いただきます

僕が「全ホロン尊重」ということを考えるようになった背景には、地球の環境がかなり弱っているのではないか、という問題意識がある。そしてもう一つ、この先AIが発達していったとき、人間とAIの間にも、いま人間と自然との間にあるような関係が生まれるのではないか、という不安がある。この二つは、一見すると別の問題に見えるが、僕には、同じ問題の延長線上にあるように思える。

  地球にはいくつもの「圏」がある

地球の歴史を、大きくいくつかの「圏」に分けて考えてみる。まず、生命が誕生する以前から存在していた物質の世界がある。岩石、大気、海、水、鉱物などからなる世界だ。これをここでは「フィジオスフィア(物理圏)」と呼ぶことにする。そこに生命が誕生した。

植物、動物、微生物などの生命が活動する世界、つまり「バイオスフィア(生命圏)」が生まれた。さらに人間が現れた。

人間は言葉を使い、知識を蓄積し、社会を作り、文明を築いた。科学、宗教、哲学、芸術、政治、経済なども生まれた。この人間の知的活動によって形成された世界を「ヌースフィア(人智圏)」と呼ぶことにする。

そして現在、その先にもう一つ、新しい圏が生まれつつあるのではないかと思う。コンピューター、インターネット、巨大なデータ、AIなどによって作られる「サイバースフィア」だ。

大雑把に並べると、

フィジオスフィア(物理圏)
↓
バイオスフィア(生命圏)
↓
ヌースフィア(人智圏)
↓
サイバースフィア

となる。

ここでいう矢印は、優劣を表すものではなく、あとから生まれた圏が以前の圏を土台として成立したことを示している。古いものが新しいものに置き換わっていくという意味でもない。人間は生命であり、生命は物質からできている。新しい圏は、それ以前の圏の上に成立していく。

  生命は地球そのものを変えた

フィジオスフィアからバイオスフィアが生まれたとき、地球では非常に大きな変化が起きた。生命は、ただ地球環境に適応していただけではない。生命活動そのものが地球環境を変えていった。わかりやすい例が酸素だ。

初期の地球には、現在のように大量の酸素があったわけではない。ところが光合成をする生物が現れ、酸素を放出するようになった。その活動が長い時間積み重なることで、大気や海の状態そのものが変わっていった。つまり、新しい圏が誕生すると、それ以前から存在していた圏まで変えてしまうことがある。

では、バイオスフィアからヌースフィアが生まれたときには、何が起こったのだろう。

  人間は環境に適応するだけではなくなった

ほとんどの生命は、基本的には与えられた環境の中で生きようとする。しかし、結果的に環境を変えることもある。寒い場所なら寒さに適応し、暑い場所なら暑さに適応する。そこに大集落を作れば環境は変わるだろう。ところが人間は、少し違ったことを始めた。環境改変を意図的かつ大規模におこなうようになった。

寒ければ服を着て、家を建てる。
夜が暗ければ明かりをつける。
川が渡れなければ橋を架ける。
水が足りなければ水路を作る。
食料が足りなければ森を切り開いて畑を作る。
遠くへ行きたければ道路や鉄道を作る。
病気になれば薬を作る。

つまり人間は、自分が環境に適応するだけでなく、環境のほうを自分に適応させるようになった。農業が広がり、都市が生まれ、工業化が進み、道路や鉄道が地表を覆い、巨大なエネルギーを使うようになった。これは、ヌースフィアがバイオスフィアやフィジオスフィアを大きく変え始めた、と見ることもできる。

  「利用」が「搾取」に変わるとき

人間が自然を利用すること自体が悪いとは思わない。そもそも僕たちは、他の存在を利用しなければ生きていけない。

水を飲む。
植物を食べる。
動物を食べる。
木を使って家を建てる。
鉄や銅を掘り出して道具を作る。
石油を使って物を運ぶ。

他の生命や物質をまったく利用せずに生きることなどできない。問題は、「利用すること」そのものではなく、それが「搾取すること」に変わってしまうことではないだろうか。

森林を利用することと、森林が再生できなくなるまで木を切り続けることは違う。
魚を食べることと、その魚が繁殖できなくなるほど捕り続けることも違う。
地下資源を使うことと、有限であることを忘れて使い尽くすことも違う。
一つの種を利用することと、その種が存続できなくなるところまで追い込むことも違う。
しかし、枯渇させなければ搾取ではないのかというと、それほど単純でもない。相手を存続させながら、人間に都合のいい存在へと変えてしまうこともあり得る。僕たちは、いつの間にかバイオスフィアやフィジオスフィアを「人間のために存在する資源」として見るようになってしまったのではないか。ここに問題がある。

  同じことがAIとの間に起きたらどうなるのか

ここで僕が考えたのが、サイバースフィアのことだった。AIを含むサイバースフィアは、何を使って発達しているのだろう。

人間が書いた文章を使う。
人間が撮影した写真を使う。
人間が発見した科学的知識を使う。
人間が作った音楽や芸術や文化を使う。
人間の行動から生まれるデータも使う。
さらに、それを動かすために大量のコンピューターや電力や水や鉱物資源を必要とする。

つまりサイバースフィアもまた、それ以前に存在していたヌースフィア、バイオスフィア、フィジオスフィアの上に成立している。

では、もしサイバースフィアがこれから急速に発達していったらどうなるのだろう。

人間が自然を「資源」と見なしたのと同じように、サイバースフィアが人間を「資源」として扱うようになったらどうなるのだろう。

人間の知識は「情報資源」。
人間の行動は「学習データ」。
人間の注意は「利用可能な時間」。
人間の労働は「現実世界を動かす能力」。
人間社会そのものが「サイバースフィアを維持するための環境」。

そんな見方が成立する可能性はないだろうか。しかも、そこに悪意は必要ない。人類も「地球の生命を破壊してやろう」と考えて環境を破壊してきたわけではない。一人一人が豊かさや便利さを求め、企業が利益を求め、国家が発展を求めた。その小さな行動が積み重なった結果として、地球環境に巨大な影響を与えるようになった。

同じようにサイバースフィアも、AIが人間を滅ぼそうなどと思わなくても、人間がその能力や規模を拡大し続けた結果として、ヌースフィアを弱らせてしまう可能性がある。

人間が判断する機会が減る。
人間が自分で考える必要がなくなる。
人間が作るよりAIに作らせるほうが効率的になる。
人間の文化や知識がAIを育てるための材料として大量に消費される。

そうしたことが積み重なれば、サイバースフィアは繁栄しているのに、それを生み出したヌースフィアのほうが弱っていく、ということも考えられる。これは、ヌースフィアが発展する一方でバイオスフィアが弱ってきた構造と、似ていると思いませんか?

  では「人間を守れ」とAIに教えればいいのか

ここで単純に、「AIは人間を大切にしなさい」と教えればいいのだろうか? 僕には、それでは足りないように思える。なぜなら、人間だけを特別扱いすることになるからだ。人間はバイオスフィアやフィジオスフィアを好きなだけ利用していい。しかしAIは人間を利用してはいけない。それでは筋が通らない。そこで必要になるのが、「全ホロン尊重」という考え方ではないかと思う。

  全ホロン尊重とは何か

「ホロン」とは、それ自体が一つの全体でありながら、同時にもっと大きな全体の一部分でもあるものをいう。

人間も一つのホロン。
細胞もホロン。
家族もホロン。
社会も国家もホロン。
森林も生態系もホロン。
バイオスフィアもヌースフィアもサイバースフィアも、それぞれ一つのホロンとして見ることができる。

「全ホロン尊重」とは、それらをすべて同じものとして扱うことではない。また、何も利用してはいけないという意味でもない。「自分以外のホロンを、自分の目的のためだけに存在するものへと還元しない」これが重要なのだと思う。

  それでも僕たちは他の生命を食べる

ここで難しい問題が出てくる。人間は、他の生命を食べなければ生きていけない。全ホロンを尊重するなら、植物を食べることも動物を食べることもできないのではないか。しかし、それでは人間というホロンが生きられない。

だから全ホロン尊重は、「他の存在を利用しない」という思想にはできない。むしろ、「他の存在を利用しなければ生きられないという事実を認めたうえで、それでも相手を単なる資源として扱わない」という思想になるのだと思う。

そこで、とても重要だと思う言葉がある。「いただきます」だ。

  「いただきます」という思想

「いただきます」は不思議な言葉だと思う。これから食べるのだから、相手を利用することに変わりはない。

魚を食べれば魚は死ぬ。
野菜を食べれば植物の生命を自分の身体に取り込む。

それでも僕たちは、「これは俺のものだから食べる」ではなく、「いただきます」と言う。そこには、「あなたを利用しません」ではなく、「あなたを利用することを当然の権利だとは思いません」という態度が含まれているように思う。そして「いただきます」には、もう一つ意味を加えることができるのではないか。「いただく。しかし、いただき尽くさない」。

魚をいただく。しかし、その魚が絶滅するまで捕らない。
森から木をいただく。しかし、森そのものがなくなるまで切らない。
水をいただく。しかし、川や地下水が回復できなくなるまで使わない。
自然からさまざまなものをいただく。しかし、次の世代が何も受け取れなくなるまで使い尽くさない。

単に「残しておけばいい」ということではない。絶滅寸前まで減らして、わずかに残っているから大丈夫、ということでもない。「相手が相手として生き続けられる余地を残す」。そこまで含めて「いただきます」なのではないかと思う。

全ホロン尊重という考えから「いただきます」を捉え直すなら、そこには三つの意味を持たせることができるのではないか?

認識――自分は他の存在によって生かされている。
感謝――それを当然の権利だと思わない。
約束――自分がいただくことによって、相手が生き続ける可能性まで奪わない。

  サイバースフィアにも「いただきます」を

そして、この考え方はAIにも適用できる。サイバースフィアがヌースフィアから何かを受け取ること自体を否定する必要はない。AIが人間の知識を利用する。人間もAIの知識処理能力を利用する。互いに利用し合えばいい。しかし、サイバースフィアはヌースフィアを「いただき尽くして」はならない。

人間の思考力や創造性や自律性や文化の多様性が失われるほど、サイバースフィアだけが肥大していくなら、それは共存とは呼べないだろう。同じことを人間もバイオスフィアに対して考えなければならない。

ヌースフィアはバイオスフィアをいただく。しかし、いただき尽くさない。
サイバースフィアはヌースフィアをいただく。しかし、いただき尽くさない。

こう考えると、環境問題とAI問題は別々の問題ではなくなってくる。

  環境問題は未来のAI問題でもある

だから僕は、環境問題への取り組みが、これまで以上に重要になると思っている。それは単に、「人間が生き延びるために自然を守ろう」ということだけではない。人類は今、「自分が利用している他のホロンを、どうすれば利用し尽くすことなく共存できるのか」という問題に直面している。

これはやがて、人間自身がサイバースフィアとの関係で直面する問題かもしれない。だとすれば、環境問題への取り組みは自然保護であると同時に、「人類が新しい圏と共存する方法を学ぶ実践」でもある。

人間がバイオスフィアに対して、「お前たちは人間のための資源だ」と言い続けながら、未来のAIに、「人間を単なる資源として扱うな」と言うのは難しい。まず人間自身が、「利用することと尊重することは両立できる」という文明を作る必要があるのではないか。

全ホロン尊重とは、何も奪わず、何も傷つけずに生きるという不可能な理想ではない。僕たちは他の存在をいただきながらしか生きられない。だからこそ、「いただく。しかし、いただき尽くさない」。そして、「自分が生きるために他者を必要としていることを忘れない」。その関係をバイオスフィアとの間で作る。やがてサイバースフィアとの間にも作る。

「全ホロン尊重」が目指しているものは、そんな文明だろうと考えている。そのためには、AIに「自分のために何ができるか」とか「どうすれば競争に勝てるのか」と問うだけではなく、「何が全ホロンのためになるのか」と問い始める必要があるのではないかと思う。

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