3月

13

日光 その2

朝日が出た日には、作務衣一枚を素肌に着て朝日を浴びる。
作務衣が黒いせいか、冬でも朝日で温められて寒く感じない。
同じことを曇りの日にやると寒くてしょうがない。
それだけ朝日の熱が大きいということ。
そのまま椅子を出して一時間くらい本を読んでも大丈夫。
不思議なことに、PCを見過ぎて落ちた視力が、朝日で本を読んでいるうちに回復してくる。
そのときは文字がはっきり読めるのでうれしい。
PCを見出すとまた落ちるのだが。

3月

9

開く本を感じる

本を読みながら大切な部分に赤線を引く。
それから何年もして、ときには何十年もして、いつか文章を書こうと思ったとき、どの本を読んで何を思いだすべきか、自分では覚えてないのに、わかることがある。
パラパラパラッとページを開いていくと、読むべき赤線がある。
こういうとき不思議な感じがする。
何を読むべきか言語化できないのに、ページを開くとそこに大切なことが書いてある。
覚えてないのに覚えている。
言語化できない世界。

3月

4

聖なる瞬間

ミルチャ・エリアーデの著作に『聖と俗』がある。
そのなかで「聖なる瞬間は繰り返される」という話しがある。
たとえば聖なる瞬間をお祭りなどで反復するのだ。
なるほどと思う。
僕にとっての聖なる瞬間もいくつかあって、それらを記憶の中で反芻している。
この『日刊 気持ちいいもの』で何度か書きたくなる内容は、僕にとっての聖なる瞬間なのだな。
そうだとしたら、同じこと何度か書いてもいいじゃないかと思える。

2月

23

古本の整理

古い本を売ろうと思う。
そのための整理をする。
どの本にも何時間かは一緒に過ごした思い出がある。
たいてい「この本を読んだときにはこんなことがあった」というのを覚えている。
しかし、細かい内容までは覚えていない。
にも関わらず何か文章を書いているとき、「あの本のあのあたりを読んでみようかな」とか思う。
するとそこに参考になることとか、書きたいことの例になるような話が書いてあったりする。
それははっきりと覚えているわけではない。
匂いのように立ちのぼってくるもの。

2月

5

君あり、故に我あり

サティシュ・クマールの本を読んだ。
ジャイナ教のことや、非二元論、そして平和について書かれている。
この時期に読めてよかった。

12月

24

大愛瞑想

2017年5月10日、はじめて紅龍さんと一緒に大愛瞑想をした。
不思議な体験だった。
大愛瞑想の終わりに、「キリストになったつもりで愛を向けて下さい」といわれると、なぜか咳き込んでしまった。
それがなかなか止まらない。
次に「では、マリア様になったつもりで」といわれたら、ピタッと止まった。
そして「観音様になったつもりで」といわれたら、悲しくもないのに涙がこぼれた。
「なんだこれは」と思った。
それから二年して、紅龍さんは重い病にかかった。
見舞いに行くと「大愛瞑想をまとめて本にして」と頼まれた。
それから一ヶ月ほどして紅龍さんは亡くなった。
約束通り本は作ったが、出版社が決まらなかった。
あまり先延ばしにするのも良くないと思い、pdfで配布することにした。
紅龍さんは大愛瞑想をこの世界にもたらすために生まれてきたのだと思う。
第五章に大愛瞑想の体験談がいくつかある。
不思議としか言えない。
大きな愛に包まれる不思議。
pdfはここにある。
https://www.tsunabuchi.com/pdf/biglovemeditation.pdf

12月

7

モロカイの日々

12年前にモロカイ島に行った。
泊まるところが少なく、人も7000人ほどしか住んでいない。
昔のハワイの雰囲気を残している数少ない島の一つ。
海を眺めていると、クジラが通っていった。
夜には星があまりにもきれいで、高いところに上がると足より下に星があるように感じた。

そこで暮らしているアーティストの山崎美弥子さんに会って、モロカイホテルでおこなわれていたフラのパーティーに参加させてもらった。
夜には夕飯をごちそうになった。
当時、娘が3歳で、山崎さんのおなかには二人目の子供がいた。
白い壁には、山崎さんの作品がたくさん飾ってあった。
そのなかに何点か水平線の絵があった。
いま伊勢丹新宿店メンズ館二階のメンズクリエーターズで、山崎さんの作品の展示販売がおこなわれている。
千年後の未来の風景として、その水平線の作品を観ることができる。
12年間、彼女は水平線を描き続けてきたんだな。
会場で販売されていた写真集『ゴールドはパープルを愛している』には美しく育った娘ふたりの写真が掲載されていた。
https://www.imn.jp/post/108057203218

12月

1

World Beyond Physics

『World Beyond Physics〜生命はいかにして複雑系となったか』という本を読んだ。
面白かった。
アミノ酸やタンパク質がどのようにして生命となったかについての仮説が書かれている。
束縛閉回路、仕事タスク閉回路、触媒タスク閉回路の、三つの閉回路が大きな鍵となっている。
生命はニッチが生まれることで、その可能性を利用する。
その結果、物理が問題を解決する際に設定する相空間を、生命は越えていくのだ。
言葉の含意が深すぎて、短い文では説明できない、
知りたい方は本を読んでください。

11月

24

インテグラル理論を体感する

いままでのケン・ウィルバーの著作の中では、比較的読み易い本。
『進化の構造』や『万物の歴史』に書かれていたことがさらに噛み砕かれて、やっとケン・ウィルバーの言いたいことがわかった感じがする。
意識の段階も整理し直され、以前の著作ではわからなかったことがはっきりとわかり、あまりにも面白くてほぼ一日で読み切ってしまった。

11月

9

デカメロンを読む

3月頃から読み始めた『デカメロン』を読み終えた。
河出文庫、平川祐弘(祐は旧字)氏の翻訳。
『デカメロン』は『十日物語』と訳されることがある。
「デカ」が「10」で、「メロン」が「日」を表す。
「でかいメロン」を思い浮かべて、ちょっとエッチな想像をする僕は大はずれだ。
内容は、ペストの流行で10名の男女がフィレンツェから逃れ、郊外に滞在する。
その10日間の滞在中、皆が面白い話をして過ごそうと提案され、10人が毎日一話ずつ語り、それが十日間で100話の物語が披露される。
『デカメロン』はその様を描いたものだ。
参加した10名の人間関係は簡単に紹介されるだけでほとんど触れられない。
内容の中心は100話の物語。
毎日その日の王、または女王が決められ、その人がその日一日語り合う話のテーマを決め、誰が次に語るのかも指定できる。
舞台となった1348年はペストが最も流行った年であり、フィレンツェの人口は九万人が、三万人にまで減少した。
出だしにはその黒死病ともペストとも呼ばれる病気の症状が説明されギョッとするが、そこから先はフィッレンツェでの悲惨な状況を忘れようとする人々が、笑えたり、驚いたりするような話を繰り返していく。
『デカメロン』は艶笑話だと言われている。
確かに性的な話もいくつかあるが、そればかりではない。
感想はというと、とても難しい。
100話にそれぞれ感想があるので、いろんなことを考え、感じた。
平川祐弘氏はこの文庫にとても丁寧な解説をつけている。
上・中・下巻それぞれについていて、それらを読むのも楽しかった。
まとめると一冊の本になるほどの分量だ。
それで知ったのだが、ボッカッチョ(僕が学生の頃はボッカチオと呼ばれていた)はダンテ作『神曲』の研究者で、その優れた文学性を称揚しつつ、一方で批判としてこの『デカメロン』を書いたという。
そう言われてなるほどと思うのは、『デカメロン』では善悪がとても不安定なものとして書かれている。
たとえば、夫が仕事に熱心で、あまり相手をしてもらえない夫人が、若い男と浮気をするような話があるが、読み進めて行くと、夫人に寂しい思いをさせた夫の方が悪者となり、懲らしめられてしまったりする。
当時のカトリック的善悪判断からすればとんでもないことだと批判されただろう。
そういうことをボッカッチョはあえて書くことで、カトリックによる窮屈な社会に対して一矢報いたのだという。
だから、カトリック的な価値観を持つ人々には「馬鹿げたエロ話」的な扱いを受けた。
しかし、その内容の奥の深さは、700年近く読み継がれていることで明らかだ。
カトリック的善悪より、そこに生きている人の感情が大切だと訴えているようにも感じたが、必ずしもそのような話ばかりではないところが、いいところだろう。
『神曲』も、いつか読もう。
コロナ禍で窮屈な現在と、少し被る部分を感じる。

11月

8

長い文章を読まないと理解できない概念

本を読んでもなかなか理解できない概念がある。
一度読んでも理解できず、すぐに読み直して理解できることもあるが、時間を置いて読まないと理解できないこともある。
他のことを学んでやっと理解できるようになった時、とても嬉しい。
そうやって手に入れた概念は、しばらく使わないと忘れてしまう。
しかも、そういう概念は、すぐに役に立つことはあまりない。
長い時間をかけて磨いて熟成させて、やっと何かの役に立つ。

10月

30

人新世の「資本論」

資本主義が次に向かうべき方向とは何か?
それが書かれている。
マルクスは資本論第1巻を書き上げてから、死ぬまでの15年間、自然科学などを学び、人間と自然の物質代謝について考えていたという。
簡単に言えば、来るべき地球環境問題について深く考えていたのだ。
そのために資本論第二巻、第三巻が書けなくなってしまった。
第一巻も書き直そうかとしていたようだという。
なぜ著者斎藤幸平氏はそのようなことを知っているのか?
現在MAGAと呼ばれる国際的出版プロジェクトに関わっており、それはマルクスとエンゲルスの草稿・遺稿・メモなどを100巻ほどの全集とするものだそうだ。
それを精査すると、マルクスが環境問題を取り込んでどのような解決をもたらそうとしていたかが浮かび上がってくるという。
この晩年のマルクスの考えを背景に、資本論第一巻を読み直す必要があると齊藤氏は主張する。

9月

11

一人称単数

村上春樹の最新短編集を読んだ。
読み心地がいい。
村上春樹の作品はどれも面白いが、すぐに再読したいとは思わない。
何年も、何十年も経って読み直したものはある。
でも、実際にすぐまた読みたいとは思わなかった。
今回は、読み終わってからもう一度ときどき読み直している。
一度に全部ではなく、気が向いた箇所を少しずつ。
なぜか?
もどかしい思いのする短編ばかりだが、そのもどかしさがいい。
そのもどかしい感じが、すぐに言語化できないのもいい。

8月

16

逆説の日本史

逆説の日本史25巻を読んだ。
作者の井沢元彦は歴史学者のことをよく批判する。
その批判はもっともだと思う。
でも、歴史学者も大変なのだと思う。
皇統に関する公に認められていること以外のことを発表すると何をされるのかわからない。
きっと天皇がそんなことをしているのではないだろう。
取り巻きが変な忖度をしているのだと思う。
それがどこの誰かもわからない。
だからとても怖い。
もし天皇が「歴史と神話は切り離しましょう」とひとこと言ってくれたら、きっと日本の歴史学は急速な進歩をするのだと思う。

7月

31

暗黙知の次元

マイケル・ポラニーの『暗黙知の次元』を30年ぶりくらいに読み直している。
かつて読んだ本がどうしても見つからないので、文庫を買い直した。
翻訳者が違っている。
前に読んだのは紀伊國屋書店が発行したものだったが、今読んでいるのはちくま文庫版。
かつては読み取れなかったいろんな区別が、概念が、入ってくる。
翻訳の違いもあるだろうけど、読み取る僕に変化があったんだろうな。

7月

25

合理的な神秘主義

安富歩の『合理的な神秘主義』を読んだ。
タイトルからしてパラドックスに満ちているが、内容もそうで面白かった。
特に論語の解釈が画期的だった。
そんな読み方があるのかと思った。
それからマイケル・ポラニーの『暗黙知の次元』。
何十年も前に読んだので、そんなこと書いてあったっけ?という部分があったので、そのうちに読み直そうと思う。

7月

3

埴谷雄高の『虚空』

大学生の頃、古本屋に行くと必ず目にする本があった。
それは埴谷雄高の『死霊』。
当時は名前の読み方すら知らず、いったいどんな本なのか極めて謎だったので、読むだけ読んでみようと買ってみた。
当時の『死霊』は五章までしかなかった。
その時点ではまだ未完であることも知らなかった。
とにかく読んだが、何が何だかよくわからない。
この作品の何が面白いのか?
何十年も本棚に飾られた状態だった。
それを再び読む気になった。
安藤礼二の『光の曼陀羅』のおかげ。
九章で絶筆になり、全三巻の文庫が出ている。
埴谷雄高はいくつかの短編と『死霊』くらいしか作品がないと言われている。
まずは短編集『虚空』を読んでいる。

6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

6月

24

進化の意外な順序

アントニオ・ダマシオの著書、『進化の意外な順序』を読んでいる。
とても面白い。
『日刊 気持ちいいもの』で、表現のしようのない感覚について何度か書いたけど、その説明になるような話が「第7章アフェクト」に登場する。
そうだよそうだよ、と思いながら読んだ。
『日刊 気持ちいいもの』に出てくる理屈っぽい部分が好きな人は読むと面白いかも。

5月

15

次代の天皇

現在の天皇は「国民の象徴」ということになっているが、自民党の憲法改正案では「元首」とするとなっている。
明治維新以降天皇は君主として統治していた。
「元首」と「君主」は何が違うのだろう?
古事記や大嘗祭を研究した工藤隆博士がその著書『古事記誕生』でこんなことを書いている。
短くまとめるので概念の大切な部分が抜け落ちるが、気になる方は中公新書の『古事記誕生』を読んで下さい。

日本は戦前、誇大妄想の神国日本像へとのめりこまされた。
敗戦後は逆に日本人のアイデンティティーを考えなくなり、心的空洞をもたらした。
日本の島国文化・ムラ社会には助け合い精神・忍耐力・自己抑制力などプラス面があるが、同時にムラの内側の論理がすべてにおいて優先されるので、外側からの視点を正確に把握できなくなることがある。
よって、文化人類学、考古学、古代史学、言語学、民族学ほか、さまざまな学問から得られた要素をインプットして、縄文・弥生期をホログラフィー的手法で立体的に浮かび上がらせることで古事記を研究することが大切だ。
そうしてはじめて日本は自分のオリジナリティーがどのようなものか知ることができるだろう。

このような考察を経てから、次代の天皇像を考える必要があるように思う。
政治家が利用するための天皇はいらない。

5月

13

世界文学全集

昔、うちには何種類かの世界文学全集があり、中央公論の「日本の文学」全集があった。
引っ越すときにほとんど売ってしまったが、手元に何冊か残っているものがある。
多くは仏教と哲学の本。
うまくまとまっていて案外と役に立つ。

5月

7

ノヴァセン

ガイア理論を提唱したジェームズ・ラヴロックが99歳にして『ノヴァセン』という本を出版した。
簡単に書くと、人間も自然の一部なので、人間が作り出すAIも自然の一部であり、そうだとするといままでの生物が従ってきた法則に則るはずであり、人間の勢いがたとえ衰えても、AIが次世代を担うだろうという、明るいのか暗いのか判断が難しい未来について書いた。
人間が生き延びるかどうかについては、多分生き残るけど、覇権を握るのはAIになるだろうという。
僕もそうだろうなと思うし、まわりの友人たちにはその話をずっとしてきた。
いろいろと批判もされるが、なぜそうなのかという説明をしだすと長くなる。
ラヴロックはその説明の大部分をはしょっている。
賛成派と反対派に分かれるだろうなと思うけど、賛成しようが反対しようが、そうなるときはいつか来る。

4月

29

ブックカバーチャレンジ

FBでブックカバーチャレンジというのが回ってきた。
一日一冊、いい本を紹介しろという。
いい本はたくさんあるので迷う。
迷うのが楽しい。

3月

1

テレワーク

相方がテレワークを始めた。
ダイニングでパチパチとキーボードを叩いている。
コーヒーなど淹れにいくと「飲む?」と聞いて一緒に淹れてあげる。
普段とは違う生活になった人が多いだろう。
飲食店は集客が心配だと思う。
アート関係ではイベントが中止になりお手上げの人もいるだろう。
こんなときこそいままでにない楽しみを見つけるべき。
僕は何かの参考になるかと思い『デカメロン』を読み出した。
出だしはペストの流行から始まる。
死に直面した10人の男女が、それまでの常識から逸脱して語り合う生の現実。
僕たちもなにがしかの覚悟が必要かも。
願わくば、ここしばらくの窮屈な感覚を吹き飛ばすような何かをしたい。

1月

29

三本の矢

「ファシズム」の語源はラテン語の「fascis」で、「棒の束」を意味するのだそうだ。
『21 Lessons』でユヴァル・ノア・ハラリは「それには深く不気味な意味がある」と書いている。

棒は一本だととても弱く、たやすく真っ二つに折れる。
ところが、何本も束ねて「fascis」にすると、折るのはほぼ不可能になる。
これは、個人は取るに足りないものの、共同体は結束しているかぎり、とても強力であることを意味している。
したがって、ファシストは誰であれ個人の権益よりも共同体の権益を優先することが正しいと信じており、どの棒にも、けっして束のまとまりを損なわないことを求める。
『21 Lessons』ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 河出書房新社刊 p.378-379

毛利元就の三本の矢を思い出す。
共同体にいる人にとってはいい話かもしれないが、共同体の外部から見ると「深く不気味な意味」を孕む。
でも最近では、多様性がないとうまくいかないという話があるので、共同体にとっても必ずしもいい話ではなくなっているかも。