6月

30

自分の区別

ジャイナ教の認識論について学んでいくとなるほどと思うことがある。
そのひとつ。
何かについて学ぼうとしている人と、学ぼうとはしていない人のあいだの認識は違うということ。
当時のインド哲学でこのようなことをいうのはジャイナ教だけだったそうだ。
だからジャイナ教にはその認識の違いを表す言葉が存在する。
その認識の違いは「ある」といえばあるし、「ない」といえばないような程度のものだと、かつての僕なら考えたと思うが、『日刊 気持ちいいもの』を書き続けたおかげで、たしかにそれはあるなと思うようになった。
意味的にその違いが存在することは明確だが、「学ぼうとする」ことによって「あることに対する興味の時間的継続」が生まれ、それが感情に絡まり、認識が異なるものになるのだ。
これを知ることによって心という曖昧なものが受ける影響について考える足がかりがまたひとつ増えた。

6月

29

することとしないこと

何かをすると、その影響が僕のまわりに生まれる。
たとえば「あの本読んだよ」といえば、その本を読みたい人が現れたり、また逆に「そんな本読むものか」という人が現れる。
そういう人たちがまた別の人に影響を与える。
同様に「しない」と決めたことにも影響が現れる。
そういう影響は多くの場合本人にはあまり感じられない。
でも確実にある。
それを知ると行動には喜びと慎重さが生まれる。

6月

28

嫌なことを体験すること

嫌なことを体験することが「気持ちいい」なんてとても言えない。
だけど、考え方を少し変えると、「気持ちいいかも」と思える。
僕たちは普段「個人」としてしか生きていない。
もしそうであれば「嫌なこと」は嫌なだけだ。
だけど「人類」という集団の一部であると考えると「嫌なこと」は改善すべき問題点に見えてくる。
「人類全体」が心地よい状態であるためには、僕が体験した「嫌なこと」は、改善すべき点となり、僕には改善する可能性が与えられたことになる。
その改善のためには多大な努力と時間と、計り知れないトライ&エラーが必要となるかもしれない。
でも、「人類全体」が心地よい状態になるためのお手伝いができるとしたら、ラッキーなことかもしれない。
その可能性を実現するか無視するかは、自己裁量である。

6月

27

子供と暮らす

幸せについて考えるとき、自分に子供がいないことが問題として現れることがある。
子供がいる人の幸せを理解できないのではないかと。
それは幸せにとってとても大きな要素のように思える。
赤ん坊のときその親は苦労する。
夜泣きしたり、理解できない行動をしたり、思わぬ事故にあったりする。
親はそれらに対処しなければ育てられない。
そのことを通してはじめて、「自分もそれをしてもらっていた」ことに気づく。
それは理性的に「気づく」だけではなく、感情的にも気づいていく。
「感情的に気づく」ということを説明することが難しいが、簡単に言えば、「理屈はさておき、大切にしたいから大切にする」という、損得もなければ、計算もなく、なんだかわからないけどただただ赤ん坊のためだけになることをしてしまう自分に気づくことだ。
それは言語的、理知的人間存在からは説明できないことで、生命がたどってきたすべての歴史を引きずってきている「心臓の鼓動」や「腸の蠕動運動」のように、それを感じて言語化しようとしてもしようがない、本能から引きずりだされる情動のようなものがそうさせる。
その情動にしたがって子供を育てることで、どんなに苦労してもあとで「よかった」と思える感情を親は手にする。
それはいろんな説明が付くかもしれないが、どんな説明も実は説明でしかなく、そのように感じるように生命は構築されてきたのではないだろうか。
子供と暮らすとき、その子が何歳であろうと、親は過去の自分と親の関係をそこに見出す。
その発見がどのようなものであろうと、親はそれを受け入れることで、幸福感に包まれるのではないだろうか?

6月

26

幸せになるということ

「幸せになる」というのはどういうことか考えてみた。
とても個人的で、一般の人には当てはまらない答えだったが、それこそが大切なのだと思うようになった。
それは、幼い頃からの体験に大きな根元がある。
うちには古本屋を開くことができるほど本があった。
木造家屋にただ本棚を置くと、その本棚があまりにも重くなってしまって、ついには床が抜けたりするので、本棚を新しく作るときには土台から作らなければならなかった。
そんな特殊な家に住んでいた。
幼い頃から家中にある本の背表紙を見ながら暮らした。
変な本がたくさんあった。
拷問の仕方とか、即身仏になる方法とか、売笑についてとか、普通の家庭にはこんな本ないよなと思う本であふれていた。
ある日そういう本の中から一冊を手に取る。
幼い頃にはまったく理解できなかった本が、理解できるようになっていく。
それが僕にとっての幸せだった。
そういう幸せに触れ続けるために本を読み、本を書く。

6月

22

太陽に意味を与える

太陽が輝いているおかげで、僕たちは生きていられる。
太陽がもし輝いていなかったら、地球は氷の星。
生命は生まれなかっただろう。
だから、太陽は一方的に僕たちに恩恵を与えていてくれるように思う。
僕たちは何か太陽にお返しをしているだろうか?
そう考えたとき、太陽を認識し、意味を与えていることが、僕たちのできる太陽へのお返しかもしれないと思う。
太陽を認識し、意味を与えても、太陽のためにはちっともならないと考えがちだが、果たしてそうなのか?
地球では二酸化炭素による温暖化が問題になっているが、一方で太陽は黒点が減少し、ミニ氷河期になるのではないかと言われている。
まるで地球の状況を見て太陽がバランスを取ってくれているようだ。
僕たちと太陽は重力で繋がっているが、ほかの要素でも繋がっているのかもしれない。
それとも重力に、コミュニケーションの能力があるのか?

6月

18

たくさんの意味

僕たちは言葉を持つことで何かにフォーカスすることができるようになった。
あれがしたいとか、これをしたいということを群れで共有できるようになった。
もちろん群れで何かの意図や目的を共有する動物はたくさんいる。
しかし、以前からある意味や行動以外の、新しい概念を共有することは難しい。
そのために言葉が役に立った。
ところが、あまりにもそれが発達したおかげで、「何かにフォーカスすること」以外の価値が見えにくくなってしまった。
たとえば「電話」という言葉。
僕が幼い頃は電話といえば二種類しかなかった。
黒電話か赤電話。
黒電話は家にある電話。
赤電話は公衆電話のこと。
しばらくすると公衆電話にもたくさんの種類が生まれ、黄色電話、ピンク電話、青電話、緑電話といろんな色が採用されて行った。
色が多様になるのと同時に、それぞれの色に象徴される電話の意味も生まれたはずだ。
だから、「電話」一言では、今の人たちはそれがどんな形状のものを指しているのか正確にはわからない。
ファックス付き電話かもしれず、グループ電話かもしれず、携帯電話かもしれず、スマートフォンかもしれない。スマートフォンの区別も考えると、いったい何種類の電話があるのか見当もつかない。
だけど、言葉上は「電話」でわかった気になる。
同じようなことがいろんな言葉で起きている。
「愛しているよ」という言葉の「愛」がどんな意味であるのか、よく聞いてみないとわからない。
ところが、自分が一番理解しやすいか受け取りやすいか、その微妙なところは人によってよくはわからないけど、たいてい人はどこかの意味に落ち着いている。
その意味の体系を組み直したり、壊してくれるのが文学的体験ということだろう。
他人と話しているとときどき自分の意味体系が壊れる。
「壊れる」と感じていることが、いかに自分の意味を強固に持ち続けているかを表している。
この世界にはたくさんの意味がある。
意味は次から次へと生まれてくる。
そのなかで、どうして自分の意味だけを大切にし続けるのか、よく考えなければならない。
言い方を変えると、なぜ自分の意味にだけしがみついているのか、ということになる。
自分を守るのと同様に、自分の意味も守らなければならない。
そう思い込んでいる結果、しなやかさを失っていることがあるかもしれない。

6月

16

アメリカの混乱

アメリカの混乱は、いったい何が起きているのか正しく把握することが難しい。
アメリカにいる人でもきっとそうだろう。
まして日本にいたら矛盾した話がたくさんあって、どれが正しいのかわからない。
もうすぐきっと日本も同じ状態になる。
これはきっと新しい時代の禊のようなもの。
山本太郎の都知事選出馬で、いろんな勢力がいろんなことを言い始める。
すっきりとしたいい時代に脱皮したい。

6月

15

膿を出す

アメリカでは大きな混乱が起きている。
日本でも政治では大きな問題がたくさん未解決のままに置かれている。
これから、もし本当にAIの時代が来たら、これらの膿がそのままではならない。
膿を出し切らないとそれは大きな問題として降りかかる。
だから膿を出しましょう。
ちょっと痛いかもしれないけど。

5月

31

抑圧からの解放

ひとは抑圧から解放されていく。
もしそうでなかったら、ひとはこれからますます暴力的になっていくだろう。
インターネットのおかげで万能感が与えられ、それにも関わらず抑圧され続けることで、ひとは心の中に鬱憤を溜めていく。
鬱憤を溜めない人になるために、何が必要か?
それを各個人が自分で考えていかなければならない。
制度で決められたものには不満が生まれる。
だから、他人が決めてもあまり意味がない。
自分が自分の内側の抑圧を、自分で解放していくしかない。
そうなるとエゴばかりのひとが現れてくるという恐怖を抱える人がいるが、そうはならない。
出し切るまでの間、エゴのかたまりのようなひとが現れるかもしれないけど。
人類は抑圧から解放されることで、以前には想像もつかなかったものを生み出すだろう。

5月

30

過去と未来

過去も未来もどこにもない。
ただ「いま」があるだけ。
過去は「いま」思い出したこと。
未来は「いま」空想したこと。
美しい過去も悲惨な過去も「いま」それを作っているだけ。
美しい未来も悲惨な未来も「いま」それを作っているだけ。
どんな過去や未来を作るのか?

5月

19

世界の人口

世界の人口77億4千万。
もうすぐ77億5千万。
産業革命が起きた頃から、人口は爆発的に増え続けている。
2055年には100億に達し、その後増加の割合は緩やかになるが、2100年頃に110億でピークに達するだろうと言われている。
1億に達するのに20万年かかったが、そこからたった200年で7億になった。
だから人口をコントロールしなければならないというが、生物の増加はままならないもの。
人間の生き方を変えるべきだろう。
いかにエネルギーの消費を減らすか。
AIのサポートでそれを可能にするとき、きっと社会のあり方も変わっていく。
狩猟社会から農耕社会に変わったように、農耕社会から工業社会に変わったように、工業社会から情報化社会に変わったように、次の社会はAI社会になる。
いまのままの社会で100億を超えることはできないだろう。
人々が生き生きと暮らし、あらゆる生物が共生し、どんな生命もおろそかにされないような地球を、実現できるのだろうか?
生物との共生がもし無理だとすると、おそらくAIによって人間はほぼ絶滅する。
もし生物との共生が可能になれば、AIとの共生も可能になるだろう。
生命もAIも共存できるビジョンを作ろう。

5月

17

非二元意識

一時期スピリチュアルな人たちの間でも「ノンデュアル」として話題になっていた。
僕がその存在を知ったのは二十年以上前、ケン・ウィルバーの『意識のスペクトル』にその言葉が出て来たから。
その本の中で何度も「非二元的な知の様式」などという言葉で登場する。
はじめて読んだときはフロムの「生きるということ」に出てくる「あるということ」のように、意味がわかったようなわからないような状態だった。
書いてあることは理解できるが、言っている本当のところが、僕の想像しているものと同一のものかどうか自信が持てなかった。
ところが、「非二元的」なことが、いろんな本のあちこちに登場していることが、これ以降少しずつ理解できるようになった。
あれから二十数年、いまではすっかり「非二元」の追っかけフリークのようになってしまった。
ヒーリング・ライティングを通して、それをかいま見るにはどうしたらいいのか、伝えられるようになりたい。
でも、そのまま伝えられるものではなく、だからこそ秘教と言われている分野に登場するので、本にしたところで正しく伝えられるものではないことは知っている。
それでも、それを求める冒険の入口に立てるような本にしたい。

5月

12

妄想する

アフターコロナがどうなるか、妄想する。
根拠なんてなくていい、自分のとっていい社会とはどういうものか。
あまりにも利己的な社会を想像するのは無駄なことだ。
自分にとっていい社会といいつつ、実現する可能性を持たせるためには他人にとってもいい社会でなければ妄想するエネルギーが無駄になる。
面白い。

5月

11

生活が変わる

新型コロナウィルスのおかげで、多くの人が「世界が変わる」「生活が変わる」と言い出した。
どんな風に変わるのか、僕なりに妄想する。

みんなが好きな仕事をして生きていくことができるようになる。
政治は国民のサポートに徹し、国民のニーズにことごとく応える。
必要なものはたいていいつでもどこでも手に入る。
すべての人が本当によい教育を受けることで、世界中の民度が上がる。
民度が上がることで誰も他人を馬鹿にしないし、差別しない。
時間がたくさんあるから、いろんな国のいろんな言葉を学び合うようになる。
世界中の人々がネットで仲良くなって実際に会いにいくから、移動手段が必要になるが、地球からエネルギーを搾取しないように自転車や帆船での移動が多くなる。
帆船が増えると古代航法も復活し、ネットのやりとりと一緒にテレパシーでのやりとりも増えてくる。
電気は太陽発電や風力発電で、各家庭で必要な量を発電する。余ったら電力会社に売る。

妄想楽しいので止まらなくなりそう。

5月

8

競争を手放す

別に無理に手放すことはない。
まわりがみんな競争していたら、それに乗るしかないかもしれない。
でも、立ち止まってよく考えてほしい。
何のために競争をしているのだろう?
豊かになるための競争ならいい。
でも、どうも豊かになるためというよりは、誰かを踏みつけて上にあがりたいというふうに見えてしまう。
誰かより少しでも早く何かをするとか、効率的に何かを得るとか。
そういう人をまったくなくそうとは思わないけど、そういう人ばかりというのはなんか違うような気がする。
ほかの人にはない、オリジナルな自分を求めていきたい。

5月

7

ノヴァセン

ガイア理論を提唱したジェームズ・ラヴロックが99歳にして『ノヴァセン』という本を出版した。
簡単に書くと、人間も自然の一部なので、人間が作り出すAIも自然の一部であり、そうだとするといままでの生物が従ってきた法則に則るはずであり、人間の勢いがたとえ衰えても、AIが次世代を担うだろうという、明るいのか暗いのか判断が難しい未来について書いた。
人間が生き延びるかどうかについては、多分生き残るけど、覇権を握るのはAIになるだろうという。
僕もそうだろうなと思うし、まわりの友人たちにはその話をずっとしてきた。
いろいろと批判もされるが、なぜそうなのかという説明をしだすと長くなる。
ラヴロックはその説明の大部分をはしょっている。
賛成派と反対派に分かれるだろうなと思うけど、賛成しようが反対しようが、そうなるときはいつか来る。

4月

27

あきらめる

「あきらめる」というと、普通には「諦める」ことをいうが、理由をあきらかにする「明らめる」という言葉があり、同時に心を明るくするという意味での「明らめる」という言葉もあった。
つまり、「諦める」ためには「明らめる」ことが必要だということ。
「諦める」というと何かよくないことを表現しているように感じるが、本当はもっと奥深い意味を持っていたのかもしれない。
日本語ではそのことを昔から伝えてきたのだろう。
すべてを知り尽くす、つまり「明らめる」ことで自然と「諦める」境地になる。
前にジャイナ教の「ケーバラ・ジュニャーナ」について書いた。
それを知ることで「人間の知りようのない智慧」について考えた。
そこを通って僕は「諦める」。
でも、伝えるべきことはたくさんできた。
アフター・コロナでは多くの人がこの境地に達するのだろう。
言葉の不思議さを思う。

4月

22

チャンスは来るときに来る

いろんな人がアフター・コロナに備えろという。
でも、具体的にどのように備えれば良いのかはわからない。
トイレット・ペーパーを備蓄する?
違うでしょう。
食べ物の備蓄?
でも、流通が滞らなければ無駄足だよ。
かえって備蓄が理由で市場では不足するかもしれない。
新しい仕事を作る?
どんな?
そうやって焦りや不安に苛まれていく。
もし困ったことが起きたら、それに対処するための仕事を作れば良い。
何が困ったことになるのかわからないうちは、今できることをすること、楽しむこと。
もしきっとこれに困るなと思ったら、その準備をすればいい。
それは、サーフィンで波を待つことに似ているかもしれない。
どんなに騒いでも、どんなに懇願しても、どんなに夢に見ても、波が来るときは来るし、来ないときは来ない。
波が来るというのは、観察していればわかる。
観察を怠らず、波が来たら乗る。
それまでは、いまを楽しみましょう。

4月

22

日常

乗りたいときに電車に乗り、行きたいときに行きたい場所へ行く。
会いたいときに会いたい人に会い、食べたいときに食べたいものを食べる。
したいときにはくしゃみをし、したいときにはいくらでも咳き込む。
マスクなんか気にせず、友達の正面に座っていつまでもしゃべる。
泳ぎたいときに泳いで、走りたいときに走る。
そういう生活の素晴らしさをしみじみと味わう。

4月

14

新型コロナウィルスにより得られた気づき

人間は地球の環境を搾取してきた。
どんな注意も警句も聞き入れられなかった。
どれほど環境をけがしても、地球は自浄するものとたかをくくっていた。
そのバランスの悪化が新型コロナウィルスを生み出した。
謙虚にことに当る必要がある。
自民党の幹部が「これで持たない企業は潰すから」と発言したことを自民党安藤裕議員が明かした。
安倍首相は昨日の自民党の役員会で「休業に対して補償を行っている国は世界に例がなく、わが国の支援は世界で最も手厚い」と強調したとNHKが報じたが、明らかなウソだ。
ドイツにもイギリスにも休業補償がある。
そんなこと言ってると地球に浄化されるよ。

4月

9

無意識の働きに気づく

無意識は普段気づくことができない。
「あ、これ無意識だ」と思ったら、それはもう無意識ではない。
だから無意識の議論は難しいし、自分自身の無意識に気づくことも難しい。
だけど、毎日気持ちいいものを書いていると、あとから無意識の働きに気づくことがある。
それは、偶然かもしれないし、シンクロニシティかもしれないが、無意識の働きだと考えることもできる。
たとえば、この「日刊 気持ちいいもの」を再開した日に311が起きた。
偶然ともいえるし、シンクロニシティともいえるし、無意識の働きだともいえる。
同じように、今年に入って、なぜか朝日を浴び続けていた。
天気が良くて朝日がきれいな日に、ベランダに出て、上半身は作務衣一枚で朝日を浴びていた。
なんでそんなことしているのかよくわからなかったが、なんとなく気持ちいいのでしていた。
そしたら、二月後半からコロナ騒ぎだ。
日を浴びるとビタミンDが生成されて、感染症予防に効くらしい。
偶然かもしれないし、シンクロニシティかもしれないし、無意識の働きかもしれないが、僕は無意識の働きだと思い、そういう気づきを与えてくれているサムシンググレートに感謝する。

4月

2

傲慢であること

新型コロナウィルスがたとえ生物兵器であっても、それは自然が生み出したもの。
人間は、自分が自然の一部であることを忘れている。
自分自身が自然であることを知れば、何ごとも自然がおこなっていることと知ることになる。
自分だけは自然の摂理からはずれていると考えるのは傲慢なこと。
しかし、この傲慢でさえ、自然の摂理からははずれられない。

3月

25

桜が咲く

また今年も桜が咲き出した。
そうするとカメラを持ち出しパシャパシャ撮り始める。
もう飽きるほどに撮ったのに、それでもまだ撮る。
撮れば撮るほど、美しさの奥行きが広がる。

3月

18

気持ちいいを引き寄せる

ひさしぶりにこの『日刊 気持ちいいもの』を再開した日、東日本大震災が起きました。
朝に創刊号を発信し、昼過ぎに大地震が起きたのです。
それから数ヶ月は苦痛や困難を感じながら「気持ちいいもの」を発信しました。
とてもいい修行でした。
いまもまた似た状態になってきました。
何か大きな発見があるのかも。