煙草

今日、僕はパイプを吸った。毎日ではないが、時々吸う。吸ったあとにパイプの掃除をする。パイプの内側はタールとニコチンで真っ黒だ。それをモールという、針金に細い繊維が巻き付けてあるような代物で拭き取るのだが、それをしていると確かに喫煙という作業がからだにはあまり良くないことだろうなということが染みてくる。しかし、そう思って数日するとまた吸っている。

僕は他人がパイプを吸っているのをほとんど見たことがない。竹村健一というパイプで有名になった先生がいるが、かの先生がテレビでふかしていたのを見ただけで、それ以外で見たことはいま思い返してみると二度だけしかない。一回は、銀座の菊水というたばこ屋で、この店の奥に煙草が吸える一角がある。そこで見知らぬ誰かがパイプをくゆらしていたことと、あと一回はどこか街角のことだった。

もうその街角がどこのことだったのか、思い出したくても思い出せないのだが、確か僕は何かの買い物をしていたときだったと思う。隣に立っていたおじさんが、おもむろに腰に付けていたポーチからパイプを取り出し、やはり同じポーチの別の口を開けると、そこにはたっぷりと煙草の葉が詰められていて、それを取り出してはパイプに詰めていく。こんもり盛った葉を指でパイプに押し込んで、そこにライターで火を点けた。それを見ながら何か淫靡な感じを受けた。いけないことをしているような、恥ずかしいことをしているような、そんな感じだ。

なぜそのように感じたのか、よくは分析できないが、かつて兄がパイプを吸っていた。そうだ、兄に一度だけ「いい香りだろう」と言ってパイプを吸うのを自慢されたことをいま思い出した。僕が小学生の頃だ。だけど、兄がパイプを吸っているところをほとんど見たことがなかった。きっと兄はみんなが寝静まった夜中に、こっそりと吸っていたのだろう。それが僕に淫靡な感じをもたらすのかもしれない。

父もかつてパイプを吸っていたようだ。父がパイプを持っていたことすら僕は知らない。だけど、父のエッセイにかつてパイプを吸っていた話が登場する。恐らく、兄はその父の姿を見たのだろう。それに影響されてパイプを吸ったのではないかと推察する。

僕がパイプを吸うようになったきっかけは、ベルギーに行ったことだった。ベルギーの大きな街には、たいてい一軒は大きなたばこ屋があった。大きな街と言っても、僕が滞在したのはブルージュとブリュッセルだけだから「たいていの大きな街」というのは間違いだ。正しくはブルージュとブリュッセルには、大きなたばこ屋があったということだ。ブリュッセルでたばこ屋を見つけ、そのショーウィンドーに葉巻やパイプが展示されているのを見て、そしてその店に人がたくさん並んでいるのを見て、ブルージュに行ったときに、ものは試しにとたばこ屋に入った。

そこでも人は並んで煙草を買っていた。まったく素人の僕は、葉巻なりパイプなりをどう選んでいいのかわからず、どうしたものかとお店のおじさんに下手な英語で聞いた。葉巻についてはロミオ・イ・フリエタNo.2を推薦してもらった。パイプについては好きな形のものを握って選ぶといいと言われ、並んでいたパイプをひとつひとつ持って選んだ。

円筒に吸い口が付いたようなもの。全体に丸みを帯びたもの。コーンパイプ。手触りがすべすべのもの。ゴツゴツしたもの。小さいもの、大きいもの。いろいろとあったが、僕は丸みを帯びてこぶりで、表面がつるつるとしたパイプを選んだ。そして、葉を選ぶときにどれがいいと言われ、かつて兄の机に入っていた見覚えのある「ハーフ&ハーフ」を選んだ。

葉巻は土産として日本に持ち帰ったが、パイプは宿に戻ってさっそく吸ってみた。適当に葉をパイプに詰め、そこにたばこ屋でもらったマッチで火を点けた。あまりうまくは吸えなかったのだと思う。そのときのことをよく覚えていない。だけどなぜかそのホテルの間取りと雰囲気は覚えている。

ベルギーから帰って、すぐに御蔵島に行った。そこでイルカと泳ぎ、帰りの船上で葉巻を吸った。イルカと泳いだ体験がとても素敵だったので、四ヶ月ほどのちに再び御蔵島に行った。そのとき、開高健の『生物としての静物』を持っていった。イルカと泳ぎ、へとへとになったからだを横たえてその本を読んでいると、パイプについての短編が収録されていた。

ぶどう酒は栓を抜いてみるまで油断ができない。パイプは火を入れて何年もたってみなければわからない。シガレットは火をつけたら誰にでも吸えるけれど、パイプはそうはいかない。タバコのつめかたに序破急のひっそりとした精妙と熟練が必要とされる。たいていの人が一度はパイプをやってみるがすぐにほりだしてしまうのは火つけがうまくいかないからである。一度まんべんなく火をまわし、葉がむっくり体を起こしてきたところをやんわりおしつぶし、もう一度まんべんなく火をまわす。それからじわじわちびちびと吸い、たっぷりと時間をかけて、タバコの葉の最後の最後の一片まできれいに灰にしてしまう。これには歳月と慣れが要求される。何よりも心が要求される。生きることに心せき、感ずることに急がるるという年齢にあっては、まず、無理である。もし若い人でパイプのロング・スモーキングの名手がいたら、それこそおかしなことである。ロング・スモーキングそのものにマラソンとおなじくらい熱中するという趣味の持ち主なら話はべつだけれど……

「哲人の夜の虚具、パイプ」 『生物としての静物』より 開高健著 集英社刊

これを読んでなるほどと思った。ほかにもパイプの吸い方について二、三示唆があった。それで僕はいまでもパイプをふかすことができる。

ここのところの禁煙傾向は異常だと思う。僕は吸わないといられないという人ではないので、吸わない方がいい雰囲気の中にいて吸わずにいてもなんとも思わないが、コンビニの前に置かれた灰皿で煙草を吸っている人や、オフィス街の昼休み時に、煙草屋の前に置かれた狭い喫煙コーナーで肩を狭めて吸っている人を見ると気の毒になる。確かに刺身や寿司など、明らかにタバコとの相性が悪く、かつ懐石のような繊細な味の食べ物を食べているときに、そばで煙草を吸われると、味が変わってしまうので嫌だなと思うことはあるけど。

パイプを吸っているとき、僕は父や兄、または開高健など、かつての思い出と響き合っている。それが僕が煙草をやめない理由だ。

人間はあやまちとは言いきれないささやかなあやまちをたくさん犯してきた。そのひとつが煙草だと思う。確かにからだに悪い。その点ではまったく間違いかもしれないが、間違いだと決めてしまうことによって思い出や、かつての体験の共有など、かすかな良き点も見事に洗い流してしまう。

煙草=悪い

と公式化することで、小数点以下のささやかな喜びが失われてしまう。

煙草 ≒ 悪い

くらいにしてほしい。

僕は小数点以下の喜びも感じて生きていたい。

PKSへの問いかけ

イスラエルとパレスチナの紛争が激化しています。そんななか、ピース・キッズ・サッカー(PKS)の活動がどれだけ役に立っているのか正しく評価はできませんが、たとえささやかな影響でも与え続けられればと願ってやみません。PKSの詳細についてはこちらをご覧下さい。

去年の11月23日にPKSカフェが開催されました。そこで学生ボランティアをしていた大木幸司さんが、かつてイスラエルに留学した体験を踏まえ講演をしてくれました。そのときに「現地で得られたPKSへの問いかけ」と「大木幸司さんが2006年に抱えたPKSへの問いかけ」を発表してくれました。ご本人の了解の上、それらをここで公開します。

現地で得られたPKSへの問いかけ

→「圧倒的な力の差がある状況で、果たして対等に和解などできるのか」

→「日本で互いに仲良くなった所で、帰国後の現実に目を背けることができない側が逆に余計な絶望を生み出すのではないか」

→「個人間で両者が仲良くなれるのはインティファーダ以前の状況からすでに明らかであり、問題は如何に状況の変化と社会間の和解を進めるかではないか」

→「これだけ構造化・日常化した状況に対して、たった一度日本でプログラムを行なうだけでは無責任ではないか」

帰国報告会での大木からPKSへの問いかけ

・PKSのゴールは、「平和」か「場の提供」か?

・「対話」か,「理解」か、「和解」か?

・個人レベルの変化か、社会的な変化か?

・個人レベルでの信頼形成はすでに明らか。

・プログラムに参加する時点で分かる立場。

・難民・保守派の状況に対する参加者へのケアは?

(ネガティブインパクト)

・圧倒的な経済的・軍事的な力の差がある中での和解は可能か?

・子どもを対象とする活動での継続性のなさ。

・費用対効果

・イスラエル人、パレスチナ人、それぞれの「平和」と多様性がある中で、PKSのPeaceって何ですか?

これらの問いに対してPKSはひとつひとつ答えていかなければならないと思いますが、PKSも組織であるため、なかなか統一された見解を示すことが難しいのが現状です。PKSに参加する多くのボランティアが自分なりに考え、どのように見解を統一していくのか、そのステップがこれから必要となってくるでしょう。

以下には僕の私見を述べさせてもらいます。ぜひ、ご意見のある方はご自分のBlogに書くなり、こちらのコメント欄にコメントを寄せてください。

現地で得られたPKSへの問いかけ

→「圧倒的な力の差がある状況で、果たして対等に和解などできるのか」

対等の和解は目指すべきではありますが、何が対等であるかの基準が統一されてない状況でそのことを話題にしてもあまり実りはないでしょう。互いに飲める和解であるかどうかに焦点を絞るしかないと思います。

→「日本で互いに仲良くなった所で、帰国後の現実に目を背けることができない側が逆に余計な絶望を生み出すのではないか」

確かに絶望は一時的に大きくなるかもしれませんが、その絶望に目をつぶっていては先に進めないと思います。

→「個人間で両者が仲良くなれるのはインティファーダ以前の状況からすでに明らかであり、問題は如何に状況の変化と社会間の和解を進めるかではないか」

社会間の和解は、各個人が和解できる素地を持っていない限りすぐに元に戻るものです。PKSは各個人が和解できる素地を持つことへのお手伝いをしていると僕は考えています。

→「これだけ構造化・日常化した状況に対して、たった一度日本でプログラムを行なうだけでは無責任ではないか」

特に明確にノウハウもなく、素人集団としてのPKSがたとえ一度だけでもプログラムをおこなうことは並大抵の努力でできるものではありません。いまはまだたった一度でもプログラムをおこない、ノウハウをたくわえ、それを実行できる人材を蓄積し、次第に効果的な行動が可能になるようトライ&エラーを繰り返すしかありません。もしそのトライ&エラーを無駄なものだというなら、PKSの活動は不可能なものになるでしょう。たとえ無責任だと言われても、できることをし続けることが現状では最善のことだと考えています。

帰国報告会での大木さんからPKSへの問いかけ

・PKSのゴールは、「平和」か「場の提供」か?

イスラエルやパレスチナに他国の人間が「平和」を与えることはできません。イスラエルやパレスチナの人々が自らの手で「平和」を獲得するためのお手伝いしか他国の人間にはできないと思います。そういう意味でPKSのすべきことは「場の提供」にしか過ぎないでしょう。しかし、その活動が終わりを迎えるのはイスラエルとパレスチナが「平和」を実現したときです。ですから、ゴールという言葉が何を意味するのかで答えは変わります。

なにをもってゴールと宣言するのか、その基準は「イスラエルとパレスチナの平和」でしょう。しかし、実際にPKSがおこなっていくのは「場の提供」であると考えます。

・「対話」か,「理解」か、「和解」か?

これだけでは何に答えて良いのかわかりませんね。PKSが目指すものは「対話」か,「理解」か、「和解」か?という質問であれば、「対話」,「理解」、「和解」というステップを踏んでイスラエル・パレスチナが「平和」を獲得するサポートをすることだと思います。

・個人レベルの変化か、社会的な変化か?

双方が必要でしょう。しかし、現状PKSが提供できるのは個人レベルの変化です。社会的な変化があえられるようになるためにはまだ越えるべき課題がたくさんあります。それを可能にするために多くの人からの支援をPKSは必要としています。

・個人レベルでの信頼形成はすでに明らか。

これも何に答えるべきか不明確ですが「イスラエルとパレスチナの人たちは個人レベルでは信頼を形成できることはすでに明らかなのに、なぜわざわざPKSがあいだに入ってそれを促進させようとするのか」という問いであれば、このように答えられるでしょう。

「やればできる」と知っている状態から「やってできた」状態に移行する手伝いをしている。試験勉強も「やればできる」状態と「やっていい点を取った」状態では大きな違いがありますね。

・プログラムに参加する時点で分かる立場。

これも何に答えるべきか不明確ですね。「立場がわかれば何もすることがないのでは?」という問いであるとするなら、立場が理解できている状況と、相手の立場に共感している状況では大きな違いがあると指摘しておきましょう。「あの人たちは大変ね」と理解しているのと、「あの人たちは大変だから何かしてあげたいね」と思っている状態には大きな差があります。

・難民・保守派の状況に対する参加者へのケアは?

これはこれからの課題として取り組むべきでしょうね。しかし、現状では参加者のケアは連絡を取り合う程度しかできません。

(ネガティブインパクト)

・圧倒的な経済的・軍事的な力の差がある中での和解は可能か?

可能にするためにはどうしたらいいのかを考え、サポートしていかなければならないでしょう。

・子どもを対象とする活動での継続性のなさ。

現在PKSの活動は点のようにポツポツとおこなっているだけですね。それをつなげて線のようにし、いつかは面にし、立体的な状況が生まれるまで継続していく他はないと思います。それを可能にするための多くの人のサポートが必要です。ボランティアの援助、金銭的資材的援助、ノウハウの援助、そして多くの人たちにこの活動への興味を持ち続けていただくよう告知、広報、さらに考え方を深く知っていただくためにボランティアと触れ合えるようなイベント活動などが必須です。

・費用対効果

平和活動に対しての費用対効果とは何を指しているのでしょうか? どんなにお金をかけても無駄だとも言えるし、お金をかけなくても効果的な方法はあるかもしれません。費用対効果だけを考えても解決はないと思います。費用対効果は考えるべき要素ではありますが、それを優先させるかどうかは時と場合に寄ります。

・イスラエル人、パレスチナ人、それぞれの「平和」と多様性がある中で、PKSのPeaceって何ですか?

あくまでも私見ですが、まずは戦争をやめることです。公に殺し合うことがまかり通る状況を止めることです。そののちに人権についての質を上げていくことでしょう。

このような問いかけはPKSの活動を前進させ、ひいては日本人のイスラエル・パレスチナへの理解や興味を深め、世界的な平和へのたとえ小さくても大切な礎のひとつとなっていくでしょう。そういう意味で大木幸司さんのPKSへの貢献は非常に大きく、彼のような学生(現在は社会人)がこれからも現れてくることをPKSの顧問として切に願っています。

大木幸司さん、ありがとうございました。そして、PKSカフェを実現させたボランティアの皆さん、組織運営維持に関わるすべてのみなさん、ありがとうございます。みなさんの貢献がPKSを維持発展させています。

小説『昴』を読んだ

このパーティーでいただいた小説『昴』を読んだ。

この小説を読みながらいくつものシンクロニシティを感じた、「マカリイ」に関してはこちらに書いたが、ほかにも「太一」「諸葛孔明」「月震」などに僕は響いた。

「太一」については先日読んだ吉野裕子女史の本に登場する。「諸葛孔明」というのはひさしぶりにあるイベントの内覧会で大島京子さんに会ったら、諸葛孔明がしていたという占術に話しが及び、そのことをいろいろと教わっていたのだ。「月震」は月が中空になっていて、表面で大きな振動を与えると、鐘のように響き続けるという話しだ。これはかつてその研究をするためにNASAから機材発注を受けた会社の人から話を聞いた。

どの話も僕個人に起きたことで、すべての人に関係あるわけではないが、小説『昴』はそのようなゆるい関係性を信じる人のために書かれた小説だと思う。ハリウッド映画のように観ている者、読んでいる者を結末に追い込む作品ではなく、縁(えにし)の妙を楽しむことができる人に許される仕掛けが凝らされている。

たとえば小説『昴』には紅白二本のスリップ(しおりのための細い紐)がついている。小説に二本のスリップは珍しい。しかも紅白だ。なぜだろうと思いながら読んでいると、小説の中にそのヒントのような話しが登場する。しかし、その話しもこの本の装丁とどう関係あるのか、具体的には明かされない。ニュアンスの網の目に読者は誘(いざな)われる。

谷村氏は作詞をするのでニュアンスにとてもこだわるのだろう。一言一言はごくありふれた言葉だが、いくつかの要素に支えられてある言葉が登場すると、その言葉はもとの言葉以上の意味を持つ。なので読み始めたときには面白さがよくわからなかったが、読み進めるうちにいろんなことが見えてきた。

『昴』 谷村新司著 KKベストセラーズ