10月9日の夢

10月9日の早朝、夢を見ました。そのことをFBに書きました。
それの転載です。
僕は村上春樹氏に会ったことはありません。

今朝もまた、不思議な夢を見ました。
僕が村上春樹氏とバーで飲んでました。
村上氏がこう言いました。
「僕が猫を棄てたのか、僕が猫に捨てられたのか、それはわからないことだろう」
それで目が覚めました。
なんかいろいろと夢で見たのですが、はっきりと覚えているのはその言葉だけでした。
去年、文藝春秋に掲載されていた「猫を棄てる」を読んでいました。
でも、内容はうろ覚えです。
夢の内容もよくは覚えてないけど、こんなことを話したというのは書けました。それをなぜ書けるのかがうまく説明できない。これから読んでもらうようなことを夢の中で村上氏から聞いた訳ではないのです。でも何かを夢の中で受け取った。受け取った内容を言語化するのに、村上氏が語ったこととして書くと書けるのです。まあ、僕が感じたことを夢で見せられたと考えればいいのでしょうけど、それともちょっと違う気がします。でも、違うと思っているだけかもしれません。
ややっこしいですね。笑
こんな夢でした。以下、村上氏の語りということで表現します。

僕がノーベル文学賞を取れないのは理由がある。僕はその理由を知っているような気がする。
与える者は与えられる者に何かを教える。それが正しい方向であり、与えられる者が与える者に何かを教えてはならないと考える人が多い。
だけど、それは正しくはない。
人はどんなに偉大な人間でも、この宇宙のすべてを知り尽くしている訳ではない。与えられる者にしか理解していないことが必ずある。群盲象を評すのことわざの通り、人間はいつも実際の存在の一部しか理解ができないもの。だから与えられる者にしか理解していないことを、もし与える者がきちんと知ったら、与える者の目はさらに大きく開かれることになる。

だけどたいていの与える者は、与えられるものが低い存在、劣った者と見るから、与えられる者が与える者に何かを伝えることが気にくわない。
なぜそのように思ってしまうのかというと、繰り返される過去と同じことしか起こらないと思い込んでいるから。
人はずっと闘争を繰り返してきた。その闘争は、何度も闘争という言葉で括られ、闘争に付随するあれこれが見えなくなってしまう。
神話や歴史には親子殺しの話がよく出てくる。親が子を殺したり、子が親を殺したりする話だ。そんな話がなぜ繰り返されるのか?
親は子が幼い頃、一方的に与えるものだ。そう思い込んでいる。だから子が育ったあとでも、親は与えることしか考えない。子が育ったあとでさえ与えることしか考えられない。その状態で子が親に何か知恵のようなものを伝えても、親には受け取れないことがある。子は親に「大切なことだから伝えたい」と思っているが、親は子が「私の考えに逆らっている」としか思えない。親は子からの贈り物としての知恵を「闘争の入口」と解釈する。子はそのようなことは考えていないので当惑するが、親が考えている通り「闘争の入口」に立たされてしまう。
親は子に対して全能者の立場を取ろうとするが、親とて人間であり、全能者にはなれない。子は親のことがよくわかるので、欠けた部分を埋め合わせてあげたいと考える。はじめは愛情からそのようにしようとするが、親は全能者の立場を譲らないと子からのギフトを否定することになる。子はそのようにして何度か否定されると怒りが募ってくる。愛情が強ければ強いほど、深ければ深いほど、その怒りは大きくなり、いつしか憎しみへと変わっていく。
それが発展して親子殺しとなる。
親子殺しの物語のメカニズムを多くの人が知れば、そういった事件は減るだろう。しかし、たとえ理解していても、大きな感情のうねりには屈してしまうことがある。
同じような関係が、与える者と与えられる者との間にも生まれてしまう。
例えば、企業の代表が、社員の話を聞くだろうか? もちろん聞く会社もある。だけど、聞かない会社もある。そして、多くの会社は聞くフリをしているだけのように思う。それでなんとかしのいでいる。なぜそうなってしまうのか。大きな企業は膨大な数の社員の話を聞ききれないし、小さな会社は代表が忙しくてそのような時間をなかなか取れないから。
社員はみんな一人ひとり違う。そんな話を全部聞いて適切に対処するなんてとてもできないとみんな思っている。そんなことにエネルギーを使っていたら売上は上がらないだろう。だからみんな諦めている。それを諦めていることが「大人」であり、善なることだ。
だけど、技術もネットワークも加速度的に上がり続けている。きっとこのことを解決しようとすれば、あるレベルで解決できるようになると思う。はじめから完璧には解決できないかもしれないが、次第に精度を上げ、解決の方法を段々と高度化すれば、そのための知識やノウハウも溜まり、いつか満足な答えが得られるだろう。実際には知識が高度化すればするほど、そこで生まれる問題も高度化していくが、それもいつか追いつくものだと信じていくしかないだろう。
現在の問題は、これが経済とうまく噛み合わないこと。噛み合うようになれば発展は早いはず。その兆しはすでにあると思う。
だけど、それでも与える者と与えられる者の枠は強固に存在する。
日本の政治がいい例だ。
たとえ理不尽なことを言われても親方日の丸に従う人がたくさんいる。それは自分の生活を壊されたくないから。それはある程度仕方のないこと。与えられる者が与えられなくなったとき、その人や家族がどうなるかを考えれば、その人たちを否定するつもりは全くない。問題はそのような状態を生み出しても平気でいられる与える者たちだ。
だからといって与える者たちを一方的に糾弾するつもりもない。与えられる者も与える者の状態を完璧に知っている訳ではない。にもかかわらず一方的に与える者に意見したところで空回りすることは明らかだ。
いろんな意見があり、見方がある。それらをきちんと共有できればいい。いろいろと考えた結果出てきた答えにみんなが納得できるかどうかだ。
だけど、今の人間は答えを出すのに時間的拘束があると強く思い込んでいる。暫時的、限定的な答えというものを受け入れにくい。社会や科学が進歩しているなら、そこにおける決定も暫時的、限定的なものにしかならないはず。それをすべて過去に決めた決定は動かさないとすると、どこかに歪みが生まれるだろう。
今は国ごとに、地方ごとに、共同体ごとに、いろんなトライ・アンド・エラーが必要なのだと思う。それが可能になってきた時代だからこそ。
だけど、権威を持つ者はそのようなことを許したくない。なぜなら権威が揺らぐかもしれないから。
権威という、本来曖昧なものを実体化させ、固定化させるために与える者と与えられる者の関係を1ミリとも動かしたくないから。
僕の小説はそこにゆらぎを与えてしまう。
僕が猫を捨てたのか、僕が猫に捨てられたのか、それはわからないことだろう。
現実はどっちもどっちなのだと思う。
僕は賞をくれるというならもらうけど、「下さい」とは全く思わない。それが理由かな。
世界的な権威が欲しくないのかと言われるけど、そんな重たい看板は、くれるというならありがとうと受け取って飾っておくこともできるかもしれないが、下さいと言って背負うつもりはない。

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“10月9日の夢” への2件の返信

  1. 社会や科学が変化、進歩していってるので、過去のある瞬間の決定は、その点において、暫時的、限定的でないと、どこかに歪みが出てきてしまう。。。
    今はトライアンドエラーが必要。。。
    本当にそう思いました。

    村上春樹ファンですが、「猫を捨てる」、なんとまだ読んでいないので、
    これから読もうと思います。
    親子関係の与える・与えられる、の例、わかりやすかったです。
    ちょうど手こずっているところだったので、大きな気づきにつながりました。
    感謝申し上げます。ありがとうございます。

  2. 宮﨑ゆかり様
    コメントありがとうございます。
    親子関係についての気づきがあったとのこと。
    拙文が何かの役に立てたなら幸いです。

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