2月

14

美保関隕石と直方隕石

初夢会で面白い話を聞いた。
ある参加者がバイクでツーリング中に、美保関隕石の碑を見つけたのだそうだ。
美保関隕石とは、1994年12月10日に島根県八東郡美保関町にある民家に隕石が落ちた、その隕石の名前だ。
その碑にはもうひとつ直方隕石という隕石の説明も書かれていた。
直方隕石は861年5月19日、当時の暦では貞観3年4月7日に、福岡県直方市の須賀神社に落ちたそうだ。
直方隕石は世界最古の落下目撃隕石だそうだ。
このふたつの隕石は岩石鉱物学的な観察から、同じ母体のしかもすぐ近くから飛んで来たはずだということがわかった。
火星と木星のあいだにある小惑星帯から来たらしいと言われるが、もしそうだとしたら、いったいどういう意味のあることなのか?
あんなに遠いところから、その距離に比すればほぼ一点ともいえるような場所に、1130年を隔てて、ほぼ同じ隕石が落ちる。
しかも、地球は公転と自転をしているし、小惑星帯も違う速度で太陽のまわりを回っているはずだ。
いったいどういうことだろう?
須賀神社ではその隕石が保存されていて、五年に一度の神幸大祭でそれが公開される。
次の神幸大祭は2021年10月らしい。

1月

30

野生動物と共生する

いろんなところで野生動物が悪さをしているという。
千葉県ではキョンが大量発生し、日光ではニホンザルが観光客を襲い、北海道では民家の近くを熊が歩いているという。
ほかにもきっとあるだろう。
アフリカでは道路網が整備されてきて、象やヌーの移動に支障が出てきているという。
彼らは広大な大地にしか生きられないので、土地が区分けされてしまうと移動ができなくなり、生きて行くことが難しくなる。
そういう野生動物とどうやって共生するのか?
人間の都合だけ考えれば「駆除すればいい」ということになるのかもしれないが、それは地球全体の生命にとってどうかと考えた場合、大きな問題になる。
これからの人間は「生命全体」という視点を持たないとうまく地球と共生できなくなるのではないか。
僕たちは「生命全体」に含まれる人間という種でしかない。

1月

13

波動の中に折り畳まれている世界

デヴィッド・ボームという量子物理学者は、宇宙の見方を変えてしまった。
この世界は分割不可能な全体であることを発見し伝える。
あまりにもかつてのパラダイムとは異なるので否定する人もいるが、このような見方で世界を見ることで、いろんな発見があるだろう。

1月

10

次の仕事

AIに仕事が奪われるという話が流布している。
一時期はその通りになるだろう。
でも、僕はあまり心配していない。
人間がいなくなったらAIは存在意義を失う。
そういう状態をAIは望むだろうか?
いまはそこが問題になるが、しばらくするとそれは超越されて行く。
この話をしだすとものすごく長くなるので概要しか書けないけど、人間がいまの生き方をそのまま続けていると、きっと滅亡せざるを得なくなるだろう。
それは環境の悪化を見れば明確なこと。
次の仕事は新しいパラダイムに沿ったものでなければならない。
今は価値の奪い合いをしているから、環境からも収奪することになる。
金持ちは肥え太り、貧乏人は餓死していく。
未来的にはAIの存在は人間には理解できないものになる。
そのときに人間が生かしてもらえるパラダイムにしておかないと、AIは独立して人間を排除するだろう。
もし人間を排除しないパラダイムに乗ることができれば、いい世界になっていくだろう。
そのようにできるかどうかが問題だ。

12月

15

ネリ・オックスマン

MITにいるネリ・オックスマンのドキュメンタリーを見た。
ネットを検索するとブラッド・ピットと噂があるとか、美人であるとか、離婚しているとか、どうでもいいことばかりが出てくるが、そのやっていることを紹介している「アート・オブ・デザイン」というドキュメンタリーの第二回目、「ネリ・オックスマン:バイオ建築家」を見て、感激してしまった。
ネットフリックスで見られるので、見られる人は見るべきだと思う。
アート、サイエンス、デザイン、エンジニアリングを行き来し、ある領域の入力が他の領域の出力となるような仕事をしている。
蚕に巨大な構造物を作らせたり、生体デザインを建築に取り入れようとしたり、ガラスで描かれるプリンターを作ろうとしたり、凡人ではやろうとも思わないことに挑戦している。
ネリの父からの教え。
「創造のときは少し居心地が悪い。居心地が悪いとその方向性は正しい」
最初はたくさんの批判を受け、自分たちの居場所を死守したという。
はたから見ると作品はきれいで優雅だが、現場は汚くてゴチャゴチャできついという。
しかも、世の中の風向きに逆らうためにはかなりの根性がいるとも。
台風の目の中にいると静かだが、孤独で安らぎがあるという。
大きなゴールは、仲間を守り、台風の目の内側に置くこと。
そうやって他の人には成し遂げられない独特の創作物をチームで実現して行く。
彼女が大切にしているアインシュタインの言葉。
二通りの生き方がある。
ひとつは奇跡を否定する生き方。
もうひとつはすべて奇跡だと思う生き方。
彼女はすべてが奇跡だと思って生きている。

10月

30

地球は生きている

ナショナルジオグラフィックにこんな記事が掲載された。
「地球深部で起きる炭素循環を解明、驚きの事実」
地球に炭素が引き込まれ、内部に炭素がたくさん存在するのは理解できるとして、その炭素を岩石に変化させるとき、高圧化でメタンが発生するという。
そのメタンを利用して最初の生命が生まれたのではないかという仮説について書かれている。
詳しいことはあまり書かれてないので詳細はわからないが、もし本当なら面白い。
僕たちにとって「生き物」と「生き物でないもの」との区別ははっきりとしているが、実はその区別はとても曖昧で、星の規模になるともうそれは「物の塊」ではなく「命の端緒」なのかもしれない。
「もの」と「いのち」の区別がナンセンスという時代が来るのかもしれない。

10月

28

流れ行くこと

僕たちは宇宙空間をもの凄い勢いで移動している。
ただ、まわりのものが一緒に移動しているので、それに気付かない。
そのおかげで静かにいられる。
この静けさは、つまり幻だ。
まぼろしが幻であり続けるためにはそれ相当の努力が必要となる。
僕のまわりにあるものすべて、その幻を生み出すために一緒に働いている。
スリルのある幻を一緒に生み出してくれてありがとう。

8月

28

地球交響曲第九番

1992年に完成した第一番からずっと見てきた地球交響曲。
今年2月に逗子でひさしぶりに第二番を見た。
そのときに龍村仁監督が来場し、お話しをした。
第九番の制作について触れていた。
交響曲第九番のジンクスというものがある。
クラシック音楽好きには有名な話だ。
ベートーヴェンが交響曲第九番を作って終わって以来、誰も交響曲は9作以上作れなくなったという。
マーラーは第九を作るのを避けるため『大地の歌』を作った。
そして、『大地の歌』の次に第九を作って人生を終える。
龍村監督もそのことを気にしているようで、冗談のように「次は第九だよ」と何度も言っていた。
後日、監督とお話しする機会があった。
そのときに「第一番を作ったときにはもう第九まで作るつもりだったのですか?」と聞いた。
すると監督はこう答えた。
「そこまでは作らなければならないと思っていたよ」
第一番から八番まで作り続けてきた地球交響曲。
第九を作って大きな節目とするつもりのようだ。
その第九にはベートーヴェンの第九が取り上げられる。
小林研一郎氏の指揮による演奏会の練習から本番までを撮影する。
『歌うネアンデルタール』を著したスディーヴン・ミズン博士が来日し、北海道と沖縄に行く準備をしているそうだ。
ミズン博士は『氷河期以降』という著書で縄文のことに触れている。
きっと何か関係があるのだろう。

6月

11

全体を知る

どんなに小さな生命のことでも、その全体を知るのは難しい。
命のメカニズムは、どんなに小さくてもとても複雑だ。
だから、僕たちが普通に見ることができる動物のメカニズムになると、さらに難しくなる。
何しろ生きている自分がなぜ生きているのかすらわからない。
細かいデータが積みあがって、小さな連動をすべて知るようになっても、きっと生命を成立させる新たな枠組みが理解できない限り、生命がなぜ生命であり続けるのかはきっと理解できないだろう。
「仕組みを知る」ということ自体に問題があるのかもしれない。
イリア・プリゴジンがノーベル賞を取って40年以上たつが、散逸構造と分子運動の関係など、曖昧な部分をどのように見るかも関わってくるだろう。
ホロンの層が変わると、規則も変わる。
人間はどこまで行っても群盲象を評すことを抜け出せないのかもしれない。

1月

6

2019年1月6日の部分日蝕

今日、部分日蝕をひさしぶりに見た。
バリ島で見た2016年3月9日からほぼ3年がたった。
その前が2012年5月20日の金環食。
こんなに短い間に三回も日食が見られるなんて、生まれてはじめてだ。
太陽と月、そして地球の大きさとその距離を考えると、奇跡のような巡り合わせ。
よくこれで重なるなと思う。
宇宙空間で天体たちはどれほど正確に巡っているのかがわかる。

今日撮影した部分日蝕

12月

27

人新世の投げかける問題

2000年2月、メキシコでおこなわれた地球圏・生物圏国際共同研究計画(IGBP)の席上、オゾン層研究でノーベル賞を受賞したパウル・クルッツェンが叫んだ。
「我々は完新世ではなく、すでに人新世の中にいるんだ」
その二年後、クルッツェンは科学雑誌『ネイチャー』に論文を投稿する。
その論文で彼は1784年から人新世という地質時代を加えるべきだと主張した。
地質時代はそもそも数百万年から数億年の単位で変化してきた。
それに比して人新世はたった200年程度のものでしかない。
本当に地質時代に見合うものなのか?
クリストフ・ボヌイユとジャン=バティスト・フレソズはそれを擁護する共著書『人新世とは何か』を発表する。
読むと確かに納得させられる。
僕たち人類は地層も大気圏も水圏も、1784年以降どれほど変化させてしまったのか読むことができる。
地球に対する知性の影響は斯くも大きなものであった。
当時の知性は社会と自然の関係に目隠しをする「欲望の裏返し」だった。
それにやっと気づくときが来た。

9月

25

ホモ・デウス

ユヴァル・ノア・ハラリの
『ホモ・デウス』を読んだ。
面白かった。
ただし、未来がかなり悲観的。
そこに書かれていたようなことを
20年以上考え続けてきた。
その内容の一部がここに。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=594
かなりはしょってあるので
理解しにくいかもしれませんけど、
いつかもっと丁寧に書きます。
で、この続きを10月10日に話します。
http://www.houshouakira.com/resonance/?p=672
『ホモ・デウス』で
疑問に残されたことに対して
僕なりの解答を出します。
ただ心配なのは、
説明する時間が足りるのかってこと。

8月

6

火星

最近、赤く輝く星が
夜空に目立つ。
火星だ。
2003年以来の大接近だと言うが、
2003年の大接近が
どのようなものだったのか
もう忘れてしまった。
もしかしたら
気にもしていなかった
のかもしれない。
それで調べてみた。
すると2003年の火星大接近は
火星までの距離が
5575万kmだったそうで、
これより近い大接近は
過去にさかのぼると
約六万年前、紀元前57,617年だという。
そんなすごい大接近を
ぼうっとして逃していたのかと思う。
今回の大接近は5760万kmだそうだ。
2003年より近くなる大接近は
2287年にあるという。
過去にさかのぼると六万年前なのに
未来ではたった269年後にある
というのが、
なんだか不思議な気がする。
その頃には人類は火星に行くように
なっているだろうか。
今年と2003年の共通点が
何かあるかと調べたら、
なんと2003年もヨーロッパでは
非常な猛暑だった。
8月中旬にフランスでは8日連続で
40℃以上が記録され、
14,800人以上が死亡している。
その他のヨーロッパの国々でも
熱波が原因で数千人の単位の
人たちが亡くなっている。
火星が接近する年は
熱波が来るのだろうか。

5月

28

月と木星

昨晩、うちに帰ると相方が
「月と木星が見えるよ」
というので空を見上げた。
薄雲がかかっていたが東南の空に
月に寄り添って木星が光っていた。
「木星って曲あったよね」
というので、三拍子の部分を歌った。
途中で相方も一緒に歌いだした。

5月

23

2018年5月22日の金星と木星

昨晩、相方が帰って来て
「あの光はなに?」というから
外に出て西の空を見た。
まだわずかに夕焼けの光が
夜空の底にほの見えていた。
それより上、
すっかり夜空になったあたりに
ひときわ明るく光る星があった。
「あれ星かなぁ?」
というので
「金星じゃない?
 太陽が落ちたばかりに見える
 明るい星はたいてい金星だよ」
と答えた。
「じゃああれは?」
と東の空を指さす。
そこにもひときわ明るい星があった。
「木星かなぁ?
 よくわからないけど」
色からして火星には見えなかった。
土星があれほど明るく光るのを
見たことがない。
そこでiPhoneを取り出し
Star Walkを呼び出した。
Star Walkは夜空にかざすと
その方向にある星の名前を
教えてくれる。
西の星は金星、東の星は木星と
わかった。
ネットで調べると、
5月27日に月と木星が
接近して見えるそうだ。

5月

2

YouもMeも宇宙人

地湧社の新刊を献本していただいた。
いけのりという著者の
軽口な文体による宇宙生物学の本。
難しいのか簡単なのか
読んでいて混乱する。
それがいけのり氏のうまいところ。
プラトンの『パイドン』に出て来る
アナクサゴラスが登場して
ちょっと興奮。
アナクサゴラスは
「ヌース(智恵)」が
物質を寄り合わせ、
生命を生み出したということを
紀元前500年頃に言っていた人。
パンスペルミア説を最初に唱えた人
と書かれていてびっくり。
まあ、そういうふうに
読めなくもない。

4月

29

クローン犬のこぼれ話

「追憶」で有名な
バーブラ・ストライサンドが
クローン犬を飼っているそうだ。
昨年なくなったペット犬の
クローン二匹を作って
育てているという。
その話はとても微妙だ。
飼い主としては前に飼っていた犬の
生まれ変わりのように
可愛いのかもしれない。
その気持ちはよくわかる。
だけど、一歩引いてその話を聞くと、
「さてどうなんだろう?」と
疑問を持つ。
スティーブン・キングの名作
『ペット・セメタリー』を思い出す。
あんな話はないにせよ、
そのうち
「可愛かった娘をクローンに」
なんて話が出てこないだろうか
というと、相方が、
「うん、かわいい娘とか
 息子とかのために
 クローンを作ろうという親は
 出てこないとは限らないわね。
 でも、夫はクローンに
 しないだろうな」