地球の未来は?

日々多くの人がAIに、「どうすれば競争に勝てるか」を尋ねているように思う。

どうすればもっと儲けられるか。どうすれば仕事で成功できるか。どうすれば競争相手より有利になれるか。企業なら、どうすれば他社より大きなシェアを取れるか。国家なら、どうすれば他国より優位に立てるか。もちろん、競争のある社会に生きている以上、そう考えること自体は不思議ではない。しかし、みんながAIを使って競争に勝とうとしたら、どうなるだろう。

AIは競争をなくすのではなく、競争を効率化し、加速させるかもしれない。そう考えると、「AIがいつか人類より賢くなって、人類を滅ぼす」という話とは、少し違う危険が見えてくる。AIが人類を滅ぼすというより、人類がAIを使って、自分で自分の首を絞めていく可能性である。

  AIの問題なのか、人類の文化の問題なのか

僕は以前から、人類が競争を基本とする文化から抜け出し、相互に助け合うことを基本とする文化を作らないまま、AIのような強力なものを生み出すことには危険があると考えてきた。これは人間同士の関係だけではない。

人類は地球のバイオスフィア(生命圏)から大量の資源を取り出している。それを一方向の関係にするのではなく、人間とバイオスフィアの間にも相互的な関係を作る必要がある。ただし、競争そのものをすべて否定すればいいわけではない。自然界にも競争はある。競争から新しいものが生まれることもある。問題なのは、競争を社会の最上位の原理にしてしまい、勝つためなら他の存在を犠牲にしても構わないという仕組みを作ってしまうことだろう。

相互扶助にも同じ問題がある。仲間同士がどれほど助け合っていても、その集団全体が外部の人々や自然を搾取していたら、それで問題が解決したことにはならない。だから必要なのは、単純な「競争から相互扶助へ」という転換だけではない。自分たちの輪の外側に何が存在しているのかを、常に考え続けること。ここに「全ホロン尊重」という考えが関係してくる。

  自分たちの判断は不完全である

すべての存在を考慮することなど、人間にはできない。世界には、僕たちが知らないものが無数にある。知っている相手についてさえ、その人が何を考えているのか完全には分からない。だから「全ホロン尊重」は、すべてを知ったうえで完璧な判断をする思想ではない。むしろ逆である。

自分たちの判断が不完全であることを忘れない。

これが重要になる。「これが正解だ」と決めて終わるのではなく、「自分には何が見えていないのだろう」と問い続ける。決断も最終決定ではなく、「今のところ、これを選ぶ」という一時的な決断になる。そして選ばれなかったものや、その決定によって犠牲になったものを「なかったこと」にしない。AIは、このために使うこともできる。

「どうすれば僕が勝てる?」とAIに尋ねる代わりに、「この判断によって利益を得るのは誰で、負担するのは誰か?」「僕には見えていないものがないか?」「一方的な関係を、もっと相互的な関係にできないか?」と尋ねる。

そうなればAIは、競争を加速する装置ではなく、人間の限られた視野を補う道具になるかもしれない。

  フィジオスフィアからバイオスフィアへ

この問題を考える背景には、テイヤール・ド・シャルダンの『現象としての人間』がある。地球の歴史を大きく眺めると、最初には生命の存在しない物質の世界があった。これをフィジオスフィア(物理圏)と呼ぶことにする。そこから生命が生まれ、バイオスフィア(生命圏)が形成された。ただし、「フィジオスフィアがあった。そこに突然生命が誕生した」という単純な話ではない。

一つの仮説として考えるなら、高分子化合物が複製されるようになり、それが安定して存在できるような膜が形成され、やがて膜を含むシステム全体が複製されるようになる。そこから亜生命体のようなものが生まれ、さらに生命体へと進化していったと考えることができる。

ここで興味深いのは、複製するものだけが複雑になったのではないことである。複製するものを包み、維持する仕組みも複雑になった。そして生命体は環境から影響を受けるだけではなく、逆に環境を変えていった。そうした相互作用の巨大な集積としてバイオスフィアが形成されていった。つまり、ここではホロンの拡張が起きている。

  バイオスフィアからヌースフィアへ

同じようなことが、バイオスフィアからヌースフィア(人智圏)と呼ぶものが生まれるときにも起きたのではないか。

類人猿が言語の原型のようなものを獲得する。それが個体間に伝播する。さらに言語を扱うための脳、口蓋、舌、呼吸システムなどが発達し、高度な言語を使う人類が現れる。そして言語が人から人へ流通する社会が作られる。言葉だけではなく、知識、技術、物語、習慣、価値観などが人間から人間へ伝えられ、世代を越えて蓄積されるようになる。そこからヌースフィアが形成されていった、と仮説ではあるが考えることができる。実際の進化がこの順序だったと主張したいのではない。僕が注目しているのは、複製するものと、それを包む環境が相互に影響しながら複雑化していく構造である。このとき、生命誕生における「膜」に相当するものは何だろう。僕は、言語が話される領域ではないかと考えている。

同じ言語を共有する人々の間では、情報や経験を交換できる。それによって、一人の人間を越えた社会的なホロンが形成される。膜が生命体の内側と外側を作ったように、言語も「私たち」という領域を作った。ただし、それは同時に「私たちではないもの」も作る。ここにも、全ホロン尊重が考えなければならない問題がある。境界をなくせばいいわけではない。生命体に膜が必要なように、ホロンが存在するためには何らかの境界が必要である。

重要なのは、境界を持ちながら、境界の外側との相互関係を失わないことなのだろう。

  ヌースフィアの次に何が生まれるのか

テイヤールは、ヌースフィアの進化が最終的にオメガ・ポイントへ向かうと考えた。しかし僕は、ヌースフィアが最終段階だとは考えていない。ヌースフィアから、さらに複雑な新しいスフィアが生まれつつあるのではないか。僕はそれを、「サイバースフィア」と呼ぼうと思う。AI、インターネット、ソフトウェア、アプリケーションなどによって形成される新しい領域である。これを単なる「人間が便利な道具を作った」として見るべきだろうか?

フィジオスフィアからバイオスフィアが生まれ、バイオスフィアからヌースフィアが生まれたように、ヌースフィアの内部から、ヌースフィアとは異なる性質を持った新しいホロンが形成されつつある可能性がある。もちろん現在のAIやインターネットは、ヌースフィアの一部にすぎないと考えることもできる。僕が「サイバースフィア」と呼ぶのは、それがすでに独立した圏になったと断定したいからではない。人間が作った情報やプログラムが、人間一人ひとりの理解や制御を越えて相互作用する領域が生まれつつあることに注目するからだ。しかし、サイバースフィアが最終的にどんなものになるのかは、僕たちには決められないだろう。

次にどんな複製子が生まれるのか。サイバースフィアの先にさらに何が生まれるのか。僕たちにそれを予測しようとすることはできても、あらかじめ決めることはできないだろう。僕たちが考えるべきなのは、未来の進化の行き先ではない。新しいものが生まれてくるとき、それまで存在していたものと、どんな関係を作るのかということではないだろうか。

  全ホロン尊重は自然法則ではない

バイオスフィアはフィジオスフィアから生まれた。しかしバイオスフィアはフィジオスフィアなしには存在できない。ヌースフィアはバイオスフィアから生まれた。しかしヌースフィアはバイオスフィアなしには存在できない。同じようにサイバースフィアがヌースフィアから生まれるなら、それもヌースフィアだけでなく、その下にあるバイオスフィア、フィジオスフィアとの関係の中に存在することになる。新しいスフィアが生まれたからといって、それ以前のスフィアが不要になるわけではない。むしろ、新しいホロンが生まれるほど、関係するものは増え、依存関係は複雑になっていく。進化によって新しいものが加わるたびに、関係の網は変化し、複雑になってきた。しかし、その過程では多くの生命が消えてもいる。自然そのものが、すべてのホロンを尊重してきたわけではない。だから「全ホロン尊重」は自然界から発見した法則ではない。これから何を選ぶかという、僕たちの側からの提起である。

それは「すべてを傷つけてはいけない」という不可能な倫理ではない。生きるだけでも、僕たちは他の生命を犠牲にする。だから必要なのは、犠牲を完全になくすことではなく、犠牲になったもの、選ばれなかったもの、境界の外側に置かれたものを、なかったことにしないこと。そして、自分たちには、まだ見えていないものがあることを忘れないこと。

AI時代に必要なのは、AIより人間が賢くなることではないのかもしれない。人類の知能は、AIによって急速に拡張されていくだろう。それと同時に必要なのは、「自分たちの判断は不完全である」と知り続ける能力を拡張することなのではないだろうか。つまり「全ホロン尊重」は自然法則の発見ではなく、ヌースフィアにおいて、僕たちが自ら選択できるようになった倫理なのかもしれない。

未来を決めてしまうのではなく、未来に何が生まれてきても、それとの関係を考え続ける。「全ホロン尊重」とは、完成した未来の設計図ではない。むしろ、未来を一つの正解に固定しないための倫理なのだと思う。

何度も似た話をしているが、内容が多面的なので仕方ないと思っている。お付き合いいただき、ありがとうございます。

ほかには?

人は、自分の中に矛盾したものをたくさん抱えている。優しい自分もいれば、意地悪な自分もいる。頑張ろうとする自分もいれば、何もしたくない自分もいる。勇気のある自分もいれば、怖がって逃げたい自分もいる。

たとえば消防士が火災現場にいたとする。「消防士として目の前の人を助けたい」という自分がいる一方で、「親として生き残って子どもを育てたい」という自分もいるだろう。どちらが本当の自分なのだろう? おそらく、どちらも自分なのだ。

人間は一つの固定した「自己」でできているのではなく、立場や状況によって現れてくる、さまざまな自分を持っている。しかも、それらは固定した人格ではない。そのときの状況や人間関係、立場によって、前面に現れたり、背景に退いたりする。ところが僕たちは、その中からいくつかを選び出して「自分はこういう人間だ」という自己像を作っているように思う。「自分は優しい人間だ」とか「自分は理性的な人間だ」、「自分は臆病な人間だ」など。しかし、それは自分の全体ではない。自分の中にあるさまざまなものから、いくつかを取り出して作った「断片化された自己像」にすぎないように思う。

そう考えると、自分についての見方と、他人についての見方には、少し似たところがある。他人の心の中を、僕たちは直接見ることができない。相手の言葉や表情、行動、これまでの付き合いなどから、「あの人はこういう人だろう」「あの人はきっとこう考えているだろう」と推測している。

僕は、このように他者について暫定的に作った認識を「断片化された他人像」と呼んでいる。「断片化された他人像」は相手そのものではない。自分が知ることのできた断片的な情報から、その時点で推測して作った相手の像である。

僕たちは、自分についても他人についても、その全体を見ているわけではない。自分については、自分の中に現れるさまざまな自分から一部を選んで「断片化された自己像」を作り、他人については、その人について知り得た情報から「断片化された他人像」を作っている。ここで役に立つ、とても簡単な問いがある。「ほかには?」という問いだ。

「あの人は身勝手だ」と思ったときに、「ほかには?」と考えてみる。身勝手に見える行動にも、こちらには見えていない事情があるかもしれない。もちろん、本当に身勝手な可能性もある。「ほかには?」と問うことは、自分の判断を否定することではない。ただ、それだけがすべてだと決めない。自分についても同じだ。

「自分は情けない」と思ったとする。それも自分の一面だろう。でも、「ほかには?」と考えてみる。情けない自分の横に、頑張っている自分もいるかもしれない。誰かを思いやっている自分もいるかもしれない。腹を立てている自分も、逃げたい自分もいるかもしれない。どれか一つを「本当の自分」にして、それ以外を消す必要はない。

ところが、これを実際にやると、心は一度不安定になる。それまで「自分はこういう人間だ」「これは正しい」「あれは間違っている」と考えることで保たれていた安定が崩れるからだ。僕は、このような安定を「閉じた安定」と考えている。閉じた安定は、考慮するものを減らすことで成立する。

「自分はこうだ」「世の中はこうだ」「こちらが正しく、あちらが間違っている」と決めれば、考えなければならないことは少なくなる。だから楽だし、安定もする。しかし、この安定には危うさもある。「自分はこういう人間だ」という自己像を強く持つほど、それに合わない自分を認めにくくなるからだ。「自分は善良な人間だ」と思っていれば、自分の中にある意地悪な部分を見ないようにするかもしれない。「自分は理性的な人間だ」と思っていれば、自分が感情に動かされていることを認めにくくなるかもしれない。さらに、こうした固定した自己像は、他者から利用される可能性もある。

「善良な人なら当然こちらを支持しますよね」「愛国者ならこう考えるはずです」「合理的な人なら、この結論以外あり得ません」などと言われたとき、自分を「善良な人」「愛国者」「合理的な人」と強く規定しているほど、その自己像を守るために相手の主張を受け入れてしまうことがある。固定された自己像が、外から人を操作するための取っ手になってしまうのである。

「ほかには?」と問い続けていくと、一度は不安定になる。しかし、さまざまな自分や、さまざまな状況、異なる立場、知らなかった事実などを斟酌していくうちに、その先に別の安定が生まれることがある。それを「開いた安定」と呼んでいる。

開いた安定は、「絶対にこれが正しい」という安定ではない。さまざまなことを考慮したうえで、「今のところ、僕はこう考える」と決めることである。「今のところ」が重要だ。新しい事実が分かれば、考え直せばいい。別の立場に気づけば、それも考慮に入れればいい。

だから開いた安定は、何でも疑って何も決められない状態とは違う。考えたうえで決める。ただし、その決定を永久の正解にはしない。僕が「全ホロン尊重」を考える中で「一時的決定」が必要だと思うのも、ここに理由がある。

人間には、世界に存在するすべてのものを知ることなどできない。どれほど多くのことを斟酌しても、必ず見えていないものが残る。だから、完全な決定などできない。その時点でできるだけ多くのものを考慮して決める。そして、新しいものが見えてきたら、また考える。

開いた安定とは、多くのことを斟酌したから二度と揺れなくなることではない。まだ自分が斟酌していないものがあることを知りながら、それでも現在の場所に立つことである。そして、この構造は個人の心の中だけにあるものではないように思う。社会も同じだ。

異質な意見を排除してしまえば、社会は一時的に安定する。反対意見を消し、異なる価値観を排除し、「みんな同じ考えです」という状態を作れば、争いは表面から消えるかもしれない。しかし、それは閉じた安定である。逆に、さまざまな意見を認めれば、社会は一見不安定になる。議論が起こり、対立が表面に出てくる。

けれども、それらを消去せず、できるだけ多くの立場や状況を斟酌しながら、その都度一時的な決定をしていくことができれば、そこには別の安定が生まれる可能性がある。

個人の中で気に入らない自分を消去すること。
集団の中で都合の悪い人を消去すること。
社会の中で都合の悪い意見を消去すること。
国家が自分たちにとって邪魔な存在を消去しようとすること。

規模はまったく違う。しかし、そこには似た構造があるのではないか?

「正しくないものは消去する」という考え方が、個人の心から国家間の争いまで、形を変えながら繰り返されているのだとしたら、「全ホロン尊重」はその反対方向を試みる考え方でもある。すべてを受け入れるという意味ではない。

暴力を振るう人がいれば止めなければならない。危険から逃げなければならないこともある。何かを選び、何かを選ばない決断も必要になる。ただ、選ばなかったものを「存在しなかったこと」にしない。自分の判断だけで世界を閉じない。そして、ときどき問いかける。

「ほかには?」

この問いは、ときに僕たちを不安定にする。しかし、その不安定さを通り抜け、多くのものを斟酌したところに、以前とは違う安定が生まれることがある。全ホロン尊重が目指しているのは、もしかすると、揺れない人間や揺れない社会を作ることではないのだろう。揺れながら考え、必要なら修正し、それでも壊れないこと。ときには壊れることもあるか? そんな「開いた安定」を、個人の中にも社会の中にも少しずつ作っていくことなのかもしれない。

循環と螺旋

世の中を眺めていると、ありとあらゆるところに循環がある。

細胞の中でも物質は行ったり来たりしている。臓器同士でも、身体全体でもそうだ。人間同士も物や情報や感情をやり取りし、社会では人やお金や情報が動き、国家も他の国家や地球環境との間でさまざまなものを交換している。小さなところから大きなところまで、世界は循環によって成り立っているように見える。そう考えていて、「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉を思い出した。これは循環とは反対方向の考え方なのかもしれない。「自分のところに来たものを自分のところだけに留める」という発想だからだ。

江戸っ子の「宵越しの金は持たねぇ」は、経済的に賢明かどうかは別として、その正反対にある。自分のところに来たお金を使えば、それは商人に渡り、商人からまた別の人へ渡っていく。お金が社会を循環する。では、循環すること自体がいいことなのだろうか。そう単純でもない。

憎しみが報復を生み、報復がまた憎しみを生むことも循環である。貧困や搾取が世代を越えて再生産されることもある。循環しているからいいとは言えない。では「よい循環」と「悪い循環」に分ければいいのだろうか。これにも問題がある。

何を「よい」とするかは視点によって変わる。捕食する動物と捕食される動物では、同じ出来事の意味が違う。あるホロンにとって都合のよい循環が、別のホロンを傷つけることもある。そこで「循環がよいか悪いか」と判断するより、「循環の中で、それぞれのホロンに何が起きているのか」を見るほうがいいのではないかと思った。ここで「全ホロン尊重」と循環がつながりそうだ。

ホロンとは、全体でありながら、より大きな全体の一部でもある存在である。細胞はそれ自体一つの全体だが、身体の一部でもある。人間も一人の全体でありながら、家族や社会や生態系などの一部でもある。だから一つのホロンの内部にも循環があり、そのホロンと外部との間にも循環がある。ところが、ある循環を維持するためには、何かをそこから外さなければならない場合もある。

身体は病原体や毒物を排除する。社会でも、他人に危害を加える人を一時的に拘束しなければならないことがある。だから「循環から排除することはいけない」とは言えない。ここで一つ重要なことに気づいた。ある循環から外れたものは、必ずしも世界から消えるわけではない。

身体から排泄されたものは身体の循環から外れるが、その後は下水や河川や土壌など、別の循環へ入っていく。落ち葉は木から離れるが、土の上で分解され、微生物や植物など別の循環に加わる。そう考えると、実際に起きているのは、「循環からの排除」というより、「循環から循環への移動」なのかもしれない。ただし、「別の循環へ移せばそれでいい」ということでもない。

身体から毒物を排出しても、それを川へ流せば、今度は川の生態系という別のホロンに影響を与える。つまり重要なのは、「自分の外へ出したものが、その後どこへ行くのか」を見続けることになる。あるホロンの「外」は、別のホロンの「内」だからだ。ここから「全ホロン尊重」の「尊重」という言葉の意味も少し変わって見えてきた。

尊重するとは、すべてのホロンを保存することではない。これは何度も書いた。すべてのホロンを生き続けさせることでもない。まして、すべてのホロンの要求を受け入れることでもない。ホロンは生まれ、変化し、時には消滅する。あるホロンを守るために、別のホロンをそこから外さなければならない場合もある。それでも、その存在を「なかったこと」にする必要はない。何かを選べば、選ばれなかったものが生まれる。何かを外へ出せば、それは別の場所へ行く。

だから全ホロン尊重における「尊重」とは、「何かを変化させたり、外したり、選ばなかったりしたときにも、その存在や、その後のつながりを認識から消してしまわないこと」と言えるかもしれない。ただし、ここで循環を価値の基準にしてはいけない。

循環への寄与が小さなもの、孤立しているもの、何も生み出していないように見えるものでも、それによって尊重の程度が下がるわけではない。役に立つから尊重するのではない。循環に貢献するから尊重するのでもない。

「尊重」と「価値評価」と「処遇」は別の問題として考えたほうがいいのだろう。

もう一つ問題になるのが、ホロンの境界である。どこまでが「自分」で、どこからが「外」なのか。皮膚を境界と考えることはできる。しかし、人間の身体は腸内細菌と共生し、大気から酸素を取り込み、食物や水を絶えず外から取り入れている。社会や文化や他者との関係まで含めれば、「自分」の境界はますます曖昧になる。しかし、前にも書いたが、そもそもホロンの境界は曖昧なものなのではないか。そのホロンを包んでいる、さらに大きなホロンの状態や、どんな問題を考えているかによっても境界の意味は変わる。だとすれば、「本当の境界はどこか」を決める必要はない。

現実に何かを考えたり判断したりするためには、ある範囲をひとまず一つのホロンとして扱わなければならない場合があるから「一時的境界」を決める。「ここが絶対的な境界だ」と決めるのではない。「いま、この問題を考えるために、ひとまずここに境界を置いてみる」。状況が変われば、境界も引き直せばいい。

これは以前から考えてきた「一時的決断」とよく似ている。すべてのホロンと、その関係を把握してから決断することなど誰にもできない。だから、その時点で見えている範囲で一時的に決断する。そして結果を見て、必要なら決断を変える。境界も同じだ。一時的に境界を置き、一時的に決断し、その結果を見る。そして必要なら境界を引き直し、また考える。

ここまで考えて来たとき、「循環」だけでは少し足りないことにも気づいた。同じ問題について考え、いったん離れ、また同じところへ戻ってくることがある。しかし戻ってきたとき、以前とまったく同じ場所にいるわけではない。今回も、ホロンの境界が曖昧だという話は以前にも考えていた。それでも循環について考えた後でもう一度そこへ戻ってきたことで、「一時的境界」という新しい概念が生まれた。一周して戻ってきたけれど、少し違うところにいる。

これは単なる円ではなく、螺旋に近い。「循環+変化=螺旋」と考えることができるかもしれない。ただし、螺旋を「進歩」と同じ意味にはしたくない。螺旋は上昇するとは限らない。下降することも、横へ進むこともある。

だから、ここでいう螺旋とは、「同じところには戻らない循環」くらいに考えるのがいいだろう。世界にはたくさんのホロンがある。その境界は固定されていない。ホロンの内側にも外側にも循環があり、ある循環から外れたものは別の循環へ移っていく。その動きをすべて把握することはできない。だから一時的に境界を置き、一時的に決断し、その結果を見て、また境界を引き直す。その繰り返しの中で、考えそのものも変わっていく。円を描いて元へ戻るのではない。ぐるぐる回りながら、少しずつ違う場所へ移っていく。

全ホロン尊重という考えそのものも、そうやって螺旋を描きながら変わっていくものなのかもしれない。