自死という生き方

須原一秀という哲学者の本。「自死という生き方〜覚悟して逝った哲学者」を読んだ。

「おくりびと」がアカデミー賞外国語映画賞を取り、死について考える人が多くなってきているんだろうなと思う。去年僕も見て感動した。何度も泣かされました、いろんなシーンで。しかし「おくりびと」はあくまでも他者の死である。つまり自分以外の死を扱うことだ。ところがこの本、他の「死」を考えた本と徹底的に違うのは「自分の死について」の本なのだ。

「自分の死なんて、死んだことがないんだからわかるわけないじゃん」と思うかもしれないが、この本は著者自身が最後に死ぬよと予言して、きちんと死ぬのである。だから著者のあとがきのあとに、家族からとしてご子息がコメントしている。

一言で言うと父は毎日楽しそうな人でした。

お酒を飲むこと、銭湯に行くこと、運動をすることが好きで、友人も多く、還暦を過ぎても変わらずエネルギッシュに、若い自分よりよほど人生を楽しんでいるように見えました。

その父が、突然自死を遂げたと聞いた時、もちろんとても驚きました。

文字通り腰が抜けてしまいそうになるほどの衝撃でしたが、その反面、「父らしい最期だったな」と妙に納得させられた面もありました。

とは言え、父には借金や病気、その他一般的な自殺をする理由がなかったことは、一番側にいた母を含め、家族として断言できます。

父らしい、と思ったのは、以前から母に「死ぬときは潔く死ぬ」といった内容の事を話していたのを私も聞いていたからです。

そのせいか、どこかで心の準備が出来ていたのだと思います。

「自死という生き方〜覚悟して逝った哲学者」 須原一秀著 双葉社刊

「最後に   家族から」 抜粋

この本は「自殺」についての本ではない。「自死」についての本だ。「自殺」と「自死」では何が違うかというと、「自殺」は現在の状況からの逃避として死ぬ、「自死」は逃避ではなく、自主的に死を選択して死ぬことだ。だから須原氏は人生に苦しんだり、嫌気がさして死んだのではない。「楽しい人生をまっとうするため」に死を選んだのだ。その考え方を多くの人に理解してもらうために「新葉隠〜死の積極的受容と消極的受容」という本を書いた。それをこの本の編集者が浅羽通明氏の解説と、さきほど抜粋したご子息からの文章を加えて「自死という生き方〜覚悟して逝った哲学者」という本にした。

実は僕も同じ事を考えたことがある。それは小説のプロットを考えていたときだった。次第に医療が発達し、お金持ちは十二分な医療を受けられるようになったため、いつまでも生きていようという「選択」ができる。しかし、生物はいつか死ぬものだ。なので積極的に死を選ぶと言うことがあっても不思議ではないと思ったのだ。自分で立てなくなり、思うように動けなくなったとき、果たしてどうするか。このからだを脱いで、次の生へと旅立とうとするのではないかと考えたのだ。輪廻転生が実際にあるかどうかはわからないが、もしそのことを信じていると、自分からの脱皮はさらに容易にできるようになるなと考えた。

しかし、僕の場合は考えただけである。

須原氏はそのことを考え抜き、プロジェクトのようにして死に至る。その死までの考えを一冊にまとめたのだ。

この本の中で特にすごいと思ったのは「死の能動的ないし積極的受容の五段階」というものを理論として書いているところだ。キューブラーロスの「死の受容に関する五段階説」を参考に考えたそうだが、ひとつひとつ丁寧に考えていくと、自分も死に引きずり込まれそうだ。以下に引用するが、自分は引きずり込まれないという自信のある人が読んでください。

1「人生の高」と「自分自身の高」についておおよその納得

a 楽しいこと、うれしいこと、感激すること、苦しいこと、悲しいこと、などの
経験を通して、結局「人間が生まれて成長し、良いことも悪いこともあって、
老化して死んでいく」という人生全体についてのおおよそを体で納得していること

b 自分にできることの範囲のおおよその見当と、自分のして来たこと全体に対する
おおよその見通しを体で納得していること

c 種々の「極み」を達成することによって、「自分は確かに生きた」という思いを
日々体で納得していること

2死についての体感としての知識

a 自然死・事故死・老化・病気についての経験と学習と熟考

b 日ごろからの人生と死についての経験と学習と熟考

c その結果、「自分の死」(一人称の死)と「縁者の死」(二人称の死)と「他人の死」
(三人称の死)の違いを、実感かつ体感として区別し、理解できること

3「自分の死」に対しての主体性の確立

a 「自然死」に対しての主体性の確立(「自然死」の意義を自ら確認し、一人称の
立場で「どんな悲惨な形であってもかまわない。耐えて死んでみせる」という
覚悟と共に、「自然死」を自ら選択し、ゆるがないこと)

b 「人工死」に対しての主体性の確立(「病気・老化・死」という一連の運命に
受動的に流されることを拒否するための方策として、「意思的自死」の意義を
確認し、一人称の立場で葉隠的「死に狂い」の心構えを構築すること)

4キッカケ待ちとその意味づけ

a 自然死派(共同体への種々の配慮と、最後の瞬間までの生活様式の確立)

b 人工死派(自らに納得できる決断の時期の設定とその理由付け、そして共同体との
折り合いをつけるための配慮)

5能動的行動

a 「さあ、来い!」という積極的に迎え撃つ心構えの構築作業

b 「さあ、行くぞ!」という心構えでの積極的行動

「自死という生き方〜覚悟して逝った哲学者」 須原一秀著 双葉社刊

この五つがそろってはじめて自死できるそうだ。すごい考察をしたものだ。ここでは「自然死」と「人工死」を区別することで、「人工死」の価値に気づかされる。

「自然死」がどういうものかをまず考える。「自然死」については『人間らしい死に方』(ヌーランド著河出文庫)という本を参考にしている。そしてこう書いている。

専門家としてのヌーランドは、「はじめに」の所で「私自身、人が死に行く過程で尊厳を感じた例に出会ったことはほとんどない」と主張し、エピローグにおいても「臨終の瞬間は概して平穏で、その前に安楽な無意識状態が訪れることも多いが、この静けさはつねに、恐ろしい代償とひきかえでなければ得られない」と言っている。

つまり、「自然死」のほとんどが悲惨なものであり恐ろしいものであるにもかかわらず、世間にはなぜか、「穏やかな自然な死」とか、「眠るような老衰死」という神話のようなものがあるが、それは間違った思い込みであることを問題にしているのである。

「自死という生き方〜覚悟して逝った哲学者」 須原一秀著 双葉社刊

つまり、恐ろしい「自然死」で死ぬか、ちょっと苦しいかもしれないが自分で選んだ「人工死」を選ぶかと、明確な選択肢を渡されてしまう。こうなってくると「人工死」もありかも、と思わざるを得ない。(もちろん思わなくてもいいんだけど)

この五段階を読んだときに思いだしたのはヒーリング・ライティングの「気持ちいいもの」のエクササイズだ。かつて、毎日ひとつずつ「気持ちいいもの」を思い出し、それを短文にまとめていた。それをし続けると(1000日間続けた)、気持ちいい感覚を以前より容易に引きよせられるようになるのだ。それと同じで、死について考え続け、体感として引きよせることで須原氏は、死ぬ状態に対しての免疫を作ったのだろう。そして、それは須原氏にとっては「免疫」ではなく、「踏み込むためのエクササイズ」だったのだろう。

この考えを自分の中に受けとると(僕の中ではまだ「さあ、来い!」とも「さあ、行くぞ!」ともとても思えないので、まだまだじたばたして生きていくのだが)、自殺しようとする人たちが、「私は自死します」と主張して死ぬような事態が生まれるのではないかと考える。そして自殺に対するある種の抵抗を「自死」と名付けることでその抵抗のハードルを低くするのではないかと心配だ。しかし、いくら僕が心配したところで、それを考えるのは個人個人の心の中なので、相談されない限りはどうしようもない。僕のような「人は自分で死んではいけないもの」という考えにしがみついている人間には「死は個人的なことで他者に束縛されるべきではない」とドライに割り切ることはできるかどうか、まだ曖昧なことにしておきたい。

この本を読んでいて「ソイレントグリーン」というSF映画を思い出した。(ウィキペディアにストーリーが書かれています) あの物語では「人がある状況に強いられていく」が、もし能動的に踏み込んでいくようになったら、いったいどうなるのだろうと考えてしまった。そして、そのことと臓器移植の類似性についても考えた。デリケートで、理解してもらうためにはかなりの文章が必要となるので、ここには書かないでおく。

「自死という生き方〜覚悟して逝った哲学者」 須原一秀著 双葉社刊

小説『昴』を読んだ

このパーティーでいただいた小説『昴』を読んだ。

この小説を読みながらいくつものシンクロニシティを感じた、「マカリイ」に関してはこちらに書いたが、ほかにも「太一」「諸葛孔明」「月震」などに僕は響いた。

「太一」については先日読んだ吉野裕子女史の本に登場する。「諸葛孔明」というのはひさしぶりにあるイベントの内覧会で大島京子さんに会ったら、諸葛孔明がしていたという占術に話しが及び、そのことをいろいろと教わっていたのだ。「月震」は月が中空になっていて、表面で大きな振動を与えると、鐘のように響き続けるという話しだ。これはかつてその研究をするためにNASAから機材発注を受けた会社の人から話を聞いた。

どの話も僕個人に起きたことで、すべての人に関係あるわけではないが、小説『昴』はそのようなゆるい関係性を信じる人のために書かれた小説だと思う。ハリウッド映画のように観ている者、読んでいる者を結末に追い込む作品ではなく、縁(えにし)の妙を楽しむことができる人に許される仕掛けが凝らされている。

たとえば小説『昴』には紅白二本のスリップ(しおりのための細い紐)がついている。小説に二本のスリップは珍しい。しかも紅白だ。なぜだろうと思いながら読んでいると、小説の中にそのヒントのような話しが登場する。しかし、その話しもこの本の装丁とどう関係あるのか、具体的には明かされない。ニュアンスの網の目に読者は誘(いざな)われる。

谷村氏は作詞をするのでニュアンスにとてもこだわるのだろう。一言一言はごくありふれた言葉だが、いくつかの要素に支えられてある言葉が登場すると、その言葉はもとの言葉以上の意味を持つ。なので読み始めたときには面白さがよくわからなかったが、読み進めるうちにいろんなことが見えてきた。

『昴』 谷村新司著 KKベストセラーズ

いのちは即興だ

一昨日、一冊の本が届いた。お世話になっている地湧社から、近藤等則氏の新刊「いのちは即興だ」だった。地湧社はなぜこの本を送ってくれたのか、不思議な感じがした。よくぞこの本を送ってくれたと思ったからだ。地湧社からは年間に何冊もの新刊が出るはずだ。そのすべてを送ってもらっているわけではない。年に一冊くらいだ。その一冊がこの本だったとはと驚いた。

近藤さんがかつて資生堂のCMに出ていたときに、強い印象を受けてレコードを買った。アルバムの名前を忘れていたが調べたら思い出した。「コントン」だ。近藤等則の名前を縮めて「コントン」。その音楽自体も混沌だった。それから一年ほどしてJCBのCMに出ているときに冠コンサートの打ち合わせで一度だけお目にかかった。それ以来、ずっと忘れていたが、2001年にダライ・ラマが提唱した「世界聖なる音楽祭」でひさしぶりに近藤さんの名を聞き、お元気なんだなと思った。

かつての近藤さんの音楽は岡本太郎の言葉、「芸術は爆発だ」を音楽で表現しているような前衛的な物だった。最近の音楽はどうなんだろうとYouTubeを探したら、もっと静かになり、その場のバイブレーションと共鳴するような音楽になっていた。「BLOW THE EARTH 近藤等則」で検索すると出てくる。

「いのちは即興だ」はあまりにも面白いので三時間ほどで読んでしまった。

近藤氏は京都大学工学部で学び、卒業して何になるかと考えたとき、一流企業からの誘いを目の前にして、企業に行ってもうまく行かないなと感じ悩んだ。そのとき「自分が死ぬときから今の悩みを見ればいいんだ」と思い、死ぬときに楽しかったと思えるのは音楽だと感じて、ミュージシャンになったそうだ。

ミュージシャンになると決めると「楽しむ側」から「楽しませる側」になる必要がある。ところが人を楽しませるための何物も自分のなかにはないと悟る。ジャズの一流ミュージシャンはみんな一流になるべき物語を持っている。さらに、黒人であるという歴史的な物語を背負うことで、その音楽に深みや流れを生み出している。

近藤氏は自分にはそのようなものがないと悩むが、自分が日本人であるからと、日本の求道者や絵描きの本を読んでいった。そこで見つけたのはアナーキーな生き方だった。そのおかげで黒人のミュージシャンに対するコンプレックスが抜けたと書いている。

僕と徹底的に違うなと思うのは、「いいと感じたらやってしまう」こと。僕はどうもぐずぐず考えてしまう。僕にはどうしても行きたい場所がある。しかし、そこにはなかなか行けない。「時間がない、お金がない……」

僕が会社員だった頃、当時F3000のドライバーだった黒澤琢弥氏がある酒の席でこんな話をしてくれた。

「俺はいまドライバーだけど、昔メカニックをやっていた。よく若いメカニックがどうしたらドライバーになれますかって聞いてくるんだけど、そんなこと聞く前にドライバーになるためのことをやっていきゃあいいんだよ」

当時の僕には響いた。それを今また思い出した。自由に生きていくには無意識を解放しなければならない。自分のいのちに忠実に生きるためには、その場その場の即興に乗るべきだ。そんなことを語りかけてもらった。