ニュー・シネマ・パラダイス

いままでに見た映画の中で一番面白かったのは何かと聞かれてすぐに思い出すのが「ニューシネマパラダイス」だ。この映画は映像にされてないたくさんのことを思わせてくれるのだ。小説において「行間を読む」ことは大切なことだし、素敵なことだ。映画においては「背景を観る」といえるだろう。それは映画の背景であり、それを観ている自分自身の背景を感じることでもある。この映画はたくさんの背景を浮き上がらせてくれる。

「ニュー・シネマ・パラダイス」の概要はこうだ。

功成り名を遂げた映画監督サルヴァトーレ(通称トト)は幼い頃、小さな町の教会で上映される映画を楽しみにしていた。そのときの映写技師は上映するために前の晩にキスシーンを削除する。戦争のためか、教会で上映されるためだったかは忘れてしまった。トトはそのフィルムをくれとせがむが与えてはもらえない。次第に映写技師の手伝いをし、恋をし、成人すると、母の止めるのを聞かずに町を出る。町を出ることを決める前は町に残り、映写技師になろうとするが、父親代わりのようになった映写技師は、トトに町を出て、さまざまな勉強をしろと勧めたのだった。

年月が経ち、トトが有名な監督になったある日、母親からの手紙で、映写技師のおじさんが亡くなったことを知る。トトは映画監督としては成功しているが、いつも恋愛につまずいていた。何十年かぶりで帰る田舎の町。実家に帰ると母親は、成人まで暮らしていた監督の部屋をそのまま残していることに驚く。そして、葬儀へ参列する。青年の頃に離れた町での出来事を噂などで断片的に知る。

映写技師は監督に荷物を残していた。その包みの中身は、昔譲ってもらえなかったキスシーンのフィルムだった。監督は自分のオフィスに帰り、もらったフィルムをつなぎ、上映する。次々と現れるキスシーンに目頭が熱くなる。

この物語の素晴らしいところは、映写技師とトトとのあいだに読み取れる父親と息子の関係。さらに、母親の息子への愛情。それらが物語の行間にあふれ出てくること、物語の背景が画面から語りかけてくることだ。

ひとつのヤマは主人公が列車に乗って町に旅立つところ。行くなと止める母親と、行けと促す映写技師に、誰もが父親と母親の息子に対する葛藤を読み取っただろう。

僕の父は放任主義で、僕がどんなことを勉強しようとしても、どんな会社に入ろうとしても、思うようにしなさいとしか言わなかった。一方母親はいろんなことで心配していた。海外旅行に行こうとしたら、あまりにも心配だと言って行かせてもらえなかったこともある。それが原因で夫婦喧嘩にもなった。だから旅立ちのこのシーンは、僕の両親の葛藤を思い起こさせてくれた。

葬儀のために監督が帰ってきたとき、自分の部屋がそっくりそのまま残されていることに驚くシーンがあるが、あれも僕の母親のやりそうなことだなと思った。

つまり、僕は映画を観ながら、自分自身の人生や両親のことについて追想していたのだ。

映画のラストでは、葬式でもらったフィルムをつなぎ合わせ、監督はただ黙ってその画像を見るのだが、そのときに流れるキスシーンの連続は、見えている画像はキスシーンでありながら、僕たち観客は何十年もの映写技師とトトとの思い出をダフらせて観ることになる。

何度も何度も繰り返されるキスシーン。いろんな俳優が演じるそのキスシーンを観ながら、観客は自分の人生や、トトの人生、両親との関係、実らなかった恋、現在の家族関係などを画像の向こう側に観る。まさに映画を見ながら観客はその「背景を観る」ことになる。映画の「背景」はもちろん、自分の普段は隠されている「背景」をも。