5月

10

ふふふ

京都錦市場にお麩の専門店がある。
そこののれんにひらがなで「ふ」と書かれていて、それがいくつも連なっていて「ふふふ」と読めるようになっていた。
「ふ」というひらがなはいくつか並ぶと不思議な力を発する。
大きな「ふふふ」、いつかご覧ください。

5月

9

エビ穴

弓ヶ浜の隣にある、逢ヶ浜(おうのはま)に、エビ穴という奇岩がある。
干潮時には渡っていけるが、満潮時には近づけない。
昔、弓ヶ浜の国民休暇村に第一回日本トランスパーソナル学会に参加するため泊まったときに見つけた。
大きな岩の真ん中がくり抜かれ、形はまるで兜のようだ。
今朝、ふと思い出した。

4月

13

湧き出す記憶

フランク・プウルセルのレコードがうちに一枚だけあった。
そこにFM東京の番組、ジェット・ストリームのテーマ曲になっていた「ミスター・ロンリー」が入っていた。
それが聞きたくてアマゾンミュージックでフランク・プウルセルのアルバムを聴いているが、タイトルがほぼすべてフランス語で書かれているので、英語タイトルで書かれているのは「あ、あの曲ね」と思えるが、多くは聞いてみてはじめて「あの曲か」とわかる。
ときどきかかるかつて聴いていた曲。
そういう曲がかかると、ずっと忘れていた懐かしいことを思い出す。
「Le Torrent」という曲がかかった。
聞いた途端、それは家のアルバムでは「急流」というタイトルの曲だったと思い出す。
一緒に、コーヒー豆の置かれていた戸棚が湧き出てきた。
あまり使わないサイフォンと、4種類の豆、そして電動コーヒーメーカー。
いろいろとブレンドしてみたが、好みはマンデリン5とモカ1だけだった。
半世紀も前のこと。

4月

6

「Serenata」の頭

クインシー・ジョーンズの「Big Band Bossa Nova」というアルバムをAmazone Musicで聴いていたら、「Serenata」という曲の頭でバストロンボーンの低音が響いた。
しびれてしまった。
何度か聞き直した。
かつて僕がバストロンボーンを吹いていたから。

3月

30

チューブラー・ベルズ50周年

1973年に発表された名作「チューブラー・ベルズ」が来年発表から50周年を迎える。
ロンドンではその記念コンサートがある。
まるでクラシック作品のような扱いだ。
20歳の青年がひとりで作ったアルバムがこんなに人気が出て、50周年の記念リサイタルまでやるなんて。
中学生だった僕が夢中になったのはなぜか、その理由はわからないけど、こんなにすごい曲だったんだなと思う。
ひさしぶりにまた聞いた。

2月

7

子供のサッカー大会

イスラエルとパレスチナから子供たちを招き、平和のために日本の子供達と一緒にサッカーをしてもらおうという企画が立ち上がり、手探りで実現に向け準備して行ったとき、その仲間に入れてもらった。
2003年のこと。
子供でもイスラエルとパレスチナの人たちが同席するのは不可能だろうと言われ、あちこちから無理なことはするなと言われ、何か起きたらどう責任を取るんだと責められた。
それでもボランティアは集まり、無事にイスラエル・パレスチナから子供たちは来日し、サッカー大会当日は予定人数を大幅に上回るボランティアが集まった。
サッカー場を走る子供達は、小学生で、さほどサッカーが上手いというわけではなかった。
はっきり言えば、「子供がサッカーをしている」ただそれだけに見えた。
だけど、「海を見たのははじめて」という子がいた。
もちろん国外に出るのはほぼ全員はじめてだった。
「行ったことのない国で、普段は敵だと言われている子供と会う」
それはどんな体験なんだろうと考えたとき、彼ら一人一人がヒーローに思えた。

2月

2

渡辺満喜子さんの歌

ヴォイスヒーラーの渡辺満喜子さんと親しくしていただいていた。
あるときは江ノ島のお宅でテキーラを飲みすぎたり、化粧品の原料となる大麻畑で満喜子さんが歌い、僕がディジュリドューを吹いて伴奏をしたり、万喜子さんのヴォイス・ヒーリング・セミナーにも何度か参加させてもらった。
満喜子さんの歌を聞くと、ときどきゾクゾクッと寒気のすることがあった。
そのことを満喜子さんに聞いたことがある。
「つなぶちさんは霊的な感覚を寒気で感じるのかもね」
そう言われて、なるほどと感じた。

1月

30

言語化できない違和感

昔、大学を卒業する頃まで、文章を書くのは難しいことだった。
なぜなら、長い文章を書くと、書きはじめに思っていたことと違うことを結末に書いてしまっていたから。
書き出しに書いた話題の例などを書いているうちに、なぜか違う話が割り込んでしまう。
書き上げるためにはテーマを一貫したものにしなければならなかった。
つまり、僕はものを考えている時、いろんな可能性について考えていて、文章を書いているとそれらが出てきて制御できなかったのだ。
急に話が飛んだら、読者は話題についてくるのが難しくなる。
それが制御できるようになったのは就職してからだ。
なぜそれができるようになったのか、その理由はよくわからない。
ある新聞社からラジオについての記事を書いてくれと頼まれ書いた。
書くまでは書けるかどうか心配だったが、思ったより簡単に書けてしまった。
文章を書くのはさほど難しいことではなくなった。
今から思うと、この頃に書きたいテーマや結論に向かって書くのが当たり前になったのだと思う。
社会では常にそのようなことを求められていたからかもしれない。
その結果、自由な連想の力は弱くなったような気がする。
そのことに直面するのは、会社を辞め、ライターになり、ヒーリング・ライティングを始めてから。
いろんな人とリフレーミングについて考えたが、そのさなかにうまく言語化できない違和感を感じるようになった。
その違和感にはいろんな要素が絡んでいたが、その一つが「文章をまとめることと、自由な想像力との綱引き」だったように思う。
文章をまとめることに慣れてしまったため、何か話を聞くとたいていどのように話を展開していけばいいのかすぐにわかるようになった。
ところが、他人の話を丁寧に聞いていくと、自分が思い描く展開では表現できないことを言われることになる。
さらにその話をリフレーミングしようとすると、もっと未知の話を丁寧に聞いて行かなければならなくなる。
自分の理解していることだけでは文章がまとめられなくなった。
さらに難しいのは、心に隠した内容があること。
誰でも人に言いたくないことの一つやふたつは持っている。
多くの場合、そのことがその人の性格の根幹に関わっていたりする。
他人の中にそのようなものを見つけるようになると、似たことを自分の内側にも見つけることになる。
自分自身にも隠しておきたいことを思い出してしまうと、それを隠すために色々と考えるが、文章をまとめる感性が働くと、何かを隠すことが難しい。
スパッとまとめるためには真実だけしか表現できない。
だけど、それを掘り下げていくと、さまざまな心の矛盾に行きあたる。
ここで僕の探求はしばらく頓挫することになる。

1月

28

はじめて見たオゴオゴ

バリ島のニュピの日に、プリカレラン家にホームステイさせてもらった。
ニュピ前日の夜、低級霊を祓うために、村ごとに大きなはりぼての鬼を作り練り歩く。
その儀式や鬼をオゴオゴという。
当時バリ島の街にはほとんど街灯がなく真っ暗だった。
その中を数十人の男たちが高さ五、六メートルもあるようなオゴオゴを神輿のように担いで移動していく。
時々なぜか彼らは走り出す。
数十人が一度に暗闇の中を走ってくると、その音は恐怖をもたらす。
うっすらと見えるオゴオゴの影、激しい息と意味のわからない言葉、そして数十も重なったペタペタというサンダルの音。
どう避けていいかもわからない。
狭い道の中で揉みくちゃにされて、ひとごみから吐き出されると、オゴオゴを引き回した集団は遠ざかっていった。

1月

26

K君と墓参り

大学生の頃、理系だった僕たちは、実験レポートの提出前に内容を照らし合わせたり、教え合ったりすることを口実に、仲良しがそれぞれ車で真夜中にファミレスに集まり、コーヒーを飲みながらいろんなことを話した。
ある日K君が「これから母さんの墓参りに行きたい」と言いだした。
一緒にいたT君と僕は驚いた。
零時を過ぎて、そろそろ帰ろうとか思っていたときにそんなことを言われた。
「もうすぐ丑三つ時だよ。こんな時間に墓参りしてどうするの?」
K君は「いいじゃん。きっと楽しいよ」。
どうしてそんな話になったのか詳しくは覚えてないが、「母さんに二人を紹介したい」という感じだったように思う。
K君は幼い頃に母親を失っていた。
その思い出のいくつかを聞いていた。
そういう文脈で断るほどT君も僕も冷淡にはなれなかったので、三人でK君の母親が眠る郊外にあった大きな霊園に午前一時過ぎに行った。
あたりは真っ暗。
だけど、幹線道路が霊園のそばを通っていたので、何も見えないというほどではない。
うっすらと影が見えるお墓がたくさん並ぶなか、K君は「こっこちこっち」と母親のお墓に向かって歩いて行く。
怖くないというわけではないが、怖くてたまらないというほどではない。
K君の母親に会いに来たのだ。
「ここだ」と言って一つの墓石を示された。
暗くてよく見えないが、そこで三人で手を合わせた。
すると「鈴の音が聞こえたね」とK君がいう。
「きっと母さんが喜んでいる」
僕には聞こえなかったが、否定はできなかった。
そして、本来であれば怖いはずの、見知らぬ霊園の真ん中にいて、思い出話を聞いていたK君の母親といると思うとさほど怖くはないという、不思議な感情を味わった。

1月

25

富士サーキットの幽霊

会社員だった頃、仕事で何度か富士サーキットに行った。
多忙な会社員生活だったので、早朝に自分の車でサーキットに行き、その夜に帰った。
仕事の内容はサーキットのプロモーションだったので、いわゆるレースクイーンを連れてタイヤのプロモーションをしていた。
チームは十人前後で、レースクイーンと実行部隊が半々だった。
僕以外のメンバーは土曜に前泊してサーキットに行き、日曜の早朝に合流していた。
あるとき、レースクイーンの一人が、宿泊していたホテルでの霊体験を話してくれた。
そのホテルで寝ようとしたら、窓からの視線が気になり、カーテンを閉めて寝たのに、ふと目を覚ますとカーテンが開いていて、「どうしたの?」と思ったら、何かに足首を掴まれたそうだ。
そんな話しを聞いていたので、早朝に車で行けてラッキーと思っていたが、ある日車が故障して、前泊することになってしまった、
土曜の夜、別の仕事を終えてから富士サーキットに向かう新幹線の車内誌に、景山民夫のインタビュー記事を見つけた。
当時景山民夫は売れっ子の放送作家から直木賞作家に脱皮し、幸福の科学に入信して少し不思議な立ち位置の作家だった。
この数年後、景山は自宅で燃え上がり死んでしまったという。
プラモデルを作っていたときのシンナーに煙草の火が引火したとのことだったが、なぜか詳細は発表されず、不思議な噂が飛び交った。
その景山民夫が、確か阿川佐和子のインタビューを受けて、それが掲載されていた。
なぜ幸福の科学に入信したのかという質問に対して、「霊的なことへの説明が丁寧だから」というような返答をしていた。
ほかの質問についてはよく覚えてないのだが、ひとつだけ印象に残った質問があった。
「もし幽霊に出会ってしまったら、どうしたらいいいのか?」
景山はこんなことを答えていた。
「幽霊は肉体を持たないので、絶対的に生きている人のほうが有利です。幽霊には感情的に巻き込まれるとやっかいなので、ハハハと笑って無視するのが一番」
なるほどと思い、宿に向かった。
到着は深夜だったので、チームのみんなは翌日早朝の集合に備えて寝ているはずなので、ひとりで用意されていたシングルルームに入った。
その部屋は少し不自然だった。
シングルルームなのに広い。
ベッドさえ入れれば、四・五人が泊まれそうだった。
この深夜にクレームを言っても仕方ない。
そのまま気にしないで寝た。
正確には、気にしないようにしながら、「出てきたらハハハと笑って寝る」と思っていた。
深夜、ふと目を開けてしまった。
すると、ベットから見上げた天井と壁の境に足を付けて、まっすぐこちらに向かって立ち、クッと顔を上げている真っ赤なワンピースの少女がいた。
もちろん、「ハハハ」と笑って寝返りを打って、見ないようにした。

1月

24

心霊研究会

中学一年のとき、本屋で「UFOと宇宙」という雑誌を見つけた。
創刊号には小松左京や横尾忠則のインタビューが掲載されていた。
その雑誌を手にして学校に行き、友達に見せた。
数人が興味を持った。
その子たちと「よくわからないもの」について語り合った。
そのメンバーのひとりがたまたま「中一時代」か「中一コース」か、雑誌に投稿した。
「心霊やUFOに興味のある人からのお手紙を待っています」
それが掲載され、全国から数十通のお手紙が届いた。
返事をしようと言うことになり、「心霊研究会」の会報を何度か送った。
その第Ⅰ号の発送の日、誰かがこんなことを言った。
「あれ? メンバーはこれで全員だっけ?」
そこには四人の友達がいた。
ところが、そう問われると、確かにもう一人、誰かメンバーがいたような気がした。
寒気がした。

1月

22

ガムランを聴く

大学生の頃、「題名のない音楽会」で小泉文夫がケチャを紹介していた。
世の中には不思議な音楽があるもんだなぁとそのCDを探して買おうとした。
ところが見つからず、同じバリ島の音楽ということで、ガムランのCDを買った。
うちに帰って聞くと、最初の音でゾーッと鳥肌が立った。
「なんだこの音楽は!」と思い、ラックにしまった。
「こんな気持ちの悪い音楽はもう聴かないだろう」と思っていたのだが、なぜかときどき聞きたくなる。
聞いてはゾッとしてまたしまう。
「いったい何をしているんだろう?」と思っていた。
このゾッとした感じが、ヌミノーゼだと理解するのは十年以上過ぎてから。
縁があり、そのガムラン楽団を率いていたプリカレラン家にホームステイさせてもらうようになってからだった。

1月

21

聖なるものと幽霊

聖なるものを目の前にしたとき感じるヌミノーゼについて書くために、その感覚を思い出そうとしていろいろと書いているが、そこに幽霊が出てくるのはいかがなものかと感じている人もいるだろうと思い、これを書く。
でも、そんな人がいるかどうかは実は問題ではない。
僕の中にそう疑う部分があるから書く。
つまり、「聖なるものと幽霊を混同していることについて心配している」という僕の内側について、あたかも誰かがそう考えているだろうからと前置きして、他人事のようにして書こうとしている。
こういうことは実はよくあって、「僕の内側にある別の面の僕」というのは、説明が面倒なので「きっとこう考える人がいるだろう」とことわって、実は自分のことを書いている。
そう言ったほうが話しが早いし、誤解も生まないだろうという前提でそう書くが、その時点で実は多少のミスリードを含んでいる。
こういう些細な区別はどうでもいいと感じる人が多いかもしれないが、厳密な話しをするときには大切な話になる。(ここにも些細なミスリードが含まれたね)
それに「聖なるものと幽霊」は少し似ている部分があるように感じる。
「聖なるもの」とは何かであるが、宗教の歴史をたどっていくと、時代によって変化があることがわかる。
たとえばそれはエリアーデの「世界宗教史」を読めば明確になるが、そのことと個人の精神の発達とをよく比較して考えなければならない。
たとえば、十歳の頃の僕と、二十代の頃の僕、そして現在の僕では変化がある。
その変化を把握した上で精神の発達について考えなければならない。
こう書くのは簡単だが、具体的にどう変化したかを指摘するのは、自分にとってはあまり簡単なことではない。
なぜなら、自分の考えは、時代によっての変化を、普段明確には区別してないから。
十歳の時の僕のことを書いている最中に、実は六十歳の感覚で表現していることはよくある。
つまりそれは、十歳の頃の感覚そのままの表現ではなく、六十になった僕というフィルターを通しての表現になる。
それを手放すのはあまり簡単なことではない。
そのことを意識して始めて可能になる。
その些細な違いを言語化するのは困難を伴う。
そこには明確な区別があるという前提に立つことによって可能にはなるが、その前提に立たない限り、それはできない。
僕の若い頃には「聖なるものと幽霊」の区別は曖昧だった。
だから、幽霊についての強い興味があったのだと思う。
つまりそれは、若い頃から「聖なるもの」に興味があったが、幽霊との区別が曖昧だから、幽霊についても興味があったのだと思う。
こう区別を与えているのは、現在の僕に他ならない。
若い頃の僕は、そもそも「聖なるもの」に出会う機会がなかった。
科学の台頭により、宗教の価値が低くされていた時代だったからだろう。
「聖なるもの」の代替物として「幽霊」があったように思う。
だから「聖なるもの」について書くとき、幽霊が出てきてしまう。

1月

20

下田移動教室

小学校での修学旅行はなぜか移動教室という名称だった。
なぜそう呼ばれたのか詳しいことは知らない。
小学五年の時の移動教室は下田に行った。
ペリーが来航した下田港や石廊崎を見た。
夕方に宿舎に着き、ベッドを割り当てられる。
僕は二段ヘッドの上の段だった。
夕暮れ、そのベッドに座ってボーッとしていたら、目の前の白い壁に四角いスクリーンのような光が差し込んだ。
なんだろう?と思って見ていると、そこにたくさんの線が出てきてうねりだした。
ほんの一瞬のことだった。
五秒ほどでその白い壁には何も映らなくなった。
ぞっとした。
なんだかわからないものを見てしまった。

1月

19

怪談

幼い頃、怪談を聞くのが好きだった。
あの、怖くてぞわぞわする感覚に酔った。
兄がよく体験談をしてくれた。
それを父に話したことがある。
「純ちゃん(兄のこと)こんな怖い経験したんだって」
兄が嘘をつくとは思えなかったので、その体験はすべて真実だろうと信じて話した。
すると父がこう言った。
「僕も一つだけ、僕の父さん、ようちゃんにとってはおじいさんだな、から聞いた怪談があるよ。聞く?」
もちろん聞いた。
祖父は戦前、樺太の真岡に住んでいた。
そこに知り合いの老婆がいて、その老婆は不思議な能力を持っていると噂されていた。
その老婆があるとき病気になり、町外れの病院に入院したそうだ。
祖父はいつか見舞いにと思っていたある日、夜に厠に行った。
いまでいうトイレだ。
当時のトイレは汲み取り式だから匂う。
母屋から少し離れたところに作られていた。
厠で用を足し、出てきて水道で手を洗おうとすると、水道が不思議な音で唸りだした。
驚いて様子を見ていると、震える水道の蛇口から水煙のようにして、あの老婆の顔が現れた。
驚いた祖父は「何をしている」と怒鳴ると、老婆はこう言って消えた。
「退屈だからねぇ」
翌日、町外れの病院に老婆に会いに行った。
すると老婆は祖父の顔を見るなりこう言った。
「退屈だからねぇ」

1月

18

京都のお寺で聞いた読経

大学生の頃だっただろうか。
京都を旅行していたらあるお寺で読経が始まった。
どこのなんというお寺かも忘れてしまった。
だけどそこの読経が凄かった。
僧侶が数名で読経していたのだが、聞いたことのない和音になっていた。
それが読経の言葉とともにうねっていく。
楽譜にはしようがない微妙な和音の変化。
音楽のように心地よいのと同時に、底知れない畏怖を感じた。

1月

17

ブラバンの秘密

「聖なるもの」に向き合ったときの感覚をヌミノーゼといい、その感覚がしたときのことを思いだしているが、本当にこれもヌミノーゼと呼べるかどうかは判断が分かれるところだと思う。
でも、僕の感覚はそうだと伝えてくれているので、そのように扱う。
高校生の頃、僕はブラスバンドに入っていた。
そこで指揮をやらせてもらえることになった。
指揮をしていた先輩から、演奏会の直前にメンバーを集めて必ずこれを言うようにと、演奏会を成功させるための秘密の言葉を教えてもらった。
そのときの僕にはそれを言う理由がまったくわからなかった。
「そんなこと」としか思えなかった。
そこで文化祭の時、3回の演奏のうち1回を、わざとそれを伝えないで演奏をした。
すると何も間違いのない演奏だったが、ほとんど誰も感動しなかった。
きちんとそれを言うと、観客も演奏者も、とても感動する演奏会になった。
それを知って以来、僕はこの言葉を呪文と呼んでいる。
それはこんな言葉だ。
「これからする演奏はたった1度のものだ。同じお客様に聞いてもらうことはもうない。僕たちも同じコンディションでやることはもうないだろう。だから、いまの僕たちにできる最高の演奏にしよう」
これをいうとなぜかゾクッとした。
そして、その演奏にみんなが感動する。
うまいとか下手とか、そういう次元ではない何かが働いた。

1月

14

はじめて見た天の川

小学生の頃、家族で山中湖に旅行して、夜に生まれてはじめて天の川を見た。
夜空にびっしりと星が敷き詰められていた。
その濃度が高い流れが天の川だった。
びっしりと敷き詰められた星に畏怖を感じた。
なんともいえない恐ろしさ。
「こんな宇宙の中で生きているのか」と。

1月

13

聖なるもの

人は聖なるものに触れて動かされる。
その感情はなかなか表現しにくい。
オットーという神学者はそれをヌミノーゼと言った。
科学的にものを考えるようになり、聖なるものに触れる体験を忘れかけているかもしれない。
これからしばらく僕なりの、聖なるものとの接触について思い出してみようと思う。

1月

10

コーヒーの旨さ

幼い頃、コーヒーといえばインスタントコーヒーだった。
カップにコーヒーの粉を落としてお湯で解かす。
それに砂糖とミルクを入れた。
ところがある日、13年上の兄が、サイフォンで引いた豆のコーヒーを淹れてくれた。
僕は小学生だったが、その旨さに目を見張った。
なんだこれはと。
以来、コーヒーの虜になった。
いろんな豆を挽いてコーヒーを淹れた。
でも、当時はコーヒー豆の味がいまのように安定していなかった。
店によっては焙煎して何日もしたコーヒー豆を売っていたが、当時はあまりそんなこと気にされなかった。
だからコーヒー豆の味を追求しても、あまり仕方がなかった。
いまは焙煎したての豆をいただけるようになったので、豆の違い、産地の違い、農園の違いがはっきりしてきた。
追っかけていくとはまるだろうな。
クラシック音楽も、演奏者やオーケストラ、録音の時期によって違いがあるように、コーヒーの産地や焙煎の度合いなど、些細な違いを評価できるようになると。

12月

4

グンジョウフューチャリングタイ

「今日もtoday」というすっとぼけたアルバムを発表したバンド。
解散して何年も経つ。
解散前に発表した「今日もtoday」をいまもときどき聞く。
そのアルバムに入っている「温泉」という曲のPVがいまもネット上に残っている。
解散日におこなった居酒屋でのライブの様子も。

11月

28

イルカの輪

イルカはときどき、吐き出す息で輪を作る。
個体によってはその輪で遊ぶことがあるようだ。
何かの映像で見たことがある。
実物の泡の輪も見たことがあって、御蔵島で泳いでいたとき、下を泳いでいたイルカが輪を吐いた。
それは意図的なモノなのかたまたまできたものなのか、イルカに聞いたら「意図的に決まっているだろう」と言われた。(嘘)w

11月

19

庭になっていたという柿を知人からいただいた。
いただいたときはまだ硬かったのでしばらくおいて今朝食べた。
やっぱり両親のことを思い出す。
18.11.30のNo.03715に書いた話。
毎年硬い柿が好きな母は硬いうちに柿を食卓に出し、父は柔らかい柿が好きだったので怒る。
ニーチェは「夫婦生活は長い会話だ」と言ったそうですが、柿の話を思い出す度に「夫婦は永遠の会話だ」と思うのです。
なにしろ、毎年繰り返していた両親の会話を、二人とも亡くなってからも僕が思い出し、僕がこうして書くことで、誰かがその話をきっといつか思い出すんだろうなと思うから。
言語学者が、子どもがどのように言語を獲得していくのか研究するため、自分の幼い娘の会話をすべて記録して分析したことがありました。
予想では、新奇なことをたくさん話すのだろうと予測していましたが、実際には話題は限られていて、ほぼ毎日繰り返されることの些細な変化についてよく話したそうです。
両親の柿の話もきっと毎年些細な変化を繰り返し、最初は本気で喧嘩していたが、途中から毎年の恒例になり、そのうちに「また柿の季節になったねぇ」という意味を含んだ口げんかとなり、最後には「また今年もこの会話を繰り返すよ」と思いながら、談笑していたのかなと思います。
その毎年の変化に当時の僕は気づけず、本当のところは覚えてないのですが。
こうやって繰り返すことで、新たな発見があり、新たな概念が生まれ、それがいつしか新しい言葉として表現されるようになり、子どもは言語を獲得し、大人はさらなる気づきを得ていくのでしょうか。

11月

16

モーツアルトピアノ協奏曲第20番

中学生の頃から好きでときどき聞く。
冒頭のコントラバスとチェロのドルルーンという音から引き込まれる。
2楽章のメロディーもいいし、3楽章の劇的な曲想もいい。
いろんな演奏を聞いたけど、中学生の頃に何度も聞いたセルとゼルキンの演奏が僕の中でのスタンダード。
セルが亡くなったのが1970年だそうだから、少なくても50年以上前のもの。
いい演奏は長く残る。