『ヒマラヤの叡智が未来を拓く』に参加して その3 なぜヨグマタジやパイロットババジがヒマラヤから降りてきたのか

バリ島にニュピというお祭りがある。その祭は世界的にも珍しく、何もしない祭だ。その日、バリ島の人々はすべて外出を禁止され、家の中に籠もる。だから車は走らないし飛行機も飛ばない。船も出入港を制限される。その話を聞いたとき、お正月の三が日を思い出した。僕が幼い頃の三が日は商店などがすべてお休みの静かな日だった。そのときの感覚を思い出すことができるかもしれないと、1999年から何度もニュピに通った。幸運にも僕はウブドのプリアタン村のプリカレラン王家にホームステイさせてもらった。そこでニュピを過ごす。はじめのうちはニュピの意味もわからず、とにかくその雰囲気に浸りたいから行っていたに過ぎないが、次第にニュピの意味が見えてきた。そのときのことはこちらに少し書いた。

 

これからも度々書くだろうし、すでに本一冊以上の文章量になっているのでいつか出版するつもりだ。ニュピについての詳細はそれらを読んでいただくことにして、そこで知った様々なことがいま失われつつある。

 

ニュピの日、バリ人はみんな断食したというのだが、いまではそれを厳格に守っている人はあまりいない。ニュピの翌日はゲンバッグウニという日で、かつて商店などほとんど営業していなかったのだが、いまでは24時間営業の店舗が多数営業している。それらに対してバリ島の僧侶たちはたしなめるが、なかなか聞き入れてもらえなくなってきているようだ。何しろ多くの人にとって便利で儲かるのが一番だから。近年では近隣の島からバリ島へ、観光客目当てで働きに来る人が多くなった。そのような人たちはバリ島の僧侶に耳など貸さない。バリ島民もそのような人たちに少しずつ影響されてしまう。神に礼拝もせず、祭礼のしきたりを無視している人たちが幸せそうにそばで生きているのだから。

 

似たことがインドにも起きているのだろうと思う。

 

インドではIT産業の興隆などによって裕福な人が増えた。裕福な人が増えたことで多くの人の価値観は宗教的なことからもっと別なところへと移っていくだろう。宗教的な価値観を維持したい人にとってはあまりいい時代とは言えない。しかしいっぽうで別の見方をすると、そのような人たちにとっていまは大きなチャンスの時代でもある。なぜなら、そのような人たちは昔ある地域に縛られていた。物理的に移動する手段がなかったから、ある地域に生き、その価値観を根付かせ、文化として花開かせる必要があった。ところがこのグローバルな時代になると地域に縛られる必要は薄くなる。その教えを守って維持してくれる人を探して世界中を旅したり、メディアを通じて教えを伝えることができるのだから。

 

ヒマラヤの聖者たちはインドや世界の変化を察知した。なにしろインドから遠く離れた日本から、ひとりの女性が教えを乞いにヒマラヤの奥地にまで入って来たのだ。しかも、直接の教えを施さなくてもあるレベルに達していた。ヒマラヤ近郊でなくても、ヒマラヤの教えに興味を持つ人たちが現れ、高いレベルでその教えを受け入れていることを知った。その結果として相川圭子はヨグマタとなった。

 

ヨグマタジとパイロットババジはヒマラヤの教えをきちんと存続させるため、ヒマラヤに籠もっているより世界に出て行って、教えを伝えるべき相手を探すことを選択した。これはヒマラヤから遠く離れた人にとってはいいことだ。以前では得ることのできなかった崇高な教えに直接接する機会が生まれたのだから。

 

かつてチベット仏教はラマ教などと呼ばれ、かなり特殊な仏教の亜種と考えられていたことがある。しかし、ダライ・ラマ法王が中国を追われ、インドに亡命すると、その教えが徐々にメディアを通して世界に流通するようになり、結果としてチベット仏教の本当の意味をチベットやインドから遠く離れた多くの人たちが知るようになる。ヒマラヤの教えもインドの奥地からヨグマダジやパイロットババジのおかげで日本やアメリカなどに伝わり、その本当の意味に目覚める人が現れるのだろう。

 

ヒマラヤの教えについては、まだあまり知見が深くないので推測の域を出ないのだが、チベット仏教に近いものを感じる。儀式の形態は明らかに違うが、考え方の根本に多くの存在を包み込む共通した概念があるように感じる。言葉が違ったり、儀式が違ったり、人間の尺度から見て違うことがいくつかあると、僕たちはそれらを違う物と判断せざるを得ないが、もっと大きな存在から見れば共通した何かがそこにはあるように感じる。

 

二度目のインタビューのとき、パイロットババジはこんなことを言った。

 

「ヒマラヤの教えを正しく受け取れる可能性が高いのは日本人だと思う。欧米人はあらゆる価値をお金に換算してしまう。日本人は尊いものがお金に換算できないことを知っているし、そのことを行動に示してくれる。特に今回の震災で日本人は世界に、我欲では行動しないという規範を示してくれた」

 

いまはきっと時代の転換点なのだろう。深い叡智の伝承も、かつての方法とは変えなければならないのかもしれない。

 

ヨグマタジはヒマラヤに行き、比較的短い時間で悟りに達した。その理由としてヨグマタジは、悟りに達するために積み重ねなければならない多くの体験と学びを若い頃からのヨガの修行と「相川圭子総合ヨガ健康協会」を運営することですでに積んでいたのだろう。僕たちはいま、メディアでつながり、世界中の尊い教えを享受できるようになった。最後の最高点に達するためにはメディアでは伝えられない部分を習得・体験する必要があるだろう。しかし言い方を変えれば、メディアのおかげで遙か遠くの聖者に会わずとも、ある程度まではそこに近づくことができるということではないか。そのことをヨグマタジは身をもって示してくれたのだと思う。

 

『ヒマラヤの叡智が未来を拓く』に参加して その1 静寂から生まれ静寂へと消える はこちら。

救急車のアナウンス

氷川台駅のそばを歩いていたら救急車が通った。

「はい、救急車が通ります。危ないですからしばらくお待ちください。はい、ご協力ありがとうございます。しばらくお待ちください。そこのかた、歩道に上がってください。ご協力ありがとうございます」

「ん?」と思い、湧き出てきた違和感の正体を探った。

以前は救急車が通るとき、ほとんどアナウンスはなかった。あったとしたらこんなものだった。

「はい、救急車です。どいてどいて。そこあぶないよ。はい、どうも」

そっけもなにもなかった。救急車のアナウンスが丁寧になるのは良いことなのだろうか? 救急車が優先的に通っていくことの常識が失われているのではないかと疑ってしまう。以前のようなアナウンスをするとクレームでも来るのだろうか? 救急車がかつてのようなアナウンスができたのは、救急車には急患が乗っていて、もし少しでも遅れたら命に危険があるかもしれないという前提があるからだ。命より大切な物はないという前提共有があるからみんな救急車が来ると黙ってどいた。救急車の隊員もそれが当然と思っていたから「どいてどいて」ですんだのだと思う。ところがいまでは「危ないですからしばらくお待ちください。ご協力ありがとうございます」だ。まるで歩行者をお客様扱い。そこには人としての繋がりが失われている。命を救うため一刻を争うときに「どいて」では済まず、「危険ですからしばらくお待ちください」と言わなければならないとしたら、救急車に乗っている急患のなんと命の軽いことかと思ってしまう。

先日、平野復興相が「私の高校の同級生のように逃げなかったバカなやつがいた」と言ってメディアで叩かれていたが、あれも前後関係を考えれば、よほど仲の良かった同級生だったことが推測される。その仲の良かった同級生が逃げずにいたから「バカ」といいたくなったのだし、愛しい感覚がなかったら「バカ」とも言えない。その前提での「バカ」であろうと推測できる。でも、平野復興相の言葉にも少し微妙な点がある。それは「私の高校の同級生のように」の「ように」だ。これでは「バカなやつ」は高校の同級生ひとりだけとは感じにくい。逃げなかった人たちみんなを「バカ」と言っているように聞こえてしまう。 だけどわざわざ逃げなかったひとたち全員をバカ呼ばわりする必然性はないので、善意で解釈して「愛しい同級生をバカと呼んでいる」と僕は解釈した。

特定の関係性があるからこそ言える言葉がある。その特定の関係性をとても大切に扱うのが日本語だ。なにしろ古典では関係性だけで主語が誰だかわかったのだから。現代では主語を丁寧に入れて、誰もが理解できる聞きやすい言葉ばかり使うので、かつて明言されなくても把握できた関係性がわかりにくくなってきているのではないだろうか? その延長線上に、救急車のアナウンスの違和感が生まれるのではないかと推測する。もし救急車の隊員に丁寧な言葉を使わせようとする人がいるとしたら、その人は何を思ってそれを使わせようとするのだろうか?

しかし、視点を変えると別のことも考えられる。それは救急車の隊員が自発的に丁寧な言葉を使っている場合だ。「どいてどいて」では、歩行者のなかには不快になる人がいるかもしれないと思い、隊員が自発的に「ありがとうございます」と言っているのだとしたら、それはとても素敵なこと。違和感を感じてしまった僕の未熟さを知るばかりだ。

この危機に際してどうすべきなのか

少し大袈裟なことを書きます。恐怖を煽るつもりはありません。冷静な判断をする材料にして下さい。

311以来、日本は戦後最大の危機に瀕している。にもかかわらず政府からは明確な指針が示されていない。なぜ指針が示されないかと言えば、あまりにもこの危機が深刻だからだ。下手をしたら日本自体が失われかねない。

ネット上では政治家や一部資産家の欲得で政治が動かされているというが、いまとなってはそれも正しくはないだろう。状況がはっきりすればはっきりするほど、逃げ場がないことがわかってくる。

放射能の影響はたいしたことではないと言う人がいるが、それは信じられない。海外の情報を直接入手すればそれはすぐにわかる。では、なぜたいした影響ではないと政府は言い続けるのか。かなりの影響が出ると宣言し、対処するには、準備が整わないからだ。どんな準備か、それは日本という国が失われないための準備だ。

福島から首都圏にかけて、もしごっそりと人がいなくなったら日本はその機能を失いかねない。それは政治家としてはなんとしても避けなければならないことだ。政治家は個人を活かして全体も活かしたいと思っているに違いない。しかし、それが難しい状況になってきている。全体を活かすためには個人の犠牲はある程度やむを得ない。しかし、それを明言することはできない。僕がこんなことを発言してもたいして重要視されない。立場的に弱い者だから。だからこうして正直に書いてもたいした問題にはならない。しかし、政治家が同じ発言をしたらどうなってしまうのか、少し想像すればわかる。

たとえば、原発をすべて停止すると言ったとしよう。するとそこで働いていた人たちは職を失う。原発が存在するためにまわっていたお金がまわらなくなる。それが止まると別のところに影響が出るだろう。原発を受け入れている自治体は、かなりの補助金をもらい、働かなくてもお金がもらえる。そのお金で様々なことが設計されているので、おいそれとそれを手放すことができない。だから原発を守ろうとする。しかし、そのような人たちも代替案を考えなければならない時が来た。地球全体がうっすらと放射性物質にまみれ、健康な状態で生きるのは難しい場所になってしまう。リーダーがそれを宣言しない限り、どこにも行けないだろう。

日本がひとつの人格で、そこに住む人間が細胞だとすると、311まではそれぞれの部位で細胞は適切に働いていた。しかし、311によって細胞のひとつひとつが存在の危機に瀕している。細胞が生き延びるためには原発事故が起きた場所から遠く離れなければならない。しかし、すべての細胞が離れていくと、細胞が形作っていた臓器が失われてしまう。臓器を失うと人は生きていけない。だから政府は細胞が逃げることを避けるような情報を流す。このようなことをするのは日本以外の国であれば適切なことだろう。しかし、日本は少し違うような気がする。政府は国民をもっと信頼すべきだ。

いまの状況で誰が考えても適切であると思えるのは、まず子供と将来子供を産む女性を政府のお金で疎開させることだ。これが一番大切であるとなぜ判断できないのか、それがよくわからない。その上で、いまわかっている原発関係の情報をすべて開示する。それから、それに連動するであろう経済・防衛関係の情報も。とても厖大な情報があるだろう。それを開示して、多くの人に理解させる時間を取る。その上で、日本の国民にそれぞれの判断を委ねる。もちろん命が惜しくて逃げていく人もいるだろう。その人にはそのようにしてもらえばいい。しかし、日本を守りたいと思う多くの大人は、日本に残ることを選択すると思う。これは自由意志に委ねなければならない。逃げていきたい人は逃げて行かせて上げよう。そして残った人だけで日本を再建する。

もし逃げる人があまりにもたくさんいたら、日本は失われる。そうなると他の国がこの土地を乗っ取るためにやってくるかもしれない。もしそうなったら、日本はそのような国でしかなかったということだ。しかし、日本人の大人の多くは、この国に残って復興するために尽力するだろう。きちんとその選択の機会を与えるべきではないだろうか。その代わり、その人たちはうっすらと内部被曝を起こす。

いま僕たちはすでにうっすら内部被曝の状態だ。それに黙って耐えている。その抑圧状況は何年か後に別の問題として噴出するだろう。その前にきちんと宣言し、選択し、自らの意志で対処していく機会がないと、多くの人が心の内部被曝被害に遭うことになる。

この7ヶ月でほとんどの人の準備は整ったと思う。政府が指針を示せば、一挙に状況は変化するだろう。もちろん多少の混乱は起きる。その混乱を覚悟する必要があるのはもちろんのことだ。しかし、そのあとの被害を考えれば、その混乱はたいしたことではないだろう。

もし原発の処理がうまく行かず、このまま曖昧な状態が続けば、心とからだの内部被曝が続いていく。もし政治家が賢いなら、311から一年後くらいにはなんらかの手が打たれるのではないかと勝手に想像している。しかし、一年経つとかなりの内部被曝が進行するだろう。その前に手を打った方がいいと思う。一番愚かなのは、このまま何もせず時を待つこと。放置しておけばのちのち様々な問題が浮上してくるだろう。なにも起きなければいいのだが。