2月

3

スライゴーのイェイツ像

彼は詩を纏っている。
魔術と共に死を纏っている。
満たされない恋はからりと諦め、
娶った女は霊媒となった。
ミイラがミイラ布にくるまれているように
詩という心の旅にくるまれている。

1月

29

陽という字

「陽」という字が好きだ。
自分の名前に含まれているからというのが大きな理由だが、父から付けてもらった字であり、「陰陽」の「陽」であり、陽気の「陽」でもあるから。
「陽」という文字があると、すぐに見つける。
「陰」と引かれ合う。

1月

16

詩を書く

生まれてこのかた、詩は六編しか書いたことがない。
そのうち三編は「水のきらめき」で読むことができる。
二篇は知り合いの結婚を祝うための詩で、二編とも披露宴で朗読した。
二編のうち一編は拙著『ヒーリング・ライティング』に、カップルの許可をとって掲載した。
残りの一編は、小学二年の時、練馬区の文集のトップに掲載してもらった。
小学二年の時の詩と『ヒーリング・ライティング』に掲載した詩以外は、瞬時のインスピレーションで生まれた。
ある状況にいることで、ピカッと何かに打たれる。
その打たれた内容を言語化すると詩になる。
滅多にない体験だが、詩が生まれる瞬間を体験するのは嬉しい。

1月

2

万象具徳

多様性を活かすとはどのようなことか、わかっているようでわからないことだが、きっと日本では二宮尊徳が伝えた万象具徳という考え方がわかりやすい例えとなっているのだろう。
ただ、価値観が複雑になった現代では、微妙にずれた解釈が生まれるかもしれない。

11月

28

書く

あるテーマについて考え続けていると、しだいに考えたことが自分にとって当たり前になってしまって、その前提で考えたことばかりが思い浮かぶようになる。
そうすると、なぜそのようなことを考えたたのか、その理由が抜けてしまって、他人に説明するときに困る。
なので考えたことはこまめに書くようにしている。
そうすると、なぜそのように考えたのかがきちんと残るので、他人に説明するときに便利だ。
膨大な文献のどこに書かれていたのかなんて、ほぼ忘れる。
こっちの文献のこの話と、あの文献のあの話を組み合わせて考えると、このように考えることができるなんて話は、再現が難しいことがある。
そんなとき、書いてあると便利だ。

11月

20

正しいことと正しくないこと

いつも自分は正しいことをしていたいとは思うが、必ずしも「いつも」はできないことに直面する。
少し長い人生を過ごしていれば、そのような体験はいくらでもあるだろう。
そのようなときどうするのかを、ドラマや映画を見たり、他人の体験を聞いたりして、自分なりに考えるのは有益なことだろう。

11月

16

薄命リスク

かつてCAだった友人とメッセージのやりとりをしていて「薄命リスク」という言葉が出てきた。
「こんなに忙しいと薄命リスクが高くなる」というのだ。
普通なら「こんなに忙しいと死亡リスクが高くなる」というべきところだ。
暗に自分が美人であることをアピールしている。
笑った。

8月

17

対話

対話は基本的に気持ちいい。
気持ちよくならない対話は、対話している者同志またはどちらかが、優劣をつけようとするもの。
それは対話ではないことに気づく。
対話はすればするほど理解が進み楽しくなる。

7月

29

人と会う

人間は社会的動物だから、人と会うのが大事。
本を読んでいれば言葉とは触れるが、生きている人間が発する言葉は、きっと文字とは何かが違う。
見て明らかな違い以外にも、エネルギーとか波動とか、怪しい言葉になってしまう微妙な何かが違う。
それは科学的に証明しようとすると破綻するもの。
会ってくれてお話ししてくれてありがとう。

6月

17

あらゆるものの肩に乗る

あらゆる存在が、何かの肩の上に立っている。
どんな音楽も、音階がないと生まれなかったように。
どんな言葉も、最初の原始的な言葉がなければ生まれなかったように。
どんな生命も、原初の単細胞がなければ生まれなかったように。
どんなアイデアも、言葉がなければ生まれなかったように。
誰もが、両親がいなければ産まれなかったように。
あらゆる存在が何かの存在のおかげで存在する。
肩に乗せてくれてありがとう。
そして、肩の上に乗ってもらえて嬉しい。

5月

10

ふふふ

京都錦市場にお麩の専門店がある。
そこののれんにひらがなで「ふ」と書かれていて、それがいくつも連なっていて「ふふふ」と読めるようになっていた。
「ふ」というひらがなはいくつか並ぶと不思議な力を発する。
大きな「ふふふ」、いつかご覧ください。

4月

30

気持ちよくないことから気持ちいいものを知る

気持ちいいものとは何かを知るにつけ、謎が生まれる。
気持ちいいものとそうではないものの境界とは何か?
気持ちいいものを感じてばかりいるとわからなくなることがある。
気持ちいいものの継続は気持ちいいのか?
当たり前の継続は、気持ちよくなくなっていく。
それは感覚の摩耗なのか?
繰り返すことは良くないことなのか?
謎を解くことで気持ちいいことがはっきりする。

4月

25

漢字

漢字は、見ただけで意味がなんとなくわかるものがある。
その、なんとなく受けとった意味と、調べてわかった本当の意味が近いとうれしい。
そういうのって、表意文字使ってない人にはわからないんだろうな。

4月

24

目の前のこと

僕は目の前のことしかできない。
だから、やると決めたことは丁寧にやる。
それだけだ。

4月

21

水の音

波の音、ザブン

雨の音、ザー

滝の音、ドーッ

みんなおんなじ水の音

鼓動の音、トクトク

わたしのなかに、トクトク

あなたのなかに、トクトク

地球の上の 誰の胸にも、トクトク

トクトクも、実はやっぱり水の音

あなたの心が揺れるとき
わたしの心に波紋が広がる

みんなおんなじ水だから

あなたの耳に懐かしい
やさしいきれいな水の音
心の底から湧き出るように

あなたのために祈ります

母さんからいただいた、トクトク

父さんからいただいた、トクトク

いつまでも安らかに続きますように

—————–

この詩「水の音」は2004年8月14日、ピース・キッズ・サッカーの大会に参加するため、イスラエルとパレスチナから来た子供たちの歓迎会で朗読したものです。
それぞれの節で日本語、ヘブライ語、アラビア語で輪唱のようにして朗読されました。
当時のイスラエル大使エリ・コーヘン氏や駐日パレスチナ総代表部代表のワリド・シアム氏にもご臨席いただきました。
世界が平和であるよう祈ります。

4月

12

ヒーリング・ライティングのサイト

ヒーリング・ライティングのサイトを作り直している。
いままでのシリーズは「言葉と私」「自分史を書く」「未来への鍵」の3つだった。
「言葉と私」はVOICEから出版された「ヒーリング・ライティング」に、「自分史を書く」は主婦の友社の「あなた自身のストーリーを書く」にまとめたが、「未来への鍵」はまだどこにもまとめていない。
「未来への鍵」はどこかしっくり来ない部分があった。
それを追い続けて20年。w
サイトでは第一章「言葉と私」、第二章「自分史を書く」として、第三章は「オメガポイントへの階梯」とした。
まだ試行錯誤は続く。
http://www.healingwriting.com

3月

23

聖なる世界

僕たちは貴重な存在に取り囲まれている。
あまりにも当たり前になってしまったため、見えなくなってしまったその尊さ。
とても高い価値を持ったものしか残らない世界。
そんな世界の中で生かしてもらっている。
「当たり前」と思うか「尊い」と思うか。
それは自分に委ねられている。

3月

12

味わい直す

気持ちいいものを文章にするというのはどういうことかというと、そのひとつは「味わい直し」なのだ思う。
人は、いろんな状況でいろんな体験をする。
たとえば、失恋のあとにどんなにおいしいものを食べても、おいしくは感じられなかったりするだろう。
だけどもし、失恋の感情から解放されて、気分のいいときに同じものを食べたら、とてもおいしく感じるかもしれない。
それに似ている。
気持ちいいものを書くことで、気持ちいいものの再体験をする。
ただ文章を書くだけだと再体験にはならないが、文章を書きながら、その体験をまざまざと思い出していくと、新たな体験となる。
すると、かつてした体験がみずみずしくよみがえる。
ことによっては、気持ちいいと感じなかったものも、そう感じるようになる。
それを通して何を見つけるか。
それが大切なんだなと、理解できるようになった。

3月

8

理解し得ないもの

理解し得ないもの、それが「いのち」。
どんなに単純な構造をした「いのち」でも、誰もその全貌を理解し得ない。
理解すれば理解するほど謎が増える。
掘れば掘るほど掘るべき先が現れてくる。
いつまでも永遠に絶えることなく掘ることを楽しめそうだ。

3月

7

たくさんの傷

僕にはたくさんの傷がある。
あのときにこうしてできた傷。
そのときにこんなふうにできた傷。
つい最近、こうしてできた傷。
これらのおかげでいまの僕になりました。
傷のおかげで僕だと気づく人もいるでしょう。
ありがとう。

3月

1

理想論

戦争はほとんどなくなりました。
無意味な殺戮はほとんとなくなりました。
人権蹂躙はほとんどなくなりました。
でも、まったくなくなったわけではない。
なぜだろう?
なくしましょう。

2月

23

中動態

中動態という概念を知った。
とても素敵。
能動態でも受動態でもない中動態。
古代ギリシア語に存在したそうだ。
さすが哲学の国ギリシア。

2月

9

「聖なるもの」について

20回ほど「聖なるもの」について書いてきた。
集中的に書くことで理解できたことがある。
それは「いろんなものを聖なるものとして見られること」。
同じものでも見方によって「聖なるもの」になったり、ならなかったりすること。
これはきっと個人的なことだと思うが、些細な文章の違いで「聖なるもの」を感じられたり、感じられなくなったりすること。
その差がどこにあるのか、今の僕には説明ができない。

1月

30

言語化できない違和感

昔、大学を卒業する頃まで、文章を書くのは難しいことだった。
なぜなら、長い文章を書くと、書きはじめに思っていたことと違うことを結末に書いてしまっていたから。
書き出しに書いた話題の例などを書いているうちに、なぜか違う話が割り込んでしまう。
書き上げるためにはテーマを一貫したものにしなければならなかった。
つまり、僕はものを考えている時、いろんな可能性について考えていて、文章を書いているとそれらが出てきて制御できなかったのだ。
急に話が飛んだら、読者は話題についてくるのが難しくなる。
それが制御できるようになったのは就職してからだ。
なぜそれができるようになったのか、その理由はよくわからない。
ある新聞社からラジオについての記事を書いてくれと頼まれ書いた。
書くまでは書けるかどうか心配だったが、思ったより簡単に書けてしまった。
文章を書くのはさほど難しいことではなくなった。
今から思うと、この頃に書きたいテーマや結論に向かって書くのが当たり前になったのだと思う。
社会では常にそのようなことを求められていたからかもしれない。
その結果、自由な連想の力は弱くなったような気がする。
そのことに直面するのは、会社を辞め、ライターになり、ヒーリング・ライティングを始めてから。
いろんな人とリフレーミングについて考えたが、そのさなかにうまく言語化できない違和感を感じるようになった。
その違和感にはいろんな要素が絡んでいたが、その一つが「文章をまとめることと、自由な想像力との綱引き」だったように思う。
文章をまとめることに慣れてしまったため、何か話を聞くとたいていどのように話を展開していけばいいのかすぐにわかるようになった。
ところが、他人の話を丁寧に聞いていくと、自分が思い描く展開では表現できないことを言われることになる。
さらにその話をリフレーミングしようとすると、もっと未知の話を丁寧に聞いて行かなければならなくなる。
自分の理解していることだけでは文章がまとめられなくなった。
さらに難しいのは、心に隠した内容があること。
誰でも人に言いたくないことの一つやふたつは持っている。
多くの場合、そのことがその人の性格の根幹に関わっていたりする。
他人の中にそのようなものを見つけるようになると、似たことを自分の内側にも見つけることになる。
自分自身にも隠しておきたいことを思い出してしまうと、それを隠すために色々と考えるが、文章をまとめる感性が働くと、何かを隠すことが難しい。
スパッとまとめるためには真実だけしか表現できない。
だけど、それを掘り下げていくと、さまざまな心の矛盾に行きあたる。
ここで僕の探求はしばらく頓挫することになる。

1月

29

心の区別

ヌミノーゼについて書こうとして、僕が思い出す「聖なるもの」について書き続けているが、心のことについて書く時に難しいなと思うは、自分の心の区別だ。
僕自身、心の区別についてはあまり厳密に考えたことがない。
時々考えはするが、極めて大雑把にしか考えてこなかった。
しかし、心にはいろんな側面があって、全部一括りにしていると自分自身が騙されることになる。
どんなことかというと、まず簡単に理解できることは、No.04690にすでに書いたが、年齢とともに心が変わっていることだ。
10歳の時の僕と、現在の僕では感じることは違う。
10歳の頃の思い出を書くとき、その時の心持ちで書くのか、現在の自分として書くのかで、現れてくるものが変わってしまう。
だから、ヌミノーゼを探ると言っても、今の自分が探るのか、かつての自分が探るのかで、見えるものが異なることになる。
その違いを自分がしっかり理解するのはもちろん大事だが、その違いを、この文章を読んでいるあなたにも理解してもらうのは、さらに難しいことになる。
そこで、心の区別について一度に全部説明するのではなく、少しずつ説明していこうと思う。
以前にも書いたことだが、年齢だけではなく、想定する立場によっても違うものが見えることがある。
教師としての立場からいうことと、何かの先輩としていうこと、何かの後輩としていうこと、学生としていうことでは、少しずつ見る現実、表現する内容が変わる。
普段の会話ではそのようなことはほとんど気にせず、話す相手によって、話す状況によって、適当に変化させている。
しかし、繊細に感じていくと、その適当な変化は、じつは会話においてとても重要なことだったりする。
同じ一つの文章でも、話している立場を少しずつ変えていくことがある。
たいていはその変化は、一人の人格、今なら「つなぶちようじ」という人格に吸収できる範囲での変化なので許容できるものとなるが、全く相異なる意見を持つ人格と同調して、双方の言い分を書くような時は、あたかも自分ではない人の言い分を書くかのようにして書いたほうが、他人が読む時には理解しやすいのでそのようにしてしまう。
しかし、ヌミノーゼのように、自分の内側にしか現れてこないものを文章化しようとするとき、自分の心の発達や成長が、ヌミノーゼの質を決めていることがあるようだ。
その違いについて考えようとするとき、自分の心の中に区別が必要となってくる。
それを書いて表現するのはとても骨が折れる。
目盛をつけるわけにはいかないし、明確な違いがどこかに現れるわけでもない。
しかし、確実にあることだけは理解できる。
かつてそこに区別がなかった頃の僕に、それを尋ねても答えはないのだが、今の僕にはその答えを出すことができるだろう。
しかし、どういう答えが正しい答えなのか、どういう疑問に対して出すべき答えなのかが定まっていないので、立場も言葉もふらふらと安定していない。
こういう状態であることを明確にすることで、何かの区別が生まれたらいいなと、今は願っている。
こういう状態だから、あなたは書かれた文章を、どういう立場で書いているのか、感じて読んでもらえると、何かまた違った解釈が生まれてくるかもしれない。