循環と螺旋

世の中を眺めていると、ありとあらゆるところに循環がある。

細胞の中でも物質は行ったり来たりしている。臓器同士でも、身体全体でもそうだ。人間同士も物や情報や感情をやり取りし、社会では人やお金や情報が動き、国家も他の国家や地球環境との間でさまざまなものを交換している。小さなところから大きなところまで、世界は循環によって成り立っているように見える。そう考えていて、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉を思い出した。これは循環とは反対方向の考え方なのかもしれない。「自分のところに来たものを自分のところだけに留める」という発想だからだ。

江戸っ子の「宵越しの金は持たねぇ」は、経済的に賢明かどうかは別として、その正反対にある。自分のところに来たお金を使えば、それは商人に渡り、商人からまた別の人へ渡っていく。お金が社会を循環する。では、循環すること自体がいいことなのだろうか。そう単純でもない。

憎しみが報復を生み、報復がまた憎しみを生むことも循環である。貧困や搾取が世代を越えて再生産されることもある。循環しているからいいとは言えない。では「よい循環」と「悪い循環」に分ければいいのだろうか。これにも問題がある。

何を「よい」とするかは視点によって変わる。捕食する動物と捕食される動物では、同じ出来事の意味が違う。あるホロンにとって都合のよい循環が、別のホロンを傷つけることもある。そこで「循環がよいか悪いか」と判断するより、「循環の中で、それぞれのホロンに何が起きているのか」を見るほうがいいのではないかと思った。ここで「全ホロン尊重」と循環がつながりそうだ。

ホロンとは、全体でありながら、より大きな全体の一部でもある存在である。細胞はそれ自体一つの全体だが、身体の一部でもある。人間も一人の全体でありながら、家族や社会や生態系などの一部でもある。だから一つのホロンの内部にも循環があり、そのホロンと外部との間にも循環がある。ところが、ある循環を維持するためには、何かをそこから外さなければならない場合もある。

身体は病原体や毒物を排除する。社会でも、他人に危害を加える人を一時的に拘束しなければならないことがある。だから「循環から排除することはいけない」とは言えない。ここで一つ重要なことに気づいた。ある循環から外れたものは、必ずしも世界から消えるわけではない。

身体から排泄されたものは身体の循環から外れるが、その後は下水や河川や土壌など、別の循環へ入っていく。落ち葉は木から離れるが、土の上で分解され、微生物や植物など別の循環に加わる。そう考えると、実際に起きているのは、「循環からの排除」というより、「循環から循環への移動」なのかもしれない。ただし、「別の循環へ移せばそれでいい」ということでもない。

身体から毒物を排出しても、それを川へ流せば、今度は川の生態系という別のホロンに影響を与える。つまり重要なのは、「自分の外へ出したものが、その後どこへ行くのか」を見続けることになる。あるホロンの「外」は、別のホロンの「内」だからだ。ここから「全ホロン尊重」の「尊重」という言葉の意味も少し変わって見えてきた。

尊重するとは、すべてのホロンを保存することではない。これは何度も書いた。すべてのホロンを生き続けさせることでもない。まして、すべてのホロンの要求を受け入れることでもない。ホロンは生まれ、変化し、時には消滅する。あるホロンを守るために、別のホロンをそこから外さなければならない場合もある。それでも、その存在を「なかったこと」にする必要はない。何かを選べば、選ばれなかったものが生まれる。何かを外へ出せば、それは別の場所へ行く。

だから全ホロン尊重における「尊重」とは、「何かを変化させたり、外したり、選ばなかったりしたときにも、その存在や、その後のつながりを認識から消してしまわないこと」と言えるかもしれない。ただし、ここで循環を価値の基準にしてはいけない。

循環への寄与が小さなもの、孤立しているもの、何も生み出していないように見えるものでも、それによって尊重の程度が下がるわけではない。役に立つから尊重するのではない。循環に貢献するから尊重するのでもない。

「尊重」と「価値評価」と「処遇」は別の問題として考えたほうがいいのだろう。

もう一つ問題になるのが、ホロンの境界である。どこまでが「自分」で、どこからが「外」なのか。皮膚を境界と考えることはできる。しかし、人間の身体は腸内細菌と共生し、大気から酸素を取り込み、食物や水を絶えず外から取り入れている。社会や文化や他者との関係まで含めれば、「自分」の境界はますます曖昧になる。しかし、前にも書いたが、そもそもホロンの境界は曖昧なものなのではないか。そのホロンを包んでいる、さらに大きなホロンの状態や、どんな問題を考えているかによっても境界の意味は変わる。だとすれば、「本当の境界はどこか」を決める必要はない。

現実に何かを考えたり判断したりするためには、ある範囲をひとまず一つのホロンとして扱わなければならない場合があるから「一時的境界」を決める。「ここが絶対的な境界だ」と決めるのではない。「いま、この問題を考えるために、ひとまずここに境界を置いてみる」。状況が変われば、境界も引き直せばいい。

これは以前から考えてきた「一時的決断」とよく似ている。すべてのホロンと、その関係を把握してから決断することなど誰にもできない。だから、その時点で見えている範囲で一時的に決断する。そして結果を見て、必要なら決断を変える。境界も同じだ。一時的に境界を置き、一時的に決断し、その結果を見る。そして必要なら境界を引き直し、また考える。

ここまで考えて来たとき、「循環」だけでは少し足りないことにも気づいた。同じ問題について考え、いったん離れ、また同じところへ戻ってくることがある。しかし戻ってきたとき、以前とまったく同じ場所にいるわけではない。今回も、ホロンの境界が曖昧だという話は以前にも考えていた。それでも循環について考えた後でもう一度そこへ戻ってきたことで、「一時的境界」という新しい概念が生まれた。一周して戻ってきたけれど、少し違うところにいる。

これは単なる円ではなく、螺旋に近い。「循環+変化=螺旋」と考えることができるかもしれない。ただし、螺旋を「進歩」と同じ意味にはしたくない。螺旋は上昇するとは限らない。下降することも、横へ進むこともある。

だから、ここでいう螺旋とは、「同じところには戻らない循環」くらいに考えるのがいいだろう。世界にはたくさんのホロンがある。その境界は固定されていない。ホロンの内側にも外側にも循環があり、ある循環から外れたものは別の循環へ移っていく。その動きをすべて把握することはできない。だから一時的に境界を置き、一時的に決断し、その結果を見て、また境界を引き直す。その繰り返しの中で、考えそのものも変わっていく。円を描いて元へ戻るのではない。ぐるぐる回りながら、少しずつ違う場所へ移っていく。

全ホロン尊重という考えそのものも、そうやって螺旋を描きながら変わっていくものなのかもしれない。

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