11月

7

嘘とは何か?

嘘という言葉があるが、よく考えると嘘の中にいろんな種類がある。

1.意図的な嘘 言った人が聞いている人を騙そうとしてわざとつく嘘。
2.結果的な嘘 嘘をいうつもりはなくとも、環境などの変化によって話を聞いた人に嘘と解釈されてしまうこと。
3.微妙な嘘 聞いている人が傷つくのを恐れて、言う人が聞いている人を傷つけまいとしてつく嘘。

すぐに思いつくのはこの三つだが、ほかにもいろんな嘘があるかもしれない。
これら三つを全部「嘘」という言葉にまとめるのはどうかなと思う。
これらがごちゃ混ぜのおかげで、悲喜劇が起こる。

11月

2

ダジャレ

友達に会っている時、ダジャレをいう。
たいてい馬鹿にされる。
馬鹿にされてまた笑う。
ここでへこたれてはいけない。
さらにバカバカしいダジャレを連発する。

10月

20

別人になる

「気持ちいいもの」がなかなか思い浮かばないとき、いままで書いた「気持ちいいもの」を読みなおすことがある。
そして気付く。
書いたときには気持ちよかったことが、いまはちっとも気持ちよくないことを。
読みなおすことでそのときの感覚を思い出すが、なかには思い出せないものもある。
いったいどうしたことだろう?
きっと僕のなかにはたくさんの別人がいるのだろう。

9月

20

まぼろし

快楽はまぼろしであるが、苦痛もまぼろしである。
気持ちいいときに気持ちよくなり、苦しいときに苦しめばいい。

9月

4

本当に願っていることは何か

人は多くの矛盾に挟まれる。
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこういうしかなく、親としてはこう言わざるを得ないのに、たくさんの想いを抱えているのにも関わらず、どれかひとつしか表明できない。
なぜどれかひとつしか表明できないのか?
そういうものだと自分が思っているからではないか?
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこう言うしかなく、親としてはこう言わざるを得ないということを、全部言ってみたらどうだ?
「それは矛盾だ」と誰かに言われたら、「立場が違えば言うべきことが変わるのは当たり前でしょう」と言えばいい。
そうやって多面的な本当のことを言い合うことができれば、いままでにはなかったような鮮やかな答えが得られるかも。

9月

3

ウソがない

地球交響曲第四番で名嘉睦稔が「鳥の言葉にはまったくウソがない」という。
起きたことをそのまま反応として鳴くからウソがつけないと。
人間は嘘をつかざるを得ない状況にしばしば追い込まれる。
それはいったいなぜだろう?
ウソがなければ、きっと気楽でいいだろうに。

8月

22

水滴の音

世界は一滴の水の音とともに始まった。
一滴の水の音が世界を変えた。
それ以上でもそれ以下でもない。
一滴の水の音とともに人は笑い、人は歌い、鳥は飛び、魚は群れをなす。
僕がそれを認識していなかっただけ。
一滴の水の音とともに宇宙は存在し、銀河は巡り、彗星は流れ、太陽は輝く。
一滴の水の音とともにあらゆることが起き、あらゆることが変化し、あらゆることが流れていく。
僕はその状況の中に浮かんで流されるだけ。
一滴の水。

8月

3

意味の発見

かつて読んだ古い本や雑誌を再読していると、そのときには汲み取れなかった意味が湧き出てくることがある。
そういう意味を見つけると「今の僕もわからない意味があるんだろうな」と思う。
最近はインターネットで言葉の意味を探す。
すると、何でもわかった気になる。
でも、それはきっと違うのだと思う。
辞書を読むよりはその言葉の体系を知ることができるようになっただろう。
辞書はスペースが限られているので、用例が少ない。
言葉の意味のプリズムのわずかしか受け取られない。
インターネットを調べると、その気になればいろんな用例が得られる。
なかには新しい創作もあるし、間違ったものもあるだろう。
そういう意味の宇宙に放り出されると、何が正しくて何が間違っているのか、はっきりとはわからなくなってくる。
誰かが創作した言葉の意味を「間違っている」というのは正しい態度なのだろうか?

7月

29

長い話を書くための目次

長い話を書くとき、まずは目次を作ってみる。
実際にその目次に沿うかどうかは書いてみないとわからない。
だけど、目次を書くことで、伝えるべき内容の方向性が見えてくる。
これから表れてくる内容にわくわくする。

7月

25

「簡単」という言葉について

昨日、「第九のスコアは簡単」と書いたが、その言葉がどうも魚の骨が喉に刺さったように気になる。
それはたとえば、プロの指揮者にとっては「簡単」という訳ではないから。
僕のように気楽に聞いている人にとっては「簡単」で済むが、演奏する人にとってはきっと簡単ではないはずだから。
特に第九は名曲だ。
多くの人に何度も聞かれ、曲の解釈によって褒められもするがけなされることもあるだろう。
その難しさは実際に演奏した人でないと理解できないかもしれない。
もし理解したとしても、それを言語化するのが難しい。
この難しさは言葉の難しさであり、人間の心や認知の問題に関わってくる。
一方で、その難しさのおかげで、感動は大きくなる。
演奏によって心が震えるのは、きっとこの難しさを乗り越えてきた情熱が音となって伝わるから。

7月

17

せめぎ合い

頭の中ではあーでもないこーでもないとせめぎ合い、
人と人の間でもあーでもないこーでもないとせめぎ合い、
国と国の間でもあーでもないこーでもないとせめぎ合う。
せめぎ合いがないといいものはできない。
せめぎあえる相手がいることを喜ぶ。

7月

2

意味の深化

言葉を使う動物がいる。
しかし、現在のところ、それらは単語を使うだけだと考えられている。
人間のように文法を駆使して単語に深い意味を与える動物はほかにはいないと思われている。
文法があるおかげで人間は複雑な意味を共有できるようになった。
単語だけしかやりとりのできない動物から見れば、想像できないことだ。
同様に人間は、文法の次を作り出そうとしている。
それは文法だけで言葉を理解しようとしている人間には理解のできないこと。
言葉だけで表現しようとしている人には、表しようのないこと。
果たしてそれが「意味」という言葉の範疇に入るかどうかもわかりようのないこと。

6月

26

誰かに読んでもらわなくてもいい文章を書くこと

毎日、誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらっている。
そう、これを読んでいるあなたにだ。
ありがとうございます。
こう書いた瞬間に僕は、誰かに読んでもらうための文章を書いている。
誰かに読んでもらうか もらわないかは、書いているときにはよくわからない。
結果としてそうなるか、ならないかだ。
だけど、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章には違いがある。
それはかつてはうまく区別できなかったが、いまはできる。
それを言葉にしようとするとき、言葉の難しさに直面する。
それを適切に概念として区分する言葉がないのだ。
しかも、3870回も曖昧にしてきたことは、言葉にするとどうも矛盾しているように読めてしまう。
だからここに書いても誤解が生じるかもしれないけど、言語化しない限りはその区分は明確にはできないと思い、書いてみることにした。
自分にだけ響くことは、矛盾に満ちている。
だから、誰か宛に書こうとすると、文章に修正が入りがちになる。
必ず修正する訳ではない。
自分に対して書いているから修正はしないようにする。
だけど、それでも修正してしまう。
自分が修正していると気づけば、修正をしないことを選択できる。
しかし、修正しているかどうかがとても微妙なときがある。
なぜなら基本的に言葉とは他人に伝えるものだからなのだと思う。
一方で、自分だけの心に留めておく言葉もある。
それは、言葉として区分しないと意味がわからないような気がするからだ。
たとえば、いま論じている、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差。
これは「日刊 気持ちいいもの」を書くとときどき感じる差なのだが、それをきちんと言語化できる言葉を知らない。
説明を重ねればそこに自分が思い出す感覚は思い出せるが、他人がそれを正しく汲み取ってくれるかどうかはわからない。
きっと汲み取れないだろうと思う。
その微妙な区別。
その微妙な区別は他人に伝えて果たして意味があるのだろうか?
きっと意味は生まれてくるのだろう。
ただし、僕が感じている感覚と、これを読んで何かを感じる人の感覚は、同じかどうかはわからない。
これは、きっとどんな感覚も、言葉になっている感覚はすべてそうなのだろう。
だから、誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、気にしなくてもいいのかもしれない。
でも、あえて気にしてみる。
そんなことに意味があるのか?
意味は生まれてくるのだ。
なぜそう思うのか?
かつてBlog「水のきらめき」にこんなことを書いた。
長いが引用する。

___引用開始

今年(2010年)1月に『奇界遺産』という本が出版された。大判で3,990円もする写真集だ。これがなかなか僕の目を釘付けにしてくれる。

表紙もインパクトがあるが、内容もなかなか凄い。なかなか出会えない景色がどこまでも続いていく。

(中略)

洞窟の中にある村、ブータンの男根魔除け図、直径34mのミクロネシアの島に住む日本人、巨岩の上にある住宅、地獄絵図のテーマパーク、神々の像で満たされた奇想の庭園、中華神話のテーマパーク、巨大龍の胎内を巡る道教テーマパーク、キリストをテーマとした遊園地、世界の果て博物館、世界に散らばる「珍奇」を蒐集した元祖変態冒険家の博物館、貝殻で作られた竜宮城(写真のページ)、世界八大奇蹟館、ミイラ博物館、アガスティアの葉、死体博物館、ボリビアの忍者学校、三万体もの人骨が眠る巨大な地下迷路、人骨教会、エリア51、7万人が聖母を目撃した聖地ファティマなど、世界の不思議なものや景色や人などをゴリッと撮影してある。

これらの写真を撮影した佐藤健寿氏はオカルト研究家を続け、ある疑問を抱いたという。それは「これ(オカルト)って本当に必要なのだろうか?」という疑問だ。こんなことに一生を捧げてもいいものか。この疑問にあのコリン・ウィルソンが『アトランティスの遺産』という本の中で答えてくれたという。

ネアンデネタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟の中に獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである。

この一文のいったいどこがその答えなのか、一見しただけではちっともわからない。しかし、佐藤氏はこんな文を書いている。

壁画、すなわち<芸術>であり<魔術= オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。

無論、多くの識者達が口を酸っぱくして指摘してきた通り、青年期の悩みにコリン・ウィルソンは劇薬、すなわち<混ぜるな危険>である。しかし私はこのアウトサイダーならではの大胆な発想に、大きな感銘を受けたのだった。<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているのかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。しかしこの事実をラスコーの逸話にたとえるならば、これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと>、それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。

以上の試論を踏まえた上で、私は「現代のラスコー」を探すべく、旅にでた。世界各地を歩き、この<奇妙な想像力>が生み出した<余計なこと>を、ひたすら探し求めたのである。…

『奇界遺産』 佐藤健寿著 エクスナレッジ刊より

___引用終わり
https://www.tsunabuchi.com/waterinspiration/p1760/ より

誰かに読んでもらうための文章と、自分が響くためだけの文章の差は、きっとここでいう「究極の無駄」だ。
だけど、その「究極の無駄」をなんとか「現代のラスコー」にさせたいと思う。
一方で、「そんな煩悩を持ってどうする?」という感覚もある。
坐禅を深く探求したことはないが、禅問答とはこういうものかもと思う。
読んでもらわなくてもいい文章を、読んでくれてありがとう。
でも、この文章は読んでもらうために書いた。
自分の心に響かせるためだけに書いたら、きっと意味が浮上してこない。
言語は他人が必要なものなのだ。
このことと、5月16日に書いた「悟った」や5月17日の「質問」がつながっている。
多くの人は「言葉」は自分と区別されていて、「言葉」として存在するものだと思っていると思う。
なぜなら、僕がそうだったから。
だけど「言葉」は、人間が形作っている社会の要素であり、その意味では人間と同列に考えてもいいものだ。
社会というホロンにとって「人間」も「言葉」もその要素であるという意味で。
つまり、人間が言葉を使っているように僕たちは考えるが、言葉が人間を動かしているとも言える。
言葉は区別を微細にし、いままでにない区別を生み出し、人間を新たな状態に押し上げて行く。
言葉のおかげで表れた区別は、たとえそれが他人に伝えられなくても、その言葉を抱える人間に新たな区別を与えることで、その人間の行動に変化を与え、やがてその変化は社会ににじみ出てくる。
このことと生命の進化がつながっている。
「自分が響くためだけの文章」には、自分の思い出と経験が感情に練り上げられた鍵となる言葉がちりばめられる。
一方で「誰かに読んでもらうための文章」は、誰かの思い出と経験が感情に練り上げられる鍵となるであろう言葉を手探りしていく。
この手探りは正しいものかどうか、誰かに読んでもらうまではわからない。
結局、「他人に読んでもらうための文章」を書いていると思いながら、「自分が響くためだけの文章」しか書けないのかもしれない。
「誰かに読んでもらうための文章」を書きながら、自分の心中にある他人と同調する部分を探しているとも言える。
つまり、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると言うこと。
さらにいうと、自分が思い込んでいる「自分の感覚」と「他人の感覚」にそれぞれアクセスしながら書いていると思い込む部分と、そうではない部分が同居しているということ。
そうではない部分については、またいつか書いていこう。

6月

25

自分に響くことを書く

この「日刊 気持ちいいもの」では、自分が気持ちいいと思うことを書いてきた。
まったく利己的である。
他人がどう思うかはさておく。
自分にとって響くことだけを書こうとしてきた。
そして、毎日成功したり、失敗したりしている。
そうやってきてしばらくするとあることに気づいた。
誰かに読んでもらわなくてもいい文章を読んでもらうとはどういうことか。
これはいろんなことを考えることになる。
そして、その考えたいろんなことが、一見すると矛盾している。
その矛盾の中に、というか、その矛盾自体が真実の一端だと理解した。

6月

23

いい意味、悪い意味

意味とは何か?
よく考えるとわからなくなっていく。
意味とは、意味だよ。
こんな答えになってしまう。
あの広辞苑も「記号・表現によって表される内容またはメッセージ」というわかったようなわからない内容またはメッセージになっている。
意味は「意味がわかる」という信念がないと、よくわからないものになっていく。
大人はときどき、何かを言ったあと、「いい意味で」と付け加えることがある。
それをいわれることでいわれたほうは「その言葉は皮肉ではないんだな」と思う。
しかし、「いい意味で」というためには、一瞬「皮肉に受け取られるかな?」という疑問なり、疑念なりが浮かんだからそういうのであって、まったくそれらが浮かばなかったら「いい意味で」とはいわない。
つまり、「いい意味で」という人は、必ずその瞬間「悪い意味」を知っている。
つまり、大人であればあるほど、「いい意味」と「悪い意味」の両方を同時に持っていることになる。
さらに洗練された人は「いい」「悪い」を越えて、言葉にはいろんな意味が生まれることを知っている。
それを知っているからこそ、自分が伝えたい意味に落とし込まれるように、言葉を使う。

6月

6

好きなら好きだとはっきりいえ、ない

最近この『日刊 気持ちいいもの』では、気持ちいいのかよくないのか、はっきりしないものが取り上げられるというご意見をいただきそうな気がする。(笑)
気持ちいいものを追求していった結果、「気持ちいい」と「気持ちよくない」の二分化は正しくないなと思うに至った。
どんな感覚でも繊細に感じていくと、「いい」部分と「よくない」部分と、さらに感じていくと「いいともよくないともいえない」部分が現れてくる。
それを「いいか悪いか」で二分するのはどうも違うなと、3859回も書き続けて感じるようになってきた。
ある日には「いいな」と思っていたものが、別の日には「それほどよくないな」と思うことなどいくらでもある。
しかし、一度「いい」と言ってしまったら、「正しい自分を演出するため」にはいつでも「いいものはいい」といい続けなければならないような気がしていた、というか、そういうことを意識もせずにそれを結果として心がけていたように感じる。
最近それは違うなと思うようになった。
右翼か左翼かと問われたとき、たいていの人は違和感を感じながらかつてはどちらかを選んでいたのだと思う。
でも、最近のセンスのいい人は「どちらかには決められない」と思っている人が多いのではないか?
立場やその日の状態や、話す相手などによって、言いたいことが微妙に違うのはよくあること。
あって当然だろう。
時代がその曖昧さを許容できるものになってきた。
国会も多数決だけで考えているのは時代遅れではないか?

6月

4

言えない思い

昨日の「日刊 気持ちいいもの」を書いて思い出したことがある。
それはまだ黛敏郎が「題名のない音楽会」の司会をしていた頃、「ビギン・ザ・ビギン」をテーマに番組を作ったことがあった。
その中で黛が「ビギン・ザ・ビギンはフリオ・イグレシアスの編曲で短調の部分がなくなり、芸術性が失われた」と主張した。
「ビギン・ザ・ビギン」の原曲には長調の部分と短調の部分があり、長調の部分でかつての恋の華々しい思い出を歌い、短調の部分で現在の失恋状態を思うという構成になっている。
それを黛は実際にオーケストラに演奏させて解説し、さきほどの主張をしたのだ。
それを聞いて、僕はうなってしまった。
黛の言いたいことはわかる、でもね・・・という、「・・・」の部分がうまく言葉にならなかったのだ。
それを30年もして思い出すのだから、「・・・」の部分はよっぽどのことだろうと思うのだが、そんなによっぽどのことでもない。
なにが「・・・」に含まれていたのか、やっと言語化できるようになった。
ようは「フリオ・イグレシアスの曲もいい」と言いたかったのだが、黛の説得力には勝てそうにないので黙っていたのだ。
いまなら反論できる。
フリオの曲は長調で歌っていても、すでに哀愁を帯びているのだ。
長調の部分と短調の部分が、長調の歌のなかにギュッとまとまって絞り込まれている。
開高健がエッセイに「(モダニズムとは)1.最高の材質。2.デサインは極端なまでにシンプル。3.機能を完全に果たす」と書いていたが、まさにそれだと。
でも、30年前でも本来なら「いいものはいい」それだけですんだのだろうけど、僕はそこで口を噤んだ。
そんな些細なことでも30年後に思い出すのだから、本当に恨みに思っていることなど、死ぬまで忘れないんだろうな、心の底では、と思った。

5月

30

猫を棄てる

文藝春秋に掲載されている村上春樹のエッセー「猫を棄てる–父親について語るときに僕の語ること」を読んだ。
いろんなことを思わされる文章で、「棄てる」の意味を考えてしまった。
「捨てる」ではなく「棄てる」。
「兵隊は日本に棄てられた」とか「棄てられても家に帰る」とか「一緒に棄てた思い出」とか。
最後に登場する猫の逸話。
木に登っていった猫を筆者は棄てたのだろうか? 棄てたと思っているのだろうか?
棄てたつもりはなくても結果として棄ててしまったようなことが、僕のまわりにもあるような気がする。
それは「気がする」だけで、それが事実だとは認めない。
現実を把握するのは難しいし、難しいと思い込みたい僕がいる。

5月

27

釈迦に説法

会話の中で「それはあなたには釈迦に説法だろうけど」というところ、「それはあなたには馬の耳に念仏だと思うけど」と言ってしまった。
しまったとは思ったけど、なぜか「釈迦に説法」という簡単な言葉がすぐに思い浮かばなかった。
話は流れていってしまった。
お馬鹿な自分を笑う。

5月

24

社畜よりは野たれ死に

何年か前に「野たれ死にするよりは社畜がいい」という話を聞いた。
世の中にはいろんな人がいていいのだから、そういう人もいるだろうというつもりで聞いたが、なんとその話をした人は99%がそうなんだと主張する。
それはないだろうと思った。
しかし、ちょっと前の政治状況を見ると、そうかもと思ってしまった。
幸いなことに僕のまわりは「社畜になるくらいなら野たれ死にがいい」という人が多いような気がする。
少なくとも知り合いの1%以上はそういう人だ。
それが本当に「幸いなこと」かどうかは今は脇に置いておこう。
現在の社会状況で、ずっと社畜で居続けられる人はいったいどのくらいの割合になるのだろう?
社畜でいたいと思っても、難しいのではないか?
社畜でもなく、野たれ死にでもない道を探すべきだろう。
そのためには自分の思考の枠を壊していかなければならない。
それに気づく人が少しずつ増えている気がする。
野たれ死にというリスクを抱えて飛び立つ人が。

5月

17

質問

昨日、悟ったと書いたら、「どんな悟り?」と質問された。
確かにその質問には答えたい。
入口は「言葉」だ。
この入口を見つけたのは、いや、この入口に導かれたのは、ヒーリング・ライティングという宿題を授かったおかげだ。
それから22年間の質問と答えの日々が続く。
それらの集積のおかげ。
そして、何冊もの仏典や聖典を読んだ。
それらのおかげ。
実際に聖人と言われた方にも何人か会った。
そのおかげもある。
バリ島にニュピで通い続けたのもよかった。
幼い頃に比較的自由にいろんなことができたおかげもある。
本は好きなものを読めたし、音楽は作曲できるようになった。
そして就職して世の中を見る。
この就職先も良かった。
いろんな大手の会社と関わることができた。
そして、会社を辞めて自営になって、小さな会社ともやりとりするようになる。
このおかげもある。
毎日ささいなことで喧嘩したり和解したり言い合っている相方のおかげでもある。
経済的に苦労して、借金したりして、そういう苦労のおかげでもある。
もちろん、こうやってほぼ毎日気持ちいいものを書いていることとも関係している。
だから、これを読んでいるあなたのおかげでもある。
こういういろんな体験の積み重ねが、昨日の朝、パチッとパズルがハマったようにうまく組合わさった。
そのパズルは平面でも立体でもなく、多次元のパズル。
チチェン・イツァーで「この世界が多次元であることに深く気づけ」と言われたことにやっとたどり着いた。
その内容については、言葉では書ききれない。
でも伝えなければならないと思っている。
少しずつ書いていく。

5月

1

令和

令和の発案者が中西進氏だと発表されたそうだが、歴史的経緯から見て、元号の制作者は暦博士となるが、一般にはその暦博士がなぜどうして誰が作ったかなどと発表はしない。
中西氏は時事通信の取材に対し「元号は中西進という世俗の人間が決めるようなものではなく、天の声で決まるもの。考案者なんているはずがない」と発言したそうだが、それは中西氏の見識が深いから。
元号はもともと呪術なのです。
ネタがわかってしまっては呪術にならない。
呪術と言うと、何か悪いことのように思う人がいるかも知りませんけど、政治の「政」はかつて「まつりごと」と呼ばれ、呪実的要素もかなりあったのです。
陰陽五行が政に使われていたのは歴史的事実と言って差し支えないでしょう。
その名残が年号なのです。
誰が中西氏の発案だと発表したのか知りませんが、せっかくの祈りがもったいないですね。
「人間が決めるものではない」という中西氏の見識の深さに頭を垂れます。

4月

30

平成

平成は、言葉の通り平静だった。
樽に寝かされた酒のように、芳醇な文化が生まれますように。

4月

30

言の葉の神

言の葉の神よ、我にたくさんの麗しい言の葉を降らせよ。
多くの人々が感動するあわいの言葉。
思わず声に出して読みたくなる言葉。
そんな言葉を雨のように降らしてみよ。

4月

14

一瞬の理解

人は一瞬にしていろんなことを理解する。
しかし、それを言語化できないために「理解した」と思えないことがある。
そのことを長い時間をかけて僕は理解した。
それをきちんと説明するには本一冊でも足りないかもしれない。