パピヨン

『パピヨン』と言えば僕にとってはスティーブ・マックイーンが主演した映画だった。原作者のアンリ・シャリエールの半生記を映画化した作品だ。主人公は胸に蝶の入れ墨をしているためにパピヨンと呼ばれた。彼は濡れ衣を着せられて監獄に送られ、それに反発して脱獄を繰り返し、次第に厳重な監獄へと環境が厳しくなっていくが、最後に脱獄に成功して自由を得るという物語だ。確か13回脱走を試みる。最後にパピヨンは自由へと羽ばたいた。パピヨンは自由への象徴だった。

昨日田口ランディさんの新作『パピヨン』を買い、あっという間に読んでしまった。あまりにも面白かった。この作品ではパピヨンは死の世界へと旅立つ象徴として扱われる。小説作品のデビュー作として『コンセント』を書いたとき、ランディさんはお兄さんの死について作品に取り込んでいた。しかし、小説全体としてはフィクションになっていた。今回はお父様の死とエリザベス・キューブラー・ロスのルポを重ね合わせたノンフィクションとして書いている。

『パピヨン』を読んでいて何度か思い出した写真がある。それはカウアイ島に行ったときに撮った写真だ。高いところを蝶が飛んでいたので撮影した。青い空を背景に飛んでいるオレンジ色の蝶の写真が撮れた。それを思い出したときには意識していなかったが、しばらくするとその写真は僕の父が死んで一ヶ月ほどのちの旅行で撮っていたものだと思い出す。頭のどこかでランディさんのお父様の死と、僕の父の死と、死の象徴である蝶がつながったのだろう。

そう言えば、アンリ・シャリエールは映画『パピヨン』の撮影が決まってスティーブ・マックイーンと会い、しかし完成を見ずに死んでいた。

もうひとつ不思議な偶然があった。2004年1月20日、婦人公論の副編をしていらした三木さん(現在は編集長)に「お母様はお元気ですか?」と質問され、三日ほど前に電話で話したにもかかわらず「どうしてるかな?」と心配になった。母はその時間前後にぽっくりと死んでいた。『パピヨン』を読み終わりメールを開くと、三木さんから二年ぶりくらいにメールが来ていた。

『パピヨン』のプロモーション映像

全光榮(チョンクァンヨン)展

『チャロー!インディア』を見て帰ろうとしたが、隣でやっていた『全光榮展』も同じチケットで見られると知り、ついでだからと入っていった。この展示にはまったく裏切られた。まったく期待してなかったし、全光榮という人も知らなかったし、入口のポスターもあまり魅力的には見えなかったので入らずに帰ろうかとも思った。だけど「ここまで来たんだし」と思い、ついで以外のなにものも感じずにフラフラと入ってしまった。

それが間違いだった。完全に魅了された。魂を持っていかれた。

展示室に入る前にこんな文章が置かれていた。

「懐かしさを包み込む」

私にとって人生とは染みるような懐かしさだった。

朝、目が覚めると理由もなく涙が流れたりする。

どうしてなのか、なぜすべてのものが懐かしいのか、私はわからない。

人々は私を背丈が低い東洋人の作家ということで記憶しているが、私の懐かしさの背丈は他人が見えないあの高いところまで伸びているかもしれない。

見えない私の懐かしさは、時には悲しい愛に、時には苦痛を伴う創作活動に、情熱の涙にその姿を変えた。

そのように私を熾烈な人生へと果てしなく駆り立てた懐かしさを恨んだりもした。

しかし、そんな懐かしさがなかったら私の人生は平穏だったかもしれないが空しかっただろう。

この懐かしさがあればこそその懐かしさを忘れるため全力を尽くして作業へ没頭した。しかし忘れることができず、さらなる懐かしさで、私は倒れてもまた起きあがって走った。

私の深い懐かしさと、また誰かの傷と懐かしさを包む心で数千、数万個の三角形を韓紙のポジャギ(風呂敷)で包んで結んできた。

そんな私たちの痛みを癒して上げたいとの想いが私の作品根幹であり 緻密な執拗さ途方もない努力を要求する特有の作業過程を支えてくれた力だった。

数千万回の三角形のポジャギを包む過程でへとへとになっても、それぞれのポジャギへ私の暖かい温もりを盛り込もうとした。

その真心と温もりで誰かの懐かしさを包んであげられることができると信じ、私のAggregationは休むことなく続くことだろう。

                 —-全光榮

この詩のような紹介文を読んで期待感が生まれた。いったいこの先に何があるのだろうかと。

しかし、最初の展示スペースにはピンと来なかった。布を染めたような抽象的な作品には「こりゃ期待はずれだったかも」としか思えなかった。そして次の展示スペースへと進む。

そこにあったのは森だった。ひとつの壁に森が掛けられていた。

森の絵があったのではない。森のオブジェクトがあったのでもない。森とは似ても似つかぬ形の森があったのだ。

漢字やハングル文字が印刷された紙(韓紙(ハンジ))でさまざまな大きさの三角形を包み込み、その三角形が、何千とも何万とも数え切れないその繰り返しが、あたかも自然物が構築されたかのようにきれいに並べられ、ひしめきあい、共存し、全体で遠近感やデザインを伝えている。

木の葉はひとつひとつとても似ている形をしている。しかし、どれひとつとして同じものがない。同様に、そこを形作っている三角形の断片はどのひとつも同じものがないが、ひとつひとつが同じような要素の無限の繰り返しになっている。そこにあるのは自然と同じフラクタルな繰り返しと、作者のどこから来ているのか計り知れない情念だった。ひとつひとつの果てることのない繰り返しを、作者はまるで自然の造形のように、あるデサインへと練り上げている。この様相はとても写真ではわかり得ない。

森の遠景は緑の固まりだ。近づくにつれ木の形がわかるようになる。そしてもっと近づくことでやっと枝がわかり、もっと近づいて葉がわかる。そこにあった作品も遠くから見ると全体のデザインがあるだけだ。ところが少し近づくとその構成要素が何か特別なものに見えてきて、さらに近づくとやっと三角形がわかり、もっと近づくことでそこに書かれている文字を認識する。

全光榮展ホームページ

はじめてガムランを聞いたときのような肌寒さを感じた。ひとつ間違えると自分がどこか別の世界に持って行かれそうな、そんな感覚。この感覚を投げかけてくる作品が、そのあとずっと続いていく。

形の組み合わせも妙なるものだが、その三角形の染色と配列、場所毎に異なる大きさと組み合わせ方に、僕はブナの森や杉の森や、イチョウの森、松の森といろんな森を引きずり回される。

平面の作品だけでなく、立体物もあり、全光榮という個人によって生み出された様々な森に、完全に酔ってしまった。

展示の途中で全光榮氏のインタビューがビデオで流されていた。そこで全氏は画家になった頃の苦労について話していた。そのなかでたった一枚手放さないでいる作品について語っていた。ほとんどが赤で覆われたその抽象画は、僕にはあまり名作には見えなかった。バリ島の露天で売られている抽象画に似ているとさえ思ってしまった。この作品のどこにアートで必要とされる深さを見出すべきか、僕には理解できなかった。だけど全氏は行き詰まったとき、その作品を見ることで、初期の苦しかった頃を思い出すのだそうだ。そしてそれを新しい作品の糧とする。きっとあの作品は全氏にとって、創作の世界へ入る鍵なのだろう。あの鍵となる作品から、どのようにしてあの森を思わせる、深い、情念に満ちた、そして全氏が語るように懐かしさをも思わせる、見るものを別の世界に誘うような作品へと飛翔(リープ)するのか、その秘密を知りたい。

チャロー!インディア〜インド美術の新時代

行こう行こうと思いつつ、なかなか行けなかった『チャロー!インディア』に行ってきた。予想通り「過剰なる混沌」が繰り広げられていた。デジタル・コラージュあり、参加を求められる作品ありで、しっかりと現代美術として楽しめた。

僕がインドに行ったのはもう15年も前のことだ。ケニアに行くのにボンベイ(現ムンバイ)でトランジットした。着いた翌日に発つはずだったのだが、ホテルで一泊し翌日空港に行き、飛行機に乗り込み、ずっと待ったのだが、故障だと言われ、さらに一日待って発つことになった。まる一日飛行機の中で待っていたので僕が知っているインドは空港とホテルのあいだのわずかな景色だ。空港からホテルまでの道すがら、白いテントがどこまでも切々と続いていた。それが貧しい人たちの住居だった。空港で貧しい人にお金などをあげないで下さいとインストラクションされるのだが、信号などでバスが停まると、赤ん坊を抱えた女性が寄ってきてお金をくれと手を差し出す。あげると面倒なことになるからあげるなと言われたのであげなかったが、後味が悪い。

ケニア行きの飛行機の中でもインド人に会った。もちろん飛行機に乗るのだから裕福な人だ。ケニアで事業をしているという。貧富の差が大きいのだ。2000年前後からインドではIT長者が増えたと聞いた。さらに格差に拍車がかかったのではないかと思う。僕がどう思おうと実際にはみんなが豊かになっていればいいのだが、今回の美術展を見る限り、現在でも貧富の差が問題であることは確かなようだ。いくつかの作品にそれが読み取れた。まずはヴィヴァン・スンダラムの作品。ゴミを並べてジオラマのようにして街を俯瞰できるような作品を作っていた。つまり街はゴミだらけであることを、またはゴミのようなもので作られていることを示唆されたようだ。「マリアン・フサインの僅かな上昇」という映像作品では、ゴミの山の上から少年が空に飛んでいった。IT長者のおかげでゴミの山からでも飛び立てるようになったということだろうか? ジティシュ・カラットの作品「格差の死」では、大きな1ルピー硬貨の前に英文が書かれた額が掲げられていて、そこには見る角度を変えると読める二種類の文章が書かれていた。ひとつは「1ルピーで電話がかけられるようになった」という明るい文章が書かれており、角度を変えると「たった1ルピーの給食費が払えなくて自殺した女の子」の話が読めた。

今回の展示で僕がいいなと思ったのは、グラームモハンマド・シェイクの「カーヴァド:旅する聖堂」と、その上に掲げられていた「マッパ・ムンディ」という作品。様々な価値観がいくつかの作品に入り交じり、それらが狭い門のように組み立てられていた。ヨーロッパの中世絵画的手法でイスラム教、キリスト教、ヒンドゥー教などの聖者たちが描かれている。小さくだが戦車や爆撃機も描かれていた。パッと見ただけでは中世ヨーロッパの絵画のように見えるが、よく見るとアジアが紛れ込んでいた。そのゴチャ混ぜ感が現代的である。その作品の中を通って「チャロー!インディア」に入っていく。

あと面白かったのはトゥシャール・ジョーグの「ユニセル公共事業団」。こちらはネット上のプロジェクト。こちらにある。電車の混雑に対しての皮肉をアートにしていた。混んだ電車の中でどのようなステップを踏むべきか、床にダンスのステップ図のように描いていた。

プシュパマラNは澤田知子やタニシKを思い出させてくれた。2003年に東京オペラシティーアートギャラリーの「Girl!Girl!Girl!」という展覧会で知ったのだが、澤田知子はいろんな扮装をしてお見合い写真を撮りまくる。このなかの「お見合い」に写真がある。http://www.e-sawa.com/index.html タニシKはスチュワーデス(キャビンアテンダント)のコスチュームでいきなり電車や展覧会会場でいろんなサービスを始めるというパフォーマンスをしていた。こちらやこちらに説明がある。澤田もタニシもアートとしてやっているようだが、プシュパマラNは単にアートのためだけにやっているのではない。インドで女性がどのような枠にはめられているかを表現するために作品を作ったそうだ。かつてイギリスに支配されていたとき、インドの人たちがどのような扱いを受けたかとか、どんなイメージでとらえられていたかがわかるような写真を撮っている。言ってみればインドの女性解放運動だ。

インダス文明からほぼ5,000年。インドの文化は歴史が長い。そこに住む人たちの血の中に受け継がれた芸術の種は、いつでも機会さえあれば芽吹いてくるものなのだろう。いつかインドにも時間を取って行ってみたい。それまでに「インド神話」「カーマ・スートラ」なんかを読み直しておこう。

森美術館「チャロー!インディア」