日本人にジャズは理解できているんだろうか

村上春樹の『雑文集』を読み終えた。それぞれに面白い文で楽しく読めました。そのなかでひとつ『日本人にジャズは理解できているんだろうか』という文が心に引っかかったので、そのことについて書きます。

ことの起こりはブランフォード・マルサリスが日本にライブに来て、聴衆のあり方を見て、『日本人はジャズがわかってない』という発言をし、それについて村上春樹が論じたもの。村上春樹は表面的に起きた出来事からさらに一段高い視線を持ち込んできて、人種差別がどのように生まれるのかを感じさせてくれた。ジャズの話から人種差別の話に移行して行くつながりは、村上春樹の丁寧な説明を読まない限り正しくは理解できないと思うので、その部分をここで解説するのはやめておく。知りたい人は直接原文にあたってください。それを読んで僕の思い出したこと、感じたことを書きます。

  

これを読んで思い出したのは2006年のピース・キッズ・ワールドサッカー・フェスティバルのこと。八ヵ国十地域の子供たちが広島に集まり、サッカー大会をしたのです。イスラエル、バレスチナ、イギリス、アメリカ(ハワイ)、ボスニアヘルツェゴビナ、韓国、中国、沖縄、広島、川崎の子供たちが集まりました。そのときに練習のための最初の合宿所で男子トイレが異常に汚されたことがありました。大便がトイレのまわりにまき散らされていたのです。そのときは誰がやったのかわからず、ひどいことをする子がいるものだと問題になったのですが、大会のための二番目の合宿所に移ったとき、再び同じことが起こりました。一回目の状況は報告を受けただけでしたが、二回目の状況は直接自分の目で確かめました。大便用の個室の中で、便器の中はきれいなのにそのまわり、足の置き場などに大便がまき散らされていたのです。そのときにパレスチナに詳しい人が、もしかしたらとこんな話をしてくれました。「パレスチナでは水は非常に大切で、親から水は汚してはいけないと教え込まれた子がこれをしたのでは」と。

  

生きている場所が違えば常識が違うことは理解しているつもりでした。しかし、理解していてもそれがどのように現れてくるのか、具体的には知らなかった。本当にパレスチナの子が、水を大切にするためにそうしたのかどうかは結局はわかりませんでした。だけど日本にいただけではわかりようのないことが、いろんな出来事に影響を与えているだろうことがちょっとだけ理解できた。もしその話が本当だとしたら、そのパレスチナの子はどんな気持ちで用を足したのだろう?

  

『日本人にジャズは理解できているんだろうか』の最後にこう書かれています。
あるいは大げさなものの言い方になるかもしれないけれど、こういう小さななんでもなさそうな文化的摩擦を腰を据えて、感情的にではなく、ひとつひとつ細かく検証していくところから、先の方にあるもっと大きな摩擦の正体がわりに明確に見えてくるのではないか。そしてそれと同時に、日本という国家の中にあるアメリカとはまた違った差別構造の実態のようなものもひょっとして浮かび上がってくるのではないか。

  

ピース・キッズ・サッカーは現在ピース・フィールド・ジャパンと名称を変更し、イスラエルとパレスチナの青年たちを毎年夏に招待して合宿をしています。そこで起きることはとても些細なことばかりです。だけど、イスラエルとパレスチナの青年たちが、互いに理解するためにはきっと役に立っているのだと思う。その様を見て、日本の学生は、文化の違う人たちが互いに理解し合うこととはどんなことかに触れるのです。それに触れることで、日本という国の固有性を意識する学生もいるでしょう。

  

アフリカの難民キャンプで、集まってきた様々な部族が互いに理解し合うためにやったことのひとつとして、結婚式ではどんなことをするのかを話し合ったことがあるそうです。すると部族ごとにすることがあまりにも違うので、そのあと互いのコミュニケーションが楽になったそうです。違いすぎるので、とにかく話さないと何もわからないということがわかったから。

  

日本とアメリカなんて、互いによく理解していると思い込んでいるかもしれないけど、アメリカの地域によっての違いや、人種によっての違いなど、理解できてない些細なことがたくさんあるのだと思う。そして同じような食い違いが、本当は日本人同士にもある。

   

(実は、ここまでの文章は今年の二月に書いたものだった。それをPCに保存してBlogにアップするのを忘れていた。それをたまたま見つけた。アップしようとして、以下を付け加える)

  

僕は生まれてこのかたずっと東京で暮らしているから、田舎の生活がまったくわからない。村々でおこなわれるお祭りが素敵だなと思うけど、実際にそこにいる人がどんな思いでそれを継続しているのか、じっくりと聞かない限り理解できないんだろうなと思っている。

  

大震災ののち、原発はそれでも必要だと言う人がなぜそのように言うのか、僕にはちっともわからない。電力が不足したら困るだろうというのはわからないでもないが、そのために放射能汚染にさらされる可能性を抱えるのはもうごめんだ。その危険性を地方に押し付けるのもやめてほしいし、その危険性をお金で交換するというのもきわめて不快な行動だ。なぜそれほどに電力にこだわらなければならないのか、それを推進派の人たちに直接聞いてみたい。きっと十数年後、日本のがんの罹患率は上がるのだろう。でも、原発事故と罹患率上昇の関連性を示す証拠がないということで、うやむやにされるのではないかと心配だし、もしうやむやにされなかったとしても、害された健康はもう戻らない。

  

問題が生まれることで、それまで理解できていなかったことが理解できる可能性が生まれる。それが限りなく続く。

奇界遺産とラスコーの壁画

今年1月に『奇界遺産』という本が出版された。大判で3,990円もする写真集だ。これがなかなか僕の目を釘付けにしてくれる。

表紙もインパクトがあるが、内容もなかなか凄い。なかなか出会えない景色がどこまでも続いていく。「中々」なんか飲みながら夜長長々とこれと過ごすとなかなかいいと思うがいかがだろうか。

本来であれば本の中身をここで公開して読者と楽しみたいところだが、あまり派手にやると著作権に触れると思うのでパッと開いたページだけ一枚写真を載せます。

細かくてよくわからないページが出てきてしまいましたがご容赦を。

洞窟の中にある村、ブータンの男根魔除け図、直径34mのミクロネシアの島に住む日本人、巨岩の上にある住宅、地獄絵図のテーマパーク、神々の像で満たされた奇想の庭園、中華神話のテーマパーク、巨大龍の胎内を巡る道教テーマパーク、キリストをテーマとした遊園地、世界の果て博物館、世界に散らばる「珍奇」を蒐集した元祖変態冒険家の博物館、貝殻で作られた竜宮城(写真のページ)、世界八大奇蹟館、ミイラ博物館、アガスティアの葉、死体博物館、ボリビアの忍者学校、三万体もの人骨が眠る巨大な地下迷路、人骨教会、エリア51、7万人が聖母を目撃した聖地ファティマなど、世界の不思議なものや景色や人などをゴリッと撮影してある。

これらの写真を撮影した佐藤健寿氏はオカルト研究家を続け、ある疑問を抱いたという。それは「これ(オカルト)って本当に必要なのだろうか?」という疑問だ。こんなことに一生を捧げてもいいものか。この疑問にあのコリン・ウィルソンが『アトランティスの遺産』という本の中で答えてくれたという。

ネアンデネタール人が滅び、現世人類たるホモ・サピエンスが生き残ったのは、洞窟の中に獲物の壁画を描き、それを槍で突くという魔術的行為を行ったからである。

この一文のいったいどこがその答えなのか、一見しただけではちっともわからない。しかし、佐藤氏はこんな文を書いている。

壁画、すなわち<芸術>であり<魔術= オカルト>の始まりであるそれは、その時点において、いわば<究極の無駄>であったに違いない。岩に絵を描き、槍で突いてみたところで、お腹が満たされるわけでもなく、むしろエネルギーの浪費にしかならないのだから。最初に岩に絵を描いて槍で熱心に突いていた奴は、多分、仲間内から狂(猿)人扱いされたはずである。しかし結果的には、この絵を描くという狂気じみた行動を通じて、狩猟の成功がただの運任せから期待を伴う予知的なものとなる。やがてそれがある段階で自然の因果と同調し、制度化したものが、祈りや儀式となった。その結果、このホモ・サピエンスは儀式を通じて未来を想像する力(ヴィジョン)を獲得し、安定した狩猟の成功や、自然の変化に対応することが出来たから、現代まで生き残ったというわけである。つまりはじめは<究極の無駄>として生まれた呪術的想像力こそが、他の動物たちを押しのけて、生存と進化へ向かう道を切り開いたというわけだ。

無論、多くの識者達が口を酸っぱくして指摘してきた通り、青年期の悩みにコリン・ウィルソンは劇薬、すなわち<混ぜるな危険>である。しかし私はこのアウトサイダーならではの大胆な発想に、大きな感銘を受けたのだった。<芸術>と<オカルト>、一言でまとめると<余計なこと>には、実は人間を人間たらしめてきた謎が、もしかしたら隠されているのかもしれないのだ。確かに現代においても、人間だけがUFOやUMAを見るし、変な建築物やオブジェを作るし、見えないものを見えると言い、そこにないものを信じてみたりする。しかしこの事実をラスコーの逸話にたとえるならば、これは人類最大の無駄どころか、むしろ人類に与えられた最高の天賦である可能性すらある。つまり<余計なこと>、それは人間が人間であるために、絶対的に<必要なこと>だったかもしれないのである。

以上の試論を踏まえた上で、私は「現代のラスコー」を探すべく、旅にでた。世界各地を歩き、この<奇妙な想像力>が生み出した<余計なこと>を、ひたすら探し求めたのである。…

『奇界遺産』 佐藤健寿著 エクスナレッジ刊より

この前提に立つと、単なる奇妙な写真集が別の意味を帯びてくる。つまりこの写真集は、人間の想像力のカンブリア爆発を集めたものかもしれない。生命はカンブリア紀に多様性を究める。あとは淘汰され、進化しはじめるが、そこで残った生命は、淘汰されていった生命が存在したからこそ残れたとも言える。この写真集に掲載されたもののほとんどは恐らく文化としては淘汰されていくだろう。中には残るものもあるかもしれない。しかし、現代日本に生きる多くの人の目で見れば、奇異なものでしかない。カンブリア爆発で生まれた生命の多くが奇異なものであったのと同じだ。奇異であることは、生命力の発露として見ることができる。

この奇異なものたちを見ることで心の底が疼くのは、いったいなぜなのだろう? 命の底に横たわる大いなるチカラが共鳴しているようだ。

ところで、この本の148ページに登場する少女はどうも真鍋かをり嬢に見えてしようがないのは僕だけ?

思考する豚

農家では時々、昨日まで可愛がって飼っていた鶏や豚を食べてしまうことがあるという。子供がはじめてそのことを知ると驚くそうだが、親はそうやって子供が大人になっていくのを見守るそうだ。飼っていた動物を食べることが大人になるレッスンのひとつだとしたら、僕はまだそのレッスンを受けてない。生き物をその場で絞めて食べたのはせいぜい伊勢海老や魚の活き作り程度だ。

目の前で鶏や豚が絞められたら、その肉を平気な顔で食べられるだろうか。少々心配だ。

かつてバリ島ティルタエンプルの僧侶の家を訪ねたことがある。僧侶が出てくるのを待っていたら、庭で豚が激しく鳴いていた。理由を聞くと、その豚はその晩の祭で供えられるのだという。あの声を聞きながら、もしその豚を食べろと言われたら、きっと食べてしまっただろうけど、多少の抵抗は感じたと思う。

ある動物について詳しく知れば知るほど、その動物のことを食べにくくなるが、区別できた大人になればぺろりと食べるものだろう。しかし、都会でずっと暮らしてきた人の多くは、このような大人になる機会をなかなか持てないのではないだろうか。少なくとも僕は持てなかった。

僕は豚についてあまり詳しく知らなかった。別に興味がないから知らないだけだと思っていた。しかし、ライアル・ワトソンの遺作『思考する豚』を読みながら多少の抵抗を感じていた。豚について興味がないというより、もう少し積極的に「知りたくなかった」のだ。その理由を探っていくと、豚肉を食べることと関係があった。

よく野菜と炒めてぺろりと食べる。トンカツも好きだし豚角煮もいい。その豚肉を供給している豚が、とても愛らしい動物だと知ったら、いままで同様、豚を美味しく食べられるだろうか。

著者のライアル・ワトソンによれば、豚がもっとも繊細なのは鼻なのだそうだ。あの鼻に表情があり、感覚器がある。さらに豚は鳴き声で繊細なコミュニケーションをしているという。豚を知らない人は「ぶーぶー」としか認識しないが、飼い慣れてくると鳴き声で何を欲しているのかがわかるようになるという。さらには豚は文化をもっているとまで書いている。

そんなことをいくら知っても、罪深き大人は豚を食べる。少しふくれた罪悪感は調味料となる。それが人間だ。この本を読んで豚に興味が湧いたけど、それでも僕は豚を食べ続けるだろう。

本の帯にこう書かれている。

ヒトが蔑んできた豚は、ヒト以上に繊細で、知的で、上品な生き物であるかもしれない。彼らはそれゆえに、ヒトの蛮行と非寛容に対して寛容でありつづけたにすぎない。

かつてイルカについて「一緒に泳いだが料理されれば食べるかもしれない」と書いたら、何人かの淑女からコメントをいただいた。

「イルカが好きなのに食べるなんてひどいことはできない」というお嬢さんは、これを読みながら豚を食べると少しは大人になれるかもしれない。僕と同様、少しの罪悪感を感じながら。

トップのかわいい豚の写真は特定非営利活動法人Tuvalu Overview の代表理事遠藤秀一様から提供していただきました。ここに御礼申し上げます。