BUCHAN通信No.1 98.3.26より チャウセスクの頃

かつてメールマガジンに書いた内容。

最近、あるメーリングリストで知り合ったかほさんは、昔ルーマニアに住んでいたそうだ。その頃のルーマニア内部の印象が綴られたので、ご本人の許諾を得て、ここに掲載します。

革命がおこったのは、私が高校1年の冬休みの時です。
いままで、この頃のことはほとんど誰にも話していません。あまり言いたくなかったのです。もともとラテン系の民族で、陽気で気のやさしいルーマニア人が、殺し合いをしているさまを目の当たりにしてしまったからです。思い出したくもない光景です。

このときのルーマニアはどういう状況だったかというと、われわれの住環境もひどく(大使館は別ですが)、冬は燃料制限のため部屋の中もマイナス何度、という状況でした。外国人でさえそういう状況なので、現地のひとはどうだったか想像つきますよね。一番ひどいときは、現地のひとは配給制になったこともあり、月に一家族あたり卵12個(我が家の上に住んでいる人がそう言ってました)、砂糖・小麦粉1kg以内、とか普通では考えられない食糧難でした。われわれの家でも、お手伝いさんや英語の先生には、モノでお給料を支払っていました。

特に、昔はルーマニアは食料が豊富な国で、東欧諸国の中でも生活水準が高かったのです。そして、彼らはそのことを誇りにしていました。でも、隣国のブルガリアやハンガリーにも劣る、と知ったとき、ひどく傷ついた、と言ってました。なぜこんなに食糧事情が悪化したかというと、これはチャウシェスクが借金返済のために、いわゆる“飢餓輸出”を行ったからです。

チャウシェスクさんも、昔は思い切った外交政策をとり、若き大統領、大人気だったんですよ。それも、旧ソ連とは距離を置いてつき合っていて、中国とも東欧諸国では唯一国交を結んだり、ヒーロー的な存在だったのです。アメリカともよい関係を築いていましたし。

で、チャウシェスク婦人のエレナさんですが、晩年は、私利私欲にはしりすぎてしまいましたね。姉さん女房だったので、おそらくだんなを尻に敷いていたでしょう。人事権など、政治にはかなり口出ししていたようですね。銃殺されるときは「わたしはルーマニアの母よ。母を殺すなんて、この罰当たり!」という強気な姿勢から一転、最後は命ごいをしたようです。

銃殺刑翌日、新聞でこの2人の姿を見たときは、独裁者の最後はみじめだなー、かわいそうなひとたちだったなー、と思いました。しばらくして、落ち着いてからルーマニアに戻ったのですが、日本人の住居、オフィス、電話からテレックス、すべて政府側に盗聴されておりました。モスクワにいたときはもっとすごかったので不思議はないのですが、気持ちのいいものではありません。でも、大統領宮殿は、悪趣味きわまりなかった…。オカネは上手につかわないと…。オカネにのまれてしまっては、いかんよなー。