門松の話

正月にここに何かを書こうと思い、さてなにを書こうかと考え、門松について書いてみようと思い立った。門松とはいったい何か? どこかであれは歳神様の依り代だと聞いた。もしそれが本当であるなら、バリ島のペンジョールに似ているなと思い、いつかきちんと調べようと思っていた。ペンジョールとはバリ島でお祭りの際に、神様が降りてくる目印として立てる高い竹竿のことを言う。竿はまっすぐ立て、先をしのらせ、その先に鳥や燈籠の作り物を吊るす。祭の日にはペンジョールが並び、とても壮観な状態になる。

ウィキペティアを見ると、門松はやはり年神を家に迎え入れる依り代と書かれている。根拠は何だろうと思い、そこに書かれていた引用文献を見ると、三冊は比較的新しい本だったが、一冊だけ『守貞謾稿』が上げられていた。これだなと思い、さっそく調べた。
ところが、そこには依り代だという話は出てこない。門松の由来はよくわからないと書かれている。あえて言うとするならと断わり書きして、かつて宮城(おおうち)の中門外に大楯槍(おおたてほこ)を立てていた。大礼のときも立てたが、年首に立てるのが通例となっていた。それまで大楯槍を担当していた石上、榎井の二氏がいい加減だったため、以来大伴宿禰牛養と佐伯宿禰常人が大楯槍を立てるようになったと聖武紀に書かれており、これによって田舎でそれをまねて門戸ごとに松を立てるようになったのではないかと書かれている。

同書に続けて、昔、道によくあった石神や、古木などに注連縄をして祭ることが習俗であり、正月にはことに神を祭り、なんでも祝ぐものだったので、大楯槍の代わりに松を使い、これを石神・樹神(こたま)に象って注連を引き巡らせて各門に立てたのではないかとも書かれている。

門松が依り代であるかどうかを調べて、ほかの文献にもあたってみた。

江戸の頃の門松は、そのまま松を立て、そこに注連縄を巡らせたものが多かったが、現代に多い、竹が三本真ん中に入り、しかも斜めに鋭く切り落としてあるものには由来があることを、三田村鳶魚の文章に見つけた。『江戸の春秋』という本の「お大名の松飾り」という章に鳶魚はこんなことを書いている。

二百六十八大名のうちでただ一軒、徳川家から門松を拝領していた大名がいた。浜町の安藤対馬守である。奥州磐城平、五百万石の小諸侯だが、ここだけが門松を拝領していた。その理由が江戸らしくていい。かつて家康公が、安藤家の祖対馬守重信と大晦日に囲碁をした。何度対局しても家康公が負けるため「そろそろ帰って松飾りをしたい」と申し出ても、家康公は「松飾りは誰かに持たせるからもう一局」と頑として譲らない。仕方なくもう一局して、やっと負けたので帰っていった。屋敷に戻ると立派な飾り松があったという。以下はその後の文章をそのまま引用しよう。

この時から同家は門松拝領が定例になり、年ごとの十二月二十五日に、かざり松、注連縄の類まで取り揃え、車に積んで、御徒目付(おかちめつけ)・御小人(おこびと)等が両三人付き添い、安藤家上屋敷の表門を開かせ、拝領の品々は、人足が玄関の下座敷へ運び込む。安藤家では、家来の面々が、麻上下(あさがみしも)着用で出迎えて請け取り、御小人は別席へ通して、古例の饗応がある。酒は銅の燗鍋(かんなべ)で出し、肴は焼味噌一種、その後に目録を呈す、勿論人足に至るまで一々祝儀を与える。この拝領の松飾りはまったく柳営(将軍家のもの)のと同じで、立派なものではない。目立って違うのは竹で、どこのも葉つきであるのに、徳川家では竹束といって弾丸除にするその竹を、三河以来正月の飾りに用いられる例であったから、葉つきでなく、のみならず、殺ぎ竹であった。安藤家はその拝領の松飾りを、表門外と玄関前に立てた。大名は家々の風で、松飾りもいろいろあったが、柳営と同じな松飾り、それを年ごとに拝領する、また拝領物をすれば、御礼のために、老中・若年寄の屋敷屋敷を挨拶に回る掟であったが、門松拝領に限って、安藤家はこの回礼をしない例であったなどと、その藩中の大味噌だった。
『三田村鳶魚全集 第九巻 お大名の松飾り』より

竹束とは、戦で火縄銃を使うようになると、それまでの楯では打ち抜かれてしまうので、竹の束を楯として使うようになった、それのことをいう。松飾りの真ん中に火縄銃用の楯が置いてあるなんて驚きである。しかし、もう少し調べるとニュアンスが微妙に違うことがわかる。この文に出てくる殺ぎ竹の由来は、さらに調べた江馬務著作集第九巻『風流と習俗』に見つけた。

(松飾りは)幕府城内は松を立て、竹を両側から挟み、更にその左右に竹を二本、少し離れて立て、縄で括る。又江戸武家・大店には松竹を立て、その竹に更に竹を横たへ注連をかけることもあり、これこそ門松の中、最も進歩し且つ華美となった形式で、江戸時代末葉の特徴を示してゐる。而して門松に用ふる竹は昔から必ず頭を斜めに切ることになってゐるが、この由来は元亀三年(1572)の頃、家康が浜松にある時、甲斐の武田信玄と合戦し、敗軍して浜松に帰城の時、甲州方攻め来たり門が開かれるを見て反って計略ありとて逃げ帰った。その翌年元旦、敵方から、

松かれて竹たぐひなき旦哉

と贈つてきた。松は松平で徳川家をいふ。然るに酒井忠次は、家康不興の体を見て、これを、

松かれて竹だくびなき旦哉

と直したので、大いに面目を施した。それで松飾りの竹は武田の首を切ったのであるといつてゐるが、勿論、一笑話柄に過ぎないだろう。
『江馬務著作集第九巻『風流と習俗』 「門松の研究」』より

門松にはなぜ竹があるのかと子供に聞かれて「めでたい松竹梅が入っているから」と答えるのに、この話も添えると、ちょっと鼻高々になれるかも。

さて脱線したが、依り代のことをさらに調べる。ここに引用した「門松の研究」に江馬は六つの説を上げ論じている。

1.素戔鳴尊が一夜の宿を巨旦将来に頼んだが断られたので、怒って将来を殺してしまった。その墓に松を立てたのが門松の起源。

2.守貞謾稿に出ていた話。昔、元旦に宮城の中と門外に大楯槍を立てた。古来石神・古樹を祀るごとく正月には万寿ぐものだから、正月に松を立てて石神・樹神を象り、注連を引き祀ったという説。曲亭馬琴の『玄同方言』に書かれているとのこと。

3.門松は支那の模倣であるという説。『倭訓栞』に書かれている。

4.山本信哉の「門松の起原」という論文に行幸啓を迎え奉るとき、神輿の渡御を迎えるような場合に、臣庶の弊屋を覆い、門前を清めるために松を飾ったという説。

5.三田史学会で昭和三年三月に発表された中島諫の論文「門松と松門」にある説。昔は榊を立てたが、松を焼く松囃子の流行で松に立て代えることになったとするもの。松は支那では墓所の門に用いたものであるから、門松は誠に冥土の旅の一里塚であると論じている。

6.松は嘉木であるため門前に立てるという説。『世諺問答』『年中行事秘録』などではこの説を使っている。

これらを述べた上で江馬は「門松を立てる思想は単純なるものではないことで、私は一は唐土の模倣、二は装飾、三は松の嘉樹なること、四は松以外の木は松から変化したものと断じたいのである」と書いている。そしてその章の最後に「かく松が千年の寿を伴ひ、齢を若やがすものなりと考へられしにより、正月の始に門戸に挿して一家の長寿を祈りしにはあらざるか。而してこの事は、漸次、装飾化して、松樹を立てることとなつたのに相違はない」としている。

いよいよ依り代であることから離れてしまった。結局、今回調べた文献には、門松が依り代であることが書かれているものはなかった。ウィキペディアに引用文献として掲載されている以下の三冊を調べるしかなさそうだ。

『ビジュアル百科江戸事情第一巻生活編』樋口清之監NHKデータ情報部編雄山閣出版
『江戸年中行事図聚』三谷一馬著立風書房
『江戸の庶民行事事典』渡辺信一郎著東京堂出版

しかし、どれも江戸の文化について書いているものなので、門松の由来はここにはないと思われる。江戸時代に門松がどう考えられていたかはわかるが、それが果たして由来と同一のものかはかなり疑問だ。

この続きがこちらにあります。

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