珈琲豆おこのみばいせん処

先日、用があって永福町に行った。約束より15分ほど早く着いてしまったので駅のそばをフラフラと歩いていると『珈琲豆おこのみばいせん処』というお店を見つけた。最近江古田にあった焙煎してくれるコーヒー屋さんがなくなったので、焙煎したての珈琲をずっと飲みたいなと思っていたのだ。

珈琲が好きな人なら、挽きたての珈琲か否かで味が違うのはよく知っているだろう。挽きたての珈琲は香りの立ち方が違う。もちろん状態にもよるが、挽きたての豆だと2〜3倍の香りが立つと僕は思っている。だから珈琲は必ず豆で買い、うちで挽いてから淹れる。この違いは恐らく誰にとっても明らかだろう。しかし、焙煎したてかどうかは、これほど明らかな違いを珈琲の味にもたらすわけではない。一番の違いは気持ちへの作用ではないかと思う。

焙煎したての珈琲の何がいいかというと、珈琲を淹れるときにそれがわかる。僕はたいていドリップで淹れるのだが、ドリップでお湯を落としたときに珈琲豆が豊かに泡立つ。焙煎してしばらくたってからの豆だと、少しは泡立つかもしれないが、焙煎したての珈琲の泡立ちにはまったくかなわない。焙煎したての珈琲の泡立ちは、その泡がギネスビールのようにしっとりとふっくらとしたものになる。この様を見て「うまそう」と思ってしまうのだ。そして、なぜ泡立つかと言えば、豆に含まれた香りなどを含む揮発成分が、まだたくさん残っている証拠だと思うのだ。

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科学が歌を歌い始めた

2000年5月、僕はメールマガジンにこんなことを書いた。

 いきなり話は飛ぶけど、21世紀になると多くの人が悟りの道を歩み出すよね。いまでさえもうすでに瞑想が普通のことになりつつある。宗教もいままでの形をそのまま保つのは難しくなっていくだろう。日本人は長い間無宗教のように見えていた。でもみんな初詣には行くし、迷信を信じている。それに似たキリスト教圏の人たちが現れはじめているらしい。神は信じないけどX-Fileは好きみたいな人。宇宙や生命の神秘が暴かれれば暴かれるほど、自然の神秘は底の深さを見せてくれる。その底の深さを知った人はいままでの宗教では括れなかったある価値観へと進んでいく。その価値観はまだ姿を完全には顕してはいない。宗教学だけでも、記号論だけでも、トランスパーソナル学だけでも、民族学だけでも、生物学だけでも、物理だけでも表現できない不思議な価値観。

 シンプルな表現にしよう。人類は宇宙の歌を聞き始めたのだ。宇宙の歌は完全な調和でもなければ、単なる混沌でもない。

 仏陀は話をする相手の理解力によって話を変えた。そのことを仏教用語で方便と言う。人類は宇宙を知るために自分たちで方便を作ってきた。それが宗教であり、科学であった。人類はどんどんと宇宙に対する理解力を上げてきた。それに連れ方便もだんだんと高度なものとなっていく。そしてある時から方便を手放して、単に歌のようにして聞き出す。歌には意味が込められているようだが、必ずしも込められているわけではない。にもかかわらずその歌に感動することがある。

 僕は宇宙は決して理解しきれないものだと思っている。どんなに理解しても、それは宇宙の一面でしかないと思うのだ。別の理解の仕方を宇宙は待っている。そんなことを多くの人が感じているだろう。もちろん宗教者も感じているはずだ。21世紀に宗教者たちは宗派を越えた連帯を生み出すだろう。それはそれぞれの宗派の終わりを意味するわけではない。人類が多くの視点を持つことを意味する。

 インターネットが普及し、世界中が英語に支配されるというようなことを言う人がいるが、それは間違っている。言葉が違うと見えてくるものが違う。人類が多くの言葉を存在させればさせるほど、多くの視点を持つことができる。

 ネットが発達して互いのプライバシーがなくなっていくと心配する人もいるが、プライバシーが失われるほどの多くの視点を正しく持つことによって人は互いの心を鏡とし、自分の心を知り始める。

あれから10年、なんと科学者の言葉を歌にしている人たちがいる。しかも、科学者本人が歌っているかのようにして。

素敵だね。ほかにもここに行くとたくさんの歌がある。聞くと良いよ。

思考する豚

農家では時々、昨日まで可愛がって飼っていた鶏や豚を食べてしまうことがあるという。子供がはじめてそのことを知ると驚くそうだが、親はそうやって子供が大人になっていくのを見守るそうだ。飼っていた動物を食べることが大人になるレッスンのひとつだとしたら、僕はまだそのレッスンを受けてない。生き物をその場で絞めて食べたのはせいぜい伊勢海老や魚の活き作り程度だ。

目の前で鶏や豚が絞められたら、その肉を平気な顔で食べられるだろうか。少々心配だ。

かつてバリ島ティルタエンプルの僧侶の家を訪ねたことがある。僧侶が出てくるのを待っていたら、庭で豚が激しく鳴いていた。理由を聞くと、その豚はその晩の祭で供えられるのだという。あの声を聞きながら、もしその豚を食べろと言われたら、きっと食べてしまっただろうけど、多少の抵抗は感じたと思う。

ある動物について詳しく知れば知るほど、その動物のことを食べにくくなるが、区別できた大人になればぺろりと食べるものだろう。しかし、都会でずっと暮らしてきた人の多くは、このような大人になる機会をなかなか持てないのではないだろうか。少なくとも僕は持てなかった。

僕は豚についてあまり詳しく知らなかった。別に興味がないから知らないだけだと思っていた。しかし、ライアル・ワトソンの遺作『思考する豚』を読みながら多少の抵抗を感じていた。豚について興味がないというより、もう少し積極的に「知りたくなかった」のだ。その理由を探っていくと、豚肉を食べることと関係があった。

よく野菜と炒めてぺろりと食べる。トンカツも好きだし豚角煮もいい。その豚肉を供給している豚が、とても愛らしい動物だと知ったら、いままで同様、豚を美味しく食べられるだろうか。

著者のライアル・ワトソンによれば、豚がもっとも繊細なのは鼻なのだそうだ。あの鼻に表情があり、感覚器がある。さらに豚は鳴き声で繊細なコミュニケーションをしているという。豚を知らない人は「ぶーぶー」としか認識しないが、飼い慣れてくると鳴き声で何を欲しているのかがわかるようになるという。さらには豚は文化をもっているとまで書いている。

そんなことをいくら知っても、罪深き大人は豚を食べる。少しふくれた罪悪感は調味料となる。それが人間だ。この本を読んで豚に興味が湧いたけど、それでも僕は豚を食べ続けるだろう。

本の帯にこう書かれている。

ヒトが蔑んできた豚は、ヒト以上に繊細で、知的で、上品な生き物であるかもしれない。彼らはそれゆえに、ヒトの蛮行と非寛容に対して寛容でありつづけたにすぎない。

かつてイルカについて「一緒に泳いだが料理されれば食べるかもしれない」と書いたら、何人かの淑女からコメントをいただいた。

「イルカが好きなのに食べるなんてひどいことはできない」というお嬢さんは、これを読みながら豚を食べると少しは大人になれるかもしれない。僕と同様、少しの罪悪感を感じながら。

トップのかわいい豚の写真は特定非営利活動法人Tuvalu Overview の代表理事遠藤秀一様から提供していただきました。ここに御礼申し上げます。