水泳のとき感じることは

この半年ほど泳いでいるが、泳いでいて変化したことをもうひとつ見つけた。それは何を考えているか、または何を感じているかだ。

以前は泳ぎながら疲れを感じようとしていた。たとえば「肩が痛くなってきたな」とか「息が苦しい」とか、そんなことだ。考えれば考えるほど疲れてくるのかもしれない。感覚は繰り返し感じることを真実だと判断する。半年泳いでそれらのことを感じなくなったわけではない。だけど泳いでいる時間の多くは別のことを考えるようになった。それは「水の圧力」と「速度」だ。

ひと搔きするたびにからだのどこかに余分な圧力がかかってないか感じてみる。もし余分な圧力がかかっていたら、それはもしかしたら泳ぐための抵抗になっている。

水の圧力に注意するのは、特に平泳ぎをしているときだ。平泳ぎでは微妙な足の形や、手と足のタイミングで進む距離がかなり変わる。僕は25mを6〜8回搔くのだが、ぼんやりしているとすぐ8回搔くことになる。搔くときに足にかかる水の圧力に注意しないと、何か抵抗になってしまうらしい。搔いたときの足首の微妙な角度が抵抗になるようだ。だけど、その角度に注意しだすと今度はなかなかいい角度にならず、うまくいかない。しばらくやっていてわかってきたのは、搔き終わったら足首の力を抜くことだ。水流が足首の角度を決めてくれる。それに委ねること。思いつけば当たり前なのかもしれないが、「角度に注意する」と考えると罠にはまる。

手で搔くとき脚も曲げて同時に息を吸う。頭が水に入るとき、脚は搔いて手は伸ばす。このときに手の先に圧力がなるべくかからないようにする。ちょっとの違いで圧力を感じるものだ。頭は両腕の下に入るようにする。そして搔いたあと体を伸ばしてスーッと進む。

うまく足に余計な抵抗を感じずに、足と手のタイミングがバッチリと合って、手の先に圧力を感じず、さらに搔いで伸びきったときの格好がいいと6回搔けば25m泳げる。ときどきもうすぐ5回で到達できるときもあるが、なかなかいまの僕にはそこまでは伸ばせない

クロールの場合は搔いている力と速度の関係を感じてみる。圧力が感じられるのはかなり格好が悪くなったときだ。

たとえばクロールの場合は頭の位置が抵抗になる。それから、足が下がってきても抵抗になる。前方にひとがいなければ、頭は落とし、真下を見ていた方が楽に進む。足が下がったときはゆっくりとバタ足を大きくして足が上がるように注意する。このとき膝を伸ばして足の付け根から大きく搔くことを忘れない。あとは搔いている手を水に入れるときの角度がきっと関係あるのだが、まだどの角度がいいのかよくわからない。しばらくいろいろと試してみる。

こんなことを感じることで、疲れや苦痛を増幅させずに済む。だんだん水泳が楽しくなってきた。

水分神事

秩父神社と秩父今宮神社という二つの神社のあいだでおこなわれているお祭りがある。それが水分神事だ。

秩父神社から水幣(みずぬさ)を持った行列が出発し、今宮神社へ行く。ここには龍神が乗り移る水がある。それをもらって秩父神社に帰り、御田植祭をおこなう。こうして豊作を願う。いまもこうして古い祭が存続していることに感謝。

サクラハドコデスカ

六本木に行くために大江戸線に乗ろうと新江古田駅のホームに降り立った。いつも乗る位置にふたりの若い白人が立っていた。一人はとても背が高い。190cmはあるだろう。もうひとりは180cm程度か。

ホームに電車が入ってきて、二人は車内に入っていく。椅子があいていたが、背の高い方はドアの脇に立ち、背の低い眼鏡の男は椅子に座った。

不自然に感じた。友達なら一緒に立つか、一緒に座るだろう。少し離れた位置で一人は座り、ひとりは立つ。僕は背の高い男のそばに立った。椅子がまだあいていたので座ろうかなと思ったとき、背の高い男が「アノ」と話しかけてきた。なかなかの美男子で瞳が青い。

「何か?」

「サクラハドコデスカ?」

桜が咲き、そろそろ散ろうとしている時だった。いま盛りなのはどこだろうと考えた。

「シンジュクハ?」

「ああ、新宿御苑がいいかもしれないね」

「タクサンサイテル?」

「たぶん咲いてる。でもそろそろ散っているかもしれないし、ちょっとわからない」

「モウスグ、ワタシカエル」

「ああ、国に帰るのね。どこ?」

「アメリカ」

「アメリカのどこ?」

「ユタ。ユタシッテル?」

「知ってるよ。岩山が多い所ね」

「ナゼシッテル?」

「なぜ? 日本じゃアメリカのことは有名だよ」

「ソウ? シラナイヒトオオイ。アメリカイッタコトアル?」

「あるよ」

「どこ?」

「サンフランシスコ、ニューヨーク、ハワイ」

「ハワイイイ。イキタイ」

「ユタは行ったことないけどね」

「ウン、ヘイキ。アナタユタノコトシッテル、メズラシイ。アナタシンエコダノソバニスンデイル?」

「そうだよ」

「ワタシモソバニスンデイル」

「そう」

このとき、座った眼鏡の男も隣に座っていた人に話しかけていた。

「アナタセイショヨンダリシマスカ?」

「読んだことはあるよ。でも信者じゃない。仏教の本も読むし」

「キョウカイニハ イッタコトアリマス?」

「昔、子どもの頃にね。友達に誘われて通っていたことがあるよ。クリスマスに劇をやったな」

「オオ、スゴイ。デハマタキョウカイニキマセンカ?」

「いや、別に行こうとは思わない」

「コンシュウマツニ ヨゲンシャガ、サテライトのホウソウでオハナシシマス」

「衛星放送で話すの?」

「そう、エイセイホウソウデハナシマス」

「予言者って誰?」

青い瞳は鞄から一枚の紙を出してきた。そこには三十名ほどの顔が描かれていた。上の方は絵だったが、下に降りると白黒写真になり、一番下はカラー写真だった。

「コレガスベテヨゲンシャ」

「なんの予言者?」

「モルモンキョウ、シッテル?」

ユタ州と言われたときに気がつけば良かった。彼はモルモン教の布教のために来ているのだ。一番上に描かれていたのはジョセフ・スミスというモルモン教の開祖だった。それ以来、代々預言者が受け継がれているという。

“サクラハドコデスカ” の続きを読む