ライアル・ワトソンの遺作『エレファントム』

1994年にケニアに行った。『ひとりぼっちのケティ』という少女マンガの原作を書く取材のためだった。そのときのことはこちらに書いた。

その取材の際に現地のコーディネーターがライアル・ワトソンについて「あいつはインチキ野郎だ」と言っていた。「なぜ?」と聞いたら、「あいつは撮影のために現実を変えることをなんとも思ってない」と言うのだ。何か自然現象の映像を撮影するとき、あたかも自然に起きたことかのように位置を変えたりしたのだそうだ。その頃、僕はライアル・ワトソンの本が好きだったので、「そんなことはないだろう」という気持ちと、「それが真実だったら嫌だな」という気持ちのあいだを揺れて吐き気がした。

それから何年かして河合雅雄先生に会う機会を得た。そのときに何年間か疑問だったことを質問した。

「ライアル・ワトソンが書いている『百匹目のサル』の話しは本当ですか?」

ライアル・ワトソンの著書『生命潮流』に『百匹目のサル』についての有名な話しが書かれている。その元ネタが河合雅雄先生の研究だったのだ。ところが河合先生の本には確かにライアル・ワトソンが引用しただろう話しが書かれているのだが、『百匹目のサル効果』については何も書かれていなかった。

このときのやりとりの詳細はここにある。

つまり、『百匹目のサル』の話しはライアル・ワトソンの作り話だったのだ。

この話しがはっきりした頃からライアル・ワトソンは新作を発表しなくなった。南アフリカに帰ったという噂もあったし、「嘘ばかり書くから干された」という人もいた。そのあたりの子細を僕は知らない。

先日、本屋に入ったら一冊の本が目に飛び込んできた。それはライアル・ワトソンの遺作『エレファントム』だった。さっそく買って読んだ。とても面白かった。象もクジラも興味のあることだったので、かつて調べた話しがいくつも出てきた。読みながら、どこが嘘でどこが事実か区別するようにして読んでいた。「嘘」と書くとちょっときついかもしれない。「創作」とした方が故人のためだろう。見事な創作がそこにはあった。その見事な創作(と思える部分)に僕は感動した。

ライアル・ワトソンは動物行動学の博士として本を書くのではなく、動物行動学博士の肩書きを持つ作家として本を発表すべきだったと思う。『エレファントム』に出てくる創作と思える部分も、あまりにも見事なので創作かどうかはっきりと断定できない。科学的に考えるなら「あり得ない」話しだ。しかし、現実としてそのようなことがあっても不思議ではないかもしれないと思えるように、ライアル・ワトソンは本のはじめから伏線を張り、見事な物語に作り上げている。

たとえそれが僕の考えているように創作だったとしても、僕はライアル・ワトソンの本が好きだ。生命科学を背景にして見事な物語を書き上げている。しかし、それを純粋な科学だと信じさせようとしていたなら、そこには問題があるだろう。

『エレファントム』の最後に出てくる逸話も創作だろうと思う。だけど、その創作を僕はとても素敵なものだと思っている。それがどんなものかは本を最初から読み味わわないとわからないだろうからここには書かない。とにかく僕には大変響いた。

『エレファントム』の中頃にこういう話しをライアル・ワトソンは書いている。

優れた追跡者と同じように、優れた科学者にも直観が不可欠だ。リーベンベルクはそれを「必要とされるはずの情報よりも少ない情報に基づいて、結論に到達する」と言い表している。そうした想像力による飛躍は科学というよりも呪術的に思えるが、実際に新事実を発見する過程ではこれがよく用いられている。本当に新しいものは、既成の知識だけでは見えてこないからだ。

既成の知識というものは、権威を帯びて教条的になることがある。絶対に正しいとされる事実や枠組みを作りだし、それらを議論の対象から除外する。多くの教科書は新たなアプローチの可能性を認めない。信じて飛躍することこそが本当の進歩につながるということを忘れている。

ライアル・ワトソン著『エレファントム』 木楽舎刊

ライアル・ワトソンも見たり聞いたりした事実から想像力による飛躍を何度もした。その飛躍に多くの科学者は反発を感じたのだろう。その飛躍をまずは「創作」という枠で提出するべきだったと思う。というか、そうして欲しかった。その飛躍が僕は好きだから。

「1Q84」を読んで

「1Q84」を読み終えた。簡単に書けば「面白かった」。しかし、何がどう面白かったかについては書くのに少々苦労しそうだ。こちらに書いたように村上春樹の面白さはうまく言葉にできない。様々な要素がからみついている。すべてを解きほぐすわけにはいかないが、僕にとって特に気になったことを書いてみよう。

村上春樹の小説は喪失の小説だと言われるが、作品の作り方は細胞の再生を思わせる。細胞は常に分裂し、死滅する細胞とのバランスを取る。何度も何度も繰り返しほぼ同じものを作りながら、現れる位置によって形を変える。村上春樹の作品はいつも同じようなことを書きながら、その位置によってすこしずつ語るべきことを変えているような気がする。環境や時代や、村上春樹の立場が変わることで自然と語るべきことが生まれているということだ。だから彼の作品は常に似た雰囲気を維持し続ける。村上春樹ほど書いている内容が変わらない作家は少ないのではないだろうか。どの物語も表面上は別のものだが、骨の部分はあまり大きく変わってないような気がする。

こう書くと、僕が村上春樹はいつも同じことばかり書いていて「ダメ」だと言いたいのではないかと思う人がいるかもしれないが、逆である。だからこそいいのだ。

画家というものは、自分の筆致を求めて求道する。作家は文体を求めるのかもしれないが、村上の場合は言葉にできないある雰囲気を何度も繰り返し作り込んでいる気がする。これはもちろん僕の思うことで、本人がそう考えているかは知らない。その言葉にできない雰囲気がどの作品にも生まれることが村上春樹のすごいところだと思う。さらにもちろん推測だが、村上春樹はそれを意図的に何度も繰り返そうとしているのではないかと思う。

村上春樹はマラソンやトライアスロンをするという。走り続けることで繰り返しの強さをからだに刻み込んでいる。その感覚が作品に出てくるのだろう。「走ることについて語るとき僕の語ること」にこんなことが書かれている。

 新潟から車で東京に帰る途中、車の屋根に自転車を積んだレース帰りの人びとを何人か見かけた。よく日焼けした、いかにも丈夫そうな体つきの人々だ。トライアスロン体型。僕らは初秋の日曜日のささやかなレースを終え、それぞれの家に、それぞれの日常に帰っていく。そして次のレースに向けて、それぞれの場所で(たぶん)これまでどおり黙々と練習を続けていく。そんな人生がはたから見て—-あるいはずっと高いところから見下ろして—-たいして意味も持たない、はかなく無益なものとして、あるいはひどく効率の悪いものと映ったとしても、それはそれで仕方ないじゃないかと僕は考える。たとえそれが実際、底に小さな穴のあいた古鍋に水を注いでいるようなむなしい所業に過ぎなかったとしても、少なくとも努力をしたという事実は残る。効能があろうがなかろうが、かっこよかろうがみっともなかろうが、結局のところ、僕らにとってもっとも大事なものごとは、ほとんどの場合、目には見えない(しかし心では感じられる)何かなのだ。そして本当に価値のあるものごとは往々にして、効率の悪い営為を通してしか獲得できないものなのだ。たとえむなしい行為であったとしても、それは決して愚かしい行為ではないはずだ。僕はそう考える。実感として、そして経験則として。

この考え方が恐らく小説にも反映しているのだろう。

僕が好きなミュージシャンにマイク・オールドフィールドがいる。映画「エクソシスト」のテーマ曲となった「チューブラーベルズ」を作曲した人だ。映画のイメージだと怖い感じがするが、オールドフィールドは「チューブラーベルズ」を「愛を表現するために作った」と何かのインタビューに答えていた。そのチューブラーベルズを彼は五回も作り直している。

「チューブラー・ベルズ」

「オーケストラル・チューブラー・ベルズ」

「チューブラー・ベルズⅡ」

「チューブラー・ベルズⅢ」

「チューブラー・ベルズ2003」

「チューブラー・ベルズⅡ」を作るために、彼はレコード会社を移籍までしている。「オーケストラル・・・」は交響楽団を使って録音した。「Ⅱ」と「Ⅲ」は非常に似ているがメロディーや伴奏が少しずつ異なる。「2003」にいたっては、最初のバージョンとほとんど同じだ。しかし、よーく聞いていると時々違う部分が耳につく。最新作の「Music of the spheres(天空の音楽)」でもそっくりのメロディーが顔を出す。サイトを見てみたら、もうすぐまた別の「チューブラー・ベルズ」がリリースされるらしい。

オールドフィールドが「チューブラー・ベルズ」を繰り返し作るのは「売れる」という理由からではない。もしそうであるならレコード会社を移籍することはなかっただろう。これほどまでに同じ作品に執着するのはきっと彼の中に何か理由があるのだろう。それが何かはわからないが、作り直すたびに、きっと何かが満たされるのだろう。そして、バージョンごとに現れる微妙な違いに、大きな意味があるのではないだうか。

村上春樹の作品は「チューブラー・ベルズ」よりずっと変化がある。同じ物語を何度も書き続けているわけではない。しかし、同じ骨を何度もなぞっている感じがする。たとえば「1Q84」の形式は「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と同じだ。二つの平行する物語が次第に歩み寄る。「1Q84」の主人公が最初にデートし続けている女性とは会えなくなる。これは村上春樹の小説によく出てくるパターンだ。村上春樹は似たことを繰り返しながら、何かを探っているのだろう。走ることのように単調な繰り返しをすることで、どこか別のところに崇高なものが築き上げられる。その別なところとは、読者の心の中だ。村上春樹の作品をたくさん読めば読むほど、その繰り返しが読み手の記憶にすり込まれた何事かを喚起して、面白いと思わざるを得なくなる。ジャズのスタンダードが聞き手の記憶を揺り起こすように。

「1Q84」は春樹ファンの心をかき乱す装置にあふれていた。

そのうちに「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」「羊をめぐる冒険」あたりの、明らかなオマージュかリフレインが書かれるのではないだろうか。僕はそれらを作品の発表とほぼ同時期に読んだが、その体験は感情を司るたくさんの忘れられた記憶のひとつとなっているため、そのオマージュかリフレインによってきっと心の底が震わされるのだろう。そのとき、僕は何を感じるのか、楽しみだ。

1Q84

仕事帰りにふらっと近所の小さい本屋に寄ったら、村上春樹の新刊「1Q84」があったので買った。アマゾンで1万数千部という記録的な予約が入ったそうだ。予約した人はきっと手に入れるのにしばらく時間がかかるだろう。

帰ってちょっとだけ読んだのだが、面白くて止まらなくなった。これはやばい、仕事ができなくなる。

まだはじめの部分しか読んでないのだが、いくつかの「ほう」と思わされる部分があった。

「1Q84」にはヤナーチェクの「シンフォニエッタ」が登場する。「ヤナーチェック」と書かれているが、一般的には「ヤナーチェク」だ。去年鑑賞したオペラ「マクロプロス家の事」がヤナーチェクの作品だった。そのオペラではじめてヤナーチェクの作品を耳にした。「シンフォニエッタ」は聞いたことがなかったので、さっそくiTuneStoreで探して購入した。(Dvorák: Symphony No. 8 & Janácek: Sinfonietta Kurt Masur & New York Philharmonic)アマゾンで予約だけで1万数千だから、あっという間に数十万部は出るだろう。その1%の人が「シンフォニエッタ」を聞こうとしても数千の数になる。普段はあまりたくさん売れると思われない「シンフォニエッタ」のCDが、きっとこの数ヶ月で飛ぶように売れるだろう。

「マクロプロス家の事」はいろいろと音楽に凝った演出がされていたが、歌手が歌い出すと、その台詞と融合するように作曲されたため、とても自然に聞こえた。その結果、歌の中にはあまり特徴的なメロディーがなかった。昨日たまたま読んだ開高健の文章に「(モダニズムとは)1.最高の材質。2.デサインは極端なまでにシンプル。3.機能を完全に果たす」とあったが、まさにそんな感じだった。

「シンフォニエッタ」も一度聞いただけではしばらくすると忘れそうなメロディーだ。すんなりとは入ってくるが、とらえどころがない。村上春樹の小説に似ている。読んでいるときは夢中に読むのだが、あとで誰かに物語を話そうとするととらえどころがない。細部の連関が面白いので、全体を要約すると途端に精彩が失われる。たとえばドボルザークのメロディーを口ずさむと、それだけで魅力があるが、ヤナーチェクのメロディーを口ずさんでも、きっとはじめて聞いた人は「なにそれ?」と思うだろう。繊細にからみつくすべての音があってはじめてその魅力が現れる。

あともうひとつ「ほう」と思ったのは、チェーホフの「サハリン島」の引用があったことだ。村上春樹はなぜこの本を引用する気になったのだろう? 早く先を読みたい。僕の親父が樺太出身なので、親父が読んで赤線の引いてあるチェーホフ全集13巻「シベリアの旅・サハリン島」が机のすぐ脇に置いてある。いつか読もうと思っていたのだが、おかげでそのいつかは数日後となりそうだ。