twitterで気づいたこと

新しいメディアが登場するたびに、僕たちが使っている言葉は変化していく。その変化はゆっくりとなされるので、なかなかそれに気づきにくい。

たとえばラジオが登場したとき、フランスの哲学者ピカールは、かつて言葉が発せられれば誰かが聞こうとしたものだが、ラジオが言葉を垂れ流すようになって、必ずしも聞こうとはしなくなったというようなことを本に書いている。

同様にtwitterも、それを使うことに慣れることで、言葉に変化が現れている気がする。

僕がはじめて雑誌に原稿を書いたとき、とても不安だった。誰が読んでいるのかわからなかったから。それまで僕が書く文章は、必ず誰が読むかがわかっていた。ところが、雑誌に書くようになってから、まったく誰が読むのかわからなくなった。ネットに書くとなおさらだ。メディアは人の機能の拡張だ。僕が書いたことがたくさんの人に届くことがメディアにとっての善とされるが、伝えた言葉が返ってくることこそが大切なことだと考えると、一方的に伝える言葉はとても空しく感じてくる。twitterでフォローしてくれる人を増やそうとするとき、伝えた言葉が返ってくる感覚が鈍磨する気がする。僕の声が届く範囲はそれほど広くない。だけど、メディアを使うことでその感覚が麻痺させられる。フォローする人を増やそうとしている人は、増えたフォローしてくれている人の声を聞こうとしているのだろうか? もし拡声器を使って、多くの人に一方的に伝えることだけを考えている人がいたら、それはとても醜悪に感じる。twitterでフォローしている人を増やすことだけを考えるというのは、それに似ている気がする。

そんなことに気づく僕が、そのような欲望を持ったことに他ならないのだが。。。

メディアのハイブリッド化

PCの技術が発展して以来、あらゆるメディアが溶解・統合して、まるで『ブラッド・ミュージック』に登場するナノマシンのようになってきている。普通のナノマシンはただ小さいだけだが、『ブラッド・ミュージック』に登場するナノマシンは知性を持って生物と融合し、ハイブリッドな生命としてバージョンアップしていく。

現在は『ブラッド・ミュージック』のように簡単にハイブリッドされる訳ではないが、PCの技術はいたるところに応用され、アナログだったレコードをCDとし、デジタル化された信号を取り込むことを覚え、ついにはiPodのような小さな機械に何千、何万という楽曲を詰め込むことができるようになった。

かつては音楽が聴けてビデオが見られる機械となると、ふたつの機能を持たせるために大きくなったものだが、いまでは両機能がiPod nanoの大きさに収まってしまう。20年前の人間が見たらどんなに驚いたことか。

と同時にどんな機械も、その大きさは自由になっていく。かつては大きさに制限があった。それをどんどん小さくすることができるようになり、今度はかつてとは反対に、使いやすくするために大きくすることを考え始めている。大きくすると、余ったスペースをどう利用するかで競争が始まる。このとき必然的に機能のハイブリッド化が始まる。

バーチャルな空間はいくらでも広げられる。その感覚を現実に持ち込む人がいつか現れるだろうが、その感覚がどのようなものか、かつてのパラダイムにいる僕には想像もつかない。たとえば、宇宙空間での無重力状態の映像を当たり前のように見る人たちは、きっと新しい空間認識を始めるだろう。それと同じように、機械に必要だった空間をいくらでも大きくしたり、小さくしたりできる感覚を持つと、僕のような古い人間には考えつかないような突飛な機械を作り、いままでは考えられなかった機械の使い方を始めるのだろう。機械をからだに埋め込むなんてのはまだ序の口で、もっと不思議なことが始まると思う。

たとえば、コードのないイヤホンだけの電話とか、家の壁がその日の気分によって好きな写真や絵画で埋め尽くされるとか。広大な土地にモニターを敷き詰め、Google Earthに毎日のように美術作品を見せるようにするとか。でも、それでもまだまだ古い人間が考えるようなことだ。そうだ、地球全体で電波望遠鏡も作れるだろう。携帯電話に特定方向から来る微細な電磁波を受けとる仕組みを入れて、位置情報、アンテナ方向と統合することで地球の大きさの電波望遠鏡ができあがる。

政治も次々と情報が開示され、多くの人がアイデアを提供して、たくさんの人にとっていいと思われる工夫が積み重ねられるようになるだろう。いままで特定の人が抱えていた権利はオープンにされ、使いたい人がいつでも使える状態になっていく。自転車や車がバイクシェア、カーシェアされるように、権利や義務も特定の人に属さず、シェアされるようになるのではないか? これはまだしばらく時間がかかるかもしれないけど。

これからの時代はいままでのどの時代にも増して、人間のイマジネーションをどこまで拡大できるかが問題になる。その加速度がさらに大きくなってきた。

異文化のイノベーション〜未来を発見するデザイン

5/10にアカデミーヒルズでグエナエル・ニコラ氏の講演「異文化のイノベーション〜未来を発見するデザイン」を聞いた。とても素晴らしかったので内容をまとめる。ただし、ニコラ氏はかなり日本語をはしょるので、僕がかってに補足している。さらに、録音したわけではなく、メモに頼っている。ご本人が言いたかったことと少し違う部分があるかもしれないが、ご容赦を。

日本はスパイラル

ヨーロッパにいると、日本がどういうところかよくわからない。アメリカやヨーロッパの街なら何枚かの写真を見ればなんとなく雰囲気がわかるけど、東京の写真は何枚見ても全体的なイメージが浮かばなかった。そしてそれがなぜなのかがわからなかった。日本には神社のような場所もあればとてもモダンな場所もある。それらが同じ場所にあるというのが理解できなかった。そして、なぜか一緒にあるのに未来を感じた。その「感じ」とはいったい何なのかを確かめるために1990年はじめて日本に来た。

しばらく滞在してわかってきたのは、日本がヨーロッパと違うのは単にデザインが違うからだけではなく、世界観が違うと言うことだった。

ヨーロッパは革命が好き。一度全部壊してから新しいものを作る。一方日本はスパイラルに新しいものを作っていく。あれかこれかとチョイスするのではなく、以前あったものを土台にして、その上に新しいものを積み重ねる。だから東京にいると過去・現在・未来がすべて見える。

ヨーロッパでルイ王朝の頃の服を着ていたら変な人と思われるが、日本で着物を着ていても違和感を感じない。つまり、文化のレイヤーがスパイラルなのだ。

江戸城のお堀とビル
江戸城のお堀とビル

ヨーロッパにいた頃、坂井直樹氏にあこがれて一緒に仕事がしたいと思っていた。日本に来てはじめて一緒にした仕事は仏壇のデザインだった。この仕事をして時間をデザインすると言うことを学んだ。ヨーロッパでは時間のデザインなど考えもしなかった。

仏壇は現在でも使われている。しかし、たとえばモダンなデザインのマンションに普通の仏壇が置かれると、少し違和感が生まれる。モダンなインテリアの中に仏壇があることを考えて欲しい。多くの家庭ではその違和感を隠すために、モダンな部屋に仏壇があったら、その部屋には他人を招き入れないだろう。そこで、他人が入ってきても違和感が生まれない仏壇を作った。外観はモダンな家具とあまり変わらない、違和感の生まれないデザインにした。しかし、仏壇の扉を開いていくと、そこには仏壇特有の仏教的世界が現れるようにデザインした。

仏壇の写真

日本人は「侘び」「寂び」が好きだが、それに加えて「好き」なことが好きだ。きれいなものが好きだ。(数寄屋造りの数寄と言葉がかけてあるのかもしれない) 日本人が好きなものは一見してシンプルだけど、よく見ると、よく知ると、複雑であることが好き(数寄)だ。特に日本のホスピタリティーは単純に見えるが複雑で、それをただ単純にやってしまうと日本人はそれを好まない。

スイスで「SENSAI」というブランドのSPAを作った。

写真はこちら。

完成していくにしたがって、作っている人たちが言葉を失っていくのがわかった。できてきたものを見て「うーん」とうなり、「いいんじゃない」と感じる。それ以上言いようがない。この状態になったとき、日本的というか、日本人が好む「好き(数寄)」な状態になったと言える。

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