英国美術の現代史とラナーク

「美術」という言葉は「art」のいい訳語ではない。最近とみにそう思う。「美術」という言葉がどうしても「美しい」ものを思わせてしまうからだ。特に最近の「art」は美しさから離れていっている。

先日、森美術館でおこなわれている「英国美術の現代史〜ターナー賞の歩み」を見てきた。ちっとも美しくない。しかし、「art」である。技巧を凝らした人工物なのだ。 だから「美術」と言われると混乱する。「art」と言われると心の片隅がとても落ち着く。

それぞれの作品は自身ではもちろん何も語らないが、見ている者が語りたくなる。つまり、語らせる装置になっている。

ターナー賞の作品はその生い立ちからして「鑑賞者を語らせる装置」として存在しなければならなかったことをプログラムから知った。ターナー賞は1984年から始まり、1990年に一年だけおこなわれないが、1991年からテレビ局と提携して復活する。そのことについてプログラム中の原稿「英国美術の20年」(リジー・ケアリー/キャサリン・スタウト)にこう書かれている。

ターナー賞がテレビ局「チャンネル4」と提携したため、作品は以前にも増して広範な市民の目に触れ、大手マスコミから注目されるようになる。これらは重要な意味があった。それまでの作品の多くは主要新聞やタブロイド判の記者たちからさんざん嘲られたり、疑いの目を向けられたりしてきたが、この頃からそれを打ち消すようにサラ・ケント、リチャード・ドーメント、そしてリチャード・コークなどの評論家が腰を据えて擁護にまわった。ターナー賞は現代美術を認知させ、美術とは縁のなかった人々の関心を惹きつけるうえで大きな役割を果たした。この時期には若手アーティストの得意とする自己宣伝、メディアを利用した作品の売り込みなどの事業家精神がターナー賞の方針とも一致して、入場者数も新聞記事の量も毎年のように増えていった。またそれが人騒がせなもの、物議をかもすものを待望する気分を世間に植えつけることになり、今日までその影響が続いている。

だからこそ余計にこの展覧会は何か言いたくなるような作品が多いのだろう。つまりこの美術展の作品はみんなボケている。鑑賞者のツッコミどころ満載なのだ。僕もひとつひとつの作品にああだこうだいいたいのだが、ここではそれを脇に置いておこう。

同じ頃にアラスター・グレイという英国の作家が書いた『ラナーク〜四巻からなる伝記』という小説を読んだ。本屋で本を見て読みたくなった。その本はとにかく分厚い。700ページ以上ある煉瓦のような本だ。その帯にはこのようなことが書かれている。

ダンテ+カフカ+ジョイス+オーウェル+ブレイク+キャロル+α……

『重力の虹』『百年の孤独』にならぶ20世紀最重要世界文学、ついに刊行!

奇才アラスター・グレイによる 超弩級百科全書的ノヴェル。

「グレイは現代英国作家の中できわめて貴重な存在、本物の実験家である。”正しい”英語散文のしきたりを大胆勝想像力裕に破ってみせる」デイヴィッド・ロッジ

「よどみなく流れる文章、奔放な想像力、半ば幻想、半ばリアリズム……文句ないの傑作」ガーディアン

「『ラナーク』は愛に満ちた鮮烈な想像力の賜物、小説の宝箱である」タイムズ文芸付録

「これほど素晴らしいデビュー作を読んだのはひさしぶりだ。ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』のスコットランド版という名にもっともふさわしい作品」イヴニング・タイムズ

実際に読んでいくと謎だらけだ。はじめの数ページはあまりにも平凡で、帯に書かれている文句に釣られてしまったかと後悔しかけた。ところが少しずつ現実が破綻し始め、意味がわからないところが現れてきて、しかもその意味を求めて先を読んでしまう。ずぶずぶと罠にかかってしまった。

まず最初の謎が「第三巻」から始まることだ。スターウォーズがエピソード4から始まったようなものだ。この第三巻は現実なのかファンタジーなのか微妙な味付けで終わる。そして次の第一巻は主人公が変わる。その主人公と第三巻の主人公の関係は明かされない。第四巻も読み、ついに一巻に戻ってくる。ここですべての謎が明らかにされるのだろうと期待するのだが、明らかにされたかどうかもはぐらかされる。

いったいこの小説はなに?

と言いたいのだが、なぜか読んで満足してしまう。3,500円と税金分のお金をかけ、何時間もの時間を読書に費やし、わかりかけた謎はなぞのままに放置されて、なんでそれで満足するのか? まったくもって不思議な作品だ。なんでこれで評論家たちが文句を言わないのか、理解できなかった。ところが「英国美術の現代史」を見て少し分かった。この作品もツッコミどころ満載なのだ。

本を読む行為が好きな人にはお薦めの本だ。しかし、ハウツー本とか、人生をうまく生きる本だとかいうような本ばかり読んで満足する人にはお勧めできない。明確な答えが何もないから。この作品も英国の「art」なのだ。細部についてああだこうだと語りたくなる。

「英国美術の現代史〜ターナー賞の歩み」

伊勢神宮の月次祭

奉幣

6月15日から16日にかけて、伊勢神宮の月次祭(つきなみさい)に行ってきた。

月次祭は10月の神嘗祭、12月の月次祭とともに三節祭(さんせつさい)と呼ばれ、神宮で行われる年間の祭儀のうちでも特に由緒のあるお祭とされている。

15日午後6時から皇大神宮(内宮)で御卜(みうら)がおこなわれた。御卜は月次祭を行うに際して、神職が神の御心にかなうかどうかをうかがう儀式。内宮正宮のなかで神職たちがひとりひとり名を呼ばれ、そのたびに深くお辞儀をしているのがうかがえた。

その後、午後10時に豊受大神宮(外宮)にて由貴夕大御饌祭(ゆきのゆうべのおおみけさい)と、翌日午前2時に由貴朝大御饌祭(ゆきのあしたのおおみけさい)がおこなわれた。どちらも伊勢神宮に入れない時間なので一般の方は見ることができない。由貴とは「齋忌」(ゆき)すなわち最も清浄で立派な神饌という意味であり「三節祭」に限り供される神饌だそうだ。毎日供えられる神饌は日別朝夕大御饌(ひごとあさゆうおおみけ)と呼ばれる。

翌日16日正午は外宮で奉幣(ほうへい)の儀。奉幣とは天皇の命により幣帛(へいはく)を奉献すること。幣帛とは神に奉献する神饌以外のことをいうが、帛とは布のことであり、古代では布帛(ふはく)のことであったものが、いつからか神饌以外のものを幣帛と呼び、時には神饌も含むことがあるそうだ。927年に完成しその後40年間の改訂ののち施行された延喜式には幣帛の品目として「布帛、衣服、武具、神酒、神饌」などが記されている。神の献げ物であると同時に、神の依り代であるともされている。

上の写真はその奉幣の儀のために正宮に向かって行進している衛士と神職。赤い服をお召しなのは神宮祭主の池田厚子様。今上天皇のお姉様である。その前に担がれている櫃に幣帛が入っているのだと思われる。正宮に入ったあと、垣内の右手にあったお社で何か儀式があり、その後奥へと奉献された。担がれてきた櫃には何か別の物が入れられ、運び去られた。何が入れられたのかはよくわからない。ご存じの方がいらしたらぜひ教えてください。

このような祭がおこなわれていることに感謝。

クビャール・トロンポン

オカさんのクビャールトロンポン

2004年母が死んだ。母には僕が幼いころから繰り返す口癖があった。
「私は死ぬまで生きるのよ」
幼い僕には意味がよくわからなかった。死ぬまで生きているって当たり前なことだ。
あるとき母に尋ねた。母は答えた。
「死ぬまで元気で生きるってことよ」
母はその言葉どおりの死に方をした。前日まで元気だったのに、ある日ぷっつりと死んだのだ。

母が死んで二ヵ月後、僕はバリ島にいた。毎年恒例のニュピツアーに来ていた。ある日ティルタサリの演奏を聴きに行った。そこでオカさんのクビャールトロンポンを見る。クビャールは1930年代、マリオという当時有名な踊り手が作った踊りだった。男が女装してきらびやかな女の舞を舞うのだ。そのことをミゲル・コバルビアスの著書「バリ島」で知る。その踊りが進化して、現在ではトロンポンという楽器を演奏しながら舞うようになった。オカさんは現在クビャールトロンポンの一番の名手なのだ。以前からうわさには聞いていたが、そのときはじめて見た。見ながら僕は深く感動し、涙を流した。踊りを見て泣くなんて初めてだった。そのときはなぜ泣けるほど感動したのか、理由がわからなかった。

その晩、夢を見た。死んだはずの母が家に向かって歩いていた。僕は母がまた死んでは大変と心配しながらその様子をうかがっていた。母が家に向かって歩いていたので先回りして自転車で家に行き、玄関前に自転車を置いて物陰に隠れた。しばらくして母が来た。母は玄関前の自転車を見つけるとそのハンドルをさすりながら「大きくなったね、かわいくなったね」とささやいた。

そこで目が覚めた。バリ島のホテルの部屋の中。窓の外は闇に包まれていた。明るければ田んぼが見渡せるはずだった。胸が痛かった。胸の痛みを抱えて階下に降り、トイレにしゃがんだ。トイレはシャワーと一緒で、かつては屋根がなかったのだろう。いまではプラスチックの波板が乗せられていた。そのトイレにしゃがみ、今見た夢の意味を探ってみた。
「なんであんな夢を見たのだろう?」
しばらくするとふつふつと意味が浮上してきた。

うちは四人家族だった。父と母と兄と僕。母はよく僕が女の子だったら良かったのにと言っていた。四人のうち三人が男で、女の母の味方がいないという訳だ。その話をされる度に僕は怒っていた。
「そんなこと言われたって男に生まれたからしょうがないだろう!」
自分が男だから母には共感できないと思いこんでいた。だから、心のどこかで母に共感していたとしても、それを否定して怒るしかなかった。そんな心の澱(おり)が僕の底にたまっていたのだ。それがクビャールトロンポンとそのあとに見た夢によって照らし出され、浮かび上がってきたのだ。その澱にはくっきりと「僕は女に生まれれば良かった」と標(しる)されていた。

そのとき、トイレの屋根の波板が「ポツン、ポツン」と鳴り始めた。雨が降り始めたのだ。雨は次第に強くなり、波板の音は次第に「ザーッ」という音に変化していった。母の涙と僕の涙が雨となって押し寄せてきた。

ゲイとかレズとか、僕にはあまり興味がなかった。いまでも同性を好きになるという感覚がわからない。だけど、自分が女に生まれれば良かったという感情が、僕の心の底に澱のようにたまっていることを理解した。その感情を味わった。

僕は同性愛を認める気持ちはまったくない。しかし、そのことで悩む人がいることに多少の共感はできるようになった。クビャールトロンポンと母の夢のおかげで。