろう?
それらの蓄積で部屋は一杯。
もう一度読みたいと思う本しか残してないが、
それでももう部屋はパンパン。
若い頃、本は一度しか読まないものだった。
大人になってから再読の楽しみを知る。
書斎の本を一度に全部読みたいが、
時間をかけて読むのが楽しみ。
思い出しては一瞬で味わうのもいいけどね。

12月

6

おもろさうし

昔懐かしい歌詞の一部が
はじめて読む文章に
埋め込まれていると
それを読んだ途端に
感覚が懐かしい頃を思い出す。
そのことを思いながら
「おもろそさうし」を読むと、
沖縄のきらびやかな時代が
どのように編まれていたのかが
わかるような気がする。

11月

7

仏典を読みなおす

かつて仏典には理解不能な文章が
たくさんあった。
書いてあることは判読できるが
それから生まれる実感が伴わない。
ふん、とか、うーむとか思っていた。
しばらくして書かれていることは
たいてい理解できるようになった。
最近では読み始めると没入する。
若い頃、
本を再読することはなかった。
いまは読みなおすことが愛おしい。

10月

7

古本を探す

神保町で古本を買った。
いろんな本から今日買う本を探す。
あっ、探していた本があった。
五百円しかしないよ。
ラッキー。

10月

2

再読

少し難しい本を読む。
一度読んだだけでは理解が及ばない。
そういう本を再読する。
はじめて読んだときより理解が進む。
それで終わるときもあるけど,
もう一度読まなければと思う本がある。
三度目に読んで
やっと理解したりする。
それでも理解の及ばない箇所が
あることもしばしば。
読むことの喜びは
そういう本をきちんと理解したとき生まれる。

9月

25

ホモ・デウス

ユヴァル・ノア・ハラリの
『ホモ・デウス』を読んだ。
面白かった。
ただし、未来がかなり悲観的。
そこに書かれていたようなことを
20年以上考え続けてきた。
その内容の一部がここに。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=594
かなりはしょってあるので
理解しにくいかもしれませんけど、
いつかもっと丁寧に書きます。
で、この続きを10月10日に話します。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=672
『ホモ・デウス』で
疑問に残されたことに対して
僕なりの解答を出します。
ただ心配なのは、
説明する時間が足りるのかってこと。

8月

9

美しい星

三島由紀夫の小説。
ある一家が突然、
「自分たちは宇宙人だ」と悟る。
父は火星人、母は木星人、
兄は水星人、妹は金星人。
それぞれの星から来たから
みんな意見が違う。
通じているようで通じていない。
普通の家庭に起こることでも
宇宙人の目から見ると
ちょっと違って見える。
いろんな観点を持たされる
不思議な小説。
一家はみんな地球の平和を夢見るが
なかなかうまくいかない。
地球人が考えるとすると
違和感が生まれるが、
異星人だから人間のことを
どう思っていても不自然ではない。

6月

22

ホロン

プロティノスというローマの哲学者がいる。
ギリシアの古典哲学を総括し、
新プラトン派と呼ばれる一派の代表的哲学者だそうだ。
彼がすでにローマ時代にホロンの話をしているという。
ホロンとは1978年にアーサー・ケストラーが
『ホロン革命』という本で丁寧に説明した概念。
日本語訳が1983年に出て話題になっていたので読んだ。
正直言って、大雑把には理解したが
何か腑に落ちない部分があった。
しかし、それから月日が経つにしたがって、
あちこちでホロンの概念を聞くようになる。
不思議なもので、
あちこちで聞けば聞くほど理解した気になってくる。
先日、ヌースフィアについてお話しをした。
このときになるほどと思った。
ホロンであると仮定することで
理解できることがある。
それが大切なのだと。
ある体系がホロンであるかどうか、
厳密に考えていくと
話はただ難しくなるだけ。
そろそろ『ホロン革命』を読み直してみよう。
プロティノスのホロンの話は、
そう思って読んでいくと確かにそう読める。

6月

6

赤の書から抜粋

あなたはこの時代の精神に仕え、深
みの精神を免れることができると思
っている。けれども深みはもはやこ
れ以上ためらわずに、あなたをキリ
ストの密儀に無理やり押し込めるで
あろう。人間が英雄によって救済さ
れるのではなく、自らが一人のキリ
ストとなることがこの密儀に属して
いる。このことはこれまで生きてき
た聖者たちの例が象徴的に教えてく
れる。

—————

赤の書は心理学者ユングの著作。
第一次大戦を前に精神状態が不安定
になり、黒い表紙のノートに夢やヴ
ィジョンを書き連ねて行く。これを
ユングは黒の書と読んだ。当初、ユ
ングはなぜそれを書いているのか、
理由がわからなかった。しかし、第
一次世界大戦の開戦により、心の不
安定さはその予告であったことを知
る。

1914年から16年をかけ、黒の書を清
書した。中世の写本を彷彿とさせる
装飾を施して。この清書は赤い表紙
の大きな革装のノートに書かれたた
め『赤の書』と呼ばれる。

ユングの死後、銀行の金庫に保管さ
れ、内容を知ることはできなかった
が、2009年、遺族が許可を出し、各
国で出版されていった。

6月

4

本のシンクロ

何冊か並行して本を読む。
一冊だけをじっと読むことはしない。
電車に乗ったときに読む文庫本。
お風呂で読む厚い本。
ほかにも数冊並行して読んで行く。
するとときどき
全然関係ないはずの本が
似た話になっていたりする。
本の共鳴。

5月

15

進化の構造

ケン・ウィルバーが
1995年に書いた本。
1998年に日本語訳が出た。
内容が難しいので
一度読んだだけでは理解しきれない。
でも、意味がわかって来ると
いろんな妄想が湧いて来る。

5月

2

スカスカ

僕のサイトはリニューアルによって
現在中身がほとんどない。
気分爽快。
スカスカいいなと思う。
うちの書斎は本であふれている。
置き場所がなく本が積まれ、
書類が積まれ、
足の踏み場が狭くなり、息苦しい。
それにもかかわらず
本を廃棄するたびに悲しくなる。
この葛藤はいつまで続くのだろうか。
スカスカいいなと思うけど、
読み返したい本がたくさんある。

5月

2

ファウストを読み始める

ゲーテの『ファウスト』を
読み始めた。
いつかは読まなくてはと
思っていた。
『若きウェルテルの悩み』は
中学生の頃に読んだ。
恋はしても自殺はできないなと
身もふたもないことを考えていた。
40になる前に『色彩論』を読んだ。
当時の科学的な思考を
批判した書だったが、
僕にはピンと来なかった。
そして『ファウスト』だ。
再びゲーテの考えとは
対立するのだろうか。
今回は数ページしか
まだ読んでないが、
面白そうだ。

5月

2

YouもMeも宇宙人

地湧社の新刊を献本していただいた。
いけのりという著者の
軽口な文体による宇宙生物学の本。
難しいのか簡単なのか
読んでいて混乱する。
それがいけのり氏のうまいところ。
プラトンの『パイドン』に出て来る
アナクサゴラスが登場して
ちょっと興奮。
アナクサゴラスは
「ヌース(智恵)」が
物質を寄り合わせ、
生命を生み出したということを
紀元前500年頃に言っていた人。
パンスペルミア説を最初に唱えた人
と書かれていてびっくり。
まあ、そういうふうに
読めなくもない。

4月

25

康煕字典

康煕字典(こうきじてん)を
ご存知だろうか?
日本語を扱う仕事をしている方は
もちろんご存知だと思うが、
理系出身の僕は知らなかった。
「こうき」という
読み方すらわからなかった。
たまたま入手することになり、
いまではときどき開いて
ニマニマしている。
1700年代、清の康煕帝勅撰の字典だ。
なのですべて漢文で書かれている。
漢字の由来を調べるのに重宝。
現代ではUnicodeの配列順にも
使われている。
しかも、1700年代の清の漢字が
掲載されているので、
見たこともないような漢字が
たくさん載っている。
入手した講談社の
「標註訂正康煕字典」には
返り点がついている。
中学高校で習った漢文の知識が
珍しく役に立った。
白川静の「字統」や
ほかの漢和辞典と読み比べることで
さらに「へぇ」なことを知っていく。

4月

17

オリジン

ダン・ブラウンの新作を読んだ。
あの「ダ・ヴィンチ・コード」の
ラングドン教授が登場する新作だ。
とても面白かった。
けど、おやと思うところもある。
でも、そうやって噂にされるのが
いいところだろう。
パンスペルミア説にも
触れているけど、
そこまでいいきってもいいの?と
思うところが何カ所かある。
ネタバレになるので書かないけど。
でも、確かに面白かった。

4月

10

花崗岩片の話

中学生の頃、
僕が片思いしていた女の子がいた。
その子の名前をここでは
Kさんとしておこう。
僕にとってKさんは美人だったが、
友だちは「美人ではない」という。
確かに理知的に考えると
美人ではなかったかもしれない。
スタイルがいいとはいえなかった。
はっきり言うと、足が短いのだ。
それから指が短かった。
彼女はピアノがうまかった。
Kさんは
「ピアノを弾いたから指が短くなった」
というけど、それは違うだろうと
僕は思った。
鼻が鷲っ鼻だった。
昔話の魔女のような形の鼻だった。
こういうふうに言語化すると
美人ではないことが
強調されてしまうけど、
それでも美人は
いるのではないかと僕は思う。
実際Kさんはそうだったし。
そんなKさんを
なぜ僕が好きになったのか。
長らく謎だった。
好きか嫌いかの理由って、
いくらでもあとづけできると思うので、
本当の理由というのが
わからないでいた。
というか、そんなことは忘れていて、
最近では考えもしていなかった。
それがなぜか、この年になって、
ついさっき、
はっきりとわかったのだ。
なぜそんなことになるのか、
僕には理解が及ばない。
何が起きたのかというと、
山尾三省の文章を読んだからだ。
その文章はここにある。
「花崗岩片の話」という文章だ。
http://www.chiwakinomori.com/jiyu/198406.006jiyu.pdf
頭から読んで行って、
次の文章にさしかかったとき
ふと思い出したのだ。
ひらめいたといってもいいだろう。
僕がなぜ彼女を好きになったのか。
________

 またある初夏の早朝に、漁から戻
ってきた部落の男が、海そのものの
ように透きとおった青い鯖を投げて
くれる時、彼がそこに投げてくれる
ものはただの青い鯖ではない。そこ
に投げられたものが海という真理で
あり、海という愛であることを、見
ないわけにはいかないのである。
 日常生活の中にすべてがある。日
常生活の中に、すべての真理がある。
だからまた、日常生活の中に深い悲
哀も貌(かお)を現わすのである。
花崗岩片の話より 山尾三省
________

ここを読んでいたとき、
なぜか思いついた。
「彼女が大きな菊を栽培したからだ」
なぜそう思ったのか、
まったく脈絡がないので
僕にも理解しがたいことであるが、
そうだったからしかたがない。
「ひとはみんなそういうもの」と
一般化していいのかどうか
わからないが、
僕が特別な例だとは思わないから
きっと多くの人も
そうなのではないかと思う。
よくわからないときに、
よくわからないことを
不意に思い出す。
そしてそれが何か
特別な真理かのように思えてしまう。
中学生の頃、科学か家庭科か、
菊を栽培するという授業があった。
家に持ち帰り菊を栽培する。
僕が育てた菊は
小さな花しかつけなかった。
一方で、Kさんの育てた菊は、
とても大きな菊の花をつけた。
「すごい」と僕は思った。
それが僕の恋の入口だったのだ。
なぜそんなことを思いついたのか、
くどいようだが
僕にはよくわからない。
きっと山尾三省の文章に
そういうことを思い出させる力が
あったのだろう。

3月

26

水が変わったとき

この話をときどき思い出す。
『スーフィーの物語』に出てくる話。
短くするために話を端折るが、
だいたいこんな話だ。

ある師が人びとに警告を発した。
「やがて時が来ると
 特別に貯蔵された水以外は
 すべて干上がり、
 そののち水の性質が変わって
 人びとを狂わすだろう」
ひとりの男だけが
この警告に耳を傾けた。
その男は水を安全な場所に貯蔵した。
ある日、川の流れが止まり、
水が干上がった。
男は貯蔵していた水を飲む。
ふたたび川に水が流れるようになり、
町に行くと、人びとは以前と
ほとんど変わらなかったが、
師の警告や水の干上がったことを
まったく覚えていなかった。
そして、男は自分が狂っていると
思われていることに気づく。
人びとは男に対して哀れみや
敵意しか示さず、
その話をまともには聞かなかった。
男ははじめ新しい水を
飲もうとはしなかったが、
みんなと違うやり方で暮らしたり、
考えたり、行動することに
耐えられなくなり、
ついにある日新しい水を飲む。
するとその男は他の人と同じく、
貯めていた水のことを
すっかり忘れる。
仲間たちからは
狂気から奇跡的に回復した男と
呼ばれた。