扇の奥義

今年は月次祭、祇園祭、ねぶた祭と、大きなお祭りを三つも見ることができた。どのお祭りでもどこかで必ず扇子をもらった。お祭りと扇子は付きものなのだろうか? と思っていたら、書店で吉野裕子(よしのひろこ)全集を見つけ、第一巻の最初に「扇」という民俗学論文が載っていたので買って読んだ。

普通であれば俗説ではないかと思われることを丁寧に調べて書いてある。全集を全部読んでしまおうかという気になってきた。それほど面白い。著者は50歳になってから扇について調べ始め、本を書き、六十歳を過ぎて東京教育(筑波)大学の博士号を取得すると書かれていた。

現在の神道は性的なことが隠されて、もともとの意味がわからなくなっているものが多いが、その本によれば、昔は陰と陽とその交わるところに神が降りてくると考えられていた。バリ島で教えてもらった価値観とそっくりなので驚いた。

沖縄の蒲葵(びろう)から話しが始まり、扇は日本が起源にもかかわらず、どのように作られたか、どのように使うかのしきたりなど、知っている人がほとんどいないということで、吉野女史は扇に関連する祭を調べて回る。すると沖縄を軸にして次第に扇の意味、神道のかつての形が現れてくる。

ここでは丁寧な説明はできないので、興味のある人は原文を読んで欲しいのだが、いくつもある扇と神との関係の話のなかで、なるほどと思ったのがミテグラの話しだった。まとめることに問題を感じるが、端的に書くとこうだ。

祝詞などに登場するミテグラという言葉を吉野女史は二種類の意味があるといっている。ひとつは「貴重な神への進献物」、もうひとつが「両掌に捧げられた神聖な神降臨の道が開かれるところ」だそうだ。桃の節句のお雛様が扇を両手で持っているが、あの形がミテグラで、そこが神への道の入口となると言うことだ。だとすればお祭りで扇を持つことの意味が明確になる。扇を持っていれば誰のところにも神はやってくる。両手の平で作ったくぼみが陰を象徴し、そのあいだにはさんだ扇が陽を象徴する。そこは胎児が生まれる場所であり、死んだ魂が帰るところである。

 

この本の中で三角形が象徴するのは母胎であることが示される。死んだ人がかつて頭に巻かれた三角の白い布は、死んで母胎に回帰することを示していたそうだ。

ところで、昨日たまたまテレビをつけたら、トンカラリンのことが放送されていた。トンカラリンは熊本にある遺跡。

詳しいことはここに書かれている。

http://inoues.net/ruins/tonkararin.html

ここを通ると幼い頃に見た夢を思い出したと茂木健一郎氏がBlogに書いている。その夢は参道を通ってきた記憶のようだとも書いている。

http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/10/post_819c.html

この遺跡のなかを通っていくと、途中、岩に三角がたくさん彫られているところがあるそうだ。その三角と吉野裕子女史が書いた三角は同じ物なのではないかと感じた。もしそうだとすると、やはりトンカラリンは胎内回帰の体験をさせるための装置なのでは?と、勝手に推測した。もしそうだとしたら興味がある。「胎内記憶」を出版して以来、その話しにはどうしても興味を持ってしまう。そのことと、バリ島、そして神道がつながるってのがいとおかし。

ニュピが疑似臨死体験をさせてくれることについていつか本にするつもりだが、それに神道も関わりがあるとすると、もっと面白いことになりそうだ。

バリと日本の文化の繋がりについて表すことになるのか、隔たった場所でも人間という動物が、どの地域にいても共通して持つ感覚として胎内記憶を見るのか、おそらく両方の要素が複雑に絡むのだろうが、明確にすることができたらいいのにと思う。

あまり多くの人に読んでもらいたくない話

M社がアフラトキシンという物質が混ざっている事故米を、食べてはならないことを隠して転売してしまった。いわゆる事故米不正転売事件だ。この問題に関して、いろいろと考えていくと、どうしても「まぁ、そういうこともあるだろうな」という感覚にとらわれてしまう。そこが僕の弱いところだ。広告業界にいたとき、M社の事件を思い起こさせるようなことが何回かあったからだ。

たとえば、ひとつの例。

もう20年も前のことだが、広告会社に入って僕の最初の仕事は、テレビ局と合同でやるゴルフコンペの賭け金を集めることだった。A4の封筒の表紙にコンペに参加する人たちが競馬新聞の表のように紹介されている。

1枠 ・・ダイオー ◎ 前回のコンペでは最終ホールでつまずいた。しかし、実力はなかなか。

2枠 ハワウマ・・ ○ 前回おしくも二位。今回は優勝を狙う。

3枠 テケテケ・・ × 女性同伴でないとホールを回れないという弱点あり。

などなど

それをもって社内でそのテレビ局に世話になっている人たちのところに行って賭け金をもらってくるのだ。営業担当などはたいてい世話になっているテレビ局員に1,000円程度賭ける。なかには10,000円くらい賭ける人もいた。そうやって新入社員は社内を回ることで、何十人かの社員とテレビ局員との関係を覚えていくのだ。

もちろんはじめて回るときには自己紹介から始まる。

「はじめまして、新入社員のつなぶちと申します。今度××テレビとゴルフコンペをやるので、一口でも乗っていただきたいのですが・・・」

「ほう、新入社員か。部署は? 俺は○○社担当の△△だ。○○社は××テレビで何やってるか知ってるか? 提供番組が答えられたら一口乗ってやろう・・・」

「えーっと、確か土曜に○○○という番組があったように・・・」

「おーっ、じゃ一口は乗ってやろう。もうひとつあるんだが、それは?」

「えっ、、、、平日の昼の帯で○○○は違いましたっけ?」

「あれは他社扱いだ。減点だな」

「えっ、そんな」

「冗談だ。いいよ、ひとつ当てたから、乗ってやる。そのかわり○○社関係の面白い情報があったら必ず持ってくるんだぞ。それで貸しを帳消しにしてやる」

「はっ?」

「××テレビの□□部長には■■■という番組の時にかなり世話になっているんだ。だから□□部長に三口。そのかわり負けたらお前に貸しだからな」

「そ、そんな、、」

こんな調子だ。こうやって社内に顔見知りができて情報が回るようになっていく。「貸し」とか「借り」は半ばジョークだが、そのジョークを切っ掛けにして会話が回っていく。後日、この先輩から電話がかかってきて、「借りを返せ」という口実で仕事をもらう。たいていそれは無理難題だ。その無理難題をクリアすると「なんだ、お前もやるとできるじゃないか」とか言われる。

さて話しを本題に戻そう。当時だって、賭けゴルフが合法であったわけではない。しかし、なんとなく「それくらいはいいだろう」という雰囲気があった。しかも、賭けゴルフの集金のおかげで、社内に顔見知りがたくさんできた。みんながそのことを認めていたのである。もちろん、テレビ局も。ところが何年か前に森元首相が賭けゴルフをしたとテレビで猛烈に批判されたことがある。きっとこれでテレビ局内での賭けゴルフは御法度になったんだろうなと思った。(実際にはもっと前に御法度になっていたかもしれないけど)

話しのポイントは、20年ほど前、僕はもちろん賭けゴルフはいけないことだと知っていた。しかし、回りがみんなでそれをすることを楽しんでいる。新入社員はそれについて「違法だ」とか「やめましょう」だとか言えなかった。雰囲気に流されたのだ。ある地方とか、会社とか、あるレベルで閉じた社会にはそのような“雰囲気”というものが生まれることを会社に勤めたことで知った。

そこでM社。もちろん、M社のやったことはとんでもないことだ。だから内部告発があった。しかし、誰も正面切って「それはいけない」とは言えなかった。誰も会社からクビになどされたくないからだ。

「M社はいけないことをした」と批判するのは簡単だ。しかし、政府筋から大量の事故米の処理を頼まれ、名目を「糊」にしたが、実際には糊にはできず、M社はどうすればよかったのだろう? 事故米を買っただけでは赤字になる。

M社の肩を持つつもりはないが、よく考えていくと心が疼く。

「M社がいけない!」、以上終わり!!

としてはいけないような気がする。

政府筋の責任追及はもちろんだが、自分のなかにある「組織に流される性質」について、よく考えなければならない。

職業に貴賎なし

テイヤール・ド・シャルダンの全集がやっとそろった。7年かけて一冊ずつ集めてきた。これで念願の本が完成できる。やっと手にした第二巻を読んでいて、ふと思ったことがある。それを予備知識のない人にわかってもらうためには、かなりの文章を書かなければならないので、ここには書かないでおくが、それを考えていた際に「職業に貴賎なし」という感覚が必要になるなと思った。よく使われる言葉だが、その真の意味を理解している人は少なくなってきたようだ。「職業に貴賤なし」とネット上で検索すると、悲しい解釈がたくさん出てくる。いろんな解釈ができるだろうから、押しつけるつもりはないが、かつての日本ではこのような解釈だったと思う。

どんな職業でもかならずそれは誰かの役に立つから職業として成り立っている。そして、そのことの価値はそれによって得られる報酬とは関わりない。自分の仕事とのスタンスで価値は決まる。

現代の人は、貴賤の価値判断を収入に結びつける。そこが違うのだと思う。たとえば、どんなに収入の低い仕事でも、それがないと多くの人が困る仕事というものがある。それをしている人は、収入が少ないことを覚悟の上でそれをやっている。そのような人たちをもし収入が低いから劣った職業だというなら、その人たちはその仕事への意欲を失うだろう。低い収入にもかかわらず、その仕事をすることによって社会に貢献しているのだ。だから価値がある。現代はとても個人主義的な価値判断しかされなくなったが、「社会」という切り口から物事を見れば、どのような形にせよ社会に貢献している職業であれば価値があり、それは誰かがしなければならない。だから職業に貴賎はないのだ。

たとえば、現在漁業はガソリン価格の高騰で収入の少ない職業になってしまった。だからといって漁業をしている人たちの仕事が賤しくなったわけではない。たとえ収入が少なくなっても、魚を必要としている多くの人のために漁を続けるひとがいたとしたら、それは貴い仕事といえるだろう。農業も漁業も収入が少ないから賤しいという考えがあったとしたら、僕たちは食料を得ることができなくなる。同じように、どんな仕事でもそれがなくなると困る人が必ずいるはずだ。
人は仕事をすることで社会に貢献しているのだ。だから職業に貴賎はない。このような感覚は現代では「建前」としか理解されなくなってきているようだ。それは悲しいことだと僕は思う。