『昴』から『マカリイ』へ 谷村新司氏還暦 小説『昴』出版記念祝賀会

僕が大学生の頃、いまからもう25年も前、中国を旅行した。香港経由で広州に行き、桂林、西安、上海とまわった。そのときまだ香港は中国ではなかった。香港でビザを取ると安いと言われ、香港から入った。当時はまだ一般の日本人が中国を旅行できるようになって二年目だったため、中国の町で会う人々に日本人だというと珍しがられた。中国で何人かの香港人と仲良くなった。中国をまわって香港に戻り、知り合った人たちと再会してビクトリアピークに行った。景色を見ながら歩いていたとき、香港の人が「何か日本の歌を歌ってくれ」という。「なにがいい?」と聞くと「『昴』を歌ってくれ」という。もちろん『昴』は知っていたが、歌詞を所々覚えていなかった。するとその香港人は日本語がしゃべれないにもかかわらず、『昴』の歌詞をすらすらと思い出し、僕に教えてくれたのだ。そのとき音楽ってすごいなと思ったし、『昴』ってすごい歌なんだなと思った。

その『昴』ができて、今年で28年が経つそうだ。そして、作者の谷村新司氏は昨日還暦を迎えた。それを記念して、谷村新司氏は『昴』という小説を書き、還暦に合わせて出版し、その記念パーティーをおこなった。縁あって、そのパーティーに出席することができた。

パーティーの冒頭、司会の小倉智昭氏に名を呼ばれ、錚々たる面々が発起人代表として舞台に上がる。その人たちを背にして谷村新司氏は『昴』を歌った。それを聞きながら、僕はビクトリアピークとLOVE NOTESのことを思い出していた。

LOVE NOTESとは1996年、ベルギーで知り合った。国際イルカクジラ会議に出席した際、LOVE NOTESがその会議のテーマ曲「ALL AS ONE」を作っていた。その後いろいろあり、仲良くなったのだが、(詳しいことは拙著『あなた自身のストーリーを書く』に)リーダーのヒロ川島さんはよくプレアデスの話しをしていた。そして、これからは物質文明が終わり、心の時代がやってくるとも。僕にはプレアデスと心の時代にどういう関連があるのかわからなかった。だけど何か関連がありそうな雰囲気を感じた。彼らが作ったハワイアン・ミュージック「スピリット・オブ・アロハ」に「マカリイ」という言葉が出てくる。ハワイ語でプレアデス、つまり『昴』のことを指す。

パーティーの最後で谷村氏が歌ったのは新曲『マカリイ』だった。その歌は『昴』へのアンサー・ソングだという。『昴』が『マカリイ』を意味するなら、アンサーソングのタイトルとして『マカリイ』という言葉を使っても何も不思議がないだろうが、その歌の意味として谷村氏はこう言った。

「なぜ僕は『昴』の最後で『さらば昴よ』と言ったんだろう。それがずっと謎だったんですが、その答えとしてこの歌を作りました。『マカリイ』はハワイの言葉で『昴』を意味します。それと同時にハワイの古代航法で星を見ながら航海するとき、星を読む人のことも『マカリイ』というのです」

そこでうちに帰ってから「ハワイ語英語辞典」で「makali’i」を調べた。1996年にビショップミュージアムで買った辞書だ。そこには「2.n.Pleiades」と載っているが、航海士のことには触れてない。webで探したらあった。

「In tradition, Makali’i was a celebrated transpacific voyager and astronomer. He shared the Hawai’ian name for the star cluster Pleiades (Makali’i means “finely meshed netting”) and became the trusted navigator of the chief Hawai’iloa. 」

Hawai’iloaとはハワイを見つけたと言われる伝説の一族、またはその族長のこと。

一ヶ月ほど前、小説『昴』の編集者に本のことを聞いたとき、彼はこう答えた。「小説では物質文明から心の時代になることを示唆したいみたいよ」その言葉が心にあったからそう見えるのかもしれないが、新曲『マカリイ』の歌詞のこの部分にそれが込められている。

ヨーソロー、ヨーソロー

ココロ運んでゆく

永久(とこしえ)の愛のふところ

マカリイの星のもとへ(マカリイの星を越えて)

心を大切にしようと思う人たちがなぜ『昴=プレアデス=マカリイ』を象徴として使うのか、その理由がわからない。占星術にプレアデスの意味として「心」があるのだろうか?

誰か知っていたら教えて欲しい。

パーティーでいただいた小説『昴』をこれから読む。答えがそこにあるだろうか?

後日、LOVE NOTESのリーダー、ヒロ川島氏にメールした。その返信がこちらに。

小説『昴』の感想はこちら。

歌詞に登場する「ヨーソロー」の意味はこちらに。

水の記憶

今朝起きて顔を洗う手のひらからこぼれ落ちる、水の記憶
 
横殴りに降る雨
頬をたたき、腕をたたき、膝をたたき、すねをたたき、
かばんをびしょびしょにする、水の記憶
 
芝生に向かいホースでまく水
風に水滴が舞い上がり、いつしか自分も濡れていく
笑い声とともに手元にあらわれる虹、水の記憶
 
釣り糸をたらし、せせらぎを聞き、黙って水面を見る
とんぼがダンスを踊る
ステップとともにひろがる輪、水の記憶
 
クラスメートがプールへ飛び込む
夏の陽射しに歓声があがる
遠くまではねたしぶき、水の記憶
 
ジュースがほしいとこねた駄々
母の手にはひとつのコップ
無味無臭の透明な液体、水の記憶
 
つまづいて転んだ水たまり
顔をあげれば口に泥
きれいにしなきゃと洗われる、水の記憶
 
水の記憶
 
深い眠りと安息の場所
柔らかなビートが聞こえる
浸りきった深い心
目覚めるのか、遠い魂
暗くて静かで遥かな時間
永遠の循環
指を口にくわえる
チュバチュバと口を吸う
原始への回帰
水の記憶
 
水の記憶
海面にふりそそぐ雨
踊り続ける水滴
歌い続ける雨滴、波頭、風の音
 
水の記憶
森を流れる川
岩を削り、土をさらい、命を流す
いつかそそぎ込む、平野へと
 
水の記憶
田畑を育む静かな流れ
命に等しく力を与え、
いつかその場を去っていく
 
水の記憶
 
魂は、水の記憶と旅をする
昨日のこと、一年前の偶然、十年前の出来事、生まれた頃、
生まれる前、人間が現れた時代、動物が生を謳歌したとき、生命が息づいたとき
魂のそこには水の記憶
 
水の記憶、未来への指標
水の記憶、もっとも懐かしいもの
水の記憶、永遠の旅
——–
この詩「水の記憶」は、1999年にLOVE NOTESのヒロ川島さん、現在デザイン会社を経営している布施真人さん、広告会社勤務の小柳晶嗣さんと一緒にプロデュースした「cosmos+」というパーティーで発表したものです。LOVE NOTESに伴奏してもらい朗読しました。
2005年には東放学園高等専修学校の文化祭で、IMONESの山下太郎さんgnuのベーシスト種石幸也さん、ドラマーの山本直樹さんをバックに朗読しました。

魂の教育

飛谷ユミ子先生に誘われて「胎内記憶」の共著者である七田眞先生のドキュメンタリー映画『魂の教育』を見てきた。

七田先生のことを話すとき、時々疑似科学ではないかと言われる。疑似科学自体どのようなものであるか意見が分かれるところだが、確かに七田先生の話には科学的ではない部分がある。それは再現性のないことであったり、科学的な証明ができないことであったり、いろいろである。それを知った上でも七田先生には聞くべき話しがたくさんある。そのひとつは「信じることとはどのようなことか」についてだと僕は考えている。あることを信じることで生まれる心持ちがある。それが人を動かすことがある。それは科学的でなくてもいいような気が僕にはするのだ。

この映画の中で七田先生がかつて大病をしたという下りがある。肺炎だったのだが、医者にあと数ヶ月の命だろうと両親に伝えられる。それを若い七田先生が聞いてしまうのだ。そこで彼は死んでなるものかと起きあがり、無理をして運動する。そのうちに気力で治してしまったという。科学的に考えればあり得ない話しだが、現実としてはあり得るだろう。僕の父も黄疸になり、手術しないと間違いなく死ぬと言われたが、あくまでも手術は拒否して薬と食生活だけで治してしまった。

この映画で七田先生は若い頃に三つの危機が訪れるのではないかと漠然と思っていたことが語られる。ひとつは「死ぬほどの大病をする」。二つめは「貧乏をする」。そして「人に裏切られる」。その通りになることが再現ドラマで伝えられるが、どの体験を通しても七田先生はそれをポジティブに受け止める。

この映画を観たあとでたまたま「チベット密教 心の修行」という本を読んだ。以前チベット僧であるバリー博士の講演会に参加したのだが、そこで話題になっていた「ロジョン(心の訓練)」を和訳したものだ。そのなかに心の修行は五つの力によっておこなえと言う部分がある。

1.決意の力 修行するという決意を固めることのよって得られる。

2.慣れる力 修行を習慣にすることで得られる。

3.善根の力 修行は他人を思いやることによってできることを知ることで得られる。

4.対治の力 自己愛着をなくすことで得られる。

5.回向の力 修行によって得られる功徳をすべての人のために捧げるように祈ることで得られる。

この五つの力を七田先生は三つの危機を体験することで得ていったのだなと思った。まずは三つの危機が訪れてもひるまない自分になると決意する。賃金をきちんと払ってくれない会社に勤めていても、約束通りに働いたという話しが映画で紹介されるが、その体験が慣れる力と善根の力を生み出した。三つの危機を体験する覚悟をすることで自己愛着を手放し、対治の力を得た。そして、それらの体験を通して得られた気づきを幼児教育に生かすことで生きていこうと決めたことで回向の力を得たのである。

七田先生と同じような体験をしても、同じようにすべての人が考えるわけではないだろう。つまり、「大病をし」「貧乏し」「人に裏切られ」ても、必ずしもすべての人が幼児教育を始めるわけではない。人の人生に再現性はないのだ。つまり、人生を科学的に考えても意味がない。一回しかない人生であり、私にしか許されてない人生であり、私にしか与えられていない環境だから尊いのである。それが事実かどうかは科学では証明されない。そうであると信じる者にだけ、それが見える。