仏教と科学の共鳴〜清水博氏と田坂広志氏の対話 その2

このエントリーはこちらからの続きです。

ふたりの話にはもうひとつ重要なキーワードが提出された。それは「ドラマ」だ。

司会者の問い「日本はめざましい発展を遂げましたが、一方で自殺者が一年に3万人もいます。日本は果たしてまっとうと言えるのでしょうか?」に田坂氏はこう答えた。

「存在する物すべてに意味があり、まっとうでないことを起こすために宇宙は日本を存在させたわけではないだろう。何か大切な意味があるはず。この文明が生まれたわけがどこかにあるはず。それを見つけなければならない。科学は発展段階の途中で、人類の歴史もまだ前史だと思う。これから本番の歴史が幕を開く。科学ですら分野をまたぐと、まだ統一された考え方はないのだから」

これを聞いて僕には二つの疑問が生じた。それは田坂氏の答えをきっかけに出てきた、僕の中によく生まれるいつもの問いだ。

1.「存在する物すべてに意味がある」ということも、「まっとうではない」という考えも、人間がもたらしていることであり、人間からの視点ではそのように考えられるだろうが、もっと高次の視点、たとえば地球からの視点とか、宇宙全体からの視点から考えることとは、関係がないのではないだろうか。

2.生命は常に進化し続ける。恐らく人間もそうだろう。もしそうだとしたら、何をもってして歴史の起点と言うのだろうか? 生命が進化することによって人間の視点が常に進化するのだとしたら、ある起点を歴史の始まりとしても、次の起点が必ず生まれるのではないだろうか。

どちらの問いもすぐには答えが出ないので、二人の対話について先を見ていこう。

司会者(青山プランニングアーツ代表尾中謙文氏)が清水氏に同様の質問をした。それに清水氏はこんな風に答えた。

「生きると言うことはシナリオのないドラマです。生きていることは研究できますが、生きていくことは科学では研究できません。ドラマは舞台と役者でできています。科学は役者だけを研究するようなものです。自殺してしまった人たちは生きていることはできたのです。しかし、生きていくことができなかった。科学はひとつひとつの物事を分けて見ます。しかし、ドラマは分けて見ることができない。ドラマは緩やかにつながった関係が動いているときに表れてくる。たとえば経済は人間と生きていく状態になければならない。ところが多くの経済学者は生きている状態を見て判断しているだけです」

カエルの解剖は分析できる。切り刻んでここは胃だとか、心臓だとか、研究ができる。しかし、カエルの存在全体はドラマのように緩やかな関係でつながっている。心臓が鼓動することで血液が流れ、その血液のいくらかが細胞に流れ込み、細胞の活動が心臓の鼓動をもたらす。これらの関係がどのように成立しているのかは分析しても現れてこない。人間は複雑な関係によって生み出されるたくさんの関係を時間軸によって追跡し、それらを適切に表現する言葉をいまだ持ってはいない。それはきっと言葉では表現し得ない何ものかなのだろう。だからこそ、その表現をするために気象を研究する人たちはたくさんのパラメータをコンピューターに入力し、些細な変化が全体の気候にどのような変化をもたらすのか常に検証し、関係を表すパラメーターや数式を更新していくことで、天気予報の確度を上げようとしている。同じように複雑なパラメーターや数式が、生命組織の行動を研究することにも必要となってくるのだろう。そして、その関係が複雑に絡まっている様を、僕たちは普通に使っている言葉では表現しきれない。ひとつの関係が変化することで、その変化が次第にまわりの要素の振る舞いにさらに変化を与え、はじめの小さな変化からは予想もつかないような大きな流れを生み出すことがある。それら全体の動きや関係は、とても言葉では表現しきれない莫大な動きや変化をもたらす。それら全体をとらえて清水氏はドラマと呼んだのだろう。

ここで司会者は別の質問を田坂氏にするのだが、田坂氏はその質問に答えず、清水氏の考えを補足してこのようなことを語った。

「ドラマというのは物語とも言えます。人生はシナリオのない物語です。心の素晴らしさは物語を見出す力にあると思う。どんなに不幸な境遇に置かれた人でも、その人なりに希望を見出す物語を見つけることができれば救われることがある。物語を紡ぐことができるのが魂の力だと言える。最近の人が生きにくくなったというのは環境が悪くなったのではなく、魂の力が弱くなったのではないか」

ここで清水氏が反論をした。「違うんです。物語ではなく、ドラマなんです」と。何が違うのかそのときはよくわからなかったが、あとの話を聞いて言いたいことがわかった。

「中一の時に敗戦を迎えました。ずっと大国を相手に戦うつもりで生きてきた大人たちが、負けて目的を失い、虚脱状態になっていたんですね。すると当時の子供たちは大人の様子を見て、自分ががんばらなければならないと思ったんです。僕なんか悩みすぎてノイローゼにまでなりました。そんな状況で立ち上がるというのは、私の命を支えることができるという信念なんです。そういうふうに苦しんで何かやろうと言うとき、それは物語ではなくドラマなんです。戦後の荒廃という舞台がない限りそのドラマは現れてこない。未来は舞台から生まれるのです。いま生きている舞台から始まるのです」

田坂氏にとって「物語=ドラマ」だったのかもしれないが、清水氏にとっては「物語≠ドラマ」であり、「ドラマ=役者+舞台」または、「ドラマ=物語+舞台」であることがわかった。(ただしこの場合の「+」は緩やかな関係にあることを前提にしなければならない) この区別はきっと清水氏にとって重要なことなのだろう。清水氏は「場の研究」をしているので、特に「場」に対する強いこだわりがあることがここに表現されたのだと思う。

なぜこれほどまでに清水氏が「場」にこだわるのかというと、それは彼が薬学博士であることに関係があるだろう。ここからは私の勝手な推測なので、そのことを断っておく。

ある化学物質を人間に投与して、それがどんな反応を起こすのかは、「実際にやってみないとわからない」。だから動物実験をおこない、ある程度の安全性を確かめてから人間に与える。そのような研究から、安全で有効な一握りの化学物質を薬と呼ぶようになる。つまり薬は、その化学組成や構造からだけではその効果を確信できない。もちろん、ある程度の推測はできる。しかし、その推測は実際に人間に投与するまで確証できない。なぜそのようなことになるのか、過去の科学的考え方では解明できなかった。つまり薬が流れ込む細胞という場と、その場が影響を与える臓器、そしてそれらの関係で生まれているからだ全体を、それぞれ別の視点や考え方でとらえない限り、うまくいかないことに、だれよりも深く清水氏は注目したのではないかと思う。

このエントリーを書くにあたり、ネットを検索して松岡正剛の書評に行き当たった。これだ。そこで紹介されている清水氏の著作『生命を捉えなおす』はずっと昔、高校生の頃に読んだ気がする。内容については全然覚えてないのだが、タイトルを覚えている。当時読んで理解できなかった大切であると思われる本のうち、特にいつか再読してみようと思った本の中の一冊だった気がする。長い間忘れていたが、11月1日のダライ・ラマとの対話の前に読み直してみよう。この書評は清水氏の考え方の骨格がある程度わかるようになっている。

話を対談に戻そう。司会者は仏教に話をつないだ。仏教の最大関心事は「1.苦しみの除去」「2.幸せの追求」だが、そのことに関して何か語ってくださいというフリがなされた。それに田坂氏はこう答える。

「仏教の苦はエゴの苦。エゴはなかなか捨てられない。しかし、二重生命と同様、苦しんでいる自分とそれを超えている自分がいることも確かなこと。エゴの自分を超えるためには、自分を他人に与えられるかどうかが鍵になる。そして、その与えることもDonationではなく、お布施の考え方が大切。『寄付したよ、何かしてくれ』ではなく、『お布施させていただきます。お布施したことによって私の中に何か崇高ものを感じるようになりました。このようなことを引き出してくださったのはあなたにほかなりません。ありがとうございます』という感覚。小我から大我を引き出してもらうためにお布施させていただいたという考え方が重要になる」

それに続いて清水氏はこのように語った。

「生命はすべて贈与でつながっている。私たちがなぜ生きていられるかというと、ほかの命をいただいているから。私たちが食べているものはすべて有機物。つまりかつて生命だったものを食べている。そして、ほとんどの命は命をいただいている。人間だけが独立して生きているわけではない。すべての生き物は命を何かに贈与している。人間も贈与することで、はじめてその循環の中に入っていける。仏教では心の問題について細かく分析されているが、餓鬼畜生から仏まで、いろんな心があり、それぞれのいろんな心をすべての人が抱えている。そしてそれは世界の状況を映し出す鏡でもある。人がひとりひとり自分の中にある心をどのように使うかで自分は変わっていける。そのようなことに気づき、どの状態の心でいるかに注意するべきだろう。今の私はいいドラマに引き込んでもらったなぁと思っている。自分が満たされつつ生きてきたと思う。それはきっといろんな人のおかげだろう。かつて学校は贈与の場だった。それが失われたのは数値で評価するようになったからだろう。数値だけで突っ走るのは贈与をもとにした生き方ではない」

お布施の話から贈与の話になるのはすごいなぁと思った。お布施の話では「何かものを差し出しながら、差し出した側がお礼を述べる」という、現在の普通の人間関係からでは考えつかないリフレーミングがおこなわれているが、贈与では「食べられている生物が食べる生物に命を差し出している」という、これもまたすごいリフレーミングがなされている。

この話の微妙なところは、どの視点からものを言うかだ。たとえば、「肉食動物が草食動物を食べているとき」それらより一段高い視点に立ったと仮定される人間が「彼らは命の贈与をおこなっていますね、このようにして命の循環がおこなわれるのです」というのはまあいいだろう。しかし、人間が人間の立場から屠殺される牛に向かって「牛は人間に命を贈与するんですね」と言ったらおかしなことになる。この区別がこれから問題になってくる気がする。

前の書き込みにも書いた「二重生命」の視点の違いである。個体の人間から見た世界と、細胞から見た世界の違い。それを拡大して、人間からの視点と地球からの視点。どんなにがんばっても人間は地球の視点を正しく持つことはないだろう。しかし、多くの人間がメディアを通してつながることで、個人や団体を超えた、地球の視点に近い視点を持たざるを得なくなってきている。この地球の視点に近い視点とはどのようなものかを考えていかない限り、次の文化の発展はないだろう。その入口の話を田坂氏と清水氏はしたように感じる。この視点について深く考えているのがケン・ウィルバーだ。『進化の構造』に詳しく書かれている。興味のある方は読んでください。『進化の構造・1』『進化の構造・2』

司会者の「田坂さんの好きな仏教の考え方は?」という質問に答えていくにしたがって、日本の仏教思想についての話になった。

「仏教の修行では厳しい戒律(セルフコントロール)を求められるが、日本の仏教ではそれへの反発か、そのままでいいとか、念仏さえ唱えれば必ず救われるなんていう考えが法然によってもたらされる。これにも非常に引かれる。悪人正機説は厳しい修行に打ち勝ってきた人たちが持ってしまう業のようなものを気づかせてくれる。私はこれだけ修行したから救われるとか、偉いとか思っている人が、善人でも救われるのだから悪人も救われるのですと言われることで、煩悩の深い落とし穴がそこにあることに気づく」

田坂氏に続き、清水氏が話した。

「近代西洋文明では我とは何かをあまり問うてない。科学は自分と他者を切り離すので、自己言及した途端に話が進まなくなると考える。二酸化炭素排出規制の話にしても、誰かやれ、俺はしないではどうにもならない。凡夫は悪を自分に引き受けるべきだ。自分の中に悪を認められれば、他者に対する態度も変わる」

これらの話には共感のための前提についての含みがあった。

僕たちは他人に共感することがある。その共感は自分の心の振れ幅が大きいほど生まれやすくなる。善しか許せない心では善にしか共感できない。多少の悪も含む人の考えや行動には、こちらにも多少の悪が必要だろう。「善」と「悪」というふたつの規準しか持たないのではなく、二重生命のようないろんな階層でもたらされる「善のような」「悪のような」「それらの中間のような」微細な区別を認識していけるように、いろんな感覚を受け入れていかなければならない。そのときに「私」という存在がどのような状態かが問われる。

この共感の前提が、人間という視点から地球の視点へ移行するための鍵の一つである気がする。ただし、これは断定ではない。「・・・かな?」という投げかけである。投げかけられた人がひとりひとり自分の心に照らして吟味しない限り、あまり意味をなさない。

メディアは人類の意識のあり方を進化させてきた。しかし、それは断定によって作られたラベルのような側面を持っている。実際に進化するためには、人類を構成するひとりひとりが自分について問いかける必要がある。私はどのような存在かと。そしてそれは、ただひとつだけの断定的な答えでは足りない。いろんな状態のいろんな視点を持つ際に、どんな答えが導かれるのか、常に問いと答えと、そして時々は解答保留の中にいなければならないということだろう。このことが多くの人にとってはっきりしてはじめて、オメガポイントに向かうあるレベルのヌースフィアが完成するのだと思う。

司会者の「科学者の倫理観はどうあるべきか?」との問いに、田坂氏はこんな話をした。

「倫理観について語るとき、それはすべきだとかすべきでないとか、二者択一のような論議を繰り返してしまう。ロゴスの限界を知るべきだと思う。感性で感じることの方が限界を超えやすい。たとえば、龍村仁監督の映画、地球交響曲を見ると、ある感覚が残る。それは一言ではうまく言えないけど、近い言葉をレーチェル・カーソンは残した。それは<センス・オブ・ワンダー>。センス・オブ・ワンダーをもって科学の限界を見つめ、それを超えていく。それは複雑系の科学といわれる分野になっていくだろう。複雑系はその系自体が生きていると言える。ケン・ウィルバーの著書に『意識のスペクトル』があるが、意識のありようによってそれぞれに真実が違うことを示している。だから、何が答えかというのではなく、私とは何かを見ることでスペクトルを把握し、そこから答えが導かれる」

これに続けて清水氏はこう語った。

「科学の問題は観察者と観察対象が別であること。分かれてみていることには限界がある。つながっているものを科学は研究できなかった。分かれていないものをどう考えるのか。これを考えないとドラマはできない。縁起は空と関係がある。我とはなにか、それは固定された実体ではない。相手が変われば自分も変わる。縁によって変わり、過去に作られた関係も関わりがある。場からの縁と人からの縁で常に変化していくもの」

ここで1932年、大不況の頃のイギリスの生物学者で西田幾多郎も同じことを考えていたという学者の話が出るが、名前は紹介されなかった。生命的直観についてと話していたのでフランスのベルクソンのことかとも思ったが、実際にはよくわからなかった。ベルクソンには「哲学的直観」や「意識と生命」という論文がある。清水氏は「環境と生物の相互整合的状態」という話をするのだが、僕にはその話が相互進化とほぼ同じことのように聞こえた。相互進化はたとえば草食動物と肉食動物が互いに補食しよう、捕食されないようにしようと進化し合うような状態のことを言う。環境と生物も同じように互いに影響を及ぼしつつある状況を作るだろうから、それを「環境と生物の相互整合的状態」と言っているのだろうと理解した。そして、その「環境と人間の相互整合状態」を続けることで、理想とする状態が生まれてくると言いたかったのかなと思う。

このあとに前のエントリーで書いた華厳経の話がされ、そのあとで清水氏からこんな質問がされた。

「人間が見ている世界が本当に世界なのでしょうか? カエルの見る世界はカエルの世界。カエルが見る世界は人間の可視光線の範囲とはまた別の範囲を見ている。その世界と人間の世界と、どちらが正しいのか言い合ってもあまり意味がない。同様に、人間が見ていると思っているものもは本当にあるものなのか? 人間は輪郭線で囲うとそこに何かあると認識するが、それは正しいことなのか? 文化によって色は違うし、ものの存在の仕方も違う。直観でしか論理を超えられないのではないか? 見ている実体はどこまで本当にあるのだろうか? 表層的な理解を超えた世界はどのようなものなのか?」

みんなの頭が「?」でいっぱいになったところで司会者が「未来を幸せにするためにはどうしたらいいか」と質問する。田坂氏はこう答えた。

「人間は幸せという言葉で思考を停止する。幸せを論じているという状態が不幸ではないか。幸せでいるためには感謝すること。感謝している瞬間が結果として幸せなのではないか。そのためには互いに生かし合っていることに気づくことが大切だろう」

清水氏はこう語った。

「なぜいま生きているかはわからない。生きてきたことを考えると、いただいてきたものをお返ししてないと感じる。たくさんのことを与えていただき、それに充足している」

これはおふたりなりの回向なんだなと感じた。

仏教と科学の共鳴 第二回  地球と環境
10月14日(水) 18時45分〜20時45 (開場時間 18時20分〜)
 ・竹村 真一(文化人類学者、京都造形芸術大学教授、Earth Literacy Program代表)
 ・星野 克美(文明哲学者、多摩大学・大学院教授、日本技術者連盟会長、グローバル・マネジメント・アカデミー会長)
 ・企画・モデレーター:尾中 謙文(青山プランニングアーツ代表、認知科学者)

◆場所:東京ウィメンズプラザ ホール
 東京都渋谷区神宮前5-53-67 B1階
 ・表参道駅(東京メトロ銀座線・半蔵門線・千代田線) 徒歩7分
 ・渋谷駅(JR山手線・東急東横線・京王井の頭線) 徒歩12分
 http://www.tokyo-womens-plaza.metro.tokyo.jp/contents/map.html

◆参加費:3,000円(自由席/事前振込み)

◆定員:240名(先着順)

◆登壇者プロフィール

【竹村 真一】
1959年生まれ。
京都造形芸術大学教授。Earth Literacy Program代表。
東京大学大学院文化人類学博士課程修了。
地球時代の人間学を考究しつつ、ITを活用した独自な地球環境問題への取組みを進める。
Sensorium(97年アルス・エレクトロ二カ・グランプリ受賞)、デジタル地球儀「触れる地球」(05年グッドデザイン賞・金賞)や「100万人のキャンドルナイト」「aqua scape」など、さまざまなプロジェクトを推進。環境セミナー「地球大学」主宰。
07年「water」展ではコンセプト・スーパーバイザーとして企画制作に携わる。
08年7月の北海道・洞爺湖サミットでは、 国際メディアセンター(IMC)内の環境ショーケースにおける「地球茶室」の総合企画・プロデュースを担当。
「地球の目線」PHP新書、新著「環東京湾構想」(共著)朝日新聞出版、など著書多数。
ラジオ「GLOBAL SENSOR」放送中(J-WAVE,偶数月の最終日曜25時〜)。
竹村真一プロジェクトサイト: http://www.elp.or.jp/

【星野 克美】
1940年名古屋市生まれ、名古屋大学経済学部卒業
研究履歴:筑波大学社会工学系専任講師・助教授を経て、多摩大学経営情報学部・大学院経営情報学研究科教授
専攻:文明哲学、未来文明論、地球環境文明論、文化記号論、認知科学記号論(Semiotic Marketing世界的パイオニア)
学会:比較文明学会会員
主著:『地球環境文明論』、『社会変動の理論と計測』、『消費人類学』、『流行予知科学』、‘Semiotic Marketing and Product Conceptualization’など多数
NPO:日本技術者連盟会長、グローバルマネジメントアカデミー会長、日本プライバシー認証機構会長
創作:形而上詩、環境文学

※プレイベントには、ダライ・ラマ法王は出演されません。

 11月1日の<「地球の未来」への対話>は、ダライ・ラマ法王と、上記4名の先生(田坂広志氏、 清水博氏、 竹村真一氏、星野克美氏)の対話イベントです。

◆主催:「地球の未来」への対話 実行委員会(株式会社青山プランニングアーツ内)

◆協力:ダライ・ラマ法王日本代表部事務所(チベットハウス)

◆プレイベントお問い合わせ先:

「地球の未来」への対話 実行委員会

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「地球の未来」への対話 実行委員会
(株式会社青山プランニングアーツ内)
TEL  03‐6427-4021(平日10:00-17:00)

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ドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ(The Cove)」ついに日本で公開

こちらで話題にしたドキュメンタリー映画「The Cove」が、東京国際映画祭で公開されることになりました。

「ドキュメンタリー映画The Coveについて」

「The Cove への反論」

東京国際映画祭からの発表はこちら。(このページは閉鎖されています)

上映はたった一度なのできっと混むでしょう。明日チケット予約開始です。

映画としてはかなり面白いようです。こちらに映画の批評があります。(このページは閉鎖されています)

どんな映画か楽しみ。見方によって笑ったり、怒ったりしそう。

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きっこのプログで上関原発のことを知った。

もっと詳しく知るためにはウィキペディアを見るといい。

放射性廃棄物の処理法がいまだに確立していないにも関わらず、どうして原発を作り続けるのか、理解ができない。数千年、数万年、ものによっては数億年ものあいだ、安全に管理し続けられるわけがない。しかも廃棄物の量は増えていく。

電力が足りないことを理由に原発を作り続けて果たしていいのだろうか。受験生が勉強し続けるために覚醒剤を打つようなものだ。そのときはいいかもしれないが、あとでツケがまわってくる。

科学技術の発展によって放射性廃棄物の処理法が必ず確立されるというが、それは眉唾ものだと僕は思う。それが可能になる理論があり、それを実現するために努力しているのなら可能性もあろうが、放射性物質の半減期を早めるような理論が果たしてあるのだろうか。僕は聞いたことがない。誰か知っていたら教えて欲しい。

地球上はどこも流動的だ。どんなに深く埋めても、地層ごと流れていく。数億年のスパンが必要な放射性廃棄物はいつか生物に影響を与えて巡ってくるだろう。それが怖ければ宇宙空間に出すしかないが、宇宙に送る途中で事故が起きたらもう終わりだ。

民主党は原発肯定なので、これからも作り続けられるだろう。原発肯定派はこれから起きてくる出来事に目をつぶっているとしか思えない。数億年のあいだ、安全に放射性廃棄物が保持されることを信じるのなら、もっと別のエネルギーの開発を信じる方が現実的だ。原発をどのように減らしていくかを考え始めない限り、いつまでたっても自分の首を濡れた革紐で絞め続けるようなことになる。革紐が乾かないように、せっせと水をかけ続けるしかない。