3月

23

大規模な妄想

911は米国の政府と軍が先導した陰謀によるものだという説があるが、もし今回のコロナウィルスが陰謀だとしたら、どうしたらそれが可能かを考える。
考えることがたくさんあって、暇つぶしにはいい。

3月

17

気持ちいいものを言語化する

花を見てきれいだなと思う。
よくあることだ。
だけど、悲しみに沈み込んでいては、花の美しさは見えてこない。
あまりにも浮かれていても、きっとその美しさは訴えてこない。
花を見てきれいだと思える状態に自分がなっていないと、花の美しさはわからない。
同じように、この世界にあるありとあらゆるものの気持ちよさは、自分がそれを受け取れる状態にないと受け取れない。
4084回も気持ちいいものを書いてきて、それがどういうことなのかを少しずつ理解してきた。
ときどき気持ちいいものが書けないことがある。
そのときに一番深く学んでいる。
気持ちいいものが感じられないとき、不快かというとそうでもない。
何かショックなことがあると書けないことがある。
しかし、ショックもなく、不快でもなく、それでも書けないときがある。
書けるときは、心のどこかに「書ける」というビジョンがある。
ビジョンというか、思い込みというか、信念というか、そういうものだ。
それは心に火がついた状態ともいえるし、ワクワク感ともいえるけど、ときによって少しずつ違い、とても落ち着いた気分でも書けることがあるし、不快という気持ちを抱えて書くときもある。
それがいったいどういう状態なのか、そのときどきで味わいながら書いている。
いろんな気持ちのよさがあるのと同様、いろんな状態がある。

1.気持ちよい体験を思い出すことによって書く。
2.気になった感覚を気持ちよいという側面から書く。
3.気持ちいい感覚がここにありそうだと当たりを付けて、それを気持ちいいものとして書く。
4.それが気持ちいいかどうかまったく疑問ではあるが、表現することによって気持ちよさが表れてくる感触があるので書いてみる。

こうして僕は「気持ちいいもの」に対しての目の開き方を学んでいる。

2月

28

前世でしてたこと

そもそも前世というものが本当にあるかどうかわからないが、あるとしたらきっとこれをやっていただろうなと思うことがある。
それは、写本だ。
文章を書き写していくだけの単純な作業だが、引用などでそれをしているとなぜか落ち着く。
しかも、幼い頃に兄がどこかから買ってきたレタリングの本に夢中になった。
百種類程度の異なる字体で書かれたアルファベットが、ただ羅列されているだけの本。
そこの字体を真似てみたり、参考にして自分なりの字体を作ったりもした。
当時はただ面白いからとやっていたけど、大人になって「なんでそんなことに夢中になっていたのだろう?」と思うようになって、そうか前世でしていたのかもと思うようになった。
科学的に本当のことではないけれど、僕の心に馴染むことなので、きっと本当のことだ。

2月

26

武士の心

昔、こんな話を聞いたことがある。
切腹を決めた武士が前夜すやすやと眠っているのを見て、切腹の朝、息子が聞いた。
「父上、本日切腹の儀、恐ろしくはないのですか」
「切腹するまではなんの恐ろしいこともない。いまは朝ご飯がおいしいだけだ」

2月

21

死にたくなること

ときどき死にたくなる。
とんでもない失敗をしてしまったとか、誰かに責められたとか、借金が返せないとか、したいことができないとか、誰かに裏切られたとか、病気になってしまったとか、大切な集まりに遅刻してしまったとか、いつまでたっても仕事が終わらないとか、うっかりくだらない答弁をしている国会中継を見てしまったとか、あと20年生きるとしてたった2万回程度しかない食事の機会にまずいものを食べてしまったとか、楽しみにしていた集会がコロナウィルスのせいで中止になったとか、可愛いあの子に会えなくなったとか、、、
生きているという本質に関係ない、まったくどうでもいいこと悩むなぁと考えたあと、攻めに転じる。
死んだら何にも感じられなくなる。
どうせならもっと苦しんでやろう、悲しもう、悔しがろう。
どたばたじたばたしたあとで、楽しいこと、うれしいこともあるだろう。
それを感じるためには生きていなければならない。
死にたくなるようなことは、そのためのいいスパイスだ。

1月

27

自分から逃げること

『自由からの逃走』というフロムの本がある。
内容を端的に表現すると、人間は自由を与えられると何をするか考えるのが面倒になってたやすく手に入れられる答えに身を投じるというもの。
その逃避先が権威主義であったり、破壊性であったり、機械的画一性であったりして、その結果としてナチズムを生んだのではないかとしている。
1941年の著作だからそれからもう80年近くがたつ。
科学が、心理学が発達し、僕たちはなんでも明らかにしてきた。
だから、どんな時代に生きていようと、自分がどのように考えるかで様々な可能性があることを理解するようになった。
一方で、様々な可能性を考えられる思考は、時代が与えてくれたものであることも理解できる。
自分の環境が良ければ考えられることも、もし悪ければ考えられない。
そうだとすると、自分の思考とはいったいどういうものなのか?
本当の謎は、自分自身であるかもしれない。
逃げようのない自分の思考から、どのように距離を置くべきなのだろうか?

1月

27

たらふく食べる

血糖値が気になるお年頃なので、あまりたくさんは食べないようにしているし、かつてほどの食欲はなくなってきているが、それでもときどきたらふく食べるとうれしい。
いろんな栄養が血になり肉となる。
どんなウィルスもこれで撃退だ。

1月

15

全体を知る

新しいメディアがひとつできると、そのたびに僕たちはうれしくなる。
知らなかったことが知れるようになるから。
本ができることによってプロテスタントが生まれた。
同じ聖書をたくさんの人たちが手にできるようになったから。
雑誌や新聞が生まれて社会が変化するようになった。
昨日より今日が、今日より明日がよりよいものになるために何をすれば、何を考えればいいのか、多くの人が気づくようになったから。
ラジオができて大きなグループの感情が一方向に向くようになった。
リーダーの感情が声で伝達されるようになったから。
テレビができて比較的世界が平和になった。
言葉では伝えられない状況を目で見ることができるようになったから。
このようにして大雑把な理解の密度を人類は少しずつ上げてきた。
インターネットが生まれてさらに理解の密度を上げる可能性を手にする。
次に生まれるメディアが、前のメディアでは伝えられなかったことを伝えて行く。
僕たちはこうして、いつか宇宙の全体を知るようになるのだろうか?
それを知るために新しいパラダイムが、もうすぐやってくるのではないか?
その新しいパラダイムは、権力者にすべてが集中するようなものではないだろう。
そのことをテイヤール・ド・シャルダンは美しい言葉で表現している。

生命の樹の樹液全体を一本の枝だけのために集め、他の枝の死の犠牲の上に立つ民族主義者の理想は誤っているし、自然の理にそむいている。太陽にむかって伸びあがるためには、まさに木の枝全体の成長が必要なのである。世界の出口、未来の扉、超=人間への入口、これらは、いく人かの特権者やあらゆる民族のなかから選ばれた唯一の民族だけに開かれているのではない。それらは万人の圧力に対して、すなわち、全人類が地球の精神的革新において一致団結し、完成されるような方向に対してのみ道をあけるのである。

『現象としての人間』 ティヤール・ド・シャルダン著 美田稔訳 みすず書房刊

1月

9

太陽に照らされる

気温が低くても、日光が照っていると温かい。
上半身は作務衣一枚でも、快晴の日光のもとでは寒くない。
しばらくするとポカポカになる。
からだの内側にも遠赤外線が染み込み、疲れていた部分を癒してくれる。
心が曇っても、日の光が雲を吹き飛ばしてくれる。

1月

8

いいたいことを言う

日本の政治もアメリカの政治も、約束事を無視して暴走し始めたようだ。
このまま行くとたくさんの命が失われるのかもしれない。
その前にもし、言いたいことが言えなくなったのなら、その時点で僕たちの命は疎外されている。
疎外を受け入れるのではなく、いいたいことは言おう。

1月

6

勧善懲悪からの離脱

現実世界に「悪いだけ」の人はほとんどいない。
いたとしてもそれがどんな人なのか、あまり想像できない。
「悪い人」には悪い人になってしまった理由がある。
その理由を取り除いてあげられれば、悪い人になる必要はなかったのかもしれない。
悪人のはびこる社会は、その理由を取り除くことができない社会。
だとするならば、悪人ばかりが悪いと言い切れるのだろうか?
「善」とか「悪」とか、簡単なレッテルで判断していいのだろうか?
「善」が強調されればされるほど、「悪」が目立ってくる。

12月

30

時間をかけた説明

何かを一瞬にして悟ることがある。
「なるほど、こういうことか」
一瞬でそれを了解するが、何をどう了解したのか、説明に時間がかかることがある。
悟ったことが複雑で説明しにくいものであれば、時間がかかるだけではなく、説明をどうしたらいいのかを考えなければならない。
こういうとき、知覚の不思議さを思う。

12月

30

新たな認識

あることに対する新たな認識を得ると、かつての認識とは違うものに見えてくることがある。
よくあるのは「老婆の絵です」といわれてそれを見ると確かに老婆が見えるが、「少女の絵です」といわれてそれを見ると、確かに若い娘の絵に見えるという絵。
ネット上でも「少女と老婆の絵」でググると出てくる。
同様なことが実は僕たちのまわりにもよくある。
幼い頃に聞かされた怖い幽霊の話は、大人になって聞くと怖い話と言うよりは、悲しい話に聞こえたりする。
このような認識の変化は新しいメディアが生まれるたびに現れてくる。
1996年頃から活発になってきたインターネットによって作り出されてきた新たな認識が定着することによって、世界中でものの見方がひっくり返りそうだ。

12月

13

混沌

大きな愛に目覚める人たちがいる。
一方で、嘘いつわりで世の中を乗り切ろうとする人たちもいる。
世の中混沌としてきた。
目の覚めるような新しいものが生まれることを期待する。

10月

31

水泡

水に潜って、泡がプクプクと浮いていくのを見るのが楽しい。
空気中でもああいう泡がポコポコッと浮いていけばいいのにと思った。
気持ちいいものを想像していると、ときどき不思議なイメージを見る。

10月

24

終えること

懸案だったことに終止符を打ち、次の仕事に向かうとき、エネルギーが湧いてくる。
だから終わりを宣言するのは大切なこと。
一段落つけたら、些細な儀式をおこなう。
美味しいものを食べるのでも、酒を飲むのでも、ガッツポーズをするのでもいい。

10月

23

真実を語ること

現代は真実を語りにくくなってしまった。
マスメディアは政府に忖度する。
ネットもシレっと規制される。
何が秘密か知らされないのに、秘密を暴露すると処罰されるという。
変な世の中だ。
それでも真実を語ろう。
語らないとさらに語れなくなる。

10月

20

別人になる

「気持ちいいもの」がなかなか思い浮かばないとき、いままで書いた「気持ちいいもの」を読みなおすことがある。
そして気付く。
書いたときには気持ちよかったことが、いまはちっとも気持ちよくないことを。
読みなおすことでそのときの感覚を思い出すが、なかには思い出せないものもある。
いったいどうしたことだろう?
きっと僕のなかにはたくさんの別人がいるのだろう。

10月

8

苦痛について

苦痛が気持ちいいことになる訳ではないけど、少しやわらぐ方法を見つけた。
苦痛を味わったあとでこう思う。
「この苦痛は死んだらもう感じられないな」
苦痛は何かの警告である。
警告よ、ありがとう。

10月

4

サクサクッとできること

手間ひまかけていたことが、サクサクッとできるのはうれしい。
時間を得した感じ。
なんでもそういけばいいのだが、そうはいかないところが味噌。
面倒な感覚がもしなければ、サクサクッとできてもたいしてうれしくない。

9月

28

僕のビー玉

どこに行ったのだろう、僕のビー玉。
ラムネのビンと同じ色をした、少し歪んだビー玉。
覗き込むと空気の泡がキラキラ輝き、まるで星空のようだった。
少し歪んだその歪み具合が好きだった。
ビー玉を覗いていると、そこにはほかのどこにもない宇宙が存在していた。
普通に見ると、ただのビー玉。
どこにでもある、ひとつのビー玉。
僕が失ったものは、ただのビー玉ではない。
説明できない深宇宙。

9月

25

アリンコを殺して学ぶこと

子供の頃、アリンコをたくさんつかまえてきてバケツに入れて、そこに水を入れた。
バケツから逃げるアリンコもいたけど、溺れるアリンコもいた。
いま考えるとよくあんな残酷なことしたなと思えるが、子供の頃の僕はそれが面白かった。
アリンコは、みんな一緒だった。
つまり個体識別できていない。
名前なんかない無名のモノたち。
いくら殺しても何も言わない。
だからいくら殺しても問題ない。
なんどかやって、もうそういう遊びはしなくなった。
大人になって会社に入り、大きなビルの高いところから、下を歩いている人たちを見た。
アリンコのようだった。
そして、そのアリンコのような人のひとりが僕だと思った。
簡単に殺されてはかなわない。
そう思っている人みんなで社会を作っている。

9月

6

自分のテンポで

人間は喜びや楽しみを基として生きるのがいい。
かつて他人を働かせてなんとかしたいと思った王たちは、自分の欲望を満たすために制度を作り、人を縛った。
生命にも成長のステップがあるように、社会にもステップがあるだろう。
そのステップをそろそろひとつ上がったほうがいいと思う。
人は節度ある教育を受けて、この社会の役に立つことが人生での楽しみであると理解できれば、あとはある程度自由にできるようにすればいいのではないか?
生産性は落ちるかもしれない。
でも、それで困るのは、困るような社会にしているからではないか?
過度な競争は戦争を生む。
話し合いで互いを高められるように社会を少しずつ変質させていこう。
「競争しなければならない」と考えるのは手放してもいいのではないか?

9月

4

本当に願っていることは何か

人は多くの矛盾に挟まれる。
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこういうしかなく、親としてはこう言わざるを得ないのに、たくさんの想いを抱えているのにも関わらず、どれかひとつしか表明できない。
なぜどれかひとつしか表明できないのか?
そういうものだと自分が思っているからではないか?
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこう言うしかなく、親としてはこう言わざるを得ないということを、全部言ってみたらどうだ?
「それは矛盾だ」と誰かに言われたら、「立場が違えば言うべきことが変わるのは当たり前でしょう」と言えばいい。
そうやって多面的な本当のことを言い合うことができれば、いままでにはなかったような鮮やかな答えが得られるかも。

8月

22

水滴の音

世界は一滴の水の音とともに始まった。
一滴の水の音が世界を変えた。
それ以上でもそれ以下でもない。
一滴の水の音とともに人は笑い、人は歌い、鳥は飛び、魚は群れをなす。
僕がそれを認識していなかっただけ。
一滴の水の音とともに宇宙は存在し、銀河は巡り、彗星は流れ、太陽は輝く。
一滴の水の音とともにあらゆることが起き、あらゆることが変化し、あらゆることが流れていく。
僕はその状況の中に浮かんで流されるだけ。
一滴の水。