特定秘密保護法案について僕が思うこと

特定秘密保護法案が2013年12月6日に成立し、同年同月13日に公布された。1年以内に施行されるはずだ。僕はこの法案について賛成か反対かとても微妙だ。この法案をどのように利用するかが大切だから。もし、日本人がみんな互いに信頼し合える間柄ならば、たいして問題にはならない。信頼し合えない間柄なら大変問題だと言うことだ。さて、どちらの立場に立つのか? このことに関して考えるために、少し別のことを考えてから、この問題に戻ってこようと思う。

20年近く前、僕はケニアに行った。一頭の象に会うために。その象の名前はエレナ。ドキュメンタリー映画『地球交響曲(ガイヤシンフォニー)第一番』に登場する象だ。僕はこの象を育てたシェルドリック動物孤児院を舞台として、『ひとりぼっちのケティ』という少女マンガの原作を作った。ストーリーの概要は、動物孤児院の存在を知った日本の女の子キッコが、子象の養い親となり、その子象ケティに会いに行く。そこで密猟の現実に巻き込まれながら、動物を愛するとはどういうことかを学んでいく。このとき、現地の象の密猟について詳しく調べた。そこで僕自身がとても大切なことを学ぶことになった。それは歴史というものの成り立ちだ。

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綱淵謙錠、一字題の訳

先日、Tokyo Water Clubという異業種交流会で、僕の父に関する講演をさせていただいた。講演の準備にいろいろと調べていくと、以前にはわからなかった謎がいくつか解けた気がする。なぜ「解けた」と言い切らず、「解けた気がする」と少し曖昧にするのかというと、もう父は生きてないので確認することができないからだ。
 
父は綱淵謙錠(つなぶちけんじょう)というペンネームで作家だった。1972年上半期の直木賞をいただいた。多くの作品が一字題で、テーマは「敗者」ばかりを選んでいた。前半生は苦労の連続だったようだ。僕はあまり謙錠から本人自身の話を聞いたことがない。僕が謙錠について知っていることは、黙って書斎に籠もっている姿と、晩年二人でSeven Seasという月刊誌に14回にわたって連載させてもらったときのインタビューと、あとは残された著書程度のものである。講演を依頼されても、果たして話すことがあるかどうか心配だった。
 
謙錠の年表や作品を調べていくと、いくつかなるほどと思ったことがある。そのひとつが、なぜ一字題にこだわったのかだ。講演内容を考えていたとき、「一字題の理由」と「敗者の文学」について語ろうかと思ったが、一字題のほうはきっと明確なことはわからないだろうと思い、敗者の文学についてのみ語ろうと思っていた。ところがあることを思い出したことがきっかけで、なぜ謙錠が一字題にこだわったのか、その理由がわかった気がした。
 
謙錠は樺太の網元の家に生まれた。当時北の漁場で網元をしていると鰊御殿が建つと言われたほど儲かったようだ。鰊は季節になると産卵のため大挙してやってくる。その群れはとても大きく、海面が鰊の大群によって盛り上がるほどだったという。その状態を形容する言葉もあり、群来(くき)ると言ったそうだ。ところが、謙錠が小学校に上がる頃に家は没落する。砂浜の近くの小屋に住むようになった。なぜ没落してしまったのか、その理由を僕は知らなかった。謙錠が死んでから謙錠の従兄弟にあたる綱淵昭三に会ってはじめて理由を聞いた。当時、港には綱淵桟橋があり、そこに何艘もの船が繋留されていた。その桟橋がまるごと放火にあったそうだ。
 
昭和初期、樺太の大きな屋敷に住んでいた小学生が、ある日から海岸沿いの小屋に住むようになったとしたら、まわりの子供たちからはどんな扱いを受けただろう? いじめられなかったとしても、少なくとも好奇の目で見られたことは間違いないだろう。謙錠はそれが余程悔しかったのか、勉強に打ち込み、中学では成績が学校でトップとなり、第一回樺太庁長官賞というものをもらう。その後、旧制一高を受けに行くが落ちてしまう。一年浪人の後、旧制新潟高校に入る。高校卒業と同時に東京大学に入学するが、学徒出陣で戦場へ。生きて帰ると故郷である樺太がソ連に占領されていた。家がなく、財産もなく、その日暮らしでなんとか生き延びていく。このとき以来、謙錠は自分のことを流浪者と呼ぶようになる。そして様々な苦労を重ねた上でやっと中央公論社に入る。
 
入社翌年「中央公論」の編集担当となり、翌々年に谷崎潤一郎の担当として『鍵』を編集する。当時中央公論は発行部数も多く、人気のある一流総合誌だった。その編集者となり、しかも谷崎潤一郎という人気作家の担当になったのだからよほど嬉しかったに違いない。謙錠の長男は「純」というが、谷崎潤一郎の「じゅん」をいただいたのだという。ただし、まったく同じ「潤」では申し訳ないので「純」にしたのだとか。もしそれが本当だとすると、中央公論社に入社する以前から谷崎潤一郎のことを尊敬していたことになるのだから、その喜びはどんなものだったのだろう。
 
そのことがうかがい知れる文章が『斬』のあとがきにある。あとがきの書き出しは、漁に出て事故に遭った人たちを弔う謙錠の母の思い出からはじまり、その母から<おまじない>の言葉をもらう話に移っていく。幼い頃、樺太の真っ暗な夜道を帰るときなど、その<おまじない>「ガストーアンノン テンニンジョージューマン」を唱えながら歩いたそうだ。そしてこう続く。
 
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共時性についてわからなかったこと

ユングの作った概念に共時性(シンクロニシティ)がある。その概念は東洋的思考から生まれることであることを「ビジョン・セミナー」という本で明かしている。

「ビジョン・セミナー」はユングがリヒャルト・ヴィルヘルムによって訳された道教の書物に出会い、『黄金の華の秘密』を出版した翌年からおこなったセミナーの講義録である。そのなかで共時性についてこんなことを語っている。
  ヴィルヘルムの住んでいた地方でひどい旱魃がありました。何か月もの間、雨は一滴も降らず、事態は逼迫してきました。旱魃の悪霊を脅して追い払うために、カトリック教徒は聖歌を歌って行進し、プロテスタントは祈りを捧げ、中国人は神像の前で線香を焚き鉄砲を撃ち鳴らしましたが、どうにもなりませんでした。しまいに中国人が言いました。雨乞い師を呼んでこよう、と。そして、別の州から、干からびた老人がやって来ました。彼が要求した唯一のものは、とある場所に静かな小屋でした。そこに彼は三日間こもったのです。四日目には雲が雲を呼び、雪が降ることなど考えられない季節に大変な吹雪となりました。尋常ならざる大雪です。町はその不思議な雨乞い師の噂でもちきりだったので、ヴィルヘルムはその男を訪ねて、いったいどういうふうにしたのか訊きました。まったくヨーロッパ式にこう言ったのです。「人々はあなたを雨作り(レインメーカー)と呼んでいます。どうやって雪を作ったのか教えていただけますか」。すると、小柄な中国人は言いました。「わしは雪を作ったりはせなんだ。わしのしたことじゃない」「ならば、この三日間、あなたは何をしておいででしたか」「ああ、それは説明できる。わしは、ものごとが秩序のなかにおさまっているよその土地から来た。ここでは、ものごとが秩序からはずれておる。天の定めによるしかるべきあり方になっておらぬ。つまり、この土地は全域、タオからはずれているのじゃ。わしも、秩序の乱れた土地にいるがために、ものごとの自然な秩序からはずれてしもうた。だから、わしは、自分がタオのなかに戻るまで、三日間待たねばならなんだ。すると、おのずから雨がきたんじゃよ」。