4月

14

一瞬の理解

人は一瞬にしていろんなことを理解する。
しかし、それを言語化できないために「理解した」と思えないことがある。
そのことを長い時間をかけて僕は理解した。
それをきちんと説明するには本一冊でも足りないかもしれない。

4月

13

言葉の山が花盛り

言葉にはいろんな働きがあります。
言葉のおかげで空想を空想としてあなたに伝えることができます。
言葉様々です。
言葉の山が花盛りになるまであと数ヶ月。
きっと素晴らしく麗しい山を愛でることができるでしょう。

4月

11

言祝ぐ

おめでとうございます。
この文章を読んでいるあなたは世界でたったひとりのあなた。
この世界であなたにしかできない経験を積んでいる。
その貴重な経験はあなたこそのもの。
だからこそ、おめでとうございます。
あなたが生きていることに万歳。

3月

20

じゃれる

戯れる(ざれる)の転訛だそうだ。
子供の頃はよくじゃれた。
ガキ大将が「なんだこの野郎! ぶっ殺すぞ」といってきたとき、正しくじゃれるためには「やられてたまるかこのクソ野郎」くらい言い返さないとならない。
このとき正しくじゃれず「そんなこというと先生に言いつけるぞ」なんていうと喧嘩になる。
この違いを覚えるのが子供の仕事だと思うのだが、なんでもかんでも「いじめ」でくくると、こういうことの学習機会が失われるだろうなと思う。

3月

13

表現すること

生きていると、他人にはいえないことが仕方なく生まれてしまう。
たとえば、介護をしている親がいるために、友達に旅行に誘われても行けない、という状況があったとしよう。
そのとき、つい「親さえいなければ」と思ってしまう。
普通であれば「そんなことを思うなんて」と非難されてしまいそうなので、口には出さずに否定する。
「なんてこと考えてしまったんだ」と。
こんなとき、他人にわざわざ聞かせたり見せたりする必要はないけど、言葉や文字にしてみる。
「親さえいなければ友達と一緒に旅行に行けたのに」
こう言ったり書いたりしたあとで、「でも私は親の介護のために行かない」と表現する。
すると不思議なもので、言わないでいたときよりなんかすっきりする。
もしそれでもどうしても行きたいなら、親を誰かに頼んで旅行に行く準備をすればいいのだ。
それでもどうしても旅行に行ける状況にならないのなら、「この状況を打破する」と宣言する。
あいまいにしているとモヤモヤ感を抱えることになるが、はっきりさせると気が楽になる。
言葉の力はすごい。

2月

28

全体観を持つ

インターネットというメディアのおかげかもしれませんが、立場が違うと見えるものやことが違うということに多くの人が気づいてきています。
父は「敗者の文学」というのを追求していました。
負けた者から見た世界は、勝った者から見た世界とは違うということを小説の中に織り込んでいきました。
多くの人がそれに気づくことで、正しいとか間違っているとか、そういうことの基準が揺らいでいるように感じます。
その基準が動くことで、さらに多くの人たちが心地よく生きていけるようになればいいと思います。
でも実際にはそのゆらぎがいいことにも悪いことにも作用しているようです。
きちんと区別して行動していきたいものです。
たとえば、個人が感じる歴史と、国が解釈するであろう歴史とは異なり、どちらが正しいかというのは一概には決められません。
だからときどき、自分という枠を離れて、国や地球という視点からものを見ることもいいですし、逆に微細な生物がもし外界を見たらどんなことを思うのかということを空想するのも意味のないことではないでしょう。
そういう解釈を積み上げていったとき、いったい何が現れてくるのか。
それが僕たちの未来を思わぬ方向に導くような気がします。

1月

7

チュルチュルを思い出す

ふとしたときにチュルチュルを思い出した。
チュルチュルとは、麺類を総称した幼児語で、母がよく幼い僕に「チュルチュル食べましょうね」というふうに使っていた。
先日そばを食べていてそのことを思い出す。
そのときに一緒に思い出したのは、うまく言葉にできない感情だ。
それはずっとチュルチュルだと思っていた幼い僕が、チュルチュルに区別があることを知り、「このチュルチュルはおそば、このチュルチュルはうどん、このチュルチュルはラーメン、このチュルチュルはそうめん」と区別したときのなんとも言えない感情。
このチュルチュルはおそばであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはうどんであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはラーメンであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
このチュルチュルはそうめんであり、多くの人たちにとってチュルチュルではない。
でも、僕と母さんのあいだにはチュルチュルに関してのたくさんの思い出がある。
しかも、当時の僕はこれほどはっきりした区別が持てず、何だかよくわからないけど何かに引っかかっている感情を感じ、どうしようもないのでどうにもできなかった。
この当時の僕にとっては複雑な思い。
そんな感情を大人になって味わいなおす。
言語化して区別できると「なんだかなぁ」という感情が生まれるが、きっと幼い頃の感情とは少し違うものなのだろう。

1月

4

あけましておめでとうございます

新年を言祝ぐ言葉。
言祝ぐは寿ぐであり、事祝ぐことでもある。
日本には祝う言葉があふれていた。
祝うは「いわ・う」であるため神社には大きな岩があることがある。
「細石も巌となりて」と君が代にあるが、実際に成長しつつあった細石が秩父今宮神社に奉納されている。
巌となりつつある細石が現実にあるとはつい数年前まで知りませんでした。
疑う方はご自分の目で確かめてみてください。
見ればなるほどと思うでしょう。

12月

7

空想の翼を広げる

小説を書いているととときどき
筆が止まることがある。
なぜかその先が書けなくなる。
精神的障壁が立ち上がる時。
その障壁は姿が見えない。
そんなとき、空想の翼を広げる。
普通にはあり得ないことを考えてみる。
この世界は謎に満ちている。
この小さな頭で考える程度の空想では
とても収まり切らない。
だから安心して大風呂敷を広げる。
いや大風呂敷じゃ収まらない、
無限平面を広げよう。

12月

6

おもろさうし

昔懐かしい歌詞の一部が
はじめて読む文章に
埋め込まれていると
それを読んだ途端に
感覚が懐かしい頃を思い出す。
そのことを思いながら
「おもろそさうし」を読むと、
沖縄のきらびやかな時代が
どのように編まれていたのかが
わかるような気がする。

11月

26

価値か無駄か

3700号以上この「日刊 気持ちいいもの」を書き続けてきた。
その価値は何かと考えた時、まったくの無駄だったとも言える。
大きな価値があったとも言える。
どちらが正しいか?
どちらかだけが正しいというなら、あの有名な質問をしよう。
パンと手を叩く。
鳴ったのは右手か左手か?

11月

20

神殿

宇宙に満ちる神殿。
原子という名の神々が
寄り集まって神殿を作る。
神殿は踊りを踊って解体し、
別の存在に変わっていく。
常にいつも変化していく神殿。
僕たちはそれを無常だと感じる。

11月

19

宣言

うじうじ言って、
クダまいて、
「もっと酒を持って来い」と
怒鳴りはしないが、
黙ってそんな気分に浸っていると
嫌な感じがしてくるが、
そういう僕だと宣言すると
案外清々する。
うじうじした感情はあっち行け。

9月

28

命の活性化

怖くて近づけないところに
あえていくのは何故か?
という質問に
「命が活性化するからじゃない?」
と答えられた。
「それいいな」と思う。

8月

28

共通の認識

共通の認識ってすごいなと思う。
もし僕とあなたで
これが共通している認識だと
思うことができなければ、
言葉は成立しない、
「言葉」と言って「言葉」を
思い浮べてもらえなければ
話ができない。
「空がきれいだね」と言って
理解してもらえなければ
喜びは半減するだろう。
共通の認識ってだからすごい。
言葉がなくても共通の認識は
できただろうけど、
言葉が存在することで
共通の認識の範囲が広がった。
当たり前すぎて
わざわざ言うことではないと
思い込んでいるけど、
それをわざと言うことで
何か生まれてくるんじゃないかな?

7月

6

落ち着く

人は言葉を持つことで
知りようのないことを
知るようになった。
言葉がなければ
生まれようのない概念。
それを手にして地球上の
どんな生物より
有利に生きるようになった。
だけど余計な心配も
するようになってしまった。
概念だけに踊らされることなく、
概念を伴奏に現象とともに踊ろう。

7月

1

懐かしい歌詞の一部

もらったメールに
懐かしい歌詞の一部を見つけた。
メールにはこうあった。

薄く切ったオレンジを
アイスティーに浮かべて
リゾートのプールサイドで
このメールを書いています。

やられたって感じ。
明らかに大瀧詠一の
「カナリア諸島にて」を
引用している。
メールの送り主は大学の同級生。
一緒にドライブの最中に
「カナリア諸島にて」をよく聞いた。
あいつはあいつなりに、
僕は僕なりに、
「ぼくはぼくの岸辺で生きて行くだけ」

6月

23

元気な言葉

元気な言葉は癖になる。
一度聞いて元気になると
もう一度聞きたくなる。
二度聞いて元気になれると
三度目も聞きたくなる。
でもそれって、
言葉じゃないんだよな。
それを発する
人の雰囲気だったりする。
こうして人は恋に落ちる。

5月

31

区別する

何かの本で、
「愛することとは」という問いに
「あるがままを受け取ること」と
あった。
そこで考える。
「愛することの反対は?」
本に書かれているそのままを
反対にすると、
「あるがままを受け取らない」
となるであろうか。
「あるがままを受け取らない」
としたら、それはどういうことか。
「差別する」ということかなと思う。
つまり「こうならいい」
「これはだめ」とすることだ。
でも、常識とか作法というものは
「こうならいい」「これはだめ」
がなければ成り立たない。
では、こうしたらどうかな?
「こうしたらみんなが喜ぶ」
「こうしたらみんなが怒る」
でも「喜ぶ」と「怒る」ほどの
感情的な距離がない場合は
「こうしたら気持ちいい」
「こうしたら不快」
という区別になるかな。
もっと微妙な場合は
「こうしたらちょっと気持ちいい」
「こうしたらちょっと不快」
となるのかな。
「こうならいい」「これはだめ」

「こうしたらちょっと気持ちいい」
「こうしたらちょっと不快」
の微妙な区別は
もし本当のAIや
ベーシックインカムの時代が
来るのであれば、
大切なものになるのかも。
そもそも人間は
言葉でいろんなものを
区別することで繁栄してきた。
この「区別」と「差別」の違いを
自分にとってはっきりとさせないと
ならないのかも。
「区別」するといいながら
どうしても「差別」しているような
ことがないかな?
僕は使っているうちに
混同してしまうし、
状況によって「区別する」
といいながら
「差別する」ようなことが
生まれている気がする。
「区別する」という
シニフィアンに
「差別する」という
シニフィエがつく。
「区別」はきちんと
「区別」のままにしよう。

4月

25

康煕字典

康煕字典(こうきじてん)を
ご存知だろうか?
日本語を扱う仕事をしている方は
もちろんご存知だと思うが、
理系出身の僕は知らなかった。
「こうき」という
読み方すらわからなかった。
たまたま入手することになり、
いまではときどき開いて
ニマニマしている。
1700年代、清の康煕帝勅撰の字典だ。
なのですべて漢文で書かれている。
漢字の由来を調べるのに重宝。
現代ではUnicodeの配列順にも
使われている。
しかも、1700年代の清の漢字が
掲載されているので、
見たこともないような漢字が
たくさん載っている。
入手した講談社の
「標註訂正康煕字典」には
返り点がついている。
中学高校で習った漢文の知識が
珍しく役に立った。
白川静の「字統」や
ほかの漢和辞典と読み比べることで
さらに「へぇ」なことを知っていく。

1月

17

年賀状の返事

最近になって返ってくる
年賀状の返事が素敵。
そもそも松の内に
年賀状のやりとりは終わるものだが、
それを知っていてもこの時期に
わざわざ返事をしてくるのは
何か伝えたい思いがあってのこと。
こんなに一通一通丁寧に書いていたら
大変だろうなと思いながら読む。
その人の人柄がわかる。

1月

6

言葉にリンク

この『日刊 気持ちいいもの』は
発行した内容をBlogに保存して
誰でも読めるようにしている。
https://www.tsunabuchi.com/feelgoodblog/
Blogを作ったのが、
再開してからしばらくしてからなので、
現在2,185の書き込みがあり、
この書き込みを加えると
2,186になる予定だ。(2018.4.23にリニューアルして、この数字は変わりました)
新年1月2日から、ここに
言葉のリンクをつけるようにした。
(2018.4.23のリニューアル後、しばらく休み、ある程度の言葉の数が蓄積したら再開します)
2,185も書き込みがあれば、
かなりの言葉数がすでにある。
たとえば、この今書いている文章に
「Blog」という言葉が登場したが、
『日刊 気持ちいいもの』の
バックナンバーBlogには、
すでにBlogという言葉が
67の書き込みに登場している。
だからバックナンバーBlogの
「言葉にリンク」の書き込みにある
「Blog」という言葉にリンクを付けて、
そこをクリックすると
いままで書いた67の書き込みが
すべて読めるようにするのだ。
もちろん他の言葉にも
かつてバックナンバーBlogに
登場した言葉にはできるかぎり
リンクを付けていく。
なんでそんなことをするのかというと、
そもそもこの
『日刊 気持ちいいもの』は
ヒーリング・ライティングの
プロシェクトとして始めた。
気持ちいいものを毎日書くことで
心に自覚的に影響を与えることが
できるかどうかの実験だ。
気持ちいいものを毎日思い出し、
それを書いていく。
結局、書いては忘れていくのだが、
記憶の連鎖は複雑にからんでいる。
たとえば、僕にとっての
「Blog」という概念と
あなたにとっての「Blog」では
きっと違いがある。
その違いは、そのひと個人の
体験や記憶の違いによるものだ。
どのような体験があり、
どのような記憶があるのか、
普通には再現することはできない。
なので、ここで、
僕の一部でしかないことは承知の上で
その再現に近いものを
作りつつあるということだ。
もしかしたら本当は
「気持ちいいもの」だけでなく、
ほかの感覚にもまつわる
あらゆる感覚を書き出していった方が
僕という人間がわかるのたろうけど、
いまはそれには着手しないでおく。
それで、今年から
バックナンバーBlogに
リンクを付けることにした。
どんなことになるのやら。
楽しみ半分、不安半分。