柳田國男全集13

ちくま文庫版「柳田國男全集」13巻を読んだ。全集ものだからもちろん何冊かの本が合本されている。内容は「先祖の話」「日本の祭」「神道と民俗学」「祭礼と世間」「神道私見」「神社のこと」「人を神に祀る風習」「忌と物忌の話」「魂の行くえ」「大嘗祭ニ関スル所感」と、神道に関する話しが集められている。

この本で面白かったのは、「日本の祭の本義は籠もりにある」と書かれていたことだ。p.300にこうある。

つまりは「籠る」ということが祭の本体だったのである。すなわち本来は酒食をもって神を御もてなし申す間、一同が御前に侍坐(じざ)することがマツリであった。そうしてその神にさし上げたのと同じ食物を、末座においてともどもにたまわるのが、直会(なおらい)であったろうとわたしは思っている。ただしこのナオライの語原が、今日まだ明らかでないのだから断定し得ないが、単に供物のおろしを後に頂戴することを、直会だと思っている御社が半分ほどあるのは、どうも心得ちがいらしく思われる。果たして直会が私の想像のように、神と人との相饗(あいあえ)のことであるならば、この飲食物が極度に清潔でなければならぬと同様に、これに参列して共食の光栄に与(あず)かる人もまた十分に物忌をして、少しの穢れもない者でなければならぬのは当然の考え方で、この慎みが足りないと、神は祭りを享(う)けたまわぬのみでなく、しばしば御憤りさえあるものと考えられていた。

こちらに去年、伊勢神宮の月次祭に行った話しを書いた。月次祭のはじめに御卜(みうら)という儀式がおこなわれたのだが、それはこれからおこなわれる祭を執り行う神職を占いで決めるのだ。つまり神の御心に沿う神職が祭を執りおこなう。月次祭の中心は午後10時に豊受大神宮(外宮)にておこなわれる由貴夕大御饌祭(ゆきのゆうべのおおみけさい)と、翌日午前2時におこなわれる由貴朝大御饌祭(ゆきのあしたのおおみけさい)、そして正午の奉幣(ほうへい)の儀にあると考えられる。なぜ由貴夕大御饌祭と由貴朝大御饌祭が夜中におこなわれるのか不思議だったが、その理由については吉野裕子女史が全集の2巻、3巻あたりから書いている。とても面白い話だったので伊勢神宮や神道に興味のある人は読むことを勧めます。当たり前と言えば当たり前だが、かつての日本で祭は神につながる方法だった。

さて、僕が何を言いたいかというと、ここから生まれる言いたいことは三つある。ひとつはバリ島のニュピについて。ひとつは日本にとっての祭について。そして、最後に僕たちにとって天皇とは何であろうかということだ。これらをこのひとつのエントリーに全部を書くのは無理なので、今回はニュピについてだけ書こうと思う。あとのふたつは折を見て書いていくつもりだ。

柳田國男はこの本の中で、特に具体的にどのようにして神につながるかを書いてはいない。その代わりこう書いている。

古い信仰感覚には言葉がないために、女や子供には精確に学ぶことができない。少しくその記憶を具体的にしようとすると、こういう下駄に焼印というような、ただ片端の特に印象の深い一点を抽(ぬ)き出して、話題に上すの他はないのであった。人がその本旨を体得するために一生涯を費やさないと、もしくは考え深い年長者がその伝承に参与しないと、新しい文化に取り残される結果に帰するのである。いわゆるインテリ層の人々が子供の頃に家を離れ、国民の伝統を省みる機会を与えられなかったということは、必ずしも物忌の問題には限らず、あらゆる生活の規準の保存に関して、ちっとやそっとの損失ではないのである。

つまり、物忌みでどのように神と侍坐したかはもう知りようがないが、このようにして大切な文化が失われていると言うことだ。

神とつながることが大切な文化であるかどうかはいろいろな意見があると思うが、それがどのようなことかを知っている人がいることは大切なことだ。すべての人がそれをする必要はないかもしれないが、なぜそのようなことが起こり、長きにわたって維持持続されてきたのかを知ることには誰も反対はしないだろう。僕は1999年から、2001年、2003年、2004年、2005年、2006年、2007年、2008年と八回にわたりバリ島のニュピというお祭りに参加してきた。その祭が柳田國男のいう「籠り」に近いものだと思う。なにしろその日、バリ島では一切の交通機関が停止する。車やオートバイはもちろん、飛行機や船もだ。バリ島の人々はその日一切外出しない。外に出ると見つかれば罰金が科せられる。それほど厳格に「籠り」をおこなっているのだ。なぜそれがおこなわれるのか、旅行ガイドなどには神話的な話しが書かれている。

悪鬼たちが天界の掃除日に合わせて地上に降ろされる。降りてきた悪鬼たちを天界に返す日がオゴオゴ、その翌日の清められた地上でおこなわれるのがニュピ。

オゴオゴはニュピの前日、日が沈んだ頃からおこなわれる。バリ島各地の大きな街でオゴオゴと呼ばれる、ねぶた祭のねぶたのように大きな鬼の像を引き回す。

(もともとはこのような像を引き回すところは少なく、地方によってオゴオゴのおこなわれ方はいろいろであった。しかし、地方によっては火を投げ合うような危険な祭をするところもあったので、それをこの30〜40年のあいだに統一したようだ。

この祭を通して、天界からやってきた悪鬼に供物を捧げることで天界に帰ってもらう。そして、その深夜からニュピが始まる。

いまではニュピを厳格にやっているところはあまりないようだ。近代化の結果、バリでも祭の本義が失われつつあるのかもしれない。なぜそのように感じるかというと、1999年に見たオゴオゴは真っ暗闇のなかを男たちが大きなオゴオゴを引き回していた。左の写真は1999年当時のものだ。この写真では明るく見えるが、この写真はASA1600のフィルムを増感したためにこのように見えるのであって、実際にはフラッシュをたいた一瞬だけ輪郭がわかるという程度にしか見えなかった。後ろで輝いている黄色い灯りも十ワット程度の暗い明かりで、オゴオゴの位置は辛うじて、目に豆電球が入っているので、それを頼りに知った程度だった。だから現地の人たちはみんな松明を手にしてオゴオゴがおこなわれる場所まで来ていた。しかし、2008年にもなると暗い場所は一掃され、オゴオゴは照明に照らし出され、DJがオゴオゴを作った人たちなどを軽快に紹介していた。宗教儀式と言うよりはイベントになっていた。下が2008年のオゴオゴだ。ASA400で撮っても十分写るほど明るい。

それから、ニュピでは料理が禁止されているはずにもかかわらず、街中に滞在していると時々調理しているいい匂いが立ち上ってきた。

日本と同じように次第にバリの文化は失われていくのかもしれない)

オゴオゴが終わり悪鬼が天界に帰ると深夜からニュピが始まる。ニュピではみんな家に籠もり、翌々日の朝まで静かにしている。「ニュピ」とは「火を消す」という意味だという。心の火を消し、かまどの火を消し、静かにしているのがニュピなのだ。

僕は毎回ニュピの日をアナック・アグン・グデ・ラーマ・ダレムさん(以下ラーマさんと呼ぶ)と過ごす。プリアタン村プリ・カレラン家の王様である。祖父が有名なマンダラ翁である。マンダラ翁は1931年、楽団グヌンサリを率いてフランス・パリの植民地博覧会で世界ではじめてバリ島以外でガムランを演奏した。ラーマさんはその孫であり、日本語も堪能だ。そこに滞在することで「バリ式籠もり」を体験してきた。

それによってわかったのは、ニュピを過ごすことによって生まれてくる変性意識状態だった。一日半も食事をしないでいれば、通常の意識から切り替わる。しかし、ラーマさんとやったニュピはそれに断眠を加えた。ニュピの前日に起きたら、その日の深夜からニュピになり、翌々朝まで起きているのだから二晩徹夜することになる。この体験は強烈だ。ニュピの朝にはすでに徹夜しているので、静かな中で瞑想していると、夢なのか想像なのかわからないものを見るようになる。そのなかで自分との(考え方によっては神との)対話が始まる。

柳田國男が指摘しているのは直会が大切であることだが、もし神との侍坐が大切であるとするなら、その前の禊ぎも大切なのだろうと僕は思う。禊ぎのポイントは冷たい水に入ることではないだろうか。冷たい水に入ることで血管の収縮が起こり、脳への血流が制限される。それが変性意識状態を生み出しやすくするのではないかと思う。つまり日本の祭で一番大切だったのは、「神との侍坐」と柳田國男は書いているが、それは変性意識状態になることだったのではないかと思うのだ。

このエントリーの続き「変性意識と祭」はこちら。

ニュピについて

小説『昴』を読んだ

このパーティーでいただいた小説『昴』を読んだ。

この小説を読みながらいくつものシンクロニシティを感じた、「マカリイ」に関してはこちらに書いたが、ほかにも「太一」「諸葛孔明」「月震」などに僕は響いた。

「太一」については先日読んだ吉野裕子女史の本に登場する。「諸葛孔明」というのはひさしぶりにあるイベントの内覧会で大島京子さんに会ったら、諸葛孔明がしていたという占術に話しが及び、そのことをいろいろと教わっていたのだ。「月震」は月が中空になっていて、表面で大きな振動を与えると、鐘のように響き続けるという話しだ。これはかつてその研究をするためにNASAから機材発注を受けた会社の人から話を聞いた。

どの話も僕個人に起きたことで、すべての人に関係あるわけではないが、小説『昴』はそのようなゆるい関係性を信じる人のために書かれた小説だと思う。ハリウッド映画のように観ている者、読んでいる者を結末に追い込む作品ではなく、縁(えにし)の妙を楽しむことができる人に許される仕掛けが凝らされている。

たとえば小説『昴』には紅白二本のスリップ(しおりのための細い紐)がついている。小説に二本のスリップは珍しい。しかも紅白だ。なぜだろうと思いながら読んでいると、小説の中にそのヒントのような話しが登場する。しかし、その話しもこの本の装丁とどう関係あるのか、具体的には明かされない。ニュアンスの網の目に読者は誘(いざな)われる。

谷村氏は作詞をするのでニュアンスにとてもこだわるのだろう。一言一言はごくありふれた言葉だが、いくつかの要素に支えられてある言葉が登場すると、その言葉はもとの言葉以上の意味を持つ。なので読み始めたときには面白さがよくわからなかったが、読み進めるうちにいろんなことが見えてきた。

『昴』 谷村新司著 KKベストセラーズ

扇の奥義

今年は月次祭、祇園祭、ねぶた祭と、大きなお祭りを三つも見ることができた。どのお祭りでもどこかで必ず扇子をもらった。お祭りと扇子は付きものなのだろうか? と思っていたら、書店で吉野裕子(よしのひろこ)全集を見つけ、第一巻の最初に「扇」という民俗学論文が載っていたので買って読んだ。

普通であれば俗説ではないかと思われることを丁寧に調べて書いてある。全集を全部読んでしまおうかという気になってきた。それほど面白い。著者は50歳になってから扇について調べ始め、本を書き、六十歳を過ぎて東京教育(筑波)大学の博士号を取得すると書かれていた。

現在の神道は性的なことが隠されて、もともとの意味がわからなくなっているものが多いが、その本によれば、昔は陰と陽とその交わるところに神が降りてくると考えられていた。バリ島で教えてもらった価値観とそっくりなので驚いた。

沖縄の蒲葵(びろう)から話しが始まり、扇は日本が起源にもかかわらず、どのように作られたか、どのように使うかのしきたりなど、知っている人がほとんどいないということで、吉野女史は扇に関連する祭を調べて回る。すると沖縄を軸にして次第に扇の意味、神道のかつての形が現れてくる。

ここでは丁寧な説明はできないので、興味のある人は原文を読んで欲しいのだが、いくつもある扇と神との関係の話のなかで、なるほどと思ったのがミテグラの話しだった。まとめることに問題を感じるが、端的に書くとこうだ。

祝詞などに登場するミテグラという言葉を吉野女史は二種類の意味があるといっている。ひとつは「貴重な神への進献物」、もうひとつが「両掌に捧げられた神聖な神降臨の道が開かれるところ」だそうだ。桃の節句のお雛様が扇を両手で持っているが、あの形がミテグラで、そこが神への道の入口となると言うことだ。だとすればお祭りで扇を持つことの意味が明確になる。扇を持っていれば誰のところにも神はやってくる。両手の平で作ったくぼみが陰を象徴し、そのあいだにはさんだ扇が陽を象徴する。そこは胎児が生まれる場所であり、死んだ魂が帰るところである。

 

この本の中で三角形が象徴するのは母胎であることが示される。死んだ人がかつて頭に巻かれた三角の白い布は、死んで母胎に回帰することを示していたそうだ。

ところで、昨日たまたまテレビをつけたら、トンカラリンのことが放送されていた。トンカラリンは熊本にある遺跡。

詳しいことはここに書かれている。

http://inoues.net/ruins/tonkararin.html

ここを通ると幼い頃に見た夢を思い出したと茂木健一郎氏がBlogに書いている。その夢は参道を通ってきた記憶のようだとも書いている。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/10/post_819c.html

この遺跡のなかを通っていくと、途中、岩に三角がたくさん彫られているところがあるそうだ。その三角と吉野裕子女史が書いた三角は同じ物なのではないかと感じた。もしそうだとすると、やはりトンカラリンは胎内回帰の体験をさせるための装置なのでは?と、勝手に推測した。もしそうだとしたら興味がある。「胎内記憶」を出版して以来、その話しにはどうしても興味を持ってしまう。そのことと、バリ島、そして神道がつながるってのがいとおかし。

ニュピが疑似臨死体験をさせてくれることについていつか本にするつもりだが、それに神道も関わりがあるとすると、もっと面白いことになりそうだ。

バリと日本の文化の繋がりについて表すことになるのか、隔たった場所でも人間という動物が、どの地域にいても共通して持つ感覚として胎内記憶を見るのか、おそらく両方の要素が複雑に絡むのだろうが、明確にすることができたらいいのにと思う。