3月

27

楽しいことを考える

このコロナウィルスの騒動が一件落着し、世の中も平和になったら、きっとどこの誰とでも共通の話題ができる。
「コロナウィルス禍のときどうして過ごしたか」
911のときのように泣き笑いの話になる。

3月

25

美しさの奥行き

昨日の記事に「美しさの奥行き」と書いた。
それがいったい何か。
『ヒーリング・ライティング』に書いたように、区別はつければつけるほど新しい区別が生まれる。
美しさも同じ。
ある美しさを見つけたら、その美しさを認識することではじめて見える別の美しさがある。
言葉はそのような区別を見つけて定着させるための素晴らしい道具。

3月

25

桜が咲く

また今年も桜が咲き出した。
そうするとカメラを持ち出しパシャパシャ撮り始める。
もう飽きるほどに撮ったのに、それでもまだ撮る。
撮れば撮るほど、美しさの奥行きが広がる。

3月

23

こういう国

まずは宣言することにした。
こんな状況で気持ちいいものなんか思いつかないよ。
コロナウィルスが蔓延し、各国が閉鎖され、消費前増税で景気が悪かったのに、そこにさらにコロナウィルスの影響で不景気になる。
朝日新聞の記者、青木美希さんが記者を辞めさせられた。
かつてNHKの記者だったがさらにスクープを出しそうなために閑職に回されそうになった相澤冬樹記者がNHKを辞めて大阪日日新聞の記者になり、森友学園の事件の関連で自殺してしまった近畿財務局の赤木俊夫さんの手記(遺言)を発表したにもかかわらず、麻生財務大臣も安倍首相も調査はしないという。
日本はこういう国だったのか。
書いて清々した。

3月

17

気持ちいいものを言語化する

花を見てきれいだなと思う。
よくあることだ。
だけど、悲しみに沈み込んでいては、花の美しさは見えてこない。
あまりにも浮かれていても、きっとその美しさは訴えてこない。
花を見てきれいだと思える状態に自分がなっていないと、花の美しさはわからない。
同じように、この世界にあるありとあらゆるものの気持ちよさは、自分がそれを受け取れる状態にないと受け取れない。
4084回も気持ちいいものを書いてきて、それがどういうことなのかを少しずつ理解してきた。
ときどき気持ちいいものが書けないことがある。
そのときに一番深く学んでいる。
気持ちいいものが感じられないとき、不快かというとそうでもない。
何かショックなことがあると書けないことがある。
しかし、ショックもなく、不快でもなく、それでも書けないときがある。
書けるときは、心のどこかに「書ける」というビジョンがある。
ビジョンというか、思い込みというか、信念というか、そういうものだ。
それは心に火がついた状態ともいえるし、ワクワク感ともいえるけど、ときによって少しずつ違い、とても落ち着いた気分でも書けることがあるし、不快という気持ちを抱えて書くときもある。
それがいったいどういう状態なのか、そのときどきで味わいながら書いている。
いろんな気持ちのよさがあるのと同様、いろんな状態がある。

1.気持ちよい体験を思い出すことによって書く。
2.気になった感覚を気持ちよいという側面から書く。
3.気持ちいい感覚がここにありそうだと当たりを付けて、それを気持ちいいものとして書く。
4.それが気持ちいいかどうかまったく疑問ではあるが、表現することによって気持ちよさが表れてくる感触があるので書いてみる。

こうして僕は「気持ちいいもの」に対しての目の開き方を学んでいる。

3月

16

幻想を手放す

幻想を手放すことにした。
そのためには、まず幻想とは何かを知らなければならない。
そう考えると、言葉で考えること自体が幻想であることに気づく。
言葉はそう簡単には手放せない。
どうする?
なんか笑える。

1月

31

実感の言葉

普通は「実感のこもった言葉」というだろうけど、「実感の言葉」という概念を考えてみた。
「レッテルの言葉」と対になる。
たとえば僕はパソコンの中身についてよく知らない。
するとパソコンの中身についての会話にはついていけないが、うわべの話ならできる。
一方で、パソコンの開発技術者が「クロック数を上げることができました」というとき、きっとそこにはそれまでの苦労だとか、技術的難点とか、いろんな思いが言葉に込められているだろう。
そういうときに「実感の言葉」ということにする。
一方で僕がするだろううわべの話は「レッテルの言葉」ということにする。
明確な線引きは難しいが、言葉にはこんな違いがあるのではないかと思う。
先日父親を亡くした知人と話した。
彼は父親が生きている頃はよく父親に対しての文句を言っていた。
そんなとき、彼に「父親は僕のことを愛していた」といわせても、きっとレッテルの言葉にしかならなかっただろう。
ところが父親が亡くなったあとで話を聞いたとき、ふと彼はこう洩らした。
「親父は僕のこときっと愛していたんだと思う」
そういって涙した。
これこそ実感の言葉だなと思った。

1月

29

三本の矢

「ファシズム」の語源はラテン語の「fascis」で、「棒の束」を意味するのだそうだ。
『21 Lessons』でユヴァル・ノア・ハラリは「それには深く不気味な意味がある」と書いている。

棒は一本だととても弱く、たやすく真っ二つに折れる。
ところが、何本も束ねて「fascis」にすると、折るのはほぼ不可能になる。
これは、個人は取るに足りないものの、共同体は結束しているかぎり、とても強力であることを意味している。
したがって、ファシストは誰であれ個人の権益よりも共同体の権益を優先することが正しいと信じており、どの棒にも、けっして束のまとまりを損なわないことを求める。
『21 Lessons』ユヴァル・ノア・ハラリ著 柴田裕之訳 河出書房新社刊 p.378-379

毛利元就の三本の矢を思い出す。
共同体にいる人にとってはいい話かもしれないが、共同体の外部から見ると「深く不気味な意味」を孕む。
でも最近では、多様性がないとうまくいかないという話があるので、共同体にとっても必ずしもいい話ではなくなっているかも。

1月

16

I know.

いろんな場面で登場するこの簡単な言葉。
40年前の「スター・ウォーズ/帝国の逆襲」にも印象的なシーンにでてきた。
カーボン冷凍される直前のハン・ソロにレイアが「I love you.」と告げるとソロが「I know.」と答える。
最新作の「スター・ウォーズ/スカイウォーカーの夜明」にも印象的なシーンで「I know.」が登場する。
そのセリフを聞いた途端、40年前の「I know.」を思い出す。
こんなありふれた台詞にいちいちほろりとしていてはたまらないと思いつつ、それでもやっぱりほろりとさせられる。
「西の魔女が死んだ」も一緒に思い出した。

1月

15

全体を知る

新しいメディアがひとつできると、そのたびに僕たちはうれしくなる。
知らなかったことが知れるようになるから。
本ができることによってプロテスタントが生まれた。
同じ聖書をたくさんの人たちが手にできるようになったから。
雑誌や新聞が生まれて社会が変化するようになった。
昨日より今日が、今日より明日がよりよいものになるために何をすれば、何を考えればいいのか、多くの人が気づくようになったから。
ラジオができて大きなグループの感情が一方向に向くようになった。
リーダーの感情が声で伝達されるようになったから。
テレビができて比較的世界が平和になった。
言葉では伝えられない状況を目で見ることができるようになったから。
このようにして大雑把な理解の密度を人類は少しずつ上げてきた。
インターネットが生まれてさらに理解の密度を上げる可能性を手にする。
次に生まれるメディアが、前のメディアでは伝えられなかったことを伝えて行く。
僕たちはこうして、いつか宇宙の全体を知るようになるのだろうか?
それを知るために新しいパラダイムが、もうすぐやってくるのではないか?
その新しいパラダイムは、権力者にすべてが集中するようなものではないだろう。
そのことをテイヤール・ド・シャルダンは美しい言葉で表現している。

生命の樹の樹液全体を一本の枝だけのために集め、他の枝の死の犠牲の上に立つ民族主義者の理想は誤っているし、自然の理にそむいている。太陽にむかって伸びあがるためには、まさに木の枝全体の成長が必要なのである。世界の出口、未来の扉、超=人間への入口、これらは、いく人かの特権者やあらゆる民族のなかから選ばれた唯一の民族だけに開かれているのではない。それらは万人の圧力に対して、すなわち、全人類が地球の精神的革新において一致団結し、完成されるような方向に対してのみ道をあけるのである。

『現象としての人間』 ティヤール・ド・シャルダン著 美田稔訳 みすず書房刊

1月

14

過去はどこにあるのか?

過去はもうどこにもない。
だけどそれが存在したことを僕たちは信じている。
信じていることは存在したのか?
もしすべての人が存在しなかった過去を「存在した」と信じると、その過去は存在したことになるのか?
記憶がすり替えられた人にとって過去とはどんなものになるのか?

1月

11

念仏を唱えるように

毎日のように気持ちいいものを書いていると、ときどき、念仏を唱えるように同じことを書ければ楽なのになぁと思う。
同じことをしながら、同じことを感じる。
きっとそのほうが同じ感情でいるためには便利だろうな。

1月

8

いいたいことを言う

日本の政治もアメリカの政治も、約束事を無視して暴走し始めたようだ。
このまま行くとたくさんの命が失われるのかもしれない。
その前にもし、言いたいことが言えなくなったのなら、その時点で僕たちの命は疎外されている。
疎外を受け入れるのではなく、いいたいことは言おう。

12月

7

歌垣の世界

折口信夫の本に歌垣という言葉が登場し、それがいったいどんなものか興味を持った。
長いあいだ忘れていた興味が、一冊の本によって解き明かされる。
工藤隆著『歌垣の世界』。
かつて日本にあった歌垣が、いまも中国雲南省の奥地に存在し、その研究と考察によって、日本についてのさまざまな示唆を与える。

令和の時代となり、天皇の儀式もかつてより報道されるようになり、憲法改正をするのならば日本人が考えなければならない天皇制というものについて、この本の最後に書かれていることはとても大事なことを伝えていると思うので、ここに転載する。

——
恋愛文化は『源氏物語』(1000年代初頭)に典型的であるように、王朝の物語世界でも、男女の恋愛をめぐるテーマを熟成させた。宮廷を舞台とする世界中の物語のほとんどは、政治的暴力の醜い権謀術数が展開される世界である。しかし『源氏物語』のテーマはあくまでも男女の恋愛である。

このような恋歌文化の強力な伝統は、長江以南諸民族の歌垣文化に発するものであり、しかもそれが日本においては、六〇〇、七〇〇年代の本格的国家建設の際にも継承されたということは、世界文化史上でも画期的なことであった。

もちろん恋愛と言うものは、合理的・現実的判断力(リアリズムの眼)が強すぎるときには生まれにくい。恋愛文化の伝統が強いということは、柔らかな価値観、だれかを恋い慕う思いなどに価値を認めようとする感性が強いということである。したがって、政治的な権力争い、国際政治における謀略的な闘いなどのリアリズムの眼が求められる場面では、しばしば判断ミスを誘う思考構造ともなる。

人間は、限られた生命を生きる存在であることを自覚しつつ、それでもなお生きることを選択して生きている以上、何らかの幻想や願望や憧憬を抱え込んで、いわばそれらを、生きることの栄養源にして生きていくのである。そのような幻想や願望や承継の最も甘美かつ魅力的な世界が恋愛であり、その表現形態の一つとして恋歌文化がある。したがって、長江以南少数民族の歌垣文化とその中心にある恋歌文化を、古代国家段階だけでなく二十一世紀の現代にまで伝えている日本文化は、それ自体で誇るべき世界文化遺産だとして良い。

しかし、他国と戦争するような場合にまで、幻想と願望と憧憬という、リアリズムから最も遠い意識に身をゆだねて行動をとれば、どれほど悲惨な結末を迎えるかは、一九四五年の敗戦までの日本軍部およびそれを心情的に支えた多くの日本国民が実際に体験したことであった。

11月

26

フランシスコ教皇の言葉

ローマ教皇が来日し、長崎、広島、東京と訪れた。
各地でミサを行い、言葉を残している。
核廃絶を訴え、戦争を撲滅し真の平和を希求した。
特に「生産性と消費への熱狂的な追求」についても批判した。
ありがたいことだ。
金銭を生み出さない「命の営み」に眼差しを向けるときが来た。

11月

7

嘘とは何か?

嘘という言葉があるが、よく考えると嘘の中にいろんな種類がある。

1.意図的な嘘 言った人が聞いている人を騙そうとしてわざとつく嘘。
2.結果的な嘘 嘘をいうつもりはなくとも、環境などの変化によって話を聞いた人に嘘と解釈されてしまうこと。
3.微妙な嘘 聞いている人が傷つくのを恐れて、言う人が聞いている人を傷つけまいとしてつく嘘。

すぐに思いつくのはこの三つだが、ほかにもいろんな嘘があるかもしれない。
これら三つを全部「嘘」という言葉にまとめるのはどうかなと思う。
これらがごちゃ混ぜのおかげで、悲喜劇が起こる。

11月

2

ダジャレ

友達に会っている時、ダジャレをいう。
たいてい馬鹿にされる。
馬鹿にされてまた笑う。
ここでへこたれてはいけない。
さらにバカバカしいダジャレを連発する。

10月

20

別人になる

「気持ちいいもの」がなかなか思い浮かばないとき、いままで書いた「気持ちいいもの」を読みなおすことがある。
そして気付く。
書いたときには気持ちよかったことが、いまはちっとも気持ちよくないことを。
読みなおすことでそのときの感覚を思い出すが、なかには思い出せないものもある。
いったいどうしたことだろう?
きっと僕のなかにはたくさんの別人がいるのだろう。

9月

20

まぼろし

快楽はまぼろしであるが、苦痛もまぼろしである。
気持ちいいときに気持ちよくなり、苦しいときに苦しめばいい。

9月

4

本当に願っていることは何か

人は多くの矛盾に挟まれる。
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこういうしかなく、親としてはこう言わざるを得ないのに、たくさんの想いを抱えているのにも関わらず、どれかひとつしか表明できない。
なぜどれかひとつしか表明できないのか?
そういうものだと自分が思っているからではないか?
個人としてはこう言いたいが、会社員としてはこう言うしかなく、親としてはこう言わざるを得ないということを、全部言ってみたらどうだ?
「それは矛盾だ」と誰かに言われたら、「立場が違えば言うべきことが変わるのは当たり前でしょう」と言えばいい。
そうやって多面的な本当のことを言い合うことができれば、いままでにはなかったような鮮やかな答えが得られるかも。

9月

3

ウソがない

地球交響曲第四番で名嘉睦稔が「鳥の言葉にはまったくウソがない」という。
起きたことをそのまま反応として鳴くからウソがつけないと。
人間は嘘をつかざるを得ない状況にしばしば追い込まれる。
それはいったいなぜだろう?
ウソがなければ、きっと気楽でいいだろうに。

8月

22

水滴の音

世界は一滴の水の音とともに始まった。
一滴の水の音が世界を変えた。
それ以上でもそれ以下でもない。
一滴の水の音とともに人は笑い、人は歌い、鳥は飛び、魚は群れをなす。
僕がそれを認識していなかっただけ。
一滴の水の音とともに宇宙は存在し、銀河は巡り、彗星は流れ、太陽は輝く。
一滴の水の音とともにあらゆることが起き、あらゆることが変化し、あらゆることが流れていく。
僕はその状況の中に浮かんで流されるだけ。
一滴の水。

8月

3

意味の発見

かつて読んだ古い本や雑誌を再読していると、そのときには汲み取れなかった意味が湧き出てくることがある。
そういう意味を見つけると「今の僕もわからない意味があるんだろうな」と思う。
最近はインターネットで言葉の意味を探す。
すると、何でもわかった気になる。
でも、それはきっと違うのだと思う。
辞書を読むよりはその言葉の体系を知ることができるようになっただろう。
辞書はスペースが限られているので、用例が少ない。
言葉の意味のプリズムのわずかしか受け取られない。
インターネットを調べると、その気になればいろんな用例が得られる。
なかには新しい創作もあるし、間違ったものもあるだろう。
そういう意味の宇宙に放り出されると、何が正しくて何が間違っているのか、はっきりとはわからなくなってくる。
誰かが創作した言葉の意味を「間違っている」というのは正しい態度なのだろうか?

7月

29

長い話を書くための目次

長い話を書くとき、まずは目次を作ってみる。
実際にその目次に沿うかどうかは書いてみないとわからない。
だけど、目次を書くことで、伝えるべき内容の方向性が見えてくる。
これから表れてくる内容にわくわくする。

7月

25

「簡単」という言葉について

昨日、「第九のスコアは簡単」と書いたが、その言葉がどうも魚の骨が喉に刺さったように気になる。
それはたとえば、プロの指揮者にとっては「簡単」という訳ではないから。
僕のように気楽に聞いている人にとっては「簡単」で済むが、演奏する人にとってはきっと簡単ではないはずだから。
特に第九は名曲だ。
多くの人に何度も聞かれ、曲の解釈によって褒められもするがけなされることもあるだろう。
その難しさは実際に演奏した人でないと理解できないかもしれない。
もし理解したとしても、それを言語化するのが難しい。
この難しさは言葉の難しさであり、人間の心や認知の問題に関わってくる。
一方で、その難しさのおかげで、感動は大きくなる。
演奏によって心が震えるのは、きっとこの難しさを乗り越えてきた情熱が音となって伝わるから。