クロールで長くゆっくり泳ぐには

このところプールに行くと一時間に2kmずつ泳いでいる。そのコツはゆっくり泳ぐこと。水泳について習ったこともないし、プロでもないので、僕の経験でしか書けないけど、どのようにして2km泳ぐようになったのか、それを書いてみよう。

2009年10月頃から泳ぎ始めたが、その頃はクロールで50m泳ぐのが大変だった。その頃に書いた文がここにある。

そんな状態だから一時間に2kmも泳げるようになるとは思ってなかった。そうなったらいいなとは思ったのかもしれないが、そう思う前に楽に100m泳ぎたかった。

もう一年半前のことなので記憶が少し曖昧だが、最初のうちは50mクロールしたら、少し休んで50m平泳ぎしていた。大学生のときに体育の時間に水泳を取り、平泳ぎでは何キロか泳げるようになっていた。だから平泳ぎするのはあまり苦ではない。しかし、当時は20歳代、40半ば過ぎとは体力が違う。50mずつ1kmも泳げば疲れた。いつかトライアスロンをしたいと思っていたので、数キロ楽に泳げるようになりたいという願望はあったが、それが実現するかどうかはよくわからなかった。特にクロールは、数100m泳ぐと疲れて腕が上がりにくくなった。とても数キロ泳げるとは思えない。

だけど、そのとき役に立ったのはマラソンの経験だった。しばらくジョギングを続けていた。はじめは4km走って死にそうに疲れたけど、結局フルマラソンが走れるようになった。そのときの方法と同じようにして泳げばいいと思った。その方法は、楽に走れる距離と速度で満足すること。

若い頃であれば少し無理して筋肉が疲れるまで酷使して、一週間もすれば筋肉が強化された実感があった。しかし、歳を取るとそうはならない。無理すると長く休むことになり、休んでいる間に以前出来たこともできなくなる。そこでやるべきことは、「無理をしない」「一定の間隔で運動する」「気持ちよくできる範囲でやめる」だ。これを守れば若いときのように発達はしないが、少しずつ運動できるようになっていく。

同じように水泳もしようと思った。だから、少しずつクロールで泳げる距離を増やしていった。こんなふうだ。

50mクロール×10回 50m平泳ぎ×10回 合計1000m

これを何度か繰り返し、調子いいなと思ったときに距離を伸ばす。

50mクロール×15回 50m平泳ぎ×15回 合計1500m

あとは組み合わせと距離をその時々の調子に合わせて増減させる。

50mクロール×20回 50m平泳ぎ×10回 合計1500m

100mクロール×10回 50m平泳ぎ×10回 合計1500m

50mクロール×20回 50m平泳ぎ×20回 合計2000m

100mクロール×10回 100m平泳ぎ×10回 合計2000m

200mクロール×5回 200m平泳ぎ×5回 合計2000m

このあたりから意識的にクロールを増やしていく。

200mクロール×8回 200m平泳ぎ×2回 合計2000m

200mクロール×10回 合計2000m

400mクロール×5回 合計2000m

500mクロール×4回 合計2000m

1000mクロール×2回 合計2000m

そしてこの5月にやっと2kmをクロールで休まずに泳ぐことができるようになった。一年半かかった。でも言いようによっては一年半でできるようになった。

たぶんジョギングの経験がなければ続かなかったのではないかと思う。

距離としてはこのように少しずつ増やしたが、そのあいだにいろいろと学ぶことになる。

ゆっくり泳ぐのに必要だったのは、僕の場合は焦りを手放すことだった。書くと簡単だが、からだが納得するのに時間がかかった。クロールをしているとなぜか一生懸命泳いでしまう。子供の頃に最初に覚えた泳ぎ方がクロールだった。そのせいか、泳いでいる最中に僕の心は子供の頃に戻っていたようだ。

「速く掻かないと溺れてしまう」

こうはっきりと意識していた訳でもないが、からだが反応としてそのようにしてしまう。まっすぐからだを伸ばしていれば沈まないことを知っているのに、反射的にする動作は次第に「必死に掻く」ようになってしまう。気がつくと必死に掻いているので、そうなっていたらゆっくりと掻くことを心がけた。そしてからだのまわりに流れていく水に意識を向けるようになった。実際に水がわかる訳ではないだろうが、イメージとして流れていることを感じることができる。それを感じる。足の掻き方などに無理があると抵抗が生じる。それを感じる。そんなことを繰り返していくうちに楽に泳げるようになった。

でも、今でも時々呼吸が苦しいと感じることがある。そのときには息をたくさん吐いたり、わざと吸う息を少なくしたりして調節する。僕の場合、呼吸が苦しいのは、溺れる恐怖からか、たくさんの空気を吸い過ぎることにある。だから、わざと息を浅くする。そうすると楽になる。

それからプールが混んでいることを利用すること。ゆっくり泳ぐ人のうしろを泳いでいく。このときにゆっくり泳ぐことを学ぶ。ひとりで泳いでいるとつい速く泳ぎがちだ。それで疲れてしまう。ゆっくり泳ぐ人の後ろにつくと、なぜか僕はイラッとしてしまったが、ゆっくり泳ぐことをおかげで学べると思ったときからあまりイラッとしなくて済むようになった。僕より速く泳ぐ人が追いついて来たら、ターンのときに一瞬休んで譲ってあげる。速い人が追いついてくると、つい僕も速く泳ぎたくなるが、それをしていると2kmは泳げない。速い人にはどんどん追い越していってもらおう。目標は速く泳ぐことにある訳ではないのだから。

はじめて2km休まずに泳いだときは驚いた。ずっと1kmずつしか泳げず、2km泳ぐのはずっと先のことだろうと、半ばあきらめていたのだが、ある日1km泳いだがちっとも疲れを感じなかったので、そのまま泳ぎ続けたら2km泳げてしまった。それ以来、1時間に2km休まずに泳ぐのが当たり前になった。その違いは何が原因かよくわからない。きっと楽に泳げるコツをからだが覚えたのだろう。その証拠に、以前より少し速く泳げるようになった。これでオリンピックディスタンスのトライアスロンなら、水泳の距離としてはもう泳げるようになった。バイクの準備をすればそろそろトライアスロン参加も夢ではない。

できればアイアンマンに出たいのだが、年齢による衰えと身体発達の速度と、どちらが勝つのか、いまの僕にはわからないというのが正直なところ。

水五訓? 水六訓?

東北Blogs.com(現在は廃止)のピックアップをアップするために、ほぼ毎日のように東北のBlogを100以上読んでいる。そのなかに「続・雨ニモマケズ風ニモマケズ」というBlogがある。現在東北で復興作業をしているボランティアのかたのBlogだ。そこに昨日「井戸のヘドロ出し」という記事がアップされた。その記事の中に水六訓というものが出てくる。

【水六訓】

・あらゆる生物に生命力を与えるは水なり。

・常に自己の進路を求めてやまざるは水なり。

・如何なる障害をも克服する勇猛心と、よく方円の器に従う和合性とを兼ね備えるは水なり。

・自から清く他の汚れを洗い清濁併せ容るの糧あるは水なり。

・動力となり光となり、生産と生活に無限の奉仕を行い何等報いを求めざるは水なり。

・大洋を充し、発しては蒸気となり、雲となり、雨となり、雪と変じ、霰と化してもその性を失わざるは水なり。

哲学者 笹川良一翁のことば

しかし、この言葉、どこかで聞いたことがあるのだが、そのうろ覚えの記憶によると、歴史上の人物の言葉だったと思った。それでネットを調べる。まず最初にヒットしたのがここだった。「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」。同じ人が以前に書いたBlogだった。そこにもまったく同じことが書かれている。「この人は2005年から間違っている」と思った。

二番目にヒットするのがここ。(現在2018年には存在しない)これを発見したときには気がつかなかったけど、実はこの記事も同じ人が書いている。

三番目にやっと正しいことを書いていると思われる記事が見つかった。(こちらも現在2018年には存在しない)

<水六訓>  伝、黒田藩主黒田如水

と書かれている。

「そうそう、黒田如水」と思い、さっそく間違いを直してもらおうと思った。グーグルでトップに出てくることが間違いでは、間違いが広がってしまう。ところが「続・雨ニモマケズ風ニモマケズ」にはコメント欄がない。そこでtwitterのIDが書かれていたのでtwitterからコメントした。

@mtzao いつも「続・雨にも負けず…」を読んでいます。「井戸のヘドロ出し」の記事に「水八訓」を「笹川良一翁のことば」としていますが、それは黒田藩主黒田如水の言葉です。ネット上に間違ったことは書かないでください。拡散してしまいます。お願いします。

ここまでわずか二分程度だろう。東北のBlogを読む速度でサクサクとやってしまった。しかし、twitterを発してから、何かが心に引っかかった。間違いを指摘したにしては、あまりにも簡単すぎやしないかと。だいたい黒田如水についてほとんど僕は何も知らない。かつてどこかのサイトで「水六訓」について読んだことがあるという程度だった。気になったので「黒田如水」を調べる。「黒田孝高」としてwikipediaにあった。そこには水六訓は出て来ない。しかも、その人の生涯を読むと黒田藩主になったということは書かれていない。「あれ?」と思い、Googleに戻り「黒田如水 水六訓」で調べると、上にヒットしたふたつは「水六訓」と書かれているが、それから下はほとんど「水五訓」と書かれている。「なんだこれは?」と思ってしまった。

水五訓はこう書かれている。

水五訓(水五則)

一つ、自ら活動して他を動かしむるは水なり

一つ、障害にあい激しくその勢力を百倍し得るは水なり

一つ、常に己の進路を求めて止まざるは水なり

一つ、自ら潔うして他の汚れを洗い清濁併せ容るるは水なり

一つ、洋々として大洋を充たし発しては蒸気となり雲となり雨となり
雪と変じ霰と化し疑っては玲瓏たる鏡となりたえるも其性を
失わざるは水なり

似ているが、ちょっと違う。「あらら」と思った。そこで「笹川良一 水六訓」と調べた。すると東京・三田の笹川記念会館や志摩のB&G海洋センターに「水六訓」の看板があることがわかった。

もっと調べると、もともとの「水五訓」も、黒田如水の言葉かどうか定かではなく、頼山陽という説もあるそうです。

ネットのおかげで便利にはなったけど、間違いは流さないようにしないとね。twitterの続きはこう書きました。

@mtzao 僕の勘違いのようです。すみません。黒田如水の言葉は「水五訓」なのですね。それにひとつ足したのが「水六訓」のようです。知りませんでした。

もっと正確に書くならひとつ足しただけではありません。言葉は現代風に書き直してあります。でも、これだけ似た言葉があるとするなら、僕ならその言葉を自分の言葉として看板までにはできないなと思った。しかしそれ以前に、僕自身がよく調べてからBlogを書かなければ。

共に生きる〜ルールの変更

今朝、茂木健一郎さんがこんなことをつぶやいた。

るる(1)そろそろ、この国をどう変えるか、本気で議論するべき時がきた。一番のポイントの一つは「ルール」だと思う。ルールを守るではなく、ルールをつくる。人と人が出会い、競う時のルール作りのセンスを、私たちは育まなければならない。

るる(2)コンピュータ・ゲームは別に脳に悪くない。ただ、ルールが決まっていて、それに従う点が創造的ではない。もっとも、自分でコンピュータ・ゲームを作るようになると、一気に創造的になる。ゲーム好きには、そこまで行ってほしい。

るる(3)子どもたちは、楽しく遊べるためのルールを作る素晴らしい能力を持っていている。たとえば、「みそっかす」。弱い子、幼い子は、特別扱いして少し有利にしてあげる。そうすることで、誰が勝つかわからなくなり、ゲームの楽しさが増すのだ。

るる(4)草野球をやっていて、弱い子が来ると下手投げにしてあげる。三振なしにする。送球も、ちょっと手加減する。子どもがそうするのは、弱者保護の麗しい理想からではなくて、そうやることでゲームとして楽しくなるのだ。

るる(5)ババ抜きで、幼い子がババを引くと泣き出すから、わざとそのカードを少し上に出したりする。幼い子も意味がわかるから、それを避けてセーフになる。こういう「みそっかす」も、楽しく遊ぶための智恵だ。

るる(6)ルールをつくる上では、多様なバックラウンドを持った人が、みな勝ったり負けたり、いろいろあるようにした方が楽しい。いつも誰が勝つか決まっていたり、負け続ける人が出るようなルールは、ゲームをつまらなくする。

るる(7)「新卒一括採用」は、ゲームのルールとして全くつまらない。マジメに黙々と従った人だけが有利となり、途中でふらふらしたり、飛び出して戻ってきた人は負けると決まっている。そんなゲームは、誰の胸もわくわくさせない。盛り上がらない。

るる(8)ペーパーテスト一辺倒の大学入試も、全くつまらない。ハーバード大学だったら、市川海老蔵や卓球の愛ちゃんもそのまま受かるかもしれない。東京大学は小難しい試験を解けないとダメだ。どちらが「ルール」として面白いか、歴然としている。

るる(9)日本人は従順だから、誰かが決めたルールに黙々と従って、その中で上位に来た人を「エリート」と呼ぶ。つまらない。本当のエリートは、みんなが楽しく遊べるように、ルールを工夫する人のことを言う。子どもの時、夢中になって遊んだ頃のことを思い出してごらん。

これを読んでいいこと書くなと思った。そして思い出したのは、9年前に中学校でした講演だ。ここにまとめがある。

ポイントは「誰でも誰かの役に立ち、誰かの世話になっている」ということ。講演会で僕は肉食獣の話から比喩を作った。

肉食獣は我が物顔で草食獣を食べるが、視点を変えると、彼らは草食獣がいてくれるおかげで生きていられると言えるし、もっと言えば、広い草原があるから生きていられるとも言える。僕は今朝、目覚まし時計で起きた。朝食を食べ、電車に乗って目白駅まで来て、千登世橋中学校に到着した。僕は目覚まし時計を使うし、朝食は僕の意思で食べた。電車もお金を払って乗った。我が物顔でそれらを使ったり食べたりしているが、視点を変えると、それらを作ったり、運行してくれる人たちがいなければ時間通りにここに来られなかっただろう。

社会は僕たちにとっての生態系だ。多くの人が活き活きと生きてないと、その生態系はうまく機能しなくなる。僕たちは、古いマーケティング的な考え方に侵されたため、大切な考え方を見失ってしまったのではないか? 

僕たちは社会のパラダイムを変える、その変節点にいる。いま変えずにいつ変えるのだろう。市場は消費者の搾取から生まれるのではない。かつて消費者と名付けられた人は、生産者であり、役人であり、政治家であり、農業従事者であり、漁業従事者であり、工業労働者であり、弁護士であり、ありとあらゆる職業の人の総体なのだ。消費者を豊かにすることこそが市場を作る人の仕事だ。その観点を忘れ、従事者から搾取し、消費者から搾取し、ありとあらゆる人を出し抜くことで市場を作ろうとするのは正しくないこと。一方で、消費者からの観点も変化しなければならない。物を買うとき「安い方がいい」という価値観だけで物を買う限り、市場から搾取していることにほかならない。適正な価格とは何かを消費者が考えない限り、市場は育たない。飲食業では安い食べ物を提供しようと、安全性には目をつぶることがよくあるようだ。それは、消費者がそのようなものを求めるからそうなってしまう。物を買うとき、正しい価格で買う知恵を持つことが、すべての人に求められるようになっていく。その知恵を持たない人は「衆愚」と言われても仕方ないだろう。かつて江戸に住んでいた人たちは「宵越しの銭は持たない」ことを信条にしていたという。なぜか。江戸は火事がよく起きた。もし銭を抱える生き方をしていたら江戸はまったく潤わず、町には活気が生まれなかっただろう。自分が持っている銭は誰かに与えることではじめて生きる。その考え方がきちんと生きていたのだ。

僕たちは権利ばかり言いつのり、自らが学ぶことを忘れているのかもしれない。便利な物ばかり求めるが故に、じっくりと考えることを忘れているのかも。